二
かくして、高橋彦太郎は我々の一團に入つて來た。いや、入つて來たといふは適切でない。此方からちよつかいを出して引き入れて了つた。
先づ私の目に附いたのは、それから高橋の樣子の何といふことなしに欣々としてゐることであつた。何處が何うと取り立てて言ふほどの事はなかつたが、(又それほど感情を表す男ではなかつたが、)同じ膝頭を抱いて天井を眺めてゐるにしても、其の顏の何處かに、世の中に張り合ひが出來たとでもいふやうな表情が隱れてゐた。私はそれを、或る探險家が知らぬ土地に踏み込んでゐて、此處を斯う行けば彼處へ出るといふ樣な見當をつけて、そしてそれに相違のないことを竊と確めた上で、一人で樂しんでゐるやうなものだらうと思つてゐた。餘りそぐはぬ比喩のやうだが、その頃、高橋が我々と一緒に飮みに行つて、剩けに私の家へまで泊まつたのを、彼自身にしては屹度何か探險をするやうな心持だつたらうと私は忖度してゐたのだ。
が、そんな樣子は、一月か、二月の間には何時となく消えて無くなつて了つた。これは、私がそんな樣子を見慣れて了つたのか、乃至は高橋自身そんな氣持に慣れて了つたのか、其處はよく解らない。兎に角、見たところ以前の高橋に還つて了つた。然しそれかと言つて、我々と彼との間に出來た新らしい關係には、これと言ふ變化も來なかつた。と言ふよりも、初めは互に保留してゐた多少の遠慮も、日を經るとともに無くなつて行つた。そして、先づ最初に此の新入者に對する隔意を失つたのは、斯く言ふ私だつた。私は何故か高橋が好きだつた。
親しくなるにつれて、高橋の色々の性癖が我々の目に附いた。それは大體に於いて、今までに我々の見、若くは想像してゐたところと違はなかつた。彼は孤獨を愛する男だつた。長い間不遇の境地に鬪つて來た人といふ趣きが何處かにあつた。彼は路を歩くにも一人の方を好んだ。そして、無論餘り人を訪問する方ではなかつた。
が、時とすると、二晩も、三晩も續けて訪ねて來ることもあつた。さういふ時彼は何か知ら求めてゐた。たゞ其の何であるかゞ我々に解らぬ場合が多かつた。それから彼は、平生の口の寡いに似合はず、よく調子よく喋り出すことがあつた。そしてそれには隨分變つた特徴があつた。
例へば我々が、我々の從事してゐる新聞の紙面を如何に改良すべきか、又は社會部の組織を如何に改造すべきかに就て、各自意見を言ひ合ふとする。高橋も初めはちよくちよく口を利いてゐるが、何時とはなしに口を噤んで了つて、煙草をぷかぷか吹かしながら、話す者の顏を交る交る無遠慮に眺めてゐるか、さもなければ、ごろりと仰向けに臥て了ふ。この仰向けに臥て、聞くでもなく、聞かぬでもなく人の話を聞いて居るのが彼の一つの癖だつた。そして、皆があらまし思ふ事を言つて了つた頃に、ひよくと起きて、
『それは夢だ。今からそんな事を言つてゐると、我々の時代が來るまでには可い加減飽きて了ふぞ。』といふやうなことを言ふ。
其の所謂我々の時代のまだ/\來ないこと、恐らくは永久に來る時の無いことをば、我々もよく知つてゐた。我々ももう野心家の教師に煽てられてストライキをやるやうな齡ではなかつた。が、高橋にさう言はれると、不思議なことには、「成程さうだつた。」といふ樣な氣になつた。つまり高橋は、走つて來る犬に石でも抛り附けるやうに、うまく頃合を計つて言葉を挿むから、それで我々の心に當るのだ。そして、妙に一種の感慨を催して來る。それを見て高橋は、「はゝゝゝ。」と格別可笑しくも無ささうに笑ふ。
一體高橋には、人の意表に出でようとしてゐたのか、或はそれが彼の癖だつたのか解らないが、人が何か言ふと、結末になつて、ひよいと口を入れて、それを轉覆かへして了ふやうな、反對の批評をする傾向があつた。その癖、それが必ずしも彼の本心でないやうな場合が多かつた。
社の同僚に逢坂といふ男があつて、その厭味たつぷりな、卑しい、唾でもひつ掛けてやりたいやうな調子が、常に我々の連中から穢い物か何ぞのやうに取扱はれてゐた。或時安井が其奴から、「君は何時でも背廣ばかり着てゐるが、いくら新聞記者でも人を訪問する時にや相當の禮儀が必要ぢや。僕なんか貧乏はしちよるが、洋服は五通り持つとる。」と言はれたと言つて、ひどく憤慨してゐたので、我々もそれにつれて逢坂の惡口を言ひ出した。すると、默つた聞いてゐた高橋はひよいと吸ひさしの卷煙草を遠くの火鉢へ投げ込んで、
『僕は然しさほどにも思はないね。』
