五
『龜山君、君は碁はやらないのか?』
高橋は或日編輯局で私にさう言つた。松永に別れて、四、五日經つた頃だつた。
『碁は些とも知らん。君はやるか?』
『僕も知らん。そんなら五目竝べをやらうか? 五目竝べなら知つとるだらう?』
『やらうか。』
二人は卓子の上に放棄らかしてあつた碁盤を引き寄せて、たわいの無い遊戯を始めた。恰度我々外勤の者は手が透いて、編輯机の上だけが急がしい締切時間間際だつた。
側には逢坂がゐて、うるさく我々の石を評した。二人は態と逢坂の指圖の反對にばかり石を打つた。勝負は三、四囘あつた。高橋は逢坂に、
『どうだ、僕等の五目竝べは商賣離れがしてゐて却つて面白いだらう?』と調戯つた。
『何をしとるんぢや、君等は?』言ひながら劍持が來て盤の上を覗いた。『ほう、何といふこつちや! 髯を生やして子供の眞似をしとるんか?』
『忙中閑ありとは此の事よ。君のやうに賭碁をやるやうに墮落しちや、かういふ趣味は解らんだらう?』と私は笑つた。
『生意氣をいふなよ。知らんなら知らんと言ふもんぢや。さうしたら僕が本當の碁を教へてやる。』
『僕に教へてくれ給へ。』高橋が言つた。
『僕は以前から稽古したいと思つてるんだが、餘り上手な人に頼むのは氣の毒でね。――』
『何? 僕を下手だと君は心得をるんか? そらあ失敬ぢやが君の眼ん玉が轉覆かへつちよる。麒麟未だ老いず、焉んぞ駑馬視せらるゝ理由あらんやぢや、はは。』
『初めから駑馬なら何うだ?』私が言つた。
『僕の首が短いといふんか? それは詭辯ぢや。凡そ碁といふものは、初めは誰でも笊に決つとる。笊を脱いで而して麒麟は麒麟となり、駑馬は駑馬となつて再び笊を被る。――』
『中には其の二者を兼ねた奴がある。』私は興に乘つて無駄口を續けた。
『我々みたいに碁を知らん者に向つては麒麟で、苟くも烏鷺の趣味を解した者の前には駑馬となる奴だ。つまり時宜に隨つて首を伸縮させる奴よ。見給へ。君はさうしてると、胴の中へ頭が嵌り込んだやうに見えるが、二重襟をかけた時は些とは可い。少くとも、頭と胴の間に多少の距離のあることを誰にでも認めさせる程度に首が伸びる。』
『愚な事を言ふなあ。烏鷺の趣味を解せん者は、そんな事を言うて喜ぶんぢやから全く始末に了へん。』
『劍持君。』と高橋は横合から言つた。『君本當に僕に碁を教へてくれんか? 教へるなら本當に習ふよ。』
さう言ふ顏は強ち戯談ばかりとも見えなかつた。
『本當か、それは?』劍持は一寸不思議さうに對手の顏を見て、『……ああ、何か? 君は松永君が郷里へ歸つたんで、何かまた別の消閑法を考へ出さにやならんのか?』
私は冷りとした。
『戯談ぢやない。肺結核と碁と結び附けられてたまるもんか。』さう言つて高橋は苦笑ひをした。
幸ひと其の時、劍持は電話口へ呼び出された。高橋は給仕に石を片附ける事を云ひ附けて、そして卷煙草に火を點けて、何處へともなく編輯局を出て行つた。
其の頃から彼の樣子はまた少し變つた。私は彼の心に何か知ら空隙の出來たことを感じた。そして其の空隙を、彼が我々によつて滿たさうとしてはゐないことをも感じてゐた。
松永の病氣以前のやうに、時々我々の家へ來ることは無くなつた。社の仕事にも餘り氣乘りのしないやうな風だつた。人に目立たぬ程度に於て、遲く出て來て早く歸つた。急がしい用事を家に控へてゐて、一寸のがれに出歩いてゐる人のやうに私には見えた。
『些とやつて來ないか? 高橋さんは何うなすつたらうつて僕の母も言つてる。』などと言ふと、
『ああ、君ん處にも隨分御無沙汰しちやつたねえ。宜敷言つてくれ給へ。今日は可かんが何れ其の内に行く。』さう言ひながら矢張來るでもなかつた。偶にやつて來ても、心の落着かぬ時に誰もするやうに、たわいの無い世間話を態と面白さうに喋り立てて、一時間とは尻を据ゑずに歸つて行つた。
