四角を通越して浦見町が、米町になる。二町許り行くと、右は高くなつた西寺と呼ぶ眞宗の寺、それに向合つた六軒長屋の取突の端が渠の宿である。案の如く入口も窓も眞暗になつて居る。渠は成るべく音のしない樣に、入口の硝子戸を開けて、閉てて、下駄を脱いで、上框の障子をも開けて閉てた。此室は長火鉢の置いてある六疊間。亭主は田舍の村役場の助役をして居るので、主婦と其甥に當る十六の少年と、三人の女兒とが、此室に重なり合ふ樣になつて寢て居るのだが、渠は慣れて居るから、其等の顏を踏附ける事もなく、壁際を傳つて奧の襖を開けた。
此室も又六疊間で、左の隅に据ゑた小さい机の上に、赤インキやら黒インキやらで散々樂書をした紙笠の、三分心の洋燈が、螢火ほどに點つて居た。不取敢その※[#「心/(心+心)」、135-上-6]を捻上げると、パッと火光が發して、暗に慣れた眼の眩しさ。天井の低い薄汚ない室の中の亂雜が一時に目に見える。ゾクゾクと寒さが背に迫るので、渠は顏を顰蹙めて、火鉢の火を啄つた。
同宿の者が三人、一人は入口の横の三疊を占領してるので、渠は郵便局に出て居る佐久間といふ若い男と共に此六疊に居るのだ。佐久間はモウ寢て居て、然も此方へ顏を向けて眠つてるが、例の癖の、目を全然閉ぢずに、口も半分開けて居る。渠は、スヤスヤと眠つた安らかな其顏を眺めて、聞くともなく其寢息を聞いて居たが、何かしら恁う自分の心が冷えて行く樣な氣がする。此男は何時でも目も口も半分開けて寢るが、俺も然うか知ら。俺は口だけ開けてるかも知れぬ、などと考へる。
煙草に火をつけたが、怎したものか美味くない。氣がつくとそれは「朝日」なので、袂を探して「敷島」の袋を出したが、モウ三本しか殘つて居なかつた。馬鹿に喫んで了つたと思ふと、一本出して惜しさうに左の指で弄り乍ら、急いで先ののを、然も吸口まで燒ける程吸つて了つた。で、「敷島」に火をつけたが、それでも左程美味くない。口が荒れて來たのかと思ふと、煙が眼に入る。渠は澁い顏をして、それを灰に突込んだ。
眼を閉ぢずに寢るとは珍しい男だ、と考へ乍ら、また佐久間の顏を見た。すると、自分が一生懸命「閉ぢろ、閉ぢろ。」と思つて居ると、佐久間は屹度アノ眼を閉ぢるに違ひないと云ふ氣がする。で、下腹にウンと力を入れて、ギラギラする眼を恐ろしく大きくして、下唇を噛んで、佐久間の寢顏を睨め出した。寢息が段々急しくなつて行く樣な氣がする。一分、二分、三分、……佐久間の眼は依然として瞬きもせず半分開いて居る。
何だ馬鹿々々しいと氣のついた時、渠は半分腰を浮かして、火鉢の縁に兩腕を突張つて我ながら恐ろしい形相をして居た。額には汗さへ少し滲み出して居る。渠は平手でそれを拭つて腰を据ゑると、今迄顏が熱つて居たものと見えて、血が頭から[#「頭から」は底本では「から頭」]スウと下りて行く樣な氣がする。動悸も少ししてゐる。何だ、馬鹿々々しい、俺は怎して恁う時々、淺間しい馬鹿々々しい事をするだらうと、頻りに自分と云ふものが輕蔑される、…………
止度もなく、自分が淺間しく思はれて來る。限りなく淺間しいものの樣に思はれて來る。顏は忽ち燻んで、喉がセラセラする程胸が苛立つ。渠は此世に於て、此自蔑の念に襲はれる程厭な事はない。
と、隣室でドサリといふ物音がした。咄嗟の間には、主婦が起きて來るのぢやないかと思つて、ビクリとしたが、唯寢返りをしただけと見えて、立つ氣配もせぬ。ムニヤムニヤと少年が寢言を言ふ聲がする。漸と安心すると、動悸が高く胸に打つて居る。
處々裂けた襖、だらしなく吊下つた壁の衣服、煤ばんで雨漏の痕跡がついた天井、片隅に積んだ自分の夜具からは薄汚い古綿が喰み出してる。ズーッと其等を見
す渠の顏には何時しか例の痙攣が起つて居た。