如何にも無雜作な調子で言つた。
『何故?』と劍持は叱るやうに言つた。
『何故つて、君、逢坂にやあれで却々可愛いところがあるよ。』
安井は少しむきになつて、
『君は彼あいふ男が好きか?』
『好き、嫌ひは別問題さ。だが、君等のやうに言ふと、第一先あ逢坂と同じ社にゐるのが矛盾になるよ。それほど彼奴が共に齡すべからざる奴ならばだ、……先あ何方にしても僕は可いがね。』
さう言つて何と思つたか、ごろりと横になつて了つた。
『可くはないさ。聞かう、聞かう。』安井は追つ掛けるやうに言つた。『君が何故あんな奴を好くんか、それを聞かう。』
高橋は一寸の間、恰度安井の言葉が耳に入らなかつたやうに、返事もしなければ、身動きもしなかつた。「何故斯う人の言ふことに反對するだらう?」私はさう思つた。すると、彈機仕掛みたいにむくりと起き返つて、皮肉な目附をして我々の顏を一わたり見渡した。そして、
『言つても可いがね。……言ふから、それぢやあ結末まで聞き給へ。可いかね? 君等は何といふか知らないが、無邪氣といふことは惡徳ぢやあないね? 賞めるべきことでは決してないが、然し惡徳ぢやないね、可いかね? 逢坂は無邪氣な男だよ。實に無邪氣な男だよ。――』
『それはさうさ。然し――』と私は言はうとした。
高橋は鋭い一瞥を私に與へて、『例へばだ、社で誰が一番給仕に呶鳴りつけるかといふと、政治部の高見と僕等の方の逢坂だ。高見君はあれあ、鉛筆が削つても、削つても折れると言つて、小刀を床に敲き附ける癇癪持だから、爲樣がないが、逢坂のまあ彼の聲は何といふ聲だえ? それに彼の格好よ。まるで給仕を噛み殺して了ひさうだ。さうして其の後で以て直ぐ、○○だとか、△△だとか、すべて自分より上の者に向ふと彼の通りだ。世の中にや隨分見え透いた機嫌の取り方をする者もあるが、あんなのは滅多にないよ。他で見てゐて唾を引つ掛けたくなる。それに、暇さへあれば我々の間を廻つて歩いて、彼の通り幇間染みた事を言ふ。かと思ふと又、機會さへあれば例の自畫自贊だ。でなければ何さ、それ、「我々近代人」と來るさ。ははは。一體彼奴は、今の文學者連中と交際してるのが、餘つ程得意なんだね。そして其奴等の口眞似をして一人で悦に入つてるんだ、淫賣婦が馴染客に情死を迫られて、迯げ出すところを後から斬り附けられた記事へ、個人意識の強い近代的女性の標本だと書いた時は、僕も思はず噴き出したね。ね?
ところがだ、考へてみると、それが皆僕の前提を肯定する材料になる。無邪氣でなくて誰があんな眞似が出來る? 我々自身を省るが可い。我々だつて、何時でも逢坂を糞味噌に貶してゐるが、底の底を割つてみれば彼奴と同じぢやないか? 下の者には何も遠慮をする必要がない。上の者には本意、不本意に拘らず、多少の敬意を表して置く。これあ人情だ。同時に處世の常則だよ。同僚にだつてさうだ、誰だつて惡く云はれたくはないさ。又自分の手柄は君等にしろ、無論僕にしろ、成るべく多くの人に知らせたいものだよ。流行言葉も用つて見たしな。たゞ違ふのは、其の同じ心を、逢坂が一尺に發表する時に、我々は一寸か二寸で濟まして置くだけのことだ。何故其の違ひが起るかと云ふと、要するに逢坂が實に無邪氣な人間だといふに歸する。所謂天眞爛漫といふ奴さ。さうしてだね、何故我々が、其の同じ心を逢坂のやうに十分、若くは、十分以上に發表することを敢てしないかといふと、之は要するに、何の理由か知らないが、兎に角我々には自分で自分に氣羞かしくそんな事が出來ないんだ。そして其の理由はといふと、――此處ではつきり説明は出來ないがね。――正直に先あ自分の心に問うて見給へ。決して餘り高尚な理由ではないぜ。――』
『君は無邪氣、無邪氣つて云ふが、君の言ふのは畢竟教養の問題なんぢや。』劍持はしたり顏になつて言つた。
『さうぢやないか? 教養と人格の問題よ。其處が學問黨と、非學問黨の別れる處なんぢや。』
『すると、何か? 人格といふ言葉は餘り抽象的な言葉だから、暫く預かるとして、教養といふことだね。つまるところ、教養があるといふことと、自己を欺く――少くとも、自己を韜晦するといふことと同じか?』
『高橋君。』安井が横合から話を奪つて、『君は、無邪氣は惡徳だとか、惡徳でないとかいふが、そんなことは我々に全く不必要ぢやないか? 我々の言つとつたのは、善惡の問題ぢやあ無い。好惡の問題だよ。逢坂の奴の性質が無邪氣であるにしろ、ないにしろ、兎に角奴の一擧一動に表はれるところが、我々の氣に喰はん。頭の先から足の先まで氣に喰はん。氣に喰はんから、氣に喰はんといふに、何の不思議もないぢやないか?』
