石川啄木作品集 第二巻 |
昭和出版社 |
1970(昭和45)年11月20日 |
1970(昭和45)年11月20日発行 |
1972(昭和47)年6月20日発行 |
久し振で歸つて見ると、嘗ては『眠れる都會』などと時々土地の新聞に罵られた盛岡も、五年以前とは餘程その趣きを變へて居る。先づ驚かれたのは、昔自分の寄寓して居た姉の家の、今裕福らしい魚屋の店と變つて、恰度自分の机の置いた邊と思はれるところへ、吊された大章魚の足の、極めてダラシなく垂れて居る事である。昨日二度、今朝一度、都合三度此家の前を通つた自分は、三度共大章魚の首縊を見た。若しこれが昔であつたなら、恁う何日も賣れないで居ると、屹度、自分が平家物語か何か開いて、『うれしや水鳴るは瀧の水日は照るとも絶えず、……フム面白いな。』などと唸つてるところへ、腐れた汁がポタリ/\と、襟首に落ちようと云ふもんだ。願くは、今自分の見て居る間に、早く何處かの内儀さんが來て、全體では餘計だらうが、アノ一番長い足一本だけでも買つて行つて呉れゝば可に、と思つた。此家の隣屋敷の、時は五月の初め、朝な/\學堂へ通ふ自分に、目も覺むる淺緑の此上なく嬉しかつた枳殼垣も、いづれ主人は風流を解せぬ醜男か、さらずば道行く人に見せられぬ何等かの祕密を此屋敷に藏して置く底の男であらう、今は見上げる許り高い黒塗の板塀になつて居る。それから少許行くと、大澤河原から稻田を横ぎつて一文字に、幅廣い新道が出來て居て、これに隣り合つた見すぼらしい小路――自分の極く親しくした藻外という友の下宿の前へ出る道は、今廢道同樣の運命になつて、花崗石の截石や材木が處狹きまで積まれて、その石や木の間から、尺もある雜草が離々として生ひ亂れて居る。自分は之を見て唯無性に心悲しくなつた。暫らく其材木の端に腰掛けて、昔の事を懷うて見ようかとも思つたが、イヤ待て恁な晝日中に、宛然人生の横町と謂つた樣な此處を彷徨いて何か明處で考へられぬ事を考へて居るのではないかと、通りがかりの巡査に怪まれでもしては、一代の不覺と思ひ返へして止めた。然し若し此時、かの藻外と二人であつたなら、屹度外見を憚らずに何か詩的な立を始めたに違ひない。兎角人間は孤獨の時に心弱いものである。此變遷は、自分には毫も難有くない變遷である。恁な變樣をする位なら、寧ろ依然『眠れる都會』であつて呉れた方が、自分並びに『美しい追憶の都』のために祝すべきであるのだ。以前平屋造で、一寸見には妾の八人も置く富豪の御本宅かと思はれた縣廳は、東京の某省に似せて建てたとかで、今は大層立派な二階立の洋館になつて居るし、盛岡の銀座通と誰かの冷評した肴町呉服町には、一度神田の小川町で見た事のある樣な本屋や文房具店も出來た。就中破天荒な變化と云ふべきは、電燈會社の建つた事、女學生の靴を穿く樣になつた事、中津川に臨んで洋食店の出來た事、荒れ果てた不來方城が、幾百年來の蔦衣を脱ぎ捨てて、岩手公園とハイカラ化した事である。禿頭に産毛が生えた樣な此舊城の變方などは、自分がモ少し文學的な男であると、『噫、汝不來方の城よ※[#感嘆符三つ、39-上-17] 汝は今これ、漸くに覺醒し來れる盛岡三萬の市民を下しつつ、……文明の儀表なり。昨の汝が松風名月の怨長なへに盡きず……なりしを知るものにして、今來つて此盛裝せる汝に對するあらば、誰かまた我と共に跪づいて、汝を讃するの辭なきに苦しまざるものあらむ。