噫、淺間しい! 恁う思ふと渠は、ポカンとして眠つて居る佐久間の顏さへ見るも厭になつた。渠は膝を立直して小さい汚ない机に向つた。
埃だらけの硯、齒磨の袋、楊枝、皺くちやになつた古葉書が一枚に、二三枚しかない封筒の束、鐵筆に紫のインキ瓶、フケ取さへも載つて居る机の上には、中判の洋罫紙を赤いリボンで厚く綴ぢた、一册の帳面がある。表紙には『創世乃卷』と氣取つた字で書いて、下には稍小さく「野村新川。」
渠は直ちにそれを取つて、第一頁を披いた。
これは渠が十日許り前に竹山の宿で夕飯を御馳走になつて、色々と詩の話などをした時思立つたので、今日横山に吹聽した、其所謂六ケ月位かかる見込だといふ長篇の詩の稿本であつた。渠は、其題の示す如く、此大叙事詩に、天地初發の曉から日一日と成された絶大なる獨一眞神の事業を謳つて、アダムとイヴの追放に人類最初の悲哀の由來を叙し、其掟られたる永遠の運命を説いて、最後の卷には、神と人との間に、朽つる事なき梯子をかけた、耶蘇基督の出現に、人生最高の理想を歌はむとして居る。そして、先づ以て、涙の谷に落ちた人類の深き苦痛と悲哀と、その悲哀に根ざす靈魂の希望とを歌ふといふ序歌だけでも、優に二百行位になる筈なので、渠は此詩の事を考へると、話に聞いただけの(隨つて左程豪いとも面白いとも思はなかつた、)ダンテの『神聖喜曲』にも劣らぬと思ふので、其時は、自分が今こそ恁
釧路あたりの新聞の探訪をしてるけれど、今に見ろ、今に見ろ、といふ樣な氣になる。
嗚呼々々、大初、萬有の
いまだ象を……
と、渠は小聲に抑揚をつけて讀み出した。が、書いてあるのは唯十二三行しかないので、直ぐに讀終へて了ふ。と繰返して又讀み出す。恁うして渠は、ものゝ三十遍も同じ事を續けた。
初は、餘念の起るのを妨げようと、凝然と眉間に皺を寄せて苦い顏をしながら讀んで居たが、十遍、二十遍と繰返してるうちに、何時しか氣も落着いて來て眉が開く。渠は腕組をして、一向に他の事を思ふまいと、詩の事許りに心を集めて居たが、それでも時々、ピクリピクリと痙攣が顏に現れる。
軈て鐵筆を取上げた。幾度か口の中で云つて見て、頭を捻つたり、眉を寄せたりしてから、「人祖この世に罪を得て、」と云ふ句に亞いで、
人の子枕す時もなし。
ああ、
と書いたが、此「ああ」の次が出て來ない。で、渠は思出した樣に煙草に火をつけたが、不圖次の句が頭腦に浮んだので、口元を歪めて幽かに笑つた。
ああ、み怒りの雲の色、
審判の日こそ忍ばるれ。
と、手早く書きつけて、鐵筆を擱いた。此後は甚
事を書けばよいのか、まだ考へて居ないのだ。で、渠は火鉢に向直つて、頭だけ捻つて、書いただけを讀返して見る。二三遍全體を讀んで見て、今度は目を瞑つて今書いた三行を心で誦した。
「人の子枕す時もなし、ああみ怒り……審判の日……。」「人の子枕す……」然うだ、實際だ。人の子は枕する時もない。人の子は枕する時もない。世界十幾億の人間、男も、女も眞實だ。人の子は枕する時もない。實際然うだ、寢ても不安、起きても不安! 夢の無い眠を得る人が一人でもあらうか! 金を持てば持つたで惡い事を、腹が減れば減つたで惡い事を、噫、寢てさへも、寢てさへも、實際だ、夢の中でさへも惡い事を! 夢の中でさへも俺は、噫、俺は、俺は、俺は…………
恐ろしい苦悶が地震の樣に忽ち其顏に擴がつた。それが刻一刻に深くなつて行く。瞬一瞬に烈しくなつて行く。見ろ、見ろ、人の顏ぢやない。全く人の顏ぢやない。鬼? 鬼の顏とは全くだ。種々な事が胸に持上つて來る。渠はそれと戰つて居る。思出すまいと戰つて居る。幾何壓しつけても持上がる。あれもこれも持上がる。終には幾十幾百幾千の事が皆一時に持上る。渠は一生懸命それと戰つて居る。戰つて戰つて、刻一刻に敗けて行く。一瞬一瞬に敗けて行く。
