九 第二日目は、お吉に伴れられて、朝八時頃から見物に出た。 先づ赤門、『恁(こんな)學校にも教師(せんせ)ア居(え)べすか?』とお定は囁(さゝ)やいたが、『居るのす。』と答へたお八重はツンと濟してゐた。不忍の池では海の樣だと思つた。お定の村には山と川と田と畑としか無かつたので。さて上野の森、話に聞いた銅像よりも、木立の中の大佛の方が立派に見えた。電車といふものに初めて乘せられて、淺草は人の塵溜、玉乘に汗を握り、水族館の地下室では、源助の話を思出して帶の間の財布を上から抑へた。人の數が掏摸に見える。凌雲閣には餘り高いのに怖氣(おぢけ)立つて、到頭上らず。吾妻橋に出ては、東京では川まで大きいと思つた。兩國の川開きの話をお吉に聞かされたが、甚(どんな)事(こと)をするものやら遂に解らず了(じま)ひ。上潮に末廣の長い尾を曳く川蒸汽は、仲々異(い)なものであつた。銀座の通り、新橋のステイション、勸工場にも幾度か入つた。二重橋は天子樣の御門と聞いて叩頭(おじぎ)をした。日比谷の公園では、立派な若い男と女が手をとり合つて歩いてるのに驚いた。 須田町の乘換に方角を忘れて、今來た方へ引返すのだと許り思つてゐるうちに、本郷三丁目に來て降りるのだといふ。お定はもう日が暮れかかつてるのに、まだ引張りされるのかと氣が氣でなくなつたが、一町と歩かずに本郷館の横へ曲つた時には、東京の道路は訝(をか)しいものだと考へた。 理髮店に歸ると、源助は黒い額に青筋立てて、長火鉢の彼方(あつち)に怒鳴つてゐた。其前には十七許りの職人が平蜘蛛(ひらくも)の如く匍(うづくま)つてゐる。此間から見えなかつた斬髮機(バリカン)が一挺、此職人が何處かに隱し込んで置いたのを見附かつたとかで、お定は二階の風呂敷包が氣になつた。 二人はもう、身體も心も綿の如く疲れきつてゐて、晝頃何處やらで蕎麥を一杯宛食つただけなのに、燈火(あかり)がついて飯になると、唯一膳の飯を辛(やつ)と喉を通した。頭腦(あたま)は乎(ぼうつ)としてゐて、これといふ考へも浮ばぬ。話も興がない。耳の底には、まだ轟々たる都の轟きが鳴つてゐる。 幸ひ好い奉公の口があつたが、先づ四五日は緩(ゆつく)り遊んだが可(よ)からうといふ源助の話を聞いて、二人は夕餐が濟むと間もなく二階に上つた。二人共『疲れた。』と許り、べたりと横に坐つて、話もない。何處かしら非常に遠い所へ行つて[#「行つて」は底本では「行つた」]來た樣な心地である。淺草とか日比谷とかいふ語だけは、すぐ近間(ちかく)にある樣だけれど、それを口に出すには遠くまで行つて來なけやならぬ樣に思へる。一時間前まで見て來て色々の場所、あれも/\と心では數へられるけれど、さて其景色は仲々眼に浮ばぬ。目を瞑ると轟々たる響。玉乘や、勸工場の大きな花瓶が、チラリ、チラリと心を掠(かす)める。足下から鳩が飛んだりする。お吉が、『電車ほど便利なものはない。』と言つた。然しお定には、電車程怖ろしいものはなかつた。線路を横切つた時の心地は、思出しても冷汗が流れる。後先を見して、一町も向うから電車が來ようものなら、もう足が動かぬ、漸(や)つとそれを遣(や)り過して、十間も行つてから思切つて向側に驅ける。先づ安心と思ふと胸には動悸が高い。況(ま)して乘つた時の窮屈(きうくつ)さ。洋服着た男とでも肩が擦れ/\になると、譯もなく身體が縮んで了つて、些(ちよい)と首を動かすにも頸筋が痛い思ひ。停(とま)るかと思へば動き出す。動き出したかと思へば停る。