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足跡(あしあと)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-21 15:51:07  点击:  切换到繁體中文


『出來ません、其※(「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2-94-57)事は。』
『それだハンテ困る。』
『御好意は十分有難く思ひますけれど、爲方がありません、出して了つた後ですから。』
 秋野も校長も孝子も、鳴を潜めて二人の話を聞いてゐた。
『出したと言つたところです、それが未だ學校の中にあるのだば、謂はば未だ内輪だけの事でアねえすか?』
『東川さん、折角の御勸告は感謝しますけれど、貴方は私の氣性を御存知の筈です。私は一旦出して了つたのは、奈何あつても、譬へそれが自分に不利益であつても取り戻すことは厭です。内輪だらうが外輪だらうが、私は其※(「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2-94-57)事は考へません。』
 然う言つた健の顏は、もう例の平然けろりとしたさまに歸つたゐて、此上いくら言つたとて動きさうにない。言ひ出しては後へ退かぬ健の氣性は、東川もよく知つてゐた。
 東川は突然椅子を捻ぢ向けた。
『安藤先生。』
 その聲は、今にも喰つて掛るかと許り烈しかつた。おどすナ、と健は思つた。
『は?』と言つて、安藤は目の遣り場に困る程周章まごついた。
『先生ア眞箇ほんとうに千早先生の辭表を受け取つたすか?』
『は。……いや、それでごあんすでば。今も申上げようかと思ひあんしたども、お話中に容喙くちだしするのも惡いと思つて、默つてあんしたが、先刻その、號鐘かねが鳴つて今始業式が始まるといふ時、お出しになりあんしてなす。ハ、これでごあんす。』と、硯箱の下から其解職願を出して、『何れ後刻あとで緩くりお話しようと思つてあんしたつたども、今迄その暇がなくて一寸此處にお預りして置いた譯でごあんす。何しろ思ひ懸けないことでごあんしてなす。ハ。』
『その書式を教へたのは誰だ?』と健は心の中で嘲笑あざわらつた。
『然うすか、解職願お出しエんしたのすか? 俺ア少しも知らなごあんしたオなす。』と、秋野は初めて知つたと言ふ風に言つた。『千早先生も又、※(「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2-94-57)どんな御事情だかも知れねえども、今急にお罷めアねえくともうごあんべアすか?』
『安藤先生、』と東川は呼んだ。『そせば先生も、その辭表を一旦お戻しやる積りだつたのだなす?』
『ハ。然うでごあんす。何れ後刻あとでお話しようと思つて、受け取つた譯でアごあせん、一寸お預りして置いただけでごあんす。』
『お戻しやれ、そだら。』と、東川は命令する樣な調子で言つた。『お戻しやれ、お聞きやつた樣な譯で今それを出されでア困りあんすでば。』
『ハ、奈何せ私も然う思つてだのでごあんすアハンテ、お戻しすあんす。』と、顏を曇らして言つて、頬を凹ませてヂウ/\する煙管を強く吸つた。戻すも具合惡く、戻さぬも具合惡いといつた態度やうすである。
 健は横を向いて、煙管の煙をフウと長く吹いた。
『お戻しやれ、俺ア學務委員の一人として勸告しあんす。』
 安藤は思ひ切り惡く椅子を離れて、健の前に立つた。
『千早さん、先刻さつきは急しい時で……』と諄々くど/\辯疏いひわけを言つて、『今お聞き申して居れば、役場の方にも種々いろ/\御事情がある樣でごあんすゝ、一寸お預りしただけでごあんすから、兎に角これはお返し致しあんす。』
 然う言つて、解職願を健の前に出した。その手は顫へてゐた。
 健は待つてましたと言はぬ許りに急にむづかしい顏をして、霎時しばし、昵と校長の揉手をしてゐるその手を見てゐた。そして言つた。
『それでは、直接郡役所へ送つてやつてもうございますか?』
『これはしたり!』
『先生。』『先生。』と、秋野と東川が同時に言つた。そして東川は續けた。
『然うは言ふもんでアない。今日は俺の顏を立てゝ呉れても可いでアねえすか?』
『ですけれど……それア安藤先生の方で、お考へ次第進達するのを延さうと延すまいと、それは私には奈何も出來ない事ですけれど、私の方では前々から決めてゐた事でもあり、且つ、何が何でも一旦出したのは、取るのは厭ですよ。それも私一人の爲めに村教育が奈何の恁うのと言ふのではなし、却つてお邪魔をしてゐる樣な譯ですからね。』と言つて、些と校長に横眼をれた。
『マ、マ、然うは言ふもんでアえでばサ。前々から決めておいた事は決めて置いた事として、茲はまア村の頼みを肯いて呉れても可いでアねえすか? それも唯、一週間か其處いら待つて貰ふだけの話だもの。』
『兎に角お返ししあんす。』と言つて、安藤は手持無沙汰に自分の卓に歸つた。
『安藤先生。』と、東川は又喰つて掛る樣に呼んだ。『先生もまた、も少し何とか言ひ方が有りさうなもんでアねえすか? 今の樣でア、宛然まるで俺に言はれた許りで返す樣でアねえすか? 先生には、千早先生が何れだけこの學校に要のある人だか解らねえすか?』