『おい、龜山君、僕は此の間非常な珍聞を聞いて來たぞ。』或日劍持がさう言つた。二人の乘つた電車が京橋の上で停電に會つて、いくら待つても動かぬところから、切符を棄てて直ぐ其處のビイヤホールで一杯やつた時の事だつた。
『何だい、珍聞た?』編輯局の笑ひ物になつてゐるあるか無しかの髭をナフキンで拭きながら私は聞いた。
『珍聞ぢや。はは。然も隱れたる珍聞ぢや。』
『持たせるない。』
二人が其處を出て、今しも動き出したばかりの電車の、幾臺も、幾臺も空いた車の續くのを見ながら南傳馬町まで歩く間に、劍持は氣が咎める樣子で囁くやうに私に語つた。――高橋の細君が美人な事。然も妙な癖のある美人な事。彼が嘗て牛込の奧に室借をしてゐた頃、其の細君と隣室にゐた學生との間に變な樣子が有つて、其の爲に引越して了つた事――それが其の話の内容だつた。
何處から聞き込んだものか、學生の名前も、其の學生が現在若い文士の一人に數へられてゐる事も、又其の頃高橋の細君には既に子供の有つた事も、劍持はよく詳しく知つてゐた。
『何時聞いた?』電車に乘つてから私は言つた。
『一月ばかり前ぢや。』
『もう外の連中も知つてるんか?』
『莫迦言へ。僕をそんな男と思ふか?……社で知つとるのは僕一人ぢや。君もこんな事人に言つちや可かんぞ。安井なんか正直な男ぢやが、おつちよこちよいで可かん。』
私は誓つた。劍持は實際人の祕密を喋り散らして喜ぶやうな男では無かつた。無遠慮で、口が惡くて、人好きはしなかつたが、交際つて見ると堅固な道徳的感情を有つてゐる事が誰にも解つた。彼は自分の職務に對する強い義務心と共に、常に弱者の味方たる性情を抱いてゐた。我々が不時の出費などに苦む時の最も頼母しい相談對手は彼だつた。ただ彼には、時として、善く言へば新聞記者的とでもいふべき鋭い猜疑心を、意外な邊に働かしてゐるやうな癖があつた。私は時々それを不思議に思つてゐた。
それから間もなくのことであつた。或晩安井が一人私の家へ遊びに來た。
『君は今日休みだつたんか? さうと知らずに僕は社で待つてゐて、つまらん待ぼけを喰つちやつた。』坐るや否や彼はさう言つた。
『何か用か?』
『いゝや。ただ逢ひたかつたんだ。劍持は田舍版の編輯から頼まれて水戸へ行つたしな――我が黨の士が居らんと寂寥たるもんよ。それに何だ、高橋の奴今日も休みやがつたよ。僕は高橋に大いに用が有るんだ。來たら冷評してやらうと思うとつたら、遂々來なかつた。』
『さうか。それぢやもう三日休んだね。――一體何の用が起つたんだらう、用なんか有りさうな柄ぢやないが!』
『用なもんか。社の方には病氣屆を出しとるよ。』
『假病か?』
『でなくつてさ。彼の身體に病氣は不調和ぢやないか?』
『高橋君の假病は初めてだね。――休んだのが初めてかも知れない。』
『感心に休まん男だね。』
『矢つ張り何か用だらう?』
『それがよ。』安井は勢ひ込んで、そして如何にも面白さうに笑つた。『僕は昨日高橋に逢つたんだよ。』
『何處で?』
『淺草で。』
『淺草で?』
『驚いたらう? 僕も初めは驚いたよ。何しろ意外な處で見附けたんだものな。』
『淺草の何處にゐたんだ。』
『まあ聞き給へ。昨日僕は○○さんから活動寫眞の弊害調査を命ぜられたんでね。早速昨夜淺草へ行つて見たんさ。可いかね? さうして、二、三軒歩いてから、それ、キネオラマをやる三友館てのが有るだらう? 彼れへ入つたら、先生ぽかんとして活動寫眞を見てゐるんぢやないか。』
『ははは。活動寫眞をか! そして何と言つた?』
『何とも言はんさ。先あ可いかね。僕が入つて行つた時は何だか長い芝居物をやつてゐて、眞暗なんだよ。それが濟んでぱつと明るくなつた時、誰か知つてる者はゐないかと思つて見してゐると、ずつと前の腰掛に、絽の紋附を着てパナマを冠つた男がゐるんだ。そして其奴が帽子を脱つて手巾で額を拭いた時、おや、高橋君に肖てるなと僕は思つたね。頭は角刈りでさ。さうしてると、其奴がひよいと後を向いたんだ。――何うだい。矢つ張りそれが高橋よ。』