しつきりなしの人の乘降(のりおり)、よくも間違が起らぬものと不思議に堪へなかつた。電車に一町乘るよりは、山路を三里素足(はだし)で歩いた方が遙か優(ま)しだ。 大都は其凄まじい轟々たる響きを以て、お定の心を壓した。然しお定は別に郷里に歸りたいとも思はなかつた。それかと言つて、東京が好なのでもない。此處に居ようとも思はねば、居まいとも思はぬ。一刻の前をも忘れ、一刻の後をも忘れて、温(おと)なしいお定は疲れてゐるのだ。ただ疲れてゐるのだ。 煎餅を盛つた小さい盆を持つて、上つて來たお吉は、明日お湯屋に伴(つ)れて行くと言つて下りて行つた。 九時前に二人は蒲團を延べた。三日目は雨。四日目は降りみ降らずみ。九月ももう二十日を過ぎたので、殘暑の汗を洗ふ雨の糸を、初秋めいたうそ寒さが白く見せて、蕭々(しと/\)と廂(ひさし)を濡らす音が、山中の村で聞くとは違つて、厭に陰氣な心を起させる。二人はつくねんとして相對した儘、言葉少なに郷里(くに)の事を思出してゐた。 午餐(おひる)が濟んで、二人がまだお吉と共に勝手にゐたうちに、二人の奉公口を世話してくれたといふ、源助と職業(しごと)仲間の男が來て、先樣(さきさま)では一日も早くといふから、今日中に遣(や)る事にしたら怎(どう)だと言つた。 源助は、二人がまだ何も東京の事を知らぬからと言ふ樣な事を言つてゐたが、お吉は、行つて見なけや何日までだつて慣れぬといふ其男の言葉に賛成した。 遂に行く事に決つた。 で、お吉は先づお八重、次にお定と、髮を銀杏返しに結つてくれたが、お定は、餘り前髮を大きく取つたと思つた、帶も締めて貰つた。 三時頃になつて、お八重が先づ一人源助に伴(とも)なはれて出て行つた。お定は急に淋しくなつて七福神の床の間に腰かけて、小さい胸を犇(ひし)と抱いた。眼には大きい涙が。 一時間許りで源助は歸つて來たが、先樣の奧樣は淡白(きさく)な人で、お八重を見るや否や、これぢや水道の水を半年もつかふと、大した美人になると言つた事などを語つた。 早目に晩餐(ばんめし)を濟まして、今度はお定の番。すぐ近い坂の上だといふ事で、風呂敷包を提げた儘、黄昏時(たそがれどき)の雨の霽間を源助の後に跟(つ)いて行つたが、何と挨拶したら可いものかと胸を痛めながら悄然(しよんぼり)と歩いてゐた。源助は、先方でも眞の田舍者な事を御承知なのだから、萬事間違のない樣に奧樣の言ふ事を聞けと繰返し教へて呉れた。 眞砂町のトある小路、右側に『小野』と記した軒燈の、點火(とも)り初めた許りの所へ行つて、『此の家だ。』と源助は入口の格子をあけた。お定は遂ぞ覺えぬ不安に打たれた。 源助は三十分許り經(た)つと歸つて行つた。 竹筒臺の洋燈(ランプ)が明るい。茶棚やら箪笥やら、時計やら、箪笥の上の立派な鏡臺やら、八疊の一室にありとある物は皆、お定に珍らしく立派なもので。黒柿の長火鉢の彼方に、二寸も厚い座蒲團に坐つた奧樣の年は二十五六、口が少しへの字になつて鼻先が下に曲つてるけれども、お定には唯立派な奧樣に見えた。お定は洋燈の光に小さくなつて、石の如く坐つてゐた。 銀行に出る人と許り聞いて來たのであるが、お定は銀行の何ものなるも知らぬ。其旦那樣はまだお歸りにならぬといふ事で、五歳(いつゝ)許りの、眼のキョロ/\した男の兒が、奧樣の傍に横になつて、何やら繪のかいてある雜誌を見つゝ、時々不思議相にお定を見てゐた。 奧樣は、源助を送り出すと、其儘手づから洋燈を持つて、家の中の部屋々々をお定に案内して呉れたのであつた。