北の方旭川なる
丈高き見習士官
遠からず演習のため
札幌に来るといふなる
たより来ぬ。豚鍋つつき
語らむと、これも待たるる。
待たるるはこれのみならず、
願くは兄弟達よ
手紙呉れ。ハガキでもよし。
函館のたよりなき日は
何となく唯我一人
荒れし野に追放されし
思ひして、心クサクサ、
訳もなく我がかたはらの、
猫の糞癪にぞさわれ。
猫の糞可哀相なり、
鼻下の髯、二分程のびて
物いへば、いつも滅茶苦茶、
今も猶無官の大夫、
実際は可哀相だよ。
札幌は静けき都、
秋の日のいと温かに
虻の声おとづれ来なる
南窓、うつらうつらの
我が心、ふと浮気出し、
筆とりて書きたる文は
見よやこの五七の調よ、
其昔、髯のホメロス
イリヤドを書きし如くに
すらすらと書きこそしたれ。
札幌は静けき都、夢に来よかし。
反歌
白村が第二の愛児笑むらむかはた
泣くらむか聞かまほしくも。
なつかしき我が兄弟よ我がために
文かけ、よしや頭掻かずも。
北の子は独逸語習ふ、いざやいざ
我が正等よ競駒せむ。
うつらうつら時すぎゆきて隣室の
時計二時うつ、いざ出社せむ。
四十年九月二十三日
札幌にて 啄木拝
並木兄 御侍史
無題
一年ばかりの間、いや一と月でも
一週間でも、三日でもいい。
神よ、もしあるなら、ああ、神よ、
私の願ひはこれだけだ。どうか、
身体をどこか少しこはしてくれ痛くても
関はない、どうか病気さしてくれ!
ああ! どうか……
真白な、柔らかな、そして
身体がフウワリと何処までも――
安心の谷の底までも沈んでゆく様な布団の上に、いや
養老院の古畳の上でもいい、
何も考へずに(そのまま死んでも
惜しくはない)ゆっくりと寝てみたい!
手足を誰か来て盗んで行っても
知らずにゐる程ゆっくり寝てみたい!
どうだらう! その気持は! ああ。
想像するだけでも眠くなるやうだ! 今著てゐる
この著物を――重い、重いこの責任の著物を
脱ぎ棄てて了ったら(ああ、うっとりする!)
私のこの身体が水素のやうに
ふうわりと軽くなって、
高い高い大空へ飛んでゆくかも知れない――「雲雀だ」
下ではみんながさう言ふかも知れない! ああ!
――――――――――――――
死だ! 死だ! 私の願ひはこれ
たった一つだ! ああ!
あ、あ、ほんとに殺すのか? 待ってくれ、
ありがたい神様、あ、ちょっと!
ほんの少し、パンを買ふだけだ、五―五―五―銭でもいい!
殺すくらゐのお慈悲があるなら!
新らしき都の基礎
やがて世界の戦は来らん!
不死鳥の如き空中軍艦が空に群れて、
その下にあらゆる都府が毀たれん!
戦は永く続かん! 人々の半ばは骨となるならん!
然る後、あはれ、然る後、我等の
『新らしき都』はいづこに建つべきか?
滅びたる歴史の上にか? 思考と愛の上にか? 否、否。
土の上に。然り、土の上に、何の――夫婦と云ふ
定まりも区別もなき空気の中に
果て知れぬ蒼き、蒼き空の下に!
