四 社長の大川氏も、理事の須藤氏も、平生「毎日」の如きは眼中に無い樣な事を云つて居て、私が初めて着いた時も、喜見(きけん)とか云ふ、土地で一番の料理屋に伴(つ)れて行かれて、「毎日」が例令(たとへ)甚(どんな)事で此方に戈(ほこ)を向けるにしても、自體(てんで)對手にせぬと云つた樣な態度で、唯君自身の思ふ通りに新聞を拵へて呉れれば可い。「日報」の如く既に確實な基礎を作つた新聞は、何も其日暮しの心配をするには當らぬと云ふ意味の事を懇々と説き聞かされた。高木主筆は少し之と違つて居て、流石は創業の日から七年の間、「日報」と運命を共にして來て、(初めは唯一人で外交も編輯も校正も、時としては發送までやつたものださうだが、)毎日々々土地の生きた事件を取扱つて來た人だけ、其説には充分の根據があつた。主筆は、北海道の都府、殊にも此釧路の發達の急激な事に非常の興味をもつて居て、今でこそ人口も一萬五千に滿たぬけれど、半年程前に此處と函館とを繋いだ北海道鐵道の全通して以來、貨物の集散高、人口の増加率、皆月毎に上つて來て居るし、殊に中央の政界までも騷がして居る大規模の築港計畫も、一兩年中には着手される事であらうし、池田驛から分岐する網走(あばしり)線鐵道の竣工した曉には釧路、十勝、北見三國の呑吐港となり、單に地理的事情から許りでなく、全道に及ぼす經濟的勢力の上でも釧路が「東海岸の小樽」となる日が、決して遠い事で無いと信じて居た。されば、此釧路を何日まで「日報」一つで獨占しようとするのは無理な事で、其爲には、却つて「毎日」の如き無勢力な新聞を、生さず殺さずして置く方が、「日報」の爲に恐るべき敵の崛起(くつき)するのを妨げる最良の手段であると云ふのが此人の對「毎日」觀であつた。 にも不拘(かゝわらず)、此三人の人は、怎したものか、何か事のある毎に、「毎日」の行動に就いて少からず神經過敏な態度を見せて、或時の如きは、須藤氏が主として關係して居る漁業團體に、内訌が起つたとか起りさうだとか云ふ事を、「毎日」子が何かの序に仄めかした時、大川氏と須藤氏が平生(いつ)になく朝早く社にやつて來て、主筆と三人應接室で半時間も密議してから、大川社長が自分で筆を執つて、「毎日」と或關係があると云はれて居る私立銀行の内幕を剔(えぐ)つた記事を書いた。 が、私が追々と土地の事情が解つて來るに隨(つ)れて、此神經過敏の理由も讀めて來た。ト云ふのは、大川氏が土地の人望を一身に背負つて立つた人で、現に町民に推(お)されて、(或は推(お)させて、)道會議員にもなつて居るけれど、町が發達し膨脹すると共に種々な分子が入交(いりこ)んで來て、何といふ理由なしに新しい人を欲する希望が、町民の頭腦に起つて來た。「毎日」の西山社長は、正に此新潮に棹(さをさ)して彼岸に達しようと焦慮(あせ)つて居る人なので、彼自身は、其半生に種々な黒い影を伴つて居る所から、殆ど町民に信じられて居ぬけれど、長い間大川氏と「日報」の爲に少からぬ犧牲を拂はされて來て、何といふ理由なしに新しい人を望む樣になつた一部の勢力家、――それ自身も多少の野心をもたぬでもない人々が、表面には出さぬけれど自然西山を援ける樣になつて來た。私が大分苦心して集めた材料から、念の爲に作つて見た勢力統計によると、前の代議士選擧に八分を占めて居た大川氏の勢力は、近く二三ケ月[#「月」は底本では脱落]後に來るべき改選期に於て、怎(どう)しても六分、――未知數を味方に加算して、六分五厘位迄に墮(お)ちて居た。大川氏は前には其得點全部を期日間際になつて或る政友に譲つたが、今度は自身で立つ積りで居る。最も、殘餘の反對者と云つても、これと云ふ統率者がある譯で無いから、金次第で怎(どう)でもなるのだが。 で、「毎日」は、社それ自身の信用が無く、隨つて社員一個々々に於ても、譬へば料理屋へ行つて勘定を月末まで待たせるにしても、餘程巧みに談判しなければ拒(こば)まれると云つた調子で、紙數も唯八百しか出て居なかつたが、それでも能(よ)く續けて行く。