石川啄木作品集 第三巻 |
昭和出版社 |
1970(昭和45)年11月20日 |
1970(昭和45)年11月20日 |
1970(昭和45)年11月20日 |
一
人が大勢集つてゐると、おのづから其の間に色分けが出來て來る――所謂黨派といふものが生れる。これは何も珍らしいことではないが、私の此間までゐたT――新聞の社會記者の中にもそれがあつた。初めから主義とか、意見とかを立てゝ其の下に集つたといふでもなく、又誰もそんなものを立てようとする者もなかつたが、ただ何時からとなく五、六人の不平連がお互ひに近づいて、不思議に氣が合つて、そして、一種の空氣を作つて了つたのだ。
先づ繁々往來をする。遠慮のない話をする。内職の安著述の分け合ひをする。時々は誘ひ合つて、何處かに集まつて飮む。――それだけのことに過ぎないが、この何處かに集まつて飮む時が、恐らく我々の最も得意な、最も樂しい時だつた。氣の置ける者はゐず、酒には弱し、直ぐもう調子よく醉つて來て、勝手な熱を吹いては夜更かしをしたものだ。何の、彼のと言つて騷いでるうちには、屹度社中の噂が出る。すると誰かが、赤く充血した、其の癖何處かとろんとした眼で一座を見廻しながら、慷慨演説でもするやうな口調で、「我黨の士は大いにやらにや可かんぞ。」などと言ひ出す。何をやらにや可かんのか、他から聞いては一向解らないが、座中の者にはよく解つた。少くとも其の言葉の表してゐる感情だけは解つた。「大いに然り。」とか、やるともとか即座に同意して了ふ。さあ、斯うなると大變で、何れも此れも火の出る樣な顏を突き出して、明日にも自分等の手で社の改革を爲遂げて見せるやうなことを言ふ。平生から氣の合はない同僚を、犬だの、黴菌だの、張子だの、麥酒罎だのと色々綽名をつけて、糞味噌に罵倒する。一人が小皿の縁を箸で叩きつけて、「一體社では我々紳士を遇するの途を知らん。あんな品性の下劣な奴等と一緒にされちや甚だ困る。」と力み出すと、一人は、胡座をかいた股の間へ手焙りを擁へ込んで、それでも足らずにぢり/\と蹂り出しながら、「さうぢや。徒らに筆を弄んで食を偸む。のう文明の盜賊とは奴等の事ちや。社會の毒蟲ぢや。我輩不敏といへども奴等よりはまだ高潔な心をもつとる。學問をせなんだ者は眞に爲樣がないなあ。」と酒臭い息を吹いてそれに應ずる。――そして我々は、何時誰が言ひ出したともなく、自分等の一團を學問黨と呼んでゐた。
尤も、醉ひが醒めて、翌日になつて[#「翌日になつて」は底本では「翌日なつて」]出勤すると、嵐の明くる朝と同じことで、まるで樣子が違つた。誰を見てもけろりと忘れたやうな顏をして濟ましてゐる。「昨夜は愉快ぢやつたなあ。」と偶に話しかけてみても、相手はただ、「うむ。」と言つて妙な笑ひ方をして見せる位のことだ。命令が出ると何處へでも早速飛び出して行つた。惡い顏をする者もなければ、怠ける者もなかつた。他の同僚に對しても同じで、殊更に輕蔑するの、口を利かぬのといふことはしない。ただ少し冷淡だといふに過ぎない。が、何か知ら事があると、連中のうちで、紙片を圓めたのを投げてやつて、眼と眼を見合はせて笑ふとか、不意に脊中をどやしつけて、それに託けて高笑ひをする位のことはやつた。意氣地がないと言へばそれまでだが、これは然しさうあるべき筈だつた。反對派と言つた所で、何も先方が此方に對抗する黨派を結んでゐたといふでもない。言はば、我々の方で勝手に敵にしてゐただけの話だ。自分等が自分等の意見を行ふ地位にゐないといふ外には、社に對してだつて別に大した不平を持つてゐたのでもないのだから。――それに、之は餘り人聞きの好いことではないが、T――新聞は他の社より月給や手當の割がずつと好かつた……
この「我が黨の士」の中に、高橋彦太郎といふ記者があつた。我々の間では年長者の方で、もう三十一、二の年齡をしてゐたが、私よりは二、三箇月遲れて入社した男だつた。先づ履歴から言ふと、今のY――大學がまだ專門學校と言つてゐた頃の卒業生で、卒業すると間もなく中學教師になり、一年ばかり東北の方に行つてゐたらしい。それから東京へ歸つて來て、或政治雜誌の記者になり、實業家の手代になり、遂々新聞界に入つて、私の社へ來る迄に二つ、三つの新聞を歩いた。――ざつとこんなものだが、詳しいことは實は私も知らない。一體に自分に關した話は成るべく避けてしない風の男だつた。が、何かの序に、經濟上の苦しみだけは學生時代から隨分甞めたやうなことを言つたことがある。地方へ教師になつたのは、恩のある母(多分繼母だつたらう)を養ふ爲で、それが死んだから早速東京へ歸つたのだといふ話も聞いたやうに記憶してゐる。細君もあり、子供も三人かあつたが、何處で何うして結婚したのか、それは少しも解らない。此方から聞いて見ても、「そんな下らぬ話をする奴があるものか。」といふやうな顏をして、てんで對手にならなかつた。第一我々の仲間で、その細君を見たといふ者は一人もない。郊外の、しかも池袋の停車場から十町もあるといふ處に住んでゐて、人を誘つて行くこともなければ、又、いくら勸めてももつと近い處へは引越して來なかつた。
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