夏の街の恐怖
焼けつくやうな夏の日の下に
おびえてぎらつく軌条の心。
母親の居睡りの膝から辷り下りて、
肥った三歳ばかりの男の児が
ちょこちょこと電車線路へ歩いて行く。
八百屋の店には萎えた野菜。
病院の窓の窓掛は垂れて動かず。
閉された幼稚園の鉄の門の下には
耳の長い白犬が寝そべり、
すベて、限りもない明るさの中に
どこともなく、芥子の花が死落ち、
生木の棺に裂罅の入る夏の空気のなやましさ。
病身の氷屋の女房が岡持を持ち、
骨折れた蝙蝠傘をさしかけて門を出れば、
横町の下宿から出て進み来る、
夏の恐怖に物言はぬ脚気患者の葬りの列。
それを見て辻の巡査は出かかった欠呻噛みしめ、
白犬は思ふさまのびをして、
塵溜の蔭に行く。
起きるな
西日をうけて熱くなった
埃だらけの窓の硝子よりも
まだ味気ない生命がある。
正体もなく考へに疲れきって、
汗を流し、いびきをかいて昼寝してゐる
まだ若い男の口からは黄色い歯が見え、
硝子越しの夏の日が毛脛を照し、
その上に蚤が這ひあがる。
起きるな、超きるな、日の暮れるまで。
そなたの一生に冷しい静かな夕ぐれの来るまで。
何処かで艶いた女の笑ひ声。
事ありげな春の夕暮
遠い国には戦があり……
海には難破船の上の酒宴……
質屋の店には蒼ざめた女が立ち、
燈火にそむいてはなをかむ。
其処を出て来れば、路次の口に
情夫の背を打つ背低い女――
うす暗がりに財布を出す。
何か事ありげな――
春の夕暮の町を圧する
重く淀んだ空気の不安。
仕事の手につかぬ一日が暮れて、
何に疲れたとも知れぬ疲れがある。
遠い国には沢山の人が死に……
また政庁に推寄せる女壮士のさけび声……
海には信夫翁の疫病……
あ、大工の家では洋燈が落ち、
大工の妻が跳び上る。
騎馬の巡査
絶間なく動いてゐる須田町の人込の中に、
絶間なく目を配って、立ってゐる騎馬の巡査――
見すぼらしい銅像のやうな――。
白痴の小僧は馬の腹をすばしこく潜りぬけ、
荷を積み重ねた赤い自動車が
その鼻先を行く。
数ある往来の人の中には
子供の手を曳いた巡査の妻もあり
実家へ金借りに行った帰り途、
ふと此の馬上の人を見上げて、
おのが夫の勤労を思ふ。
あ、犬が電車に轢かれた――
ぞろぞろと人が集る。
巡査も馬を進める……
はてしなき議論の後(一)
暗き、暗き曠野にも似たる
わが頭脳の中に、
時として、電のほとばしる如く、
革命の思想はひらめけども――
あはれ、あはれ、
かの壮快なる雷鳴は遂に聞え来らず。
我は知る、
その電に照し出さるる
新しき世界の姿を。
其処にては、物みなそのところを得べし。
されど、そは常に一瞬にして消え去るなり、
しかして、この壮快なる雷鳴は遂に聞え来らず。
暗き、暗き曠野にも似たる
わが頭脳の中に
時として、電のほとばしる如く、
革命の思想はひらめけども――
はてしなき議論の後(二)
われらの且つ読み、且つ議論を闘はすこと、
しかしてわれらの眼の輝けること、
五十年前の露西亜の青年に劣らず。
われらは何を為すべきかを議論す。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD !’と叫び出づるものなし。
われらはわれらの求むるものの何なるかを知る、
また、民衆の求むるものの何なるかを知る、
しかして、我等の何を為すべきかを知る。
実に五十年前の露西亜の青年よりも多く知れり。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD !’と叫び出づるものなし。
此処にあつまれる者は皆青年なり、
常に世に新らしきものを作り出だす青年なり。
われらは老人の早く死に、しかしてわれらの遂に勝つべきを知る。
見よ、われらの眼の輝けるを、またその議論の激しきを。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD !’と叫び出づるものなし。
ああ、蝋燭はすでに三度も取りかへられ、
飲料の茶碗には小さき羽虫の死骸浮び、
若き婦人の熱心に変りはなけれど、
その眼には、はてしなき議論の後の疲れあり。