「毎日」が先月紙店の拂ひが出來なかつたので、今日から其日々々に一連宛買ふさうだとか、職工が一日(ついたち)になつても給料を拂はれぬので、活字函(ケース)を轉覆(ひつくりかへ)して家へ歸つたさうだとか云ふ噂が、一度や二度でなく私等の耳に入るけれど、それでも一日として新聞を休んだ事がない。唯八百の讀者では、いくら田舍新聞でも維持して行けるものでないのに、不思議な事には、職工の數だつて敢て「日報」より少い事もなく、記者も五人居た所へ、また一人菊池を入れた。私の方は千二百刷(す)つて居て、外に官衙や銀行會社などの印刷物を一手に引受けてやつて居るので、少し宛積立の出來る月もあると、目の凹んだ謹直家(つゝましや)の事務長が話して居たが。…… 私は、這(こんな)事情が解ると共に、スッカリ紙面の體裁を變へた。「毎日」の遣(や)り方は、喇叭節(ラッパぶし)を懸賞で募集したり、藝妓評判記を募つたり、頻りに俗受の好い様にと焦慮(あせ)つてるので、初め私も其向うを張らうかと持出したのを、主筆初め社長までが不賛成で、出來るだけ清潔な、大人らしい態度で遣れと云ふから、其積りで、記事なども餘程手加減して居たのだが、此頃から急に手を變へて、さうでもない事に迄「報知」式にドン/\二號活字を使つたり、或る酒屋の隱居が下女を孕(はら)ませた事を、雅俗折衷で面白可笑しく三日も連載(つゞき)物にしたり、粹界の材料を毎日絶やさぬ樣にした。詰り、「毎日」が一生懸命心懸けて居ても、筆の立つ人が無かつたり、外交費が無かつたりして、及びかねて居た所を、私が幸ひ獨身者には少し餘る位收入(みいり)があるので、先方の路を乘越(のつこ)して先へ出て見たのだ。最初三面主任と云ふ事であつたのを、主筆が種々と土地の事業に關係して居て忙しいのと、一つには全(まる)七年間同じ事許りやつて來て、厭きが來てる所から、私が毎日總編輯をやつて居たので。 土地が狹いだけに反響が早い。爲(す)る事成す事直ぐ目に附く、私が編輯の方針を改めてから、間もなく「日報」の評判が急によくなつて來た。 恁(か)うなると滑稽(をかしな)もので、さらでだに私は編輯局で一番年が若いのに、人一倍大事がられて居たのを、同僚に對して氣耻かしい位、社長や理事の態度が變つて來る。それ許りではない、須藤氏が何かの用で二日許り札幌に行つた時、私に銀側時計を買つて來て呉れた。其三日目の日曜に、大川氏の夫人(おくさん)が訪ねて來たといふので吃驚(びつくり)して起きると、「宅に穿(は)かせる積りで仕立さしたけれど、少し短いから。」と云つて、新しい仙臺平の袴を態々持つて來て呉れた。 袴と時計に慢心を起した譯ではないが、人の心といふものは奇妙なもので、私は此頃から、少し宛現在の境遇を輕蔑する樣になつた。朝に目を覺まして、床の中で不取敢(とりあへず)新聞を讀む。ト、私が來た頃までは、一面と二面がルビ無しの、時としては艶種が二面の下から三面の冒頭(あたま)へ續いて居る樣な新聞だつたのが、今では全然(すつかり)總ルビ附で、體裁も自分だけでは何處へ出しても耻かしくないと思ふ程だし、殊に三面――田舍の讀者は三面だけ讀む。――となると、二號活字を思切つて使つた、誇張を極めた記事が、賑々しく埋めてある。フフンと云つた樣な氣持になる。若しかして、記事の排列の順序でも違つてると、「永山の奴仕樣がないな、いくら云つても大刷校正の時順序紙を見ない。」などと呟いて見るが、次に「毎日」を取つて見るといふと、モウ自分の方の事は忘れて、又候フフ[#「フフ」は底本では「フア」]ンと云つた氣になる。「毎日」は何日でも私の方より材料が二つも三つも少かつた。取分け私自身の聞出して書く材料が、一つとして先方に載つて居ない。