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菊池君(きくちくん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-21 16:00:13  点击:  切换到繁體中文

底本: 石川啄木作品集 第二巻
出版社: 昭和出版社
初版発行日: 1970(昭和45)年11月20日
入力に使用: 1970(昭和45)年11月20日発行
校正に使用: 1972(昭和47)年6月20日発行

 

      一

 私が釧路の新聞へ行つたのは、恰度ちやうど一月下旬の事、寒さの一番きびしい時で、華氏寒暖計が毎朝零下二十度から三十度までの間を昇降して居た。停車場から宿屋まで、僅か一町足らずの間に、夜風の冷に※(「丿+臣+頁」、第4水準2-92-28)を埋めた首卷が、呼氣いき濕氣しめりけで眞白に凍つた。翌朝目を覺ました時は、雨戸の隙を潜ってうそ寒く障子を染めた曉の光の中に、石油だけは流石に凍らぬと見えて、しんを細めて置いた吊洋燈つるしランプ昨夜よべの儘にうつすりとともつて居たが、茶を注いで飮まずに置いた茶碗が二つに割れて、中高に盛り上つた黄色の氷が傍に轉げ出して居た。火鉢に火が入つて、少しは室の暖まるまでと、身體をちゞめて床の中で待つて居たが、寒國の人は總じて朝寢をする、漸々やう/\女中の入つて來たのは、ものの一時間半もつてからで、起きて顏を洗ひに行かうと、何氣なしに取上げた銀鍍金めつきの石鹸函は指に氷着くつつく、廊下の舖板しきいたが足を移す毎にキシ/\と鳴く、熱過ぎる程の湯は、顏を洗つて了ふまでに夏の川水位に冷えた。
 雪は五寸許りしか無かつたが、晴天續きの、塵一片浮ばぬ透明の空から、色なき風がヒユウと吹いて、吸ふ息毎に鼻の穴が塞る。冷たい日光ひざしが雪に照返つて、家々の窓硝子を、寒さにおびえた樣にギラつかせて居た。大地は底深く凍つて了つて、歩くと鋼鐵の板を踏む樣な、下駄の音が、頭まで響く。街路は鏡の如くなめらかで、少し油斷をすると右に左に辷る、大事をとつて、足に力を入れると一層辷る。男も、女も、路行く人は皆、身分不相應に見える程、厚い立派な防寒外套を着けて、輕々と刻み足に急いで居た。荷馬橇の馬は、狹霧さぎりの樣な呼氣いきかぶつて氷の玉を聨ねたたてがみを、寒い光に波打たせながら、風に鳴る鞭を喰つて勢ひよく駈けて居た。
 二三日して私は、洲崎町の或下宿へ移つた。去年の春までは、土地で少しは幅を利かしたさる醫師の住つて居た家とかで、室も左程に惡くは無し、年に似合はず血色のよい、布袋の樣に肥滿ふとつた、モウ五十近い氣丈の主婦おかみも、外見みかけによらぬ親切者、女中は小さいのを合せて三人居た。私が移った晩の事、身體の馬鹿に大きい、二十四五の、主婦おかみにも劣らず肥滿ふとつた小さい眼と小さい鼻を掩ひ隱す程頬骨が突出て居て、額の極めて狹い、氣の毒を通越して滑稽に見える程不恰好な女中が來て、一時間許りも不問語とはずがたりをした。夫に死なれてから、一人世帶を持つて居て、釧路は裁縫料したてちんの高い所であれば、毎月若干宛いくらかづゝの貯蓄もして居たのを、此家の主婦おかみが人手が足らぬといふので、たつての頼みを拒み難く、手傳に來てからモウ彼是半年になると云つた樣な話で、「普通たゞの女中ぢやない。」といふ事を、私に呑込ませようとしたらしい。後で解つたが、名はお芳と云つて、稼ぐ時は馬鹿に稼ぐ、なまける時は幾何いくら主婦おかみに怒鳴られても平氣で怠ける、といふ、隨分氣紛きまぐれ者であつた。
 取分けて此下宿の、私に氣に入つたのは、社に近い事であつた。相應の賑ひを見せて居る眞砂町の大逵おほどほりとは、恰度ちやうど背中合せになつた埋立地の、兩側空地あきちの多い街路を僅か一町半許りで社に行かれる。
 社は、支廳坂から眞砂町を突切つて、海岸へ出る街路の、トある四角よつかどに立つて居て、小さいながらも、ツイ此頃落成式を擧げた許りの、新築の煉瓦造、(これが此社に長く居る人達の北海道に類が無いと云ふ唯一つの誇りであつた。)澄み切つた冬の空に、燃える樣な新しい煉瓦の色の、廓然くつきりと正しい輪廓を描いてるのは、何樣なにさま木造の多い此町では、多少の威嚴をたもつて見えた。主筆から見せられた、落成式の報告見たいなものの中に、「天地一白の間に紅梅一朶の美觀を現出したるものは即ち我が新築の社屋なり。」と云ふ句があつて、私が思はず微笑したのを、今でも記憶おぼえて居る。玄關から上ると、右と左が事務室に宿直室、奧が印刷工場で、事務室の中の階段を登れば、二階は應接室と編輯局の二室ふたま
 編輯局には、室の廣さに釣合のとれぬ程大きい煖爐ストーブがあつて、私は毎日此煖爐ストーブの勢ひよく燃える音を聞き乍ら、筆を動かしたり、鋏と糊を使ふ。外勤の記者が、唇を紫にして顫へ乍ら歸つて來ると、腰を掛ける前に先づ五本も六本も薪を入れるので、一日に二度か三度は、必ず煖爐ストーブが赤くなつて、私共の額には汗が滲み出した。が、夕方になつて宿に歸ると、何一つ室を賑かにして見せる裝飾が無いので、割合に廣く見える。二階の八疊間に、火鉢が唯一個、幾何いくら炭をつぎ足して、青い焔の舌を斷間しきりなく吐く程火をおこしても、寒さが背から覆被おつかぶさる樣で、襟元は絶えず水の樣な手で撫でられる樣な氣がした。字を五つ六つ書くと、筆の尖がモウ堅くなる。インキ瓶を火鉢に縁に、載せて、瓶の口から水蒸氣ゆげが立つ位にして置いても、ペンにふくんだインキが半分もなくならぬうちに凍つて了ふ、葉書一枚書くにも、それは/\億劫なものであつた。初めての土地で、友人と云つては一人も無し、う寒くてはほんを讀む氣も出ぬもので、私は毎晩、唯モウ手の甲をひつくり返しおつくり返し火にあぶつて、火鉢に抱付く樣にして過した。一週間許りつて、私は漸々やう/\少し寒さに慣れて來た。
 二月の十日頃から、どうやら寒さが少しづつゆるみ出した。寒さが緩み出すと共に、何處から來たか知らぬが、港内には流氷が一杯集つて來て、時々雪が降つた。私が來てから初めての記者月例會が開かれたのも、恰度一尺程もの雪の積つた、或る土曜日の夕であつた。

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