「俺は親不孝者だ!」と云ふ考へが、遂に渠を征服した。胸の中で「一圓五十錢!」と叫ぶ。脅喝、詐僞、姦通、強姦、喰逃……二十も三十も一時に喊聲をあげて頭腦を蹂躙る。見まい、聞くまい、思出すまいと、渠は矢庭に机の上の『創世乃卷』に突伏した。それでも見える、母の顏が見える。胸の中で誰やら「貴樣は罪人だ。」と叫ぶ、「警察へ行け。」と喚く。と渠は、横濱で唯十錢持つて煙草買ひに行つた時、二度三度呼んでも、誰も店に出て來なかつたので、突然「敷島」を三つ浚つて逃げた事を思ひ出した。渠はキリキリと齒を喰しばつた。噫、俺は一日として、俺は何處へ行つても、俺は、俺は、……と思ふと、凄じい髯面が目の前に出た。それは渠が釧路へ來て泊る所のなかつた時、三晩一緒に暮した乞食だ。知人岬の神社に寢た乞食だ。俺はアノ乞食の嚊を二度姦した! 乞食の嚊を、この髯面の嚊を……髯面がサッと朱を帶びた。カインの顏だ。アダムの子のカインの顏だ。何處へ逃げても御空から大きな眼に睨められたカインの顏だ。土穴を掘つて隱れても大きな眼に睨められたカインの顏だ。噫、カインだ、カインだ、俺はカインだ!
俺はカインだ! と總身に力を入れて、兩手に机の縁を攫んで、突然身を反らした。齒を喰しばつて、堅く堅く目を閉ぢて、頭が自づと後に垂れる。胸の中が掻裂かれる樣で、スーッと深く息を吸ふと、パッと目があいた。と、空から見下す大きな眼! 洋燈の眞上に徑二尺、眞黒な天井に圓く描かれた大きな眼!「俺はツ」と渠は聲を絞つた。
「ウヽ」と聲がしたので、電氣に打たれた樣に、全身の毛を逆立てた。渠の聲が高かつたので、佐久間が夢の中で唸つたのだ。渠は恐しき物を見る樣に、佐久間の寢顏を凝視めた。眠れりとも、覺めたりともつかぬ、半ば開いた其眼! 其眼の奧から、誰かしら自分を見て居る。誰かしら自分を見て居る。…………
野村はモウ耐らなくなつて、突然立上つた。「俺は罪人だ、神樣!」と心で叫んで居る。襖を開けたも知らぬ。長火鉢に躓いたも知らぬ。眞暗で誰のだか解らぬが、兎に角下駄らしいものを足に突懸けて、渠は戸外へ飛出した。
西寺の横の坂を、側目も振らず上つて行く。胸の上に堅く組合せた拳の上に、冷い冷い涙が、頬を傳つてポタリポタリと落つる。「神樣、神樣。」と心は續け樣に叫んで居る。坂の上に鋼鐵色の空を劃つた教會の屋根から、今しも登りかけた許りの二十日許りの月が、帽子も冠らぬ渠の頭を斜めに掠めて、後に長い長い影を曳いた。
十二時半頃であつた。
寢る前の平生の癖で、竹山は窓を開けて、煖爐の火氣に鬱した室内の空氣を入代へて居た。闃とした夜半の街々、片割月が雪を殊更寒く見せて、波の音が遠い處でゴウゴウと鳴つて居る。
直ぐ目の下の病院の窓が一つ、パッと火光が射して、白い窓掛に女の影が映つた。其影が、右に動き、左に動き、手をあげたり、屈んだり、消えて又映る。病人が惡くなつたのだらうと思つて見て居る。
と、眞砂町を拔ける四角から、黒い影が現れた。ブラリブラリと俛首れて歩いて來る。竹山は凝と月影に透して視て居たが、怎も野村らしい。帽子も冠つて居ず、首卷も卷いて居ない。
其男は、火光の射した窓の前まで來ると、遽かに足を留めた。女の影がまた瞬時窓掛に映つた。
男は、足音を忍ばせて、其窓に近づいた。息を殺して中を覗つてるらしい。竹山も息を殺してそれを見下して居た。
一分も經つたかと思ふと、また女の影が映つて、それが小さくなつたと見ると、ガタリと窓が鳴つた。と、男は強い彈機に彈かれた樣に、五六歩窓際を飛び退つた。「呀ツ」と云ふ女の聲が聞えて、間もなく火光がパッと消えた。窓を開けようとして、戸外の足音に驚いたものらしい。
男は、前より俛首れて、空氣まで凍つた樣な街路を、ブラリブラリと小さい影を曳いて、洲崎町の方へ去つた。