のみならず、三面だけにルビを附けただけで、活字の少い所から假名許り澤山に使つて、「釧路」の釧の字が無いから大抵「くし路」としてあつた。新聞を見て了つて、起きようかナと思ふと、先づ床の中から兩腕を出して、思ひ切つて悠暢(ゆつたり)と身延(のび/\)をする。そして、「今日も亦社に行つてと……ええと、また二號活字を盛んに使うかナ。」と云ふ樣な事を口の中で云つて見て、そして今度は前の場合と少し違つた意味に於て、フフンと云つて、輕く自分を嘲つて見る。「二號活字さへ使へば新聞が活動したものと思つてる、フン、處世の秘訣は二號活字にありかナ。」などと考へる。 這(こんな)氣がし出してから、早いもので、二三日經(た)つと、モウ私は何を見ても何を聞いても、直ぐフフンと鼻先であしらふ樣な氣持になつた。其頃は私も餘程土地慣れがして來て、且つ仕事が仕事だから、種々(いろ/\)の人に接觸して居たし、隨つて一寸普通の人には知れぬ種々(いろ/\)な事が、目に見えたり、耳に入つたりする所から、「要するに釧路は慾の無い人と眞面目な人の居ない所だ。」と云つた樣な心地が、不斷此フフンといふ氣を助長(たす)[#「長」は底本では「氣」]けて居た。 モ一つ、それを助長(たす)けるのは、厭でも應でも毎日顏を見では濟まぬ女中のお芳であつた。私が此下宿へ初めて移つた晩、此女が來て、亭主に別れてから自活して居たのを云々と話した事があつたが、此頃になつて、不圖(ふと)した事から、それが全然根も葉も無い事であると解つた。亭主があつたのでも無ければ、主婦(おかみ)が強(た)つて頼んだのでもなく、矢張普通の女中で、額の狹い、小さい目と小さい鼻を隱(かく)して了ふ程頬骨の突出た、土臼の樣な尻の、先づ珍しい許りの醜女(ぶをんな)の肥滿人(ふとつちよ)であつた。人々に向つて、よく亭主があつた樣な話をするのは、詰り、自分が二十五にもなつて未だ獨身で居るのを、人が、不容貌(ぶきりやう)な爲に拾手(ひろひて)が無かつたのだとでも見るかと思つてるからなので、其(そんな)女だから、何の室へ行つても、例の取て投げる樣な調子で、四邊(あたり)構はず狎戲(ざれ)る、妙な姿態(しな)をする。止宿人(おきやく)の方でも、根が愚鈍な淡白(きさく)者だけに面白がつて盛んに揶揄(からか)ふ。ト、屹度(きつと)私の許へ來て、何番のお客さんが昨晩(ゆうべ)這(こんな)事を云つたとか、那(あんな)事をしたとか、誰さんが私の乳を握つたとか、夏になつたら浴衣を買つてやるから毎晩泊りに來いと云つたとか、それは/\種々(いろ/\)な事を喋(しやべ)り立てる。私はよく氣の毒な女だと思つてたが、それでも此滑稽な顏を見たが最後、腹の蟲が喉(のど)まで出て來て擽る樣で、罪な事とは知り乍ら、種々(いろ/\)な事を云つて揶揄(からか)ふ。然も、怎したものか、生れてから云つた事のない樣な際敏(きはど)い皮肉までが、何の苦もなく、咽喉から矢繼早に出て來る。すると、芳ちゃんは屹度(きつと)怒つた樣な顏をして見せるが、此時は此女の心の中で一番嬉しい時なので、又、其顏の一番滑稽(おどけ)て見える時なのだ。が、私は直ぐ揶揄(からか)ふのが厭になつて了ふので、其度(そのたび)、『モウ行け、行け。何時まで人の邪魔するんだい、馬鹿奴。』と怒鳴りつける。ト、芳ちゃんは小さい目を變な具合にして、『ハイ行きますよ。貴方(あなた)の位(くれゑ)隔てなくして呉れる人ア無(ね)えだもの。』と云つて、大人(おとな)しく出て行く。私は何日か、此女は、アノ大きな足で、「眞面目」といふものの影を消して歩く女だと考へた事があつた。 社に行くと、何日(いつ)でも事務室を通つて二階に上るのだが、餘り口も利かぬ目の凹んだあ事務長までが、私の顏を見ると、『今日は橘さんへ郵便が來て居なんだか。』と受付の者に聞くと云つた調子。編輯局へ入つても、兎角私のフフンと云ふ氣持を唆(そそ)る樣な話が出る。 其(そんな)話を出さぬのは、主筆だけであつた。