疑ひもなく汝はこれ文明の仙境なり、新時代の樂園なり。……然れども思へ、――我と共に此一片の石に踞して深く/\思へ、昨日杖を此城頭に曳いて、鐘聲を截せ來る千古一色の暮風に立ち、涙を萋々たる草裡に落したりし者、よくこの今日あるを豫知せりしや否や。……然らば乃ち、春秋いく度か去來して世紀また新たなるの日、汝が再び昨の運命を繰返して蔦蘿雜草の底に埋もるるなきを誰か今にして保し得んや。……噫已んぬる哉。』などとやつてのける種になるのだが、自分は毛頭恁な感じは起さなんだ。何故といふまでもない。漸々開園式が濟んだ許りの、文明的な、整然とした、別に俗氣のない、そして依然昔と同じ美しい遠景を備へた此新公園が、少からず自分の氣に入つたからである。可愛い兒供の生れた時、この兒も或は年を老つてから悲慘な死樣をしないとも限らないから、いつそ今斯うスヤ/\と眠つてる間に殺した方が可かも知れぬ、などと考へるのは、實に天下無類の不所存と云はねばならぬ。だから自分は、此公園に上つた時、不圖次の樣な考を起した。これは、人の前で、殊に盛岡人の前では、些憚つて然るべき筋の考であるのだが、茲は何も本氣で云ふのでなくて、唯序に白状するのだから、別段差閊もあるまい。考といふと恁だ。此公園を公園でなくて、ツマリ自分のものにして、人の入られぬ樣に厚い枳殼垣を繞らして、本丸の跡には、希臘か何處かの昔の城を眞似た大理石の家を建てて、そして、自分は雪より白い髮をドッサリと肩に垂らして、露西亞の百姓の樣な服を着て、唯一人其家に住む。終日讀書をする。霽れた夜には大砲の樣な望遠鏡で星の世界を研究する。曇天か或は雨の夜には、空中飛行船の發明に苦心する。空腹を感じた時は、電話で川岸の洋食店から上等の料理を取寄せる。尤も此給仕人は普通の奴では面白くない。顏は奈何でも構はぬが、十八歳で姿の好い女、曙色か淺緑の簡單な洋服を着て、面紗をかけて、音のしない樣に綿を厚く入れた足袋を穿いて、始終無言でなければならぬ。掃除するのは面倒だから、可成散らかさない樣に氣を附ける。そして、一年に一度、昔羅馬皇帝が凱旋式に用ゐた輦――それに擬ねて『即興詩人』のアヌンチャタが乘した輦、に擬ねた輦に乘つて、市中を隈なくる。若し途中で、或は蹇、或は盲人、或は癩を病む者、などに逢つたら、(その前に能く催眠術の奧義を究めて置いて、)其奴の頭に手が觸つた丈で癒してやる。……考へた時は大變面白かつたが、恁書いて見ると、興味索然たりだ。饒舌は品格を傷ふ所以である。
立花浩一と呼ばるる自分は、今から二十幾年前に、此盛岡と十數哩を隔てた或る寒村に生れた。其處の村校の尋常科を最優等で卒業した十歳の春、感心にも唯一人笈をこの不來方城下に負ひ來つて、爾後八星霜といふもの、夏休暇毎の歸省を除いては、全く此土地で育つた。母がさる歴とした舊藩士の末娘であつたので、隨つて此舊城下蒼古の市には、自分のために、伯父なる人、伯母なる人、また從兄弟なる人達が少なからずある。その上自分が十三四歳の時には、今は亡くなつた上の姉さへ此盛岡に縁付いたのであつた。自分は此等縁邊のものを代る/″\喰ひつて、そして、高等小學から中學と、漸々文の林の奧へと進んだのであつた。