されど、なほ、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD !’と叫び出づるものなし。
ココアのひと匙
われは知る、テロリストの
かなしき心を――
言葉とおこなひとを分ちがたき
ただひとつの心を、
奪はれたる言葉のかはりに
おこなひをもて語らんとする心を、
われとわがからだを敵に擲げつくる心を――
しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有つかなしみなり。
はてしなき議論の後の
冷めたるココアのひと匙を啜りて、
そのうすにがき舌触りに
われは知る、テロリストの
かなしき、かなしき心を。
書斎の午後
われはこの国の女を好まず。
読みさしの舶来の本の
手ざはりあらき紙の上に、
あやまちて零したる葡萄酒の
なかなかに浸みてゆかぬかなしみ。
われはこの国の女を好まず。
激論
われはかの夜の激論を忘るること能はず、
新らしき社会に於ける「権力」の処置に就きて、
はしなくも、同志の一人なる若き経済学者Nと
我との間に惹き起されたる激論を、
かの五時間に亙れる激論を。
「君の言ふ所は徹頭徹尾煽動家の言なり。」
かれは遂にかく言ひ放ちき。
その声はさながら咆ゆるごとくなりき。
若しその間に卓子のなかりせば、
かれの手は恐らくわが頭を撃ちたるならむ。
われはその浅黒き、大いなる顔の
男らしき怒りに漲れるを見たり。
五月の夜はすでに一時なりき。
或る一人の立ちて窓を明けたるとき、
Nとわれとの間なる蝋燭の火は幾度か揺れたり。
病みあがりの、しかして快く熱したるわが頬に、
雨をふくめる夜風の爽かなりしかな。
さてわれは、また、かの夜の、
われらの会合に常にただ一人の婦人なる
Kのしなやかなる手の指環を忘るること能はず。
ほつれ毛をかき上ぐるとき、
また、蝋燭の心を截るとき、
そは幾度かわが眼の前に光りたり。
しかして、そは実にNの贈れる約婚のしるしなりき。
されど、かの夜のわれらの議論に於いては、
かの女は初めよりわが味方なりき。
墓碑銘
われは常にかれを尊敬せりき、
しかして今も猶尊敬す――
かの郊外の墓地の栗の木の下に
かれを葬りて、すでにふた月を経たれど。
実に、われらの会合の席に彼を見ずなりてより、
すでにふた月は過ぎ去りたり。
かれは議論家にてはなかりしかど、
なくてかなはぬ一人なりしが。
或る時、彼の語りけるは、
「同志よ、われの無言をとがむることなかれ。
われは議論すること能はず、
されど、我には何時にても起つことを得る準備あり。」
「彼の眼は常に論者の怯懦を叱責す。」
同志の一人はかくかれを評しき。
然り、われもまた度度しかく感じたりき。
しかして、今や再びその眼より正義の叱責をうくることなし。
かれは労働者――一個の機械職工なりき。
かれは常に熱心に、且つ快活に働き、
暇あれば同志と語り、またよく読書したり。
かれは煙草も酒も用ゐざりき。
かれの真摯にして不屈、且つ思慮深き性格は、
かのジュラの山地のバクウニンが友を忍ばしめたり。
かれは烈しき熱に冒されて、病の床に横はりつつ、
なほよく死にいたるまで譫話を口にせざりき。
「今日は五月一日なり、われらの日なり。」
これ、かれのわれに遺したる最後の言葉なり。
この日の朝、われはかれの病を見舞ひ、
その日の夕、かれは遂に永き眠りに入れり。
ああ、かの広き額と、鉄槌のごとき腕と、
しかして、また、かの生を恐れざりしごとく
死を恐れざりし、常に直視する眼と、
眼つぶれば今も猶わが前にあり。
彼の遺骸は、一個の唯物論者として
かの栗の木の下に葬られたり。
われら同志の撰びたる墓碑銘は左の如し、
「われは何時にても起つことを得る準備あり。」
古びたる鞄をあけて
わが友は、古びたる鞄をあけて、
ほの暗き蝋燭の火影の散らぼへる床に、
いろいろの本を取り出だしたり。
そは皆この国にて禁じられたるものなりき。
やがて、わが友は一葉の写真を探しあてて、
「これなり」とわが手に置くや、
静かにまた窓に凭りて口笛を吹き出したり。