主筆は、體格の立派な、口髭の嚴(いかめ)しい、何處へ出しても敗(ひけ)をとらぬ風采の、四十年輩の男で、年より早く前頭の見事に禿げ上つてるのは、女の話にかけると甘くなる性(たち)な事を語つて居た。が、平生は至つて口少なな、常に鷹揚に構へて、部下の者の缺點は隨分手酷くやッつけるけれども、滅多に煽動(おだて)る事のない人であつた。で、私に對しても、極く淡白(きさく)に見せて居たが、何も云はねば云はぬにつけて、私は又此人の頭腦(あたま)がモウ餘程乾涸(ひからび)て居て、漢文句調の幼稚な文章しか書けぬ事を知つて居るので、それとなく腹の中でフフンと云つて居る。 一體此編輯局には、他の新聞には餘り類のない一種の秩序――官衙風な秩序があつた。それは無論何處の社でも、校正係が主筆を捉へて「オイ君」などと云ふ事は無いものだけれど、それでも普通の社會と違つて、何といふ事なしに自由がある。所が、此編輯局には、主筆が社の柱石であつて動かすべからざる權力を持つて居るのと、其鷹揚な官吏的な態度とが、自然さう云ふ具合にしたものか、怎(どう)かは知らぬが、主筆なら未(ま)だしも、私までが「君」と云はずに「貴方(あなた)」と云はれる。言話のみでなく、凡ての事が然(さ)う云つた調子で、隨つて何日でも議論一つ出る事なく、平和で、無事で、波風の立つ日が無いと共に、部下の者に抑壓はあるけれど、自由の空氣が些(ちつ)とも吹かぬ。 私は無論誰からも抑壓を享けるでもなく、却つて上の人から大事がられて、お愛嬌を云はれて居るので、隨分我儘に許り振舞つて居たが、フフンと云ふ氣持になつて、自分の境遇を輕蔑して見る樣になつて間もなくの事――其(そんな)氣がし乍らも職務(しごと)には眞面目なもので、毎日十一時頃に出て四時過ぎまでに、大抵は三百行位も書きこなすのだから、手を休める暇と云つては殆ど無いのだが、――時として、筆の穂先を前齒で輕く噛みながら、何といふ事なしに苦蟲(にがむし)を噛みつぶした樣な顏をして居る事があつた。其(そんな)時は、恰度(ちやうど)、空を行く雲が、明るい頭腦(あたま)の中へサッと暗い影を落した樣で、目の前の人の顏も、原稿紙も、何となしに煤(くす)んで、曇つて見える。ハッと氣が附いて、怎して這(こんな)氣持がしたらうと怪んで見る。それが日一日と數が多くなつて行く、時間も長く續く樣になつて行く。 或日、須藤氏が編輯局に來て居て、『橘君は今日二日醉ぢやないか。』と云つた。恰度(ちやうど)私が呆然(ぼんやり)と例の氣持になつて、向側の壁に貼りつけた北海道地圖を眺めて居た時なので、ハッとして、『否(いいえ)』と云つた儘、テレ隱しに愛想笑ひをすると、『さうかえ、何だか氣持の惡さうな顏をして居るから、僕は又、何か市子に怨言(うらみ)でも言はれたのを思出してるかと思つた。』と云つて笑つたが、『君が然(さ)うして一生懸命働いてくれるのは可(い)いが。、其爲に神經衰弱でも起さん樣にして呉れ給へ。一體餘り丈夫でない身體(からだ)な樣だから。』 私は直ぐ腹の中でフフンと云ふ氣になつたが、可成(なるべく)平生(ふだん)の快活を裝(よそ)うて、『大丈夫ですよ。僕は藥を飮むのが大嫌ひですから、滅多に病氣なんかする氣になりません。』『そんなら可(い)いが、』と句を切つて、『最も、君が病氣したら、看護婦の代りに市子を頼んで上(あげ)る積りだがね、ハハハ。』『そら結構です、何なら、チョイ/\病氣する事にしても可(い)いですよ。』 其日は一日、可成(なるべく)くすんだ顏を人に見せまいと思つて、頻りに心にもない戲談を云つたが、其(そんな)事をすればする程、頭腦(あたま)が暗くなつて來て、筆が溢る、無暗矢鱈に二號活字を使ふ。文選小僧は「明日の新聞も景気が可(え)えぞ。」と工場で叫んで居た。 何故暗い陰影(かげ)に襲はれるか? 訝(いぶか)しいとは思ひ乍ら、私は別に深く其理由を考へても見なかつた。