『へえ! 子供でも連れて行つたんか?』
『僕もさう思つたね。さうでなければ田舍から親類でも來て、それで社を休んで方々案内してるんだらうと思つたね。』
『さうぢやないのか?』言ひながら私は、安井の言ふ事が何となく信じられないやうな氣持だつた。
『一人さ。』安井は續けた。『何うも僕も不思議だと思つたね。さうして次の寫眞の間に、横手の、便所へ行く方のずつと前へ行つてゐて、こんだよく見屆けてやらうと思つて明るくなるのを待つてゐると、矢張擬ひなしの高橋ぢやないか。しかも頗る生眞面目な顏をして、卷煙草を出してすぱすぱ吸ひながら、花聟みたいに濟まあしてゐるんぢやないか! 僕は危く吹き出しちやつたね。』
『驚いたね。高橋君が活動寫眞を見るたあ思はなかつた。――それで何か、君は言葉を懸けたんか?』
『懸けようと思つたさ。然し何しろ四間も五間も、離れてるしね。中へ入つて行かうたつて、彼の通りぎつしりだから入れやしないんだ。汗はだく/\流れるしね。よく彼んな處の中央へ入つてるもんだと思つたよ。』
『それぢや高橋君は、君に見られたのを知らずにゐるんか?』
『知らんさ。彼れ是れ一時間ばかり經つて入代りになつた時、先生も立つて歸るやうな樣子だつたから、僕も大急ぎで外へ出たんだが、出る時それでも二三分は暇を取つたよ。だから辛と外へ出て來て探したけれども、遂々行方知れずさ。』
『隨分振つてるなあ! 一體何の積りで、活動寫眞なんか見に行つたんだらう?』
『解らんね、それが。僕は默つて、寫眞よりも高橋君の方ばかり見てゐたんだが、其の内に段々目が暗くなるのに慣れて來てね。面白かつたよ。惡戯小僧の寫眞なんか出ると、先生大口開いて笑ふんぢやないか? 周圍の愚夫愚婦と一緒にね。』
話してるところへ、玄關に人の訪ねて來たけはひがした。家の者の出て挨拶する聲もした。
『ああ、さうですか。安井君が。』さういふ言葉が明瞭と聞えた。
『高橋だ。』
『高橋だ。』
安井と私は同時にさう言つて目を見合はした。そして妙に笑つた。
『やあ。』言ひながら高橋は案内よりも先に入つて來た。燈火の加減でか、平生より少し脊が低く見えた。そして、見慣れてゐる袴を穿いてゐない所爲か、何となく見すぼらしくも有つた。
『やあ。』私も言つた。『噂をすれば影だ。よくやつて來たね。』
『僕の噂をしてゐたのか?』さう言つて縁側に近い處に坐つた。『病人が突然やつて來て、喫驚したらう? 夜になつても矢つ張り暑いね。』
『君の病氣はちやんと診察してるよ。』それは安井が言つた。
『當り前さ。僕が本當の病人になるのは、日本中の人間が皆、梅毒と結核の爲に死に絶えて了つてからの事だ。』
『それなら何故社を休んだ?』私は皮肉な笑ひ方をして聞いた。
『うむ。……少し用が有つてね。』
『其の用も知つてるぞ。』
『何の用だい?』
『自分の用を人に聞く奴があるか?』
『知つてると云ふからさ。』
『君は昨夜何處へ行つた?』
『昨夜か? 昨夜は方々歩いた。何故?』
『安井君、彼れは何時頃だつたい?』私は安井の顏を見た。
安井と態と眞面目な顏をしながら、『さうさのう、八時から九時までの間頃だ。』
『八時から九時……』高橋は鹿爪らしく小首を傾げて、
『ああ、其の頃なら僕は淺草で活動寫眞を見てゐたよ。』
二人は吹きだして了つた。
高橋は等分に二人の顏を見て、『何が可笑しいんだい? 君等も昨夜行つてたのか?』
『何うだ、天網恢々疎にして洩さずだらう?』安井は言つた。
『ふむ、それが可笑しいのか? さうか。君等も行つてたのか? 龜山君も?』
『僕は行かんよ。安井君が行つたんだよ。』
『道理で?……安井も大分近頃話せるやうになつたなあ。』さう言つて無遠慮に安井の顏を見た。
安井は對手の平氣なのに少し照れた樣子で、『戯談ぢや無い。僕はまだ君のやうに、彼處へ行つて大口開いて笑へやしないよ。』
『高橋君。』私は言つた。『君こそ社を休んで活動寫眞へ行くなんて、近頃大分話せるやうになつたぢやないか?』