『それがさ。――あゝ面倒臭いな。――先あ考へてみるさ。氣に喰はんから氣に喰はんといふに何の不思議はない。それは、我々が我々の感情を發表するに何の拘束も要らんといふことだ。それも可いさ。然し發表したつて何なる? 可いかね? 君はまさか逢坂がいくら氣に喰はんたつて、それで以て逢坂と同じ日の下に、同じ空氣を吸つてることまで何うかしようとは思はんだらう? 現に同じ社にゐる。同じ社會部に屬してゐる。誰だつてあんな奴と一緒に生きてるのが厭だと言つて[#「言つて」は底本では「行つて」]死ぬ莫迦はないさ。先方を殺す者もない。さう言ふと大袈裟だが、實際我々が、感情の命令によつて何れだけ處世の方針を變へて可いかは、よく解つてる話ぢやないか?――逢坂が昨日、自分の方が先に言ひ附けたのに、何故外の用を先にしたと言つて給仕を虐めてゐたつけが、感情を發表するに正直だといふ點では、我々は遠く逢坂に及ばないよ。さうだらう? 若し其の逢坂が我々の唾棄すべき人間ならばだ、我々の今の樣な言動を同時に唾棄しなくつちやならんぢやないか? あんな奴の蔭口を利くより、何かもう少し氣の利いた話題はないもんかねえ。』
高橋は一座を見廻した。我々は誰も皆、少し煙に捲かれたやうな顏をしてゐた。
『それはさうさ。話題はいくらでもあるが、然し可いぢやないか? 我々は何も逢坂を攻撃して快とするんぢやない。言はば座興だもの。』と私は言つた。
『座興さ、無論。それは僕だつて解つてるよ。僕が言つたんだつて矢張座興だよ。故意に君等を攻撃したんぢやないよ。』
『此奴は隨分皮肉に出來てる男さね。――つまり君のいふのは平凡主義さ。それはさうだよ。人間なんて、君、そんなに各自違つてるもんぢやないからねえ。』
安井は妙な所で折れて了つた。一人、劍持だけはまだ何か穩かでない目附をしてゐた。
『ははゝゝ。』と高橋は、取つて着けたやうに、戯談らしい笑ひ方をした。『然し僕は喋つたねえ。僕はこんなに喋ることは滅多にないぜ。――然し實を言ふと、逢坂は僕も嫌ひだよ。あんな下劣な奴はないからねえ。』
『さうだらう?』安井は得意になつた。
『君も何だね、隨分彼奴を虐待しとるのう?』
逢坂がぶく/\肥つた身體を、足音を偸むやうにして運んで來て、不恰好な鼻に鼻眼鏡を乘せた顏で覗き込むやうにしながら、「君の今朝の記事には大いに敬服しましたよ。M――新聞で書いとるのなんか、ちつとも成つちよらん。先刻彼處の社會部長に會つたから、少し僕等の方の記事を讀んでみて下さいと言つてやつた。」などと言ふと、高橋は、先づしげ/\對手の顏を見て、それから外方を向いて、「いくらでも勝手に敬服してくれ給へ。」といつたやうな言ひ方をするのが常だつた。
私は横合から口を出して、
『君は一體、人に反對する時に限つて能辯になる癖があるね。――餘つ程旋毛曲りだと見える。よく反對したがるからねえ。』
『さうぢやないさ。』
『さうだよ。』
『僕は公平なんさ。物にはすべて一得、一失有りつてね。小學校にゐる頃から聞いたんぢやないか? 兩面から論じなくちやあ議論の正鵠は得られない。』
『嘘を吐け!』
『嘘なもんか。――と言ふとまた喧嘩になるか!――尤もさういふ所もあるね。僕にはね。人が何か言ふと、自分で何か考へる時でもさうだが、直ぐそれを別の立場に移して考へる癖があるんだ。其の結果が時として好んで人に反對するやうに見えるかも知れない。』
『それは何方が正直で言ふ言葉か?』
『僕は何時でも正直だよ。――然し、正直でも不正直でも可いぢやないか? 君は一體餘り單純だから困るよ。此處にゐる連中は、何れだつて多少不穩な人間共にや違ひないが、就中不穩なのは君だよ。人の言葉を一々正直か、不正直か、極めてかゝらうとするし、言つたことは直ぐ實行したがる。餘り單純で、僕から見ると危險で爲樣がない。危險なばかりぢやない、損だよ。單純な性格は人に愛せられるけれども、また直ぐ飽かれるといふ憂ひがあるからね。』
『それはさうぢや。よく當つとる。』と劍持も同意した。
『それが龜山(私の名)の長所で、同時に缺點よ。』
『飽たら勝手に飽くさ。』と私は笑つた。
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