されば、自分の今猶生々とした少年時代の追想――何の造作もなく心と心がピタリ握手して共に泣いたり笑つたり喧嘩して別れたりした澤山の友人の事や、或る上級の友に、立花の顏は何處かナポレオンの肖像に似て居るネ、と云はれてから、不圖軍人志願の心を起して毎日體操を一番眞面目にやつた時代の事や、ビスマークの傳を讀んでは、直小比公氣取の態度を取つて、級友の間に反目の種を蒔いた事や、生來虚弱で歴史が好きで、作文が得意であつた處から、小ギポンを以て自任して、他日是非印度衰亡史を著はし、それを印度語に譯して、かの哀れなる亡國の民に愛國心を起さしめ、獨立軍を擧げさせる、イヤ其前に日本は奈何かしてシャムを手に入れて置く必要がある。……其時は自分はバイロンの轍を踏んで、筆を劍に代へるのだ、などと論じた事や、その後、或るうら若き美しい人の、潤める星の樣な双眸の底に、初めて人生の曙の光が動いて居ると氣が附いてから、遽かに夜も晝も香はしい夢を見る人となつて、旦暮『若菜集』や『暮笛集』を懷にしては、程近い田圃の中にある小さい寺の、巨きい栗樹の下の墓地へ行つて、青草に埋れた石塔に腰打掛けて一人泣いたり、學校へ行つても、倫理の講堂で竊と『亂れ髮』を出して讀んだりした時代の事や、――すべて慕かしい過去の追想の多くは、皆この中津河畔の美しい市を舞臺に取つて居る。盛岡は實に自分の第二の故郷なんだ。『美しい追憶の都』なんだ。
十八歳の春、一先づこの第二の故郷を退いて、第一の故郷に歸つた。そして十幾ケ月の間閑雲野鶴を友として暮したが、五年以前の秋、思立つて都門の客となり、さる高名な歴史家の書生となつた。翌年は文部省の檢定試驗を受けて、歴史科中等教員の免状を貰うた。唯茲に一つ殘念なのは、東洋のギボンを以て自ら任じて居た自分であるのに、試驗の成績の、怪しい哉、左程上の部でなかつた事である。今は茨城縣第○中學の助教諭、兩親と小妹とをば、昨年の暮任地に呼び寄せて、餘裕もない代り、別に窮迫もせぬ家庭を作つた。
今年の夏は、校長から常陸郷土史の材料蒐集を囑託せられて、一箇月半の樂しい休暇を全く其爲めに送つたので、今九月の下旬、特別を以て三週間の賜暇を許され、展墓と親戚の訪と、外に北上河畔に於ける厨川柵を中心とした安倍氏勃興の史料について、少しく實地踏査を要する事があつて、五年振に此盛岡には歸つて來たのである。新山堂と呼ばるる稻荷神社の直背後の、母とは二歳違ひの姉なる伯母の家に車の轅を下させて、出迎へた五年前に比して別に老の見えぬ伯母に、『マア、浩さんの大きくなつた事!』と云はれて、新調の背廣姿を見上げ見下しされたのは、實に一昨日の秋風すずろに蒼古の市に吹き渡る穩やかな黄昏時であつた。
遠く岩手、姫神、南昌、早池峰の四峰を繞らして、近くは、月に名のある鑢山、黄牛の背に似た岩山、杉の木立の色鮮かな愛宕山を控へ、河鹿鳴くなる中津川の淺瀬に跨り、水音緩き北上の流に臨み、貞任の昔忍ばるる夕顏瀬橋、青銅の擬寶珠の古色滴る許りなる上中の二橋、杉土堤の夕暮紅の如き明治橋の眺めもよく、若しそれ市の中央に巍然として立つ不來方城に登つて瞰下せば、高き低き茅葺柾葺の屋根々々が、茂れる樹々の葉蔭に立ち並んで見える此盛岡は、實に誰が見ても美しい日本の都會の一つには洩れぬ。誰やらが初めて此市に遊んで、『杜陵は東北の京都なり。』と云つた事があるさうな。『東北の京都』と近代的な言葉で云へばあ餘り感心しないが、自分は『みちのくの平安城』と風雅な呼方をするを好む。