翌日、野村良吉が社に出たのは十時少し過であつた。ビクリビクリと痙攣が時々顏を襲うて、常よりも一層沈んで見えた。冷たい疲勞の壓迫が、重くも頭腦に被さつて居る。胸の底の底の、ズット底の方で、誰やら泣いて居る樣な氣がする。
氣が拔けた樣に
乎として編輯局に入ると、主筆と竹山と、モ一人の洋服を着た見知らぬ男が、煖爐を取圍いて、竹山が何か調子よく話して居た。
野村も其煖爐に近づいた時、見知らぬ男が立つて禮をした。渠も直ぐ禮を返したが、少し周章氣味になつてチラリと其男を見た。二十六七の、少し吊つた眼に才氣の輝いた、皮膚滑かに苦味走つた顏。
『これは野村新川君です。』と主筆は腰かけた儘で云つた。そして渠の方を向いて、『この方は今日から入社する事になつた田川勇介君です。』
渠は電光の如く主筆の顏を偸視たが、大きな氷の塊にドシリと頭を撃たれた心地。
『ハア然うですか。』と挨拶はしたものの、總身の血が何處か一處に塊つて了つた樣で、右の手と左の手が交る交るに一度宛、發作的にビクリと動いた。色を變へた顏を上げる勇氣もない。
『アノ人は面白い人でして、得意な論題でも見つかると、屹度先づ給仕を酒買にやるんです。冷酒を呷りながら論文を書くなんか、アノ温厚な人格に比して怎やら奇蹟の感があるですな。』と、田川と呼ばれた男が談り出した。誰の事とも野村には解らぬが、何れ何處かの新聞社に居た人の話らしい。
『然う然う、其
癖がありましたね。一體一寸々々奇拔な事をやり出す人なんで、書く物も然うでしたよ。恁
下らん事をと思つてると、時々素的な奴を書出すんですから。』と竹山が相槌を打つ。
『那
いふ男は、今の時世ぢや全く珍しい。』と主筆が鷹揚に嘴を容んだ。『アレでも若い時分には隨分やつたもので、私の縣で自由民權の論を唱導し出したのは、全くアノ男と何とか云ふモ一人の男なんです。學問があり演説は巧いし、剩に金があると來てるから、宛然火の玉の樣に轉げ歩いて、熱心な遊説をやつたもんだが、七八萬の財産が國會開會以前に一文も無くなつたとか云ふ事だつた。』
『全く惜しい人です喃、函館みたいな俗界に置くには。』と田川は至極感に打たれたと云ふ口吻。
野村は到頭恁
話に耐へ切れなくなつて、其室を出た。事務室を下りて煖爐にあたると、受附の廣田が「貴方新しい足袋だ喃。俺ンのもモウ恁
になつた。」と自分の破れた足袋を撫でた。工場にも行つて見た。活字を選り分ける女工の手の敏捷さを、解版臺の傍に立つて見惚れて居ると、「貴方は氣が多い方ですな。」と職長の筒井に背を叩かれた。文選の小僧共はまだ原稿が下りないので、阿彌陀鬮をやつてお菓子を買はうと云う相談をして居て、自分を見ると「野村さんにも加擔ツて貰ふべか。」と云つた。機械場には未だ誰も來て居ない。此頃着いた許りの、新しい三十二面刷の印刷機には、白い布が被けてあつた。便所へ行く時小使室の前を通ると、昨日まで居た筈の、横着者の爺でなく[#「でなく」は底本では「なでく」]、豫て噂のあつた如く代へられたと見えて、三十五六の小造の男が頻りに洋燈掃除をして居た。嗚呼アノ爺も罷めさせられた、と思ふと、渠は云ふに云はれぬ惡氣を感じた。何處へ行つても恐ろしい怖ろしい不安が渠に踉いて來る。胸の中には絶望の聲――「今度こそ眞當の代人が來た。汝の運命は今日限りだ! アト五時間だ、イヤ三時間だ、二時間だ、一時間だツ!」
上島に逢へば此消息を話して貰へる樣な氣がする。上島は正直な男だ、と考へて、二度目に二階へ上る時、
『上島君はまだ來ないのか、君!』
と廣田に聞いて見た。
『モウ先刻に來て先刻に出て行きましたよ。』
と答へた。然うだ、十時半だもの、俺も外交に出なけやならんのだが、と思つたが、出て行く所の話ぢやない、編輯局に入ると、主筆が椅子から立ちかけて、
