五
三月一日は恰度日曜日。快く目をさました時は、空が美しく晴れ渡つて、東向の窓に射す日が、塵に曇つた硝子を薄温かに染めて居た。
日射が上から縮つて、段々下に落ちて行く。颯と室の中が暗くなつたと思ふと、モウ私の窓から日が遁げて、向合つた今井病院の窓が、遽かにキラ/\とする。午後一時の時計がチンと何處かで鳴つて、小松君が遊びに來た。
『昨晩怎でした。面白かつたかえ?』
『隨分な入でした。五百人位入つた樣でしたよ。』
『釧路座に五百人ぢや、棧敷が危險いね。』
『ええ、七時頃には木戸を閉めツちやツたんですが、大分戸外で騷いでましたよ。』
『其だつたかな。最も、釧路ぢや琵琶會が初めてなんださうだからね。』
『それに貴方が又、馬鹿に景氣をつけてお書きなすツたんですからな。』
『其事もないけれども……訝しげなもんだね。一體僕は、慈善琵琶會なんて云ふ「慈善」が大嫌ひなんで、アレは須らく僞善琵琶會と書くべしだと思つてるんだが、それでも君、釧路みたいな田舎へ來てると、怎も退屈で退屈で仕樣がないもんだからね。遂ソノ、何かしら人騷がせがやつて見たくなるんだ。』
『同意ですな。』
『孤兒院設立の資金を集るなんて云ふけれど、實際はアノ金村ツて云ふ琵琶法師も喰せ者に違ひないんだがね。』
『でせうか?』
『でなけや、君……然う/\、君は未だ知らなかつたんだが、昨日彼奴がね、編集局へビールを、一打寄越したんだよ。僕は癪に觸つたから、御好意は有難いが此代金も孤兒院の設立資金に入れて貰ひたいツて返してやつたんだ。』
『然うでしたか、怎も……』
『慈善を餌に利を釣る、巧くやつてるもんだよ。アノ旅館の贅澤加減を見ても解るさ。』
『其事があつた爲ですか、昨晩頻りに、貴方がお出にならないツて、金村の奴心配してましたよ。』
『感付かれたと思つてるだらうさ。』
『然う/\、まだ心配してた人がありましたよ。』
『誰だえ?』
『市ちやんが行つてましてね。』
『誰と?』
『些とは心配ですかな。』
『馬鹿な……ハハハ。』
『小高に花助と三人でしたが、何故お出にならないだらうツて、眞實に心配してましたよ。』
『風向が惡くなつたね。』
『ハッハハ。だが、今夜はお出になるでせう?』
『左樣、行つても好いけどね。』
『但し市ちやんは、今夜來られないさうですが。』
『ぢや止さうか。』
と云つて、二人は聲を合せて笑つた。
『立つてて聞きましたよ。』
と、お芳が菓子皿を持つて入つて來た。
『何を?』
『聞きましたよ、私。』
『お前の知つた人の事で、材料が上つたツて小松君が話した所さ。』
『嘘だよ。』
『高見さんを知つてるだらう?』と小松君が云ふ。
『知って居りますさ、家に居た人だもの。』
『高見ツてのは何か、以前社に居たとか云ふ……?』
『ハ、然うです。』
『高見さんが怎かしたてのかえ?』
『したか、しないか、お前さんが一番詳しく知つてる筈ぢやないか?』
『何云ふだべさ。』
『だつて、高見君が此家に居たのは本當だらう。』
『居ましたよ。』
『そして』
『そしてツて、私何も高見さんとは怎もしませんからさ。』
『ぢや誰と怎かしたんだい?』
『厭だ、私。』
と、足音荒くお芳が出て行く。
『馬鹿な奴だ。』
『天下の逸品ですね、アノ顏は。』
『ハハハ。皆に揶揄れて嬉しがつてるから、可哀相にも可哀相だがね。餓ゑたる女と云ふ奴かナ。』
『成程。ですけど、アノ顏ぢや怎も、マア揶揄つてやる位が一番の同情ですな。』
『それに餘程の氣紛れ者でね。稼ぎ出すと鼻唄をやり乍ら滅法稼いでるが、怠け出したら一日主婦に怒鳴られ通しでも平氣なもんだ。それかと思ふと、夜の九時過に湯へ行つて來て、アノ階段の下の小さな室で、一生懸命お化粧をしてる事なんかあるんだ。正直には正直な樣だがね。』
『そら然うでせう。アノ顏で以て不正直と來た日にや、怎もなりませんからね。』
と云つて、小松君は暫らく語を切つたが、
『さう/\、「毎日」の菊池ですね。』
『。』
『アノ男は怖い樣な顏してるけれど正直ですな。』
『怎して?』
『昨晩矢張琵琶會に來てましたがね。』
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。
- この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示しました。
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