そは美くしとにもあらぬ若き女の写真なりき。
げに、かの場末の
げに、かの場末の縁日の夜の
活動写真の小屋の中に、
青臭きアセチレン瓦斯の漂へる中に、
鋭くも響きわたりし
秋の夜の呼子の笛はかなしかりしかな。
ひょろろろと鳴りて消ゆれば、
あたり忽ち暗くなりて、
薄青きいたづら小僧の映画ぞわが眼にはうつりたる。
やがて、また、ひょろろと鳴れば、
声嗄れし説明者こそ、
西洋の幽霊の如き手つきして、
くどくどと何事を語り出でけれ。
我はただ涙ぐまれき。
されど、そは、三年も前の記憶なり。
はてしなき議論の後の疲れたる心を抱き、
同志の中の誰彼の心弱さを憎みつつ、
ただひとり、雨の夜の町を帰り来れば、
ゆくりなく、かの呼子の笛が思ひ出されたり。
――ひょろろろと、
また、ひょろろろと――
我は、ふと、涙ぐまれぬ。
げに、げに、わが心の餓ゑて空しきこと、
今も猶昔のごとし。
わが友は、今日も
我が友は、今日もまた、
マルクスの「資本論」の
難解になやみつつあるならむ。
わが身のまはりには、
黄色なる小さき花片が、ほろほろと、
何故とはなけれど、
ほろほろと散るごときけはひあり。
もう三十にもなるといふ、
身の丈三尺ばかりなる女の、
赤き扇をかざして踊るを、
見世物にて見たることあり。
あれはいつのことなりけむ。
それはさうと、あの女は――
ただ一度我等の会合に出て
それきり来なくなりし――
あの女は、
今はどうしてゐるらむ。
明るき午後のものとなき静心なさ。
家
今朝も、ふと、目のさめしとき、
わが家と呼ぶべき家の欲しくなりて、
顔洗ふ間もそのことをそこはかとなく思ひしが、
つとめ先より一日の仕事を了へて帰り来て、
夕餉の後の茶を啜り、煙草をのめば、
むらさきの煙の味のなつかしさ、
はかなくもまたそのことのひょっと心に浮び来る――
はかなくもまたかなしくも。
場所は、鉄道に遠からぬ、
心おきなき故郷の村のはづれに選びてむ。
西洋風の木造のさっぱりとしたひと構へ、
高からずとも、さてはまた何の飾りのなしとても、
広き階段とバルコンと明るき書斎……
げにさなり、すわり心地のよき椅子も。
この幾年に幾度も思ひしはこの家のこと、
思ひし毎に少しづつ変へし間取りのさまなどを
心のうちに描きつつ、
ランプの笠の真白きにそれとなく眼をあつむれば、
その家に住むたのしさのまざまざ見ゆる心地して、
泣く児に添乳する妻のひと間の隅のあちら向き、
そを幸ひと口もとにはかなき笑みものぼり来る。
さて、その庭は広くして草の繁るにまかせてむ。
夏ともなれば、夏の雨、おのがじしなる草の葉に
音立てて降るこころよさ。
またその隅にひともとの大樹を植ゑて、
白塗の木の腰掛を根に置かむ――
雨降らぬ日は其処に出て、
かの煙濃く、かをりよき埃及煙草ふかしつつ、
四五日おきに送り来る丸善よりの新刊の
本の頁を切りかけて、
食事の知らせあるまでをうつらうつらと過ごすべく、
また、ことごとにつぶらなる眼を見ひらきて聞きほるる
村の子供を集めては、いろいろの話聞かすべく……
はかなくも、またかなしくも、
いつとしもなく、若き日にわかれ来りて、
月月のくらしのことに疲れゆく、
都市居住者のいそがしき心に一度浮びては、
はかなくも、またかなしくも
なつかしくして、何時までも棄つるに惜しきこの思ひ、
そのかずかずの満たされぬ望みと共に、
はじめより空しきことと知りながら、
なほ、若き日に人知れず恋せしときの眼付して、
妻にも告げず、真白なるランプの笠を見つめつつ、
ひとりひそかに、熱心に、心のうちに思ひつづくる。
飛行機
見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。
給仕づとめの少年が
たまに非番の日曜日、
肺病やみの母親とたった二人の家にゐて、
ひとりせっせとリイダアの独学をする眼の疲れ……
見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。
●表記について
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