この美しい盛岡の、最も自分の氣に入つて見える時は、一日の中では夜、天候では雨、四季の中では秋である。この三を綜合すると、雨の降る秋の夜が一番好い事になるが、然しそれでは完全に過ぎて、餘り淋し過ぎる。一體自分は歴史家であるから、開闢以來此世界に現れた、人、物、事、に就いては、少くとも文字に殘されて居る限りは大方知つて居るつもりであるが、未嘗て、『完全なる』といふ形容詞を眞正面から冠せることの出來る奴には、一人も、一個も、一度も、出會した事がない。隨つて自分は、『完全』といふ事には極めて同情が薄いのである。完全でなくても構はぬ、たゞ拔群であれば可い。世界には隨處に『不完全』が轉がつて居る。其故に『希望』といふものが絶えないのだ。此『希望』こそ世界の生命である。歴史の生命である、人間の生命である。或る學者は『歴史とは進化の義なり。』と説いて居るが、自分は『歴史とは希望の義なり。』と生徒に教へて置いた。世界の歴史には、隨分違つた希望のために時間と勞力とを盡して、そして『進化』と正反對なる或る結果を來した例が少くない。此『間違つた希望』と『間違はない希望』とを鑑別するのが、正當なる歴史の意義ではあるまいかと自分は思ふ。自分一個の私見では、六千載の世界史の中、ペリクリーズ時代の雅典以後、今日に到る部分は、間違つた希望に依る進化、換言すれば、墮落せる希望に依る墮落、の最も大なる例である。斯う考へると、誠に此世が情なく心細くなるが、然し此點が却つて面白い、頗る面白い。自分は『完全』といふものは、人間の數へ得る年限内は決して此世界に來らぬものと假定して居る。(何故なれば、自分は『完全になる』とは、水が氷になる如く、希望と活動との死滅する事であると解釋して居るからだ。)だから、我等の過去は僅々六千載に過ぎぬが、未来には幾百千億萬年あるか知れない。この無限の歴史が、乃ち我等人間の歴史であると思ふと、急に胸が豁いた樣な感じがする。無限無際の生命ある『人間』に、三千年位の墮落は何でもないではないか。加之較々完全に近かつた雅典の人間より、遙かに完全に遠かつた今の我々の方が、却つて/\大なる希望を持ち得るではないか。……斯く、眞理よりも眞理を希求する心、完全よりも完全に對する希望を尊しとする自分が、夜の盛岡の靜けさ淋しさは愛するけれども、奈何して此三が一緒になつて三足揃つた完全な鍋、重くて黒くて冷たくて堅い雨ふる秋の夜といふ大きい鍋を頭から被る辛さ切なさを忍ぶことが出來よう。雨の夜と秋との盛岡が、何故殊更に自分の氣に入るかは、自分の知つた限りでない。多分、最近三十幾年間の此市の運命が、乃ち雨と夜と秋との運命であつた爲めでがなあらう。
昨日は、朝まだきから降り初めた秋雨が、午後の三時頃まで降り續いた。長火鉢を中に相對して、『新山堂の伯母さん』と前夜の續きの長物語――雨の糸の如くはてしない物語をした。自分の父や母や光ちやん(妹)の事、伯母さんの四人の娘の事、八歳で死んだ源坊の事、それから自分の少年時代の事、と、これら凡百の話題を緯にして、話好の伯母さんは自身四十九年間の一切の記憶の絲を經に入れる。此はてしない、蕭やかな嬉しさの籠つた追憶談は、雨の盛岡の蕭やかな空氣、蕭やかな物音と、全く相和して居た。午時近くなつて、隣町の方から『豆腐ア』といふ、低い、呑氣な、永く尾を引張る呼聲が聞えた。