石川啄木作品集 第二巻 |
昭和出版社 |
1970(昭和45)年11月20日 |
1970(昭和45)年11月20日発行 |
1972(昭和47)年6月20日発行 |
夢の樣な幼少の時の追憶、喜びも悲みも罪のない事許り、それからそれと朧氣に續いて、今になつては、皆、仄かな哀感の霞を隔てゝ麗かな子供芝居でも見る樣に懷かしいのであるが、其中で、十五六年後の今日でも猶、鮮やかに私の目に殘つてゐる事が二つある。
何方が先で、何方が後だつたのか、明瞭とは思出し難い。が私は六歳で村の小學校に上つて、二年生から三年生に進む大試驗に、私の半生に唯一度の落第をした。其落第の時に藤野さんがゐたのだから、一つは慥か二度目の二年生の八歳の年、夏休み中の出來事と憶えてゐる。も一つも、暑い盛りの事であつたから、矢張其頃の事であつたらう。
今では文部省令が嚴しくて、學齡前の子供を入學させる樣な事は全く無いのであるが、私の幼かつた頃は、片田舍の事でもあり、左程面倒な手續も要らなかつた樣である。でも數へ年で僅か六歳の、然も私の樣に弱い者の入學るのは、餘り例のない事であつた。それは詰り、平生私の遊び仲間であつた一歳二歳年長の子供等が、五人も七人も一度に學校に上つて了つて、淋しくて/\耐らぬ所から、毎日の樣に好人物の父に強請つた爲なので、初めの間こそお前はまだ餘り小さいからと禁めてゐたが根が惡い事ぢや無し、父も内心には喜んだと見えて、到頭或日學校の高島先生に願つて呉れて、翌日からは私も、二枚折の紙石盤やら硯やら石筆やらを買つて貰つて、諸友と一緒に學校に行く事になつた。されば私の入學は、同じ級の者より一ヶ月も後の事であつた。父は珍らしい學問好で、用のない冬の晩などは、字が見えぬ程煤びきつて、表紙の襤褸になつた孝經やら十八史略の端本やらを持つて、茶話ながら高島先生に教はりに行く事などもあつたものだ。
其頃父は三十五六、田舍には稀な程晩婚であつた所爲でもあらうか、私には兄も姉も、妹もなく唯一粒種、剛い言葉一つも懸けるられずに育つた爲めか、背丈だけは普通であつたけれども、ひよろ/\と痩せ細つてゐて、隨分近所の子供等と一緒に、裸足で戸外の遊戯もやるにかゝはらず、怎したものか顏が蒼白く、駈競でも相撲でも私に敗ける者は一人も無かつた。隨つて、さうして遊んでゐながらも、時として密り一人で家に歸る事もあつたが、學校に上つてからも其性癖が變らず、樂書をしたり、木柵を潜り抜けたりして先生に叱られる事は人並であつたけれど、兎角卑屈で、寡言で黒板に書いた字を讀めなどと言はれると、直ぐ赤くなつて、俯いて、返事もせず石の如く堅くなつたものだ。自分から進んで學校に入れて貰つたに拘はらず、私は遂學科に興味を有てなかつた。加之時には晝休に家へ歸つた儘、人知れず裏の物置に隱れてゐて、午後の課業を休む事さへあつた。病身の母は、何時か私の頭を撫でながら、此兒も少し他の子供等と喧嘩でもして呉れる樣になれば可いと言つた事がある。私は何とも言はなかつたが、腹の中では、喧嘩すれば俺が敗けるもの、と考へてゐた。
私の家といふのは、村に唯一軒の桶屋であつたが、桶屋だけでは生計が立たぬので、近江屋といふ近郷一の大地主から、少し許り田を借りて小作をしてゐた。隨つて、年中變らぬ稗勝の飯に粘氣がなく、時偶夜話に來る人でもあれば、母が取あへず米を一掴み程十能で焦つて、茶代りに出すといふ有樣であつたから、私なども、年中つぎだらけの布の股引を穿いて、腰までしかない洗晒しの筒袖、同じ服裝の子供等と共に裸足で歩く事は慣れたもので、頭髮の延びた時は父が手づから剃つて呉れるのであつた。名は檜澤新太郎といふのだが、村の人は誰でも「桶屋の新太」と呼んだ。