が、詰り私は、身體は一時間も暇が無い程忙がしいが、爲る事成す事思ふ壺に篏(はま)つて、鏡の樣に凪(な)いだ海を十日も二十日も航海する樣なので、何日しか精神(こころ)が此無聊に倦(う)んで來たのだ。西風がドウと吹いて、千里の夏草が皆靡(なび)く、抗(さから)ふ樹もなければ、遮(さへぎ)る山もない、と、風は野の涯に來て自ら死ぬ。自ら死ぬ風の心を、若い人は又、春の眞晝に一人居て、五尺の軒から底無しの花曇りの空を仰いだ時、目に湧いて來る寂しみの雲に讀む。戀ある人は戀を思ひ、友ある人は友を懷ひ、春の愁と云はるる「無聊の壓迫」を享けて、何處かしら遁路を求めむとする。太平の世の春愁は、肩で風切る武士の腰の物に、態(わざ)と觸(さわ)つて見る市井の無頼兒である。世が日毎に月毎に進んで、汽車、汽船、電車、自動車、地球の周圍を縮める事許り考へ出すと、徒歩で世界を一週すると言ひ出す奴が屹度出る。――詰り、私の精神も、徒歩旅行が企てたくなつたのだ、喧嘩の對手が欲しくなつたのだ。 一月の下旬に來て、唯一月經(た)つか經(た)たぬに這(こんな)氣を起すとは、少し氣早(きばや)い――不自然な樣に思ふかも知れぬが、それは私の性行を知らぬからなので……私は、北海道へ來てから許りも、唯九ケ月の間に、函館、小樽、札幌で四つの新聞に居て來た。何(ど)の社でも今の樣に破格の優遇はして呉れなかつたが、其代り私は一日として心の無聊を感じた事が無い。何か知ら企(くわだ)てる、でなければ、人の企てに加はる。其企てが又、今の樣に何の障害(さわり)なしに行はれる事が無いので、私の若い精神は絶間(たえま)もなく勇んで、朝から晩まで戰場に居る心地がして居た。戰ひに慣れた心が、何一つ波風の無い編輯局に來て、徐々(そろ/\)睡氣がさす程「無聊の壓迫」を感じ出したのだ。 這(こんな)理由とも氣が附かず、唯モウ暗い陰影(かげ)に襲はれると、自暴(やけ)に誇大な語を使つて書く、筆が一寸躓くと、くすんだ顏を上げて周圍を見る。周邊は何時でも平和だ、何事も無い。すると、私は穗先を噛んでアラヌ方を眺める。 主筆は鷹揚に淡白(あつさり)と構へて居る。八戸君は毎日役所りをして來て、一生懸命になつて五六十行位雜報を書く。優しい髭を蓄へた、色白の、女に可愛がられる顏立で、以前は何處かの中學の教師をした人なさうだが、至極親切な君子人で、得意な代數幾何物理の割に筆は立たぬけれど、遊郭種となると、打つて變つて輕妙な警句に富んだものを書く、私の心に陰影(かげ)のさした時、よく飛沫(とばちり)の叱言(こごと)を食ふのは、編輯助手の永山であつた。永山はモウ三十を越した、何日でも髮をペタリとチックで撫でつけて居て、目が顏の兩端にある、頬骨の出た、ノッペリとした男で、醉つた時踊の眞似をする外に、何も能が無い、奇妙に生れついた男もあればあるもので、此男が眞面目になればなる程、其擧動が吹き出さずに居られぬ程滑稽に見えて、何か戲談でも云ふと些(ちつ)とも可笑しくない。午前は商況の材料取に店りをして、一時に警察へ行く。歸つてから校正刷の出初めるまでは、何も用が無いので、東京電報を譯さして見る事などもあるが、全然頭に働きが無い、唯五六通の電報に三十分も費して、それで間違ひだらけな譯をする。 少し毛色の變つてるのは、小松君であつた。二十七八の、髭が無いから年よりはズット若く見えるが、大きい聲一つ出さぬ樣な男で居て、馬鹿に話好(はなしづ)きの、何日(いつ)でも輕い不安に襲はれて居る樣に、顏の肉を痙攣(ひきつ)けらせて居た。 此小松君は又、暇さへあれば町を歩くのか好きだといふ事で、市井の細かい出來事まで、殆んど殘りなく聞込んで來る。私が、彼の「毎日」の菊池君に就いて、種々(いろ/\)の噂を聞いたのも、大抵此小松君からであつた。 其話では、――菊池君は贅澤にも棧橋前の「丸山」と云ふ旅館に泊つて居て、毎日草鞋(わらぢ)を穿(は)いて外交につて居る。