嗚呼此『豆腐ア』! これこそは、自分が不幸にも全五年の間忘れ切つて居た『盛岡の聲』ではないか。此低い、呑氣な、尾を引張る處が乃ち、全く雨の盛岡式である。此聲が蕭やかな雨の音に漂うて、何十度か自分の耳に怪しくひびいた後、漸やく此家の門前まで來た。そして遠くで聞くも近くで聞くも同じやうな一種の錆聲で、矢張低く呑氣に『豆腐ア』と、呟やく如く叫んで過ぎた。伯母さんは敢て氣が附かなかつたらしい。軈て、十二時を報ずるステーションの工場の汽笛が、シッポリ濡れた樣な唸りをあげる。と、此市に天主教を少し許り響かせてゐる四家町の教會の鐘がガラン/\鳴り出した。直ぐに其の音を打消す他の響が傳はる。これは不來方城畔の鐘樓から、幾百年來同じ鯨音を陸奧の天に響かせて居る巨鐘の聲である。それが精確に十二の數を撞き終ると、今まであるかなきかに聞えて居た市民三萬の活動の響が、礑と許り止んだ。『盛岡』が今今日の晝飯を喰ふところである。
『オヤマア私とした事が、……御飯の仕度まで忘れて了つて、……』
といつて、伯母さんはアタフタと立つた。そして自分に云つた、
『浩さん、豆腐屋が來なかつたやうだつたね。』
此伯母さんの一擧一動が悉く雨の盛岡に調和して居る。
朝行つた時には未だ蓋が明かなかつたので食後改めて程近い錢湯へ行つた。大きい蛇目傘をさして、高い足駄を穿いて、街へ出ると、矢張自分と同じく、大きい蛇目傘、高い足駄の男女が歩いて居る。皆無言で、そして泥汁を撥ね上げぬ樣に、極めて靜々と、一足毎に氣を配つて歩いて居るのだ。兩側の屋根、低い家には、時に十何年前の同窓であつた男の見える事がある。それは大抵大工か鍛冶屋か荒物屋かである。又、小娘の時に見覺えて置いた女の、今は髮の結ひ方に氣をつける姉さんになつたのが、其處此處の門口に立つて、呆然往來を眺めて居る事もある。此等舊知の人は、決して先方から話かける事なく、目禮さへ爲る事がない。これは、自分には一層雨の盛岡の趣味を發揮して居る如く感ぜられて、仲々奧床しいのである。總じて盛岡は、其人間、其言語、一切皆克く雨に適して居る。人あり、來つて盛岡の街々を彷徨ふこと半日ならば、必ず何街か理髮床の前に、銀杏髷に結つた丸顏の十七八が立つて居て、そして、中なる剃手と次の如き會話を交ふるを聞くであらう。
女『アノナハーン、アエヅダケァガナハーン、昨日スアレー、彼ノ人アナーハン。』
男『フンフン、御前ハンモ行タケスカ。フン、眞ニソダチナハン。アレガラナハン、家サ來ルヅギモ面白ガタンチェ。ホリヤ/\、大變ダタァンステァ。』
此奇怪なる二人の問答には、少くとも三幕物に書き下すに足る演劇的の事實が含まれて居る。若し一度も盛岡の土を踏んだことのない人で、此會話の深い/\意味と、其誠に優美な調子とを聞き分くる事が出來るならば、恐らく其人は、大小説家若くは大探偵の資格ある人、然らずば軒の雨滴の極めて蕭やかな、懶氣な、氣の長い響きを百日も聞き慣れた人であらう。