學校では、前にも言つた如く、些とも學科に身を入れなかつたから、一年から二年に昇る時は、三十人許りの級のうち尻から二番で漸と及第した。惡い事には、私の家の兩隣の子供、一人は一級上の男で、一人は同じ級の女の兒であつたが、何方も其時半紙何帖かを水引で結んだ御褒賞を貰つたので、私は流石に子供心にも情ない樣な氣がして、其授與式の日は、學校から歸ると、例の樣に戸外に出もせず、日が暮れるまで大きい圍爐裏の隅に蹲つて、浮かぬ顏をして火箸許り弄つてゐたので、父は夕飯が濟んでから、黒い羊羹を二本買つて來て呉れて、お前は一番稚いのだからと言つて慰めて呉れた。
それも翌日になれば、もう忘れて了つて、私は相變らず時々午後の課業を休み/\してゐたが、七歳の年が暮れての正月、第三學期の初めになつて、學校には少し珍らしい事が起つた。それは、佐藤藤野といふ、村では儔べる者の無い程美しい女の兒が、突然一年生に入つて來た事なので。
百何人の生徒は皆目を聳てた。實際藤野さんは、今想うても餘り類のない程美しい兒だつたので、前髮を眉の邊まで下げた顏が圓く、黒味勝の眼がパッチリと明るくて、色は飽迄白く、笑ふ毎に笑窪が出來た。男生徒は言はずもの事、女生徒といつても、赤い布片か何かで無雜作に髮を束ねた頭を、垢染みた浅黄の手拭に包んで、雪でも降る日には、不恰好な雪沓を穿いて、半分に截つた赤毛布を頭からスッポリ被つて來る者の多い中に、大きく菊の花を染めた、派手な唐縮緬の衣服を着た藤野さんの姿の交つたのは、村端の泥田に蓮華の花の咲いたよりも猶鮮やかに、私共の眼に映つたのであつた。
藤野さんは、其以前、村から十里とも隔たらぬ盛岡の市の學校にゐたといふ事で、近江屋の分家の、呉服屋をしてゐる新家といふ家に、阿母さんといふ人と二人で來てゐた。
私共の耳にまで入つた村の噂では、藤野さんの阿母さんといふ人は、二三年も前から眼病を患つてゐた新家の御新造の妹なさうで、盛岡でも可也な金物屋だつたが、怎した破目かで破産して、夫といふ人が首を縊つて死んで了つた爲め、新家の家の家政を手傳ひ旁々、亡夫の忘れ形見の藤野さんを伴れて、世話になりに來たのだといふ事であつた。其阿母さんも亦、小柄な、色の白く美しい、姉なる新家の御新造にも似ず、いたつて快活な愛想の好い人であつた。
村の學校は、其頃まだ見窄らしい尋常科の單級で、外に補習科の生徒が六七人、先生も高島先生一人限りだつたので、教場も唯一つ。級は違つてゐても、鈴の樣な好い聲で藤野さんが讀本を讀む時は、百何人が皆石筆や筆を休ませて、其方許り見たものだ。殊に私は、習字と算術の時間が厭で/\耐らぬ所から、よく呆然して藤野さんの方を見てゐたもので、其度先生は竹の鞭で私の頭を輕く叩いたものである。
藤野さんは、何學科でも成績が可かつた。何日であつたか、二年生の女生徒共が、何か授業中に惡戲をしたといつて、先生は藤野さんを例に引いて誡められた事もあつた樣だ。上級の生徒は、少しそれに不服であつた。然し私は何も怪まなかつた。何故なれば、藤野さんは其頃、學校中で、村中で、否、當時の私にとつての全世界で、一番美しい、善い人であつたのだから。
其年の三月三十日は、例年の如く證書授與式、近江屋の旦那樣を初め、村長樣もお醫者樣も、其他村の人達が五六人學校に來られた。私も、祕藏の袖の長い衣服を着せられ、半幅の白木綿を兵子帶にして、皆と一緒に行つたが、黒い洋服を着た高島先生は、常よりも一層立派に見えた。教場も立派に飾られてゐて、正面には日の丸の旗が交叉してあつた。其前の白い覆布をかけた卓には、松の枝と竹を立てた、大きい花瓶が載せてあつた樣に憶えてゐる。勅語の捧讀やら「君が代」の合唱やらが濟んで、十何人かの卒業生が、交る交る呼出されて、皆嬉し相にして卒業證書を貰つて來る。其中の優等生は又、村長樣の前に呼ばれて御褒賞を貰つた。軈て、三年二年一年といふ順で、新たに進級した者の名が讀上げられたが、怎したものか私の名は其中に無かつた。「新太ア落第だ、落第だ。」と言つて周圍の子供等は皆私の顏を見た。私は其時甚氣持がしたつたか、今になつては思出せない。