玄關の障子を開けると三疊、横に六疊間、奧が此八疊間、其奧にも一つ六疊間があつて主人夫婦の寢室になつてゐる。臺所の横は、お定の室と名指された四疊の細長い室で、二階の八疊は主人の書齋である。 さて、奧樣は、眞白な左の腕を見せて、長火鉢の縁(ふち)に臂(ひぢ)を突き乍ら、お定のために明日からの日課となるべき事を細々と説くのであつた。何處の戸を一番先に開けて、何處の室の掃除は朝飯過で可いか。來客のある時の取次の仕方から、下駄靴の揃へ樣、御用聞に來る小僧等への應對の仕方まで、艶のない聲に諄々と喋り續けるのであるが、お定には僅かに要領だけ聞きとれたに過ぎぬ。 其處へ旦那樣がお歸りになると、奧樣は座を讓つて、反對の側の、先刻まで源助の坐つた座蒲團に移つたが、『貴郎(あなた)、今日は大層遲かつたぢやございませんか?』『ああ、今日は重役の鈴木ン許(とこ)につたもんだからな。(と言つてお定の顏を見てゐたが、)これか、今度の女中は?』『ええ、先刻菊坂の理髮店(とこや)だつてのが伴れて來ましたの。(お定を向いて)此方が旦那樣だから御挨拶しな』『ハ。』と口の中で答へたお定は、先刻からもう其挨拶に困つて了つて、肩をすぼめて切ない思ひをしてゐたので、恁(か)ういはれると忽ち火の樣に赤くなつた。『何卒(どうか)ハ、お頼申(たのまを)します。』と、聞えぬ程に言つて、兩手を突く。旦那樣は、三十の上を二つ三つ越した髭の嚴しい立派な人であつた。『名前は?』といふを冒頭(はじめ)に、年も訊かれた、郷里も訊かれた、兩親のあるか無いかも訊かれた。學校へ上つたか怎(どう)かも訊かれた。お定は言葉に窮(こま)つて了つて、一言言はれる毎に穴あらば入りたくなる。足が耐へられぬ程痲痺(しび)れて來た。 稍あつてから、『今晩は何もしなくても可(い)いから、先刻(さつき)教へたアノ洋燈(ランプ)をつけて、四疊に行つてお寢(やす)み。蒲團は其處の押入に入つてある筈だし、それから、まだ慣れぬうちは夜中に目をさまして便所にでもゆく時、戸惑ひしては不可(いけない)から、洋燈は細めて危なくない所に置いたら可いだらう。』と言ふ許可(ゆるし)が出て、奧樣から燐寸(マツチ)を渡された時、お定は甚(どんな)に嬉しかつたか知れぬ。 言はれた通りに四疊へ行くと、お定は先づ兩脚を延ばして、膝頭を輕く拳(こぶし)で叩いて見た。一方に障子二枚の明りとり、晝はさぞ暗い事であらう。窓と反對の、奧の方の押入を開けると、蒲團もあれば枕もある。妙な臭氣が鼻を打つた。 お定は其處に膝をついて、開けた襖に[#「に」は底本では「を」]片手をかけた儘一時間許りも身動きをしなかつた。先づ明日の朝自分の爲(せ)ねばならぬ事を胸に數へたが、お八重さんが今頃怎(どう)してる事かと、友の身が思はれる。郷里(くに)を出て以來、片時も離れなかつた友と別れて、源助にもお吉にも離れて、ああ、自分は今初めて一人になつたと思ふと、温なしい娘心はもう涙ぐまれる。東京の女中! 郷里(くに)で考へた時は何ともいへぬ華やかな樂しいものであつたに、……然(さ)ういへば自分はまだ手紙も一本郷里へ出さぬ。と思ふと、兩親の顏や弟共の聲、馬の事、友達の事、草苅の事、水汲の事、生れ故郷が詳らかに思出されて、お定は凝(ぢつ)と涙の目を押瞑(おしつむ)つた儘、『阿母(あツぱあ)、許してけろ。』と胸の中で繰返した。
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