高橋は私の顏に目を移して、その子供のやうな聲を立てゝ笑つた。
『そんな風に書くから社の新聞は賣れるんだよ。君等は實に奇拔な觀察をするなあ。』
『だつてさうぢやないか?』私も笑つた。
『そんなら活動寫眞と、君が社を休んだ理由と何れだけ關係があるんだ?』
『莫迦な事を言ふなあ! 社を休んだのは少し用があつて休んだんだよ。實は四、五日休んで一つ爲事しようかと思つたんだよ。それが出來なかつたから、ぶら/\夕方から出懸けて行つたまでさ。』
『何んな爲事だい?』
『爲事か? なあに、何うせ下らんこつたがね。』
『ははは、活動寫眞よりもか?』
一寸間を置いて、高橋は稍眞面目な顏になつた。『君等は僕が活動寫眞を見に行つたつて先刻から笑ふが、そんなに可笑しく思はれるかね? 安井君は何うせ新聞の種でも探しに行つたんだらうが、先あ一度、そんな目的なしに彼處へ入つて見給へ。好い氣持だよ。彼處には何百人といふ人間が、彼の通りぎつしり詰まつてるが、奴等――と言つちや失敬だな――彼の人達には第一批評といふものが無い。損得の打算も無い。各自急がしい用をもつた人達にや違ひないが、彼處へ來るとすつかりそれを忘れて、ただもう安い値を拂つた樂しみを思ふさま味はうとしてる。尤も中には、女の手を握らうと思ふ奴だの、掏摸だの、それから刑事だのも入り込んでるだらうが、それは何十分の一だ。』
『僕は其奴等を見に行つたんさ。』と安井が口を入れた。
『さうだらう、僕もさう思つてゐた。新聞記者といふ者はそれだから厭だよ。輾んでも只は起きない工夫ばかりしてる。』
私は促した。『それで活動寫眞の功徳は何處邊に在るんか?』
『つまり批評の無い場處だといふところにあるさ。――此の間まで内の新聞に、方々の實業家の避暑に就ての意見が出てゐたね。彼れを讀むと、十人の八人までは避暑なんか爲なくても可いやうに言つてる。ああ言つてるのはつまり、彼等頭取とか、重役とか、社長とかいふ地位にゐるものは、周圍の批評に比較的無關心で有り得る境遇にゐるからなんだよ。山へ行きたいの、海へ行きたいのといふのは、畢竟僕の所謂批評の無い場所へ行きたいといふ事なんだからね。ところが僕等のやうな一般人はさうは行かん。先あ誰にでも可いから、其の人の現在に於ける必要と希望とを滿たして、それでもまだ餘る位の金をくれて見給へ。屹度海か、山へ行くね。十人に九人までは行くね。人がよく夏休みになると、借金してまで郷里へ歸るのは、一つは矢張りそれだよ。さうして復東京へ戻つて來ると、屹度、「故郷は遠くから想ふべき處で、歸るべき處ぢやない。」といふのも、矢張りそれだよ。故郷だつて、山や河ばかりぢやない。人間がゐる。然も自分を知つてる人間ばかりゐる。二日や、三日は可いが、少し長くなると、其處にもまた批評の有る事を發見して厭になるんだ。』
高橋は入つて來た時から放さなかつた扇を疊んで[#「疊んで」は底本では「疊んだ」]、ごろりと横になつた。そして續けた。
『僕なんかも、金と時間さへあつたら、早速何處かへ行くね。成るべく人のゐない處へ行くね。だが、自然といふものには、批評が無いと同時に餘り無關心過ぎるところが有る。我々が行つたつて些とも關つちやくれない。だから僕みたいな者は、海や、山へ行くと、直ぐもう飽きちやつて、爲る事に事を缺いて自分で自分の批評を始めるんだ。其處へ行くと活動寫眞は可いね。[#「可いね。」は底本では「可いね」]――僕は今迄、新聞記者の生活ほど時間の經つに早いものは無いと思つてゐたら、活動寫眞の方はまだ早い。要らないところはぐんぐん飛ばして行くしね。それに何だよ、活動寫眞で路を歩いてる人を見ると、普通に歩いてるのが僕等の駈足位の早さだよ。駈けるところなんか滅法早い。僕は昨夜自動車競走の寫眞を見たが、向ふの高い處から一直線の坂を、自動車が砂煙を揚げて鐵砲玉のやうに飛んで來るところは好かつたねえ。身體がぞくぞくした。あんなのを見ると些とも心に隙が無い。批評の無い場所にゐるばかりでなく、自分にも批評なんぞする餘裕が無くなる。僕は此の頃活動寫眞を見てるやうな氣持で一生を送りたいと思ふなあ。』