式が濟んでから、近江屋樣から下さるといふ紅白の餅だけは私も貰つた。皆は打伴れて勇まし相に家に歸つて行つたが、私共落第した者六七人だけは、用があるからと言つて先生に殘された。其中には村端の堀立小屋の娘もあつて、潸々泣いてゐたが、私は、若しや先生は私にだけ證書を後で呉れるのではないかといふ樣な、理由もない事を心待ちに待つてゐた樣であつた。
軈て一人々々教員室に呼ばれて、それ/″\に誡められたり勵まされたりしたが、私は一番後しになつた。そして、「お前はまだ年もいかないし、體も弱いから、もう一年二年生で勉強して見ろ。」と言はれて、私は聞えぬ位に「ハイ」と答へて叩頭をすると、先生は私の頭を撫でて、「お前は餘り穩し過ぎる。」と言つた、そして卓子の上のお盆から、麥煎餅を三枚取つて下すつたが、私は其時程先生のお慈悲を有難いと思つた事はなかつた。其室には、村長樣を初め二三の老人達がまだ殘つてゐた。
私は紙に包んだ紅白の餅と麥煎餅を、兩手で胸に抱いて、悄々と其處を出て來たが、昇降口まで來ると、唯もう無暗に悲しくなつて、泣きたくなつて了つた。喉まで出懸けた聲は辛うじて噛殺したが、先生の有難さ、友達に冷笑れる羞かしさ、家へ歸つて何と言つたものだらうといふ樣な事を、子供心に考へると、小さい胸は一圖に迫つて、涙が留度もなく溢れる。すると、怎して殘つてゐたものか、二三人の女生徒が小使室の方から出て來た樣子がしたので、私は何とも言へぬ羞かしさに急に動悸がして來て、ぴたりと柱に凭懸つた儘、顏を見せまいと俯いた。
すた/\と輕い草履の音が後ろに近づいたと思ふと、『何したの、新太郎さん?』と言つた聲は、藤野さんであつた。それまで一度も言葉を交した事のない人から、恁う言はれたので、私は思はず顏を上げると、藤野さんは、晴乎とした眼に柔かな光を湛へて、凝と私を瞶めてゐた。私は直ぐ又俯いて、下脣を噛締めたが、それでも歔欷が洩れる。
藤野さんは暫く默つてゐたが、『泣かないんだ、新太郎さん。私だつて今度は、一番下で漸と及第したもの。』と、弟にでも言ふ樣に言つて、『明日好い物持つてつて上げるから、泣かないんだ。皆が笑ふから。』と、私の顏を覗き込む樣にしたが、私は片頬を柱に擦りつけて、覗かれまいとしたので、又すたすたと行つて了つた。藤野さんは何學科も成績が可かつたのだけれど、三學期になつてから入つたので、一番尻で二年生に進級したのであつた。
其日の夕暮、父は店先でトン/\と桶の箍を篏れてゐたし、母は水汲に出て行つた後で私は悄然と圍爐裏の隅に蹲つて、もう人顏も見えぬ程薄暗くなつた中に、焚火の中へ竹屑を投げ入れては、チロチロと舌を出す樣に燃えて了ふのを餘念もなく眺めてゐたが、裏口から細い聲で、『新太郎さん、新太郎さん。』と呼ぶ人がある。私はハッと思ふと、突然土間へ飛び下りて、草履も穿かずに裏口へ駈けて行つた。
藤野さんは唯一人、戸の蔭に身を擦り寄せて立つてゐたが、私を見ると莞爾笑つて、『まあ、裸足で。』と、心持眉を顰めた。そして急がしく袂の中から、何か紙に包んだ物を出して私の手に渡した。
『これ上げるから、一生懸命勉強するッこ。私もするから。』と言ふなり、私は一言も言はずに茫然立つてゐたので、すた/\と夕暗の中を走つて行つたが、五六間行くと後ろを振返つて、手を顏の前で左右に動かした。誰にも言ふなといふ事だと氣が附いたので、私は頷いて見せると、其儘またすた/\と梨の樹の下を。