そして、何處へ行つても、『私は「毎日新聞」の探訪で、菊池兼治と云ふ者であります。』と挨拶するさうで、初めて警察へ行つた時は、案内もなしにヅカ/\事務室へ入つたので、深野と云ふ主任警部が、テッキリ無頼漢か何か面倒な事を云ひに來たと見たから、『貴樣は誰の許可(ゆるし)を得て入つたか?』と突然怒鳴りつけたと云ふ事であつた。菊池君は又、時々職工と一緒になつて酒を飮む事があるさうで、「丸山」の番頭の話では、時として歸つて來ない晩もあると云ふ。其(そんな)時は怎も米町(よねまち)(遊廓)へ行くらしいので、現に或時(いつか)の晩の如きは職工二人許りと連立つて行つた形跡があると云ふ事であつた。そして又、小松君は、聨隊區司令部には三日置位にしか材料が無いのに、菊池君が毎日アノ山の上まで行くと云つて、笑つて居た。 四時か四時半になると、私は算盤を取つた、順序紙につけてある行數を計算して、『原稿出切(できり)。』と呼ぶ。ト、八戸君も小松君も、卓子(テーブル)から離れて各々(めい/\)自分の椅子を引ずつて煖爐(ストーブ)の周邊(あたり)に集る。此時は流石に私も肩の荷を下した樣で、ホッと息をして莨に火を移すが、輕い空腹と何と云ふ事の無い不滿足の情が起つて來るので大抵一本の莨を吸ひきらぬ中に歸準備(かへりじたく)をする。 宿に歸ると、否でも應でもお芳の滑稽(おどけ)た顏を見ねばならぬ。ト、其何時見ても絶えた事のない卑しい淺間しい飢渇の表情が、直ぐ私に『オイ、家の別嬪さんは今日誰々に秋波(いろめ)を使つた?』と云ふ樣の事を云はせる。『マア酷いよ、此人は。私の顏見れば、そんな事許り云つてさ。』と、お芳は忽ちにして甘えた姿態(しな)をする。『飯(めし)持つて來い、飯。』『貴方、今夜も出懸けるのかえ。』『大きに御世話樣。』『だつて主婦(おかみ)さんが貴方(あなた)の事心配してるよ。好(え)え人だども、今から酒など飮んで、怎するだべて。』『お嫁に來て呉れる人が無くなるッテ譯か?』『マアさ。』『ぢやね、芳ちやんの樣な人で、モ些(ちつ)と許りお尻の小さいのを嫁に貰つて呉れたら、一生酒を禁(や)めるからツてお主婦(かみ)さんにそ云つて見て呉れ。』『知らない、私。』と立つて行く。 夕飯が濟む。ト、一日手を離さぬので筆が仇敵(かたき)の樣になつてるから、手紙一本書く氣もしなければ、書(ほん)など見ようとも思はぬ。凝然(ぢつ)として[#「て」は底本では「く」]洋燈(ランプ)の火を見つめて居ると、斷々(きれ/″\)な事が雜然(ごつちや)になつて心を掠める。何時(いつ)しか暗い陰影(かげ)が頭腦(あたま)に擴(はびこ)つて來る。私は、恁(か)うして何處へといふ確かな目的(あて)もなく、外套を引被(ひつか)けて外へ飛び出して了ふ。 這(こんな)氣持がする樣になつてから、私は何故といふ理由もなしに「毎日」の日下部君と親しく往來する樣になつた。ト共に、初め材料を聞出す積りでチョイ/\飮みに行つたのが、此頃では其(そんな)考へも無しに、唯モウ行かねば氣が落付かぬ樣で、毎晩の樣に華やかな絃歌の巷に足を運んだ。或時は小松君を伴れて、或時は日下部君と相携へて。 星明りのする雪路を、身も心もフラ/\として歸つて來るのは、大抵十二時過であるが、私は、「毎日」社の小路の入口を通る度に、「僕の方の編輯局は全然梁山伯だよ。」と云つた日下部君の言葉を思出す。月例會に逢つた限(きり)の菊池君が何故か目に浮ぶ。そして、何だか一度其編集局へ行つて見たい樣な氣がした。
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] 下一页 尾页
我等の一団と彼(われらのいちだんとかれ)弓町より(ゆみまちより)二筋の血(ふたすじのち)天鵞絨(びろうど)漂泊(ひょうはく)病院の窓(びょういんのまど)初めて見たる小樽(はじめてみたるおたる)葉書(はがき)