澄み切つた鋼鐵色の天蓋を被いで、寂然と靜まりかへつた夜の盛岡の街を、唯一人犬の如く彷徨く樂みは、其昔、自分の夜毎に繰返すところであつた。然し、五年振で歸つて僅か二夜を過した許りの自分は、其二夜を遺憾乍ら屋根の下にのみ明かして了つたのである。尤も今は電燈の爲めに、昔の樂みの半分は屹度失くなつたであらう。自分は茲で、古い記憶を呼び覺して、夜の街の感想を説くことを、極めて愉快に感ずるのであるが、或一事の蟠るありて、今往時を切實に忍ぶことを遮つて居る。或る一事とは、乃ち昔自分が夜の盛岡を彷徨いて居た際に起つた大奇談である。――或夜自分は例によつて散歩に出懸けた。仁王小路から三戸町、三戸町から赤川、此赤川から櫻山の大鳥居へ一文字に、畷といふ十町の田圃路がある。自分は此十町の無人境を一往返するを敢て勞としなかつた。のみならず、一寸路を逸れて、かの有名な田中の石地藏の背を星明りに撫づるをさへ、決して躊躇せなんだ。そして、平生の癖の松前追分を口笛でやり乍ら、ブラリ/\と引返して來ると、途中で外套を著、頭巾を目深に被つた一人の男に逢つた。然し別段氣にも留めなかつた。それから急に思出して、自分と藻外と三人鼎足的關係のあつた花郷を訪ねて見ようと、少しく足を早めた。四家町は寂然として、唯一軒理髮床の硝子戸に燈光が射し、中から話聲が洩れたので、此處も人間の世界だなと氣の付く程であつた。間もなく花屋町に入つた。斷つて置く、此町の隣が密淫賣町の大工町で、藝者町なる本町通も程近い。花郷が宿は一寸職業の知れ難い家である。それも其筈、主人は或る田舍の村長で、此本宅には留守居の祖母が唯一人、相應に暮して居る。此祖母なる人の弟の子なる花郷は、此家の二階に本城を構へて居るのだ。二階を見上げると、障子に燈火が射して居る。ヒョウと口笛を吹くと、矢張ヒョウと答へた。今度はホーホケキョとやる、(これは自分の名の暗號であつた。)復ヒョウと答へた。これだけで訪問の禮は既に終つたから、平生の如く入つて行かうと思つて、上框の戸に手をかけようとすると、不意、不意、暗中に鐵の如き手あつて自分の手首をシタタカ握つた。愕然し乍ら星明で透して見たが、外套を著て頭巾を目深に被つた中脊の男、どうやら先刻畷で逢つた奴に似て居る。
『立花、俺に見附つたが最後ぢやぞッ。』
驚いた、眞に驚いた。この聲は我が中學の體操教師、須山といふ豫備曹長で、校外監督を兼ねた校中第一の意地惡男の聲であつた。
『先刻田圃で吹いた口笛は、あら何ぢや? 俗歌ぢやらう。後を尾けて來て見ると、矢張口笛で密淫賣と合圖をしてけつかる。……』
自分は手を握られた儘、開いた口が塞がらぬ。
『此間職員會議で、貴樣が毎晩一人で外出するが、行先がどうも解らん。大に怪しいちふ話が出た。貴樣の居る仁王小路が俺の監督範圍ぢやから、俺は赤髯(校長)のお目玉を喰つたのぢや、けしからん、不埓ぢや。其處で俺は三晩つづけて貴樣に尾行した。一昨夜は呉服町で綺麗な簪を買つたのを見たから、何氣なく聞いて見ると、妹へ遣るのだと嘘吐いたな。昨晩は古河端のさいかちの樹の下で見はぐつた。今夜といふ今夜こそ現場を見屆けたぞ。案の諚大工町ぢやつた。貴樣は本町へ行く位の金錢は持つまいもんナ。……ハハア、軍隊なら營倉ぢや。』
自分の困憊の状察すべしである。恰も此時、洋燈片手に花郷が戸を明けた。彼は極めて怪訝に堪へぬといつた樣な顏をして、盛岡辯で、
『何しあんした?』
と自分に問うた。自分は急に元氣を得て、逐一事情を話し、更に須山に向いて、
『先生、此町は大工町ではごあせん、花屋町でごあんす。小林君も淫賣婦ではごあんせんぜ。』と云つた。
須山は答へなかつたが、花郷は手に持つ洋燈を危氣に動かし乍ら、洒脱な聲をあげて叫び出した。