紙包の中には、洋紙の帳面が一册に半分程になつた古鉛筆、淡紅色メリンスの布片に捲いたのは、鉛で拵へた玩具の懷中時計であつた。
其夜私は、薄暗い手ランプの影で、鉛筆の心を甜めながら、贈物の帳面に、讀本を第一課から四五枚許り、丁寧に謄寫した。私が初めて文字を學ぶ喜びを知つたのは、實に其時であつた。
人の心といふものは奇妙なものである。二度目の二年生の授業が始まると、私は何といふ事もなく學校に行くのが愉くなつて、今迄では飽きて/\仕方のなかつた五十分宛の授業が、他愛もなく過ぎて了ふ樣になつた。竹の鞭で頭を叩かれる事もなくなつた。
廣い教場の、南と北の壁に黒板が二枚宛、高島先生は急がしさうに其四枚の黒板をつて歩いて教へるのであつたが、二年生は、北の壁の西寄りの黒板に向つて、粗末な机と腰掛を二列に並べてゐた。前方の机に一團になつてゐる女生徒には、無論藤野さんがゐた。 新學年が始まつて三日目かに、私は初めて先生に賞められた。默つて聞いてさへ居れば、先生の教へる事は屹度解る。記憶力の強い子供の頭は、一度理解したことは仲々忘れるものでない。知つた者は手を擧げろと言はれて、私の手を擧げぬ事は殆ど無かつた。
何の學科として嫌ひなものはなかつたが、殊に私は習字の時間が好であつた。先生は大抵私に水注の役を吩附けられる。私は、葉鐵で拵へた水差を持つて、机から机とつて歩く。机の兩端には一つ一つ硯が出てゐるのであつたが、大抵は虎斑か黒の石なのに、藤野さんだけは、何石なのか紫色であつた。そして私が水を注いでやつた時、些と叮頭をするのは藤野さん一人であつた。
氣の揉めるのは算術の時間であつた。私も藤野さんも其年八歳であつたのに、豐吉といふ兒が同じ級にあつて、それが私等よりも二歳か年長であつた。體も大きく、頭腦も發達してゐて、私が知つてゐる事は大抵藤野さんも知つてゐたが、又、二人が手を擧げる時は大抵豐吉も手を擧げた。何しろ子供の時の二歳違ひは、頭腦の活動の精不精に大した懸隔があるもので、それの最も顯著に現はれるのは算術である。豐吉は算術が得意であつた。
問題を出して置いて先生は別の黒板の方へつて行かれる。そして又歸つて來て、『出來た人は手を擧げて。』と、竹の鞭を高く擧げられる。それが、少し難かしい問題であると、藤野さんは手を擧げながら、若くは手を擧げずに、屹度後ろを向いて私の方を見る。私は、其眼に滿干する微かな波をも見遁す事はなかつた。二人共手を擧げた時、殊にも豐吉の出來なかつた時は、藤野さんの眼は喜びに輝いた。豐吉も藤野さんも出來なくて、私だけ手を擧げた時は、邪氣ない羨望の波が寄つた。若しかして、豐吉も藤野さんも手を擧げて、私だけ出來ない事があると、氣の毒相な眼眸をする。そして、二人共出來ずに、豐吉だけ誇りかに手を擧げた時は、美しい藤野さんの顏が瞬く間暗い翳に掩はれるのであつた。
藤野さんの本を讀む聲は、隣席の人すら聞えぬ程讀む他の女生徒と違つて、凛として爽やかであつた。そして其讀方には、村の兒等にはない、一種の抑揚があつた。私は、一月二月と經つうちに、何日ともなく、自分でも心附かずに其抑揚を眞似る樣になつた。友達はそれと氣が附いて笑つた。笑はれて、私は改めようとするけれども、いざとなつて聲を立てゝ讀む時は、屹度其抑揚が出る。或時、小使室の前の井戸端で、六七人も集つて色々な事を言ひ合つてゐた時に、豐吉は不圖其事を言ひ出して、散々に笑つた末、『新太と藤野さんと夫婦になつたら可がんべえな。』と言つた。
藤野さんは五六歩離れた所に立つてゐたつたが、此時、『成るとも。成るとも。』と言つて皆を驚かした。私は顏を眞赤にして矢庭に駈出して了つた。
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