『それぢや田川君、私はこれから一寸社長の宅に行きますから、君も何なら一緒に行つて顏出しして來たら怎です?』
『ア然うですか、ぢや何卒伴れてつて頂きます。』
と田川も立つた。二人は出て行く。野村も直ぐ後から出て、應接室との間の狹い廊下の、突當りの窓へ行つた。モウ決つてる! 決つてる! 嗚呼俺は今日限りだ。
明日から怎しよう、何處へ行かう、などと云ふ考へを起す餘裕もない。「今日限り!」と云ふ事だけが頭腦にも胸にも一杯になつて居てて、モウ張裂けさうだ。鵜毛一本で突く程の刺戟にも、忽ち頭蓋骨が眞二つに破れさうだ。
また編輯局に入つた。竹山が唯一人、凝然と椅子に凭れて新聞を讀んで居る。一分、二分、……五分! 何といふ長い時間だらう。何といふ恐ろしい沈默だらう。渠は腰かけても見た、立つても見た、新聞を取つても見た。火箸で煖爐の中を掻
しても見た。窓際に行つて見た。竹山は凝然と新聞を讀んで居る。
『竹山さん。』と到頭耐へきれなくなつて渠は云つた。悲し氣な眼で對手を見ながら、顫ひを帶びて怖々した聲で。
竹山は何氣なく顏を上げた。
『アノ!、一寸應接室へ行つて頂く譯に、まゐりませんでせうかねす?』
『え? 何か用ですか、祕密の?』
『ハア、其、一寸其……。』と目を落す。
『此室にも誰も居ないが。』
『若し[#「若し」は、底本では「苦し」]誰か入つて來ると……。』
『然うですか。』と竹山は立つた。
入口で竹山を先に出して、後に跟いて狹い廊下を三歩か四歩、應接室に入ると、渠は靜かに扉を閉めた。
割合に廣くて、火の氣一つ無い空氣が水の樣だ。壁も天井も純白で、眞夜中に吸込んだ寒さが、指で壓してもスウと腹まで傳りさうに冷たく見える。青唐草の被帛をかけた圓卓子が中央に、窓寄りの煖爐の周圍には、皮張りの椅子が三四脚。
竹山は先づ腰を下した。渠は卓子に左の手をかけて、立つた儘霎時火の無い煖爐を見て居たが、
『甚
事件です?』
と竹山に訊かれると、忽ち目を自分の足下に落して、
『甚
事件と云つて、何、其、外ぢやないんですがねす。』
『ハア。』
『アノ、』と云つたが、此時渠は不意に、自分の考へて居る事は杞憂に過ぎんのぢやないかと云ふ氣がした。が、
『實は其、(と又一寸口を噤んで、)私は今日限り罷めさせられるのぢやないかと思ひますが……』と云つて、妙な笑を口元に漂はしながら竹山の顏を見た。
竹山の眼には機敏な觀察力が、瞬く間閃いた。『今日限り? それは又怎してです?』
『でも、』と渠は再び目を落した。『でも、モウお決めになつてるんぢやないかと、私は思ひますがねす。』
『僕にはまだ、何の話も無いんですがね。』
『ハア?』と云ふなり、渠は胡散臭い目附をしてチラリと對手の顏を見た。白ツばくれてるのだとは直ぐ解つたけれど、また何處かしら、話が無いと云つて貰つたのが有難い樣な氣もする。
暫らく默つて居たが、『アノ、田川さんといふ人は、今度初めて釧路へ來られたのですかねす?』
『然うです。』と云つて竹山は注意深く渠の顏色を窺つた。
『今迄何處に居た人でせうか?』
『函館の新聞に居た男です。』
『ハア。』と聞えぬ程低く云つたが、霎時して又、『二面の方ですか、三面の方ですか?』
『何方もやる男です。筆も兎に角立つし、外交も仲々拔目のない方だし……。』
『ハア。』と又低い聲。『で、今後は?』
『サア、それは未だ決めてないんだが、僕の考へぢやマア、遊軍と云つた樣な所が可いかと思つてるがね。』
渠は心が頻りに苛々してるけれど、竹山の存外平氣な物言ひに取つて掛る機會がないのだ。一分許り話は斷えた。
『アノ、』と渠は再び顏をあげた。『ですけれども、アノ方が來たから私に用がなくなつたんぢやないですかねす?』
『甚
譯は無いでせう。僕はまだ、モ一人位入れようかと思つてる位だ。』