『立花白蘋君の奇談々々!』
『立花、貴樣餘ッ程氣を附けんぢや――不可ぞ。よく覺えて居れッ。』
と怒鳴るや否や、須山教師の黒い姿は、忽ち暗中に沒したのであつた
自分は既に、五年振で此市に來て目前觀察した種々の變遷と、それを見た自分の感想とを叙べ、又此市と自分との關係から、盛岡は美しい日本の都會の一つである事、此美しい都會が、雨と夜と秋との場合に最も自分の氣に入るといふ事を叙べ、そして、雨と夜との盛岡の趣味に就いても多少の記述を試みた。そこで今自分は、一年中最も樂しい秋の盛岡――大穹窿が無邊際に澄み切つて、空中には一微塵の影もなく、田舍口から入つて來る炭賣薪賣の馬の、冴えた/\鈴の音が、市の中央まで明瞭響く程透徹であることや、雨滴式の此市の女性が、嚴肅な、赤裸々な、明皙の心の樣な秋の氣に打たれて、『ああ、ああ、今年もハア秋でごあんすなつす――。』と、口々に言ふ其微妙な心理のはたらきや、其處此處の井戸端に起る趣味ある會話や、乃至此女性的なる都會に起る一切の秋の表現、――に就いて出來うる限り精細な記述をなすべき機會に逢着した。
が、自分は、其秋の盛岡に關する精細な記述に代ふるに、今、或る他の一記事を以てせねばならぬのである。『或る他の一記事』といふのは、此場合に於て決して木に竹をつぐ底の突飛なる記事ではないと自分は信ずる。否、或は、此の記事を撰む方が却つて一層秋の盛岡なるものを適切に表はす所以であるのかも知れない。何故なれば、此一記事といふのは、美しい盛岡の秋三ケ月の中、最も美しい九月下旬の一日、乃ち今日ひと日の中に起つた一事件に外ならぬからである。
實際を白状すると、自分が先刻晩餐を濟ましてから、少許調査物があるからと云つて話好の伯母さんを避け、此十疊の奧座敷に立籠つて、餘り明からぬ五分心の洋燈の前に此筆を取上げたのは、實は、今日自分が偶然路上で出會した一事件――自分と何等の關係もないに不拘、自分の全思想を根柢から搖崩した一事件――乃ち以下に書き記す一記事を、永く/\忘れざらむためであつたのだ。然も自分が此稀有なる出來事に對する極度の熱心は、如何にして、何處で、此出來事に逢つたかといふ事を説明するために、實に如上數千言の不要なる記述を試むるをさへ、敢て勞としなかつたのである。
斷つて置く、以下に書き記す處は、或は此無限の生命ある世界に於て、殆んど一顧の値だに無き極々些末の一事件であるのかも知れない。されば若し此一文を讀む人があつたなら、その人は、『何だ立花、君は這事を眞面目腐つて書いたのか。』と頭から自分を嘲笑ふかも知れない。が然し、此一事件は、自分といふ小なる一人物の、小なる二十幾年の生涯に於て、親しく出會した事件の中では、最も大なる、最も深い意味の事件であると信ずる。自分は恁信じたからこそ、此市の名物の長澤屋の豆銀糖でお茶を飮み乍ら、稚ない時から好きであつた伯母さんと昔談をする樂みをさへ擲ち去つて、明からぬ五分心の洋燈の前に、筆の澁りに汗ばみ乍ら此苦業を續けるのだ。
又斷つて置く、自分は既に此事件を以て親ら出會した事件中の最大事件と信じ、其爲に二十幾年養ひ來つた全思想を根柢から搖崩された。そして、今新らしい心的生涯の原頭に立つた。――然だ、今自分の立つて居る處は、慥かに『原頭』である。自分はまだ、一分も、一厘も、此大問題の解決に歩を進めて居らぬのだ。或は今夜此筆を擱く迄には、何等か解決の端を發見するに到るかも知れぬが、……否々、それは望むべからざる事だ。此新たに掘り出された『ローゼッタ石』の、表に刻まれた神聖文字は、如何にトマス・ヨングでもシャムポリヲンでも、プシウスでも、とても十年二十年に讀み了る事が出來ぬ樣に思はれる。
