四晩に一度は屹度(きつと)忍(しの)んで寢に來る丑之助――兼大工の弟子で、男振りもよく、年こそまだ二十三だが、若者中で一番幅の利く――の事も、無論考へられた。恁(かゝ)る田舍の習慣で、若い男は、忍んで行く女の數の多いのを誇りにし、娘共も亦、口に出していふ事は無いけれ共、通つて來る男の多きを喜ぶ。さればお定は、丑之助がお八重を初め三人も四人も情婦を持つてる事は熟(よ)く知つてゐるので、或晩の如きは、男自身の口から其情婦共の名を言はして擽(くすぐ)つて遣(や)つた位。二人の間は別に思合つた譯でなく、末の約束など眞面目にした事も無いが、怎(どう)かして寢つかれぬ夜などは、今頃丑さんが女と寢てゐるかと、嫉(や)いて見た事のないでもない。私とお八重さんが居なくなつたら、丑さんは屹度お作の所に許りゆくだらうと考へると、何かしら妬(ねた)ましい樣な氣もした。 胸に浮ぶ思の數々は、それからそれと果(はて)しも無い。お定は幾度か一人で泣き、幾度か一人で微笑(ほほゑ)んだ。そして、遂うと/\となりかゝつた時、勝手の方に寢てゐる末の弟が、何やら聲高に寢言を言つたので、はツと目が覺め、嗚呼あの弟は淋しがるだらうなと考へて、睡氣(ねむけ)交りに涙ぐんだが、少女心の他愛なさに、二人の弟が貰ふべき嫁を、誰彼となく心で選んでゐるうちに、何時しか眠つて了つた。 四 目を覺ますと、弟のお清書を横に逆まに貼つた、枕の上の煤けた櫺子(れんじ)が、僅かに水の如く仄めいてゐる。誰もまだ起きてゐない。遠近(をちこち)で二番鷄が勇ましく時をつくる。けたゝましい羽搏(はばた)きの音がする。 お定はすぐ起きて、寢室(ねま)にしてゐる四疊半許りの板敷を出た。手探りに草履(ざうり)を突(つゝ)かけて、表裏の入口を開けると、厩では乾秣(やた)を欲(ほ)しがる馬の、破目板を蹴(け)る音がゴトゴトと鳴る。大桶を二つ擔(かつ)いで、お定は村端(むらはづれ)の樋の口といふ水汲場に行つた。 例になく早いので、まだ誰も來てゐなかつた。漣(さゞなみ)一つ立たぬ水槽の底には、消えかゝる星を四つ五つ鏤(ちりば)めた黎明の空が深く沈んでゐた。清冽な秋の曉の氣が、いと冷かに襟元から總身に沁む。叢にはまだ夢の樣に蟲の音がしてゐる。 お定は暫時(しばし)水を汲むでもなく、水鏡に寫つた我が顏を瞶(みつ)めながら、呆然(ぼんやり)と昨晩の(ゆうべ)の事を思出してゐた。東京といふ所は、ずつと/\遠い所になつて了つて、自分が怎(どう)して其(そんな)所まで行く氣になつたらうと怪まれる。矢張自分は此村に生れたのだから、此村で一生暮らす方が本當だ。恁(か)うして毎朝水汲に來るのが何より樂しい。話の樣な繁華な所だつたら、屹度(きつと)恁(か)ういふ澄んだ美しい水などが見られぬだらうなどゝ考へた。と、後に人の足音がするので、振向くと、それはお八重であつた。矢張桶をぶらぶら擔いで來るが、寢くたれ髮のしどけなさ、起きた許りで脹(はれ)ぼつたくなつてゐる瞼(ひとみ)さへ、殊更艶かしく見える。あの人が行くのだもの、といふ考へが、呆然(ぼんやり)とした頭をハッと明るくした。『お八重さん、早(はや)えなツす。』『お前(めえ)こそ早えなツす。』と言つて、桶を地面(ぢべた)に下した。『あゝ、まだ蟲ア啼いてる!』とお八重(やへ)は少し顏[#底本では「顏(ゆが)」]を歪(ゆが)めて、後れ毛を掻上げる。遠く近くで戸を開ける音が聞える。『決(き)めたす、お八重さん。』『決めたすか?』と言つたお八重の眼は、急に晴々しく輝いた。『若しもお前行かなかつたら、俺(おら)一人奈何(どう)すべと思つてだつけす。』『だつてお前怎(どう)しても行くべえす?』『お前も決(き)めたら、一緒に行くのす。』と言つて、お八重は輕く笑つたが、『そだつけ、大變だお定さん、急がねえばならねえす。』『怎(どう)してす?』『怎してつて、昨晩(ゆべな)聞いだら、源助さん明後日(あさつて)立つで、早く準備(したく)せツてゐだす。』『明後日(あさつて)?』と、お定は目を(みは)つた。『明後日!』と、お八重も目を(みは)つた。 二人は暫し互ひの顏を打瞶つてゐたが、『でヤ、明日(あした)盛岡さ行がねばならねえな。』とお定が先づ我に歸つた。『然(さ)うだす。そして今夜(こんにや)のうちに、衣服(きもの)だの何(なに)包んで、權作老爺(おやぢ)さ頼まねばならねえす。』