『ハ?』と野村は、飮込めぬと云つた樣な眼附きをする。
『僕は、五月の總選擧以前に六頁に擴張しようと考へてるんだが、社長初め、別段不賛成が無い樣だ。過般見積書も作つて見たんだがね、六頁にして、帶廣のアノ新聞を買つて了つて、釧路十勝二ケ國を勢力範圍にしようと云ふんだ。』
『ハア、然うですかねす。』
『然うなると君、帶廣支社にだつて二人位記者を置かなくちやならんからな。』
渠の頭腦は非常に混雜して來た。嗚呼、俺を罷めさせられるには違ひないんだ、だが、竹山の云つてる處も道理だ。成程然うなれば、まだ一人も二人も人が要る。だが、だが、ハテナ、一體社の擴張と俺と、甚
關係になつてるか知ら? 六頁になつて……釧路十勝二ケ國を……帶廣に支社を置いて、……田川が此方に居るとすると俺は要らなくなるし……田川が帶廣に行くと、然うすると雖も帶廣にやられるか知ら……ハテナ……恁うと……それはまだ後の事だが……今日は怎うか知ら、今日は?……
『だがね、君。』、と稍あつてから低めの調子で竹山が云つた時、其聲は渠の混雜した心に異樣に響いて、「矢張今日限りだ」といふ考へが征矢の如く閃いた。
『だがね、君。僕は卒直に云ふが、』と竹山は聲を落して眼を外らした。『主筆には[#「には」は底本では「にい」]君に對して、餘り好い感情を有つてない樣な口吻が、時々見えぬでも無い。……』
ソラ來た! と思ふと、渠は冷水を浴びた樣な氣がして、腋の下から汗がタラタラと流れだした。と同時に、怎やら頭の中の熱が一時に颯と引いた樣で、急に氣がスッキリとする。凝と目を据ゑて竹山を見た。
『今朝、小宮洋服店の主人が主筆ン所へ行つたさうだがね。』
『何と云つて行きました?』不思。
『サア、田川が居たから詳しい話も聞かなかつたが……。』
竹山は口を噤んで渠の顏を見た。
『竹山さん、私は、』と哀し氣な顫聲を絞つた。『私はモウ何處へも行く所のない男です。種々の事をやつて來ました。そして方々歩いて來ました。そして私はモウ行く所がありません。罷めさせられると其限です。罷めさせられると死にます。死ぬ許りです。餓ゑて死ぬ許りです。貴君方は餓ゑた事がないでせう。嗚呼、私は何處へ行つても大きな眼に睨められます。眠つてる人も私を視て居ます。そして、』と云つて、ギラギラさして居た目を竹山の顏に据ゑたが、『私は、自分の職責は忠實にやつてる積りです。毎日出來るだけ忠實にやつてる積りです。毎晩町を歩いて、材料があるかあるかと、それ許り心懸けて居ります。そして昨晩も遲くまで、』と急に句を切つて、堅く口を結んだ。
『然う昨夜も、』と竹山は呟く樣に云つたが、ニヤニヤと妙な笑を見せて、『病院の窓は、怎うでした?』
野村はタヂタヂと二三歩後退[#「二三歩後退」は底本では「二三歩退」]つた。噫、病院の窓! 梅野とモ一人の看護婦が、寢衣に着換へて薄紅色の扱帶をした所で、足下には燃える樣な赤い裏を引覆へした、まだ身の温りのありさうな衣服! そして、白い脛が! 白い脛!
見開いた眼には何も見えぬ。口は蟇の樣に開けた儘、ピクリピクリと顏一體が痙攣けて兩側で不恰好に汗を握つた拳がブルブル顫へて居る。
「神樣、神樣。」と、何處か心の隅の隅の、ズッと隅の方で…………。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」は「/\」で表しました。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。
- この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示しました。
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