『自動車を買つて乘り廻すさ。』安井は無雜作に言つた。
六
松永に別れた夏――去年の夏は其のやうにして過ぎた。高橋の言草では無いが、我々新聞記者の生活ほど慌しく、急がしいものは無い。誰かも言つた事だが、我々は常に一般人より一日づつ早く年を老つてゐる。人が今日といふところをば昨日と書く。明日といふべきところを今日と言ふ。朝起きて先づ我々の頭腦に上る問題は、如何に明日の新聞を作るべきかといふ事であつて、如何に其の一日を完成すべきかといふ事では無い。我々の生活は實にただ明日の準備である。そして決してそれ以上では無い。日が暮れて爲事の終つた時、我々にはもう何も殘つてゐない。我々の取扱ふ事件は其の日、其の日に起つて來る事件で有つて、決して前から豫期し、乃至は順序を立てて置くことを許さない。――春がさうして過ぎ、夏がさうして過ぎる。一年の間、我々は只人より一日先、一日先と駈けてゐるのだ。
さういふ私の身體にも、秋風の快さはそれとなく沁みた。もう町々の氷屋が徐々店替をする頃だつた。私にも新らしい脊廣が出來た。或朝、私は平生より少し早目に家を出て電車に乘つた。そして、ただ一人垢染みた白地の單衣を着た、苦學生らしい若い男の隅の方に腰掛けてゐるのを見出した。「秋だ!」私は思つた。――實際、其の男は私が其の日出會つた白地の單衣を着たただ一人の男だつた。私はそれとなく、此の四、五日の間に、東京中の家といふ家で、申し合せたやうに、夏の着物を疊んで藏つて了つたことを感じた。
其の日私は、何の事ともなく自分の爲事を早く切り上げて、そして早々と歸つて來た。恰度方々の役所の退ける時刻だつた。
『貴方は龜山さんぢやありませんか?』
訛りのある、寂びた聲が電車の中でさう言つた。
『ああ、△△君でしたか!』私も言つた。彼は私の舊友の一人だつた。然も餘り好まない舊友の一人だつた。然し其の時、私は少しも昔の感情を思出さなかつた。そしてただ何がなしに懷しかつた。
『三、四年振りでしたねえ。矢つ張りずつと彼時から東京でしたか?』私は言つた。
『は。ずつと此方に。遂々腰辨になつて了ひました。』
恰度私の隣の席が空いたので、二人は竝んで腰を掛けた。平たい、表情の無い顏、厚い脣、黒い毛蟲のやうな眉……其れ等の一々が少しも昔と違つてゐないのを、私は何故か嬉しいやうに見た。そればかりではない。彼の白襯衣の汚れ目も、また周圍構はぬ高聲で話しかける地方人の癖をも、私は決して不快に思はなかつた。二人は思出す儘に四、五人の舊友に就いて語つた。そして彼は、長く逢はずに、且つ私の方では思出すこともなく過してゐたに拘らず、よく私の近況を知つてゐた。
『先月でしたか、靜岡の製紙工場を視察にいらしたやうでしたね?』そのやうに彼は言つた。
『ええ。』私は輕く笑つた。彼はT――新聞の讀者だつた。
家へ歸つて來ると、何の理由もなく私は机の邊を片附けた。そして座蒲團から、縁先に吊した日避けの簾まで、すべて夏の物を藏はせて了つた。嬉しいやうな、新しい氣持があつた。さうして置いて、私は其の夜、新橋で別れて以來初めての手紙を、病友松永の爲に書いた。
●表記について
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- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」は「/\」で表しました。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。
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