『だらハア、今夜(こんにや)すか?』と、お定は又目を(みは)つた。 左(さ)う右(か)うしてるうちに、一人二人と他の水汲が集つて來たので、二人はまだ何か密々(ひそ/\)と語り合つてゐたが、軈て滿々(なみ/\)と水を汲んで擔ぎ上げた。そして、すぐ二三軒先の權作が家へ行つて、『老爺(おやぢ)ア起きたすか?』と、表から聲をかけた。『何時まで寢てるべえせア。』と、中から胴間聲(どまごゑ)がする。 二人は目を見合して、ニッコリ笑つたが、桶を下して入つて行つた。馬車追(ひき)の老爺は丁度厩の前で乾秣(やた)を刻むところであつた。『明日(あした)盛岡さ行ぐすか?』『明日がえ? 行くどもせア。權作ア此老年(とし)になるだが、馬車曳(ふ)つぱらねえでヤ、腹減つて斃死(くたば)るだあよ。』『だら、少許(すこし)持つてつて貰ひてえ物が有るがな。』『何程(なんぼ)でも可えだ。明日ア歸(けえ)り荷(に)だで、行ぐ時(どき)ア空馬車曳(ふ)つぱつて行ぐのだもの。』『其(そんな)に澤山(たんと)でも無えす。俺等(おら)も明日(あした)盛岡さ行ぐども、手さ持つてげば邪魔だです。』『そんだら、ハア、お前達も馬車さ乘つてつたら可(え)がべせア。』 二人は又目を見合して、二言三言喋(しめ)し合つてゐたが、『でア老爺(おやぢ)な、俺等(おら)も乘せでつて貰ふす。』『然(さ)うして御座(ごぜ)え。唯、巣子(すご)の掛茶屋さ行つたら、盛切酒(もつきりざけ)一杯(ぺえ)買ふだアぜ。』『買ふともす。』と、お八重は晴やかに笑つた。『お定ッ子も行(え)ぐのがえ?』 お定は一寸狼狽(うろた)へてお八重の顏を見た。お八重は又笑つて、『一人だば淋しだで、お定さんにも行つて貰ふべがと思つてす。』『ハア、俺ア老人(としより)だで可えが、黒馬(あを)の奴ア怠屈(てえくつ)しねえで喜ぶでヤ。だら、明日(あした)ア早く來て御座(ごぜ)え。』 此日は、二人にとつて此上もない忙がしい日であつた。お定は水汲から歸ると直ぐ朝草刈に平田野(へいたの)へ行つたが、莫迦に氣がそは/\して、朝露に濡れた利鎌(とがま)が、兎角休み勝になる。離れ/″\の松の樹が、山の端に登つた許りの朝日に、長い影を草の上に投げて、葉毎に珠を綴つた無數の露の美しさ。秋草の香が初簟(はつたけ)の香を交へて、深くも胸の底に沁みる。利鎌の動く毎に、サッサッと音して寢る草には、萎枯(すが)れた桔梗の花もあつた。お定は胸に往來する取留もなき思ひに、黒味勝の眼が曇つたり晴れたり、一背負だけ刈るに、例(いつも)より餘程長くかかつた。 朝草を刈つて來てから、馬の手入を濟ませて、朝餉を了へたが、十坪許り刈り殘してある山手の畑へ、父と弟と三人で粟刈に行つた。それも午前には刈り了へて、弟と共に黒馬(あを)と栗毛の二頭で家の裏へ運んで了つた。 母は裏の物置の側に荒蓆を布いて、日向ぼツこをしながら、打殘しの麻絲を砧(う)つてゐる。三時頃には父も田りから歸つて來て、厩の前の乾秣(やた)場で、鼻唄ながらに鉈や鎌を研ぎ始めた。お定は唯もう氣がそは/\して、別に東京の事を思ふでもなく、明日の別れを悲むでもない、唯何といふ事なくそは/\してゐた。裁縫も手につかず、坐つても居られず、立つても居られぬ。 大工の家へ裏傳ひにゆくと、恰度お八重一人ゐた所であつたが、もう風呂敷包が二つ出來上つて、押入れの隅に隱したあつた。其處へ源助が來て、明後日の夕方までに盛岡の、停車場前の、松本といふ宿屋に着くから、其處へ訪ねて一緒になるといふ事に話をきめた。 それからお八重と二人家へ歸ると、父はもう鉈鎌を研ぎ上げたと見えて、薄暗い爐邊(ろばた)に一人踏込んで、莨を吹かしてゐる。『父爺(おやぢ)や。』とお定は呼んだ。『何しや?』『明日(あした)盛岡さ行つても可えが?』『お八重ツ子どがえ?』『然(さ)うしや。』『八幡樣のお祭禮(まつり)にや、まだ十日もあるべえどら。』『八幡樣までにや、稻刈が始るべえな。』『何しに行(え)ぐだあ?』『お八重さんが千太郎さま宅(とこ)さ用あつて行くで、俺も伴(つ)れてぐ言ふでせア。』『可(え)がべす、老爺(おやぢ)な。』とお八重も喙を容れた。『小遣錢(こづけえ)あるがえ?』『少許(すこし)だばあるども、呉(け)えらば呉(け)えで御座え。』『まだお八重ツ子がら、御馳走(ごつちよう)になるべな。』