自分が今朝新山祠畔の伯母の家を出たのは、大方八時半頃でがなあつたらう。昨日の雨の名殘りの水潦が路の處々に行く人の姿々を映して居るが、空は手掌程の雲もなく美しく晴れ渡つて、透明な空氣を岩山の上の秋陽がホカ/\と温めて居た。
加賀野新小路の親縁の家では、市役所の衞生係なる伯父が出勤の後で、痩せこけた伯母の出して呉れた麥煎餅は、昨日の雨の香を留めたのであらう、少なからず濕々して居た。此家から程近い住吉神社へ行つては、昔を語る事多き大公孫樹の、まだ一片も落葉せぬ枝々を、幾度となく仰ぎ見た。此樹の下から左に折れると凹凸の劇しい藪路、それを東に一軒許で、天神山に達する。しん/\と生ひ茂つた杉木立に圍まれて、苔蒸せる石甃の兩側秋草の生ひ亂れた社前數十歩の庭には、ホカ/\と心地よい秋の日影が落ちて居た。遠くで鷄の聲の聞えた許り、神寂びた宮居は寂然として居る。周匝にひゞく駒下駄の音を石甃に刻み乍ら、拜殿の前近く進んで、自分は圖らずも懷かしい舊知己の立つて居るのに氣付いた。舊知己とは、社前に相對してぬかづいて居る一双の石の狛である。詣づる人又人の手で撫でられて、其不恰好な頭は黒く膏光りがして居る。そして、其又顏といつたら、蓋し是れ天下の珍といふべきであらう。唯極めて無造作に凸凹を造へた丈けで醜くもあり、馬鹿氣ても居るが、克く見ると實に親しむべき愛嬌のある顏だ。全く世事を超越した高士の俤、イヤ、それよりも一段俗に離れた、俺は生れてから未だ世の中といふものが西にあるか東にあるか知らないのだ、と云つた樣な顏だ。自分は昔、よく友人と此處へ遊びに來ては、『石狛よ、汝も亦詩を解する奴だ。』とか、『石狛よ、汝も亦吾黨の士だ。』とか云つて、幾度も幾度も杖で此不恰好な頭を擲つたものだ。然し今日は、幸ひ杖を携へて居なかつたので、丁寧に手で撫でてやつた。目を轉ずると、杉の木立の隙から見える限り、野も山も美しく薄紅葉して居る。宛然一幅の風景畫の傑作だ。周匝には心地よい秋草の香が流れて居る。此香は又自分を十幾年の昔に返した。郷校から程近い平田野といふ松原、晴れた日曜の茸狩に、この秋草の香と初茸の香とを嗅ぎ分けつつ、いとけなき自分は、其處の松蔭、此處の松蔭と探し歩いたものであつた。――
晝餐をば御子田のお苑さんといふ從姉(新山堂の伯母さんの二番目娘で、自分より三歳の姉である。)の家で濟ました。食後、お苑さんは、去年生れた可愛い赤坊の小さい頭を撫で乍ら、『ひとつお世話いたしませうか、浩さん。』と云つた。『何をですか。』『アラ云はなくつても解つてますよ。綺麗な奧樣をサ。』と樂しげに笑ふのであつた。
歸路には、馬町の先生を訪ねて、近日中に厨川柵へ一緒に行つて貰ふ約束をした。馬町の先生といへば、説明するまでもない。此地方で一番有名な學者で、俳人で、能書家で、特に地方の史料に就いては、極めて該博精確な研究を積んで居る、自分の舊師である。
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