と言つて、定次郎は腹掛から五十錢銀貨一枚出して、上框(あがりがまち)に腰かけてゐるお定へ投げてよこした。 お八重はチラとお定の顏を見て、首尾よしと許り笑つたが、お定は父の露疑はぬ樣を見て、温(おとな)しい娘だけに胸が迫つた。さしぐんで來る涙を見せまいと、ツイと立つて裏口へ行つた。 五 夕方、一寸でも他所(よそ)ながら暇乞に、學校の藤田を訪ねようと思つたが、其暇もなく、農家の常とて夕餉は日が暮れてから濟ましたが、お定は明日着て行く衣服(きもの)を疊み直して置くと云つて、手ランプを持つた儘、寢室にしてゐる四疊半許りの板敷に入つた。間もなくお八重が訪ねて來て、さり氣ない顏をして入つたが、『明日着て行ぐ衣服(きもの)すか?』と、態(わざ)と大きい聲で言つた。『然うす。明日着て行ぐで、疊み直してるす。』と、お定も態(わざ)と高く答えて、二人目を見合せて笑つた。 お八重は、もう全然(すつかり)準備(したく)が出來たといふ事で、今其風呂敷包は三つとも持出して來たが、此家(こゝ)の入口の暗い土間に隱して置いて入つたと言ふ事であつた。で、お定も急がしく萠黄の大風呂敷を擴げて、手りの物を集め出したが、衣服といつても唯(たつた)六七枚、帶も二筋、娘心には色々と不滿があつて、この袷は少し老(ふ)けてゐるとか、此袖口が餘り開き過ぎてゐるとか、密(ひそ)々話に小一時間もかゝつて、漸々(やう/\)準備(したく)が出來た。 父も母もまだ爐邊(ろばた)に起きてるので、も少し待つてから持出さうと、お八重は言ひ出したが、お定は些(ち)と躊躇してから、立つと明(あかり)とりの煤けた櫺子(れんじ)に手をかけると、端の方三本許り、格子が何の事もなく取れた。それを見たお八重は、お定の肩を叩いて、『この人(しと)アまあ、可え工夫してるごど。』と笑つた。お定も心持顏を赧くして笑つたが、風呂敷包は、難なく其處から戸外へ吊り下された。格子は元の通りに直された。 二人はそれから權作老爺の許へ行つて、二人前の風呂敷包を預けたが、戸外の冷やかな夜風が、耳を聾する許りな蟲の聲を漂はせて、今夜限り此生れ故郷を逃げ出すべき二人の娘にいう許りない心(うら)悲しい感情を起させた。所々降つて來さうな秋の星、八日許りの片割月が浮雲の端に澄み切つて、村は家並の屋根が黒く、中央程(なかほど)の郵便局の軒燈のみ淋しく遠く光つてゐる。二人は、何といふ事もなく、もう濕聲(うるみごゑ)になつて、片々に語りながら、他所ながらも家々に別れを告げようと、五六町しかない村を、南から北へ、北から南へ、幾度となく手を取合つて吟行(さまよ)うた。路で逢ふ人には、何日(いつ)になく忸々(なれ/\)しく此方(こつち)から優しい聲を懸けた。作右衛門店にも寄つて、お八重は※※(はんけち)[#「巾+分」、178-下-14][#「巾+税のつくり」、178-下-14]を二枚買つて、一枚はお定に呉れた。何處ともない笑聲、子供の泣く聲もする。とある居酒屋の入口からは、火光(あかり)が眩(まぶし)く洩れて、街路を横さまに白い線を引いてゐたが、蟲の音も憚からぬ醉うた濁聲(だみごゑ)が、時々けたゝましい其店の嬶の笑聲を伴つて、喧嘩でもあるかの樣に一町先までも聞える。二人は其騷々しい聲すらも、なつかしさうに立止つて聞いてゐた。 それでも、二時間も歩いてるうちには、氣の紛れる話もあつて、お八重に別れてスタスタと家路に歸るお定の眼にはに、もう涙が滲んでゐず、胸の中では、東京に着いてから手紙を寄越すべき人をを彼是(あれこれ)と數へてゐた。此村(こゝ)から東京へ百四十五里、其(そんな)事は知らぬ。東京は仙臺といふ所より遠いか近いかそれも知らぬ。唯明日は東京にゆくのだと許り考へてゐる。 枕に就くと、今日位身體も心も急がしかつた事がない樣な氣がして、それでも何となく物足らぬ樣な、心(うら)悲しい樣な、恍乎(ぼうつ)とした疲心地(つかれごゝち)で、すぐうと/\と眠つて了た。
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我等の一団と彼(われらのいちだんとかれ)弓町より(ゆみまちより)二筋の血(ふたすじのち)漂泊(ひょうはく)病院の窓(びょういんのまど)初めて見たる小樽(はじめてみたるおたる)葉書(はがき)葬列(そうれつ)