『ハ?』と、安藤は目を怖々おづ/\さして東川を見た。意氣地なしの、能力の無い其顏には、あり/\と當惑の色が現れてゐる。
 と、健は、然うしてつた揉んだと果てしなく諍つてるのが――校長の困り切つてるのが、何だか面白くなつて來た。そして、つと立つて、解職願を又校長の卓に持つて行つた。
『兎に角之は貴方に差上げて置きます。奈何なさらうと、それは貴方の御權限ですが……』と言ひながら、傍から留めた秋野の言葉は聞かぬ振をして、自分の席に歸つて來た。
『困りあんしたなア。』と、校長は兩手で頭を押へた。
 眇目めつかちの東川も、意地惡い興味を覺えた樣な顏をして、默つてそれを眺めた。秋野は煙管の雁首を見ながら煙草を喫んでゐる。
 と、今迄何も言はずに、四人の顏を見廻してゐた孝子は、思ひ切つた樣に立ち上つた。
『出過ぎた樣でございますけれども……あの、それは私がお預り致しませう。……千早先生も一旦お出しになつたのですから、お厭でせうし、それでは安藤先生もお困りでせうし、役場には又、御事情がお有りなのですから……』
 と、心持息をはずませて、呆氣にとられてゐる四人の顏を急しく見廻した。そしてむつちりと肥つた手で靜かにその解職願を校長の卓から取り上げた。
『お預りしても宜しうございませうか? 出過ぎた樣でございますけれど。』
『は? は。それア何でごあんす……』と言つて、安藤はそつと秋野の顏色を覗つた。秋野は默つて煙管を咬へてゐる。
 月給から言へば、秋野は孝子の上である。然し資格から言へば、同じ正教員でも一人は檢定試驗上りで、一人は女ながらも師範出だから、孝子は校長の次席なのだ。
 秋野が預るとすると、男だから、且つは土地者ところものだけに種々な關係があつて、屹度何かの反響が起る。孝子はそれも考へたのだ。そして、
『私の樣な無能者やくにたゝずがお預りしてゐると、一番安全でございます。ホホヽヽ。』と、取つてつけた樣に笑ひながら、校長の返事も待たず、その八つ折りの紙を袴の間に挾んで、自分の席に復した。その顏はぽうツと赧らんでゐた。
 常にない其行動しうちを、健は目を圓くして眺めた。
『成程。』と、その時東川は膝を叩いた。『並木先生はえらい。出來でかした、出來した、なアる程それが一番だ。』と言ひながら健の方を向いて、
『千早先生も、それなら可がべす?』
『並木先生。』と健は呼んだ。
『マ、マ。』と東川は手を擧げてそれを制した。『マ、これで可いでば。これで俺の役目も濟んだといふもんだ。ハハヽヽ。』
 そして、急に調子を變へて、
『時に、安藤先生。今日の新入學者は何人位ごあんすか?』
『ハ!……えゝと……えゝと、』と、校長は周章まごついて了つて、無理に思ひ出すといふ樣に眉をあつめた。
『四十八名でごあんす。然うでごあんしたなす。並木さん?』
『ハ。』
『四十八名すか? それで例年に比べて多い方すか、少ない方すか?』
 話題は變つて了つた。
『秋野先生。』と言ひながら、胡麻鹽頭の、少し腰の曲つた小使が入つて來た。
『お家からむけえが來たアす。』
『然うか。何用だべな。』と、秋野は小使と一緒に出て行つた。
 腕組をして昵と考へ込んでゐた健は、その時つと上つた。
『お先に失禮します。』
『然うすか?』と、人々はその顏――屹と口を結んだ、額の廣い、その顏を見上げた。
『左樣なら。』
 健は玄關を出た。處々乾きかゝつてゐる赤土の運動場には、今年初めての黄ろい蝶々が二つ、フハ/\と縺れて低く舞つてゐる。隅の方には、柵を潜つて來た四五羽の※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)が、コッ/\と遊んでゐた。
 太い丸太の尖を圓めて二本植ゑた、校門の邊へ來ると、何れ女生徒の遺失おとしたものであらう、小さい赤櫛が一つ泥の中に落ちてゐた。健はそれを足駄の齒で動かしでみた。櫛は二つに折れてゐた。
 健が一箇年だけで罷めるといふのは、渠が最初、知合ひの郡視學に會つて、昔自分の學んだ郷里の學校に出てみたい、と申込んだ時から、その一箇年の在職中も、常々言つてゐた事で、又、渠自身は勿論、渠を知つてゐるだけの人は、誰一人、健を片田舍の小學教師などで埋もれて了ふ男とは思つてゐなかつた。小さい時分から霸氣の壯んな、才氣の溢れた、一時は東京に出て、まだ二十にも足らぬ齡で著書の一つも出した渠――その頃數少なき年少詩人の一人に、千早林鳥の名のあつた事は、今でも記憶してゐる人も有らう。――が、侘しい百姓村の單調な其日々々を、朝から晩まで、熱心に又樂しさうに、育ち卑しき涕垂はなたらしの兒女こども等を對手に送つてゐるのは、何も知らぬ村の老女達としよりたちの目にさへ、不思議にも詰らなくも見えてゐた。
 何れ何事かやり出すだらう! それは、その一箇年の間の、四圍の人の渠に對する思惑おもわくであつた。
 加之、年老としとつた兩親と、若い妻と、妹と、生れた許りの女兒と、それに渠を合せて六人の家族は、いかに生活費のかゝらぬ片田舍とは言へ、又、儉約家の母親がいかにしまつてみても、唯八圓の月給では到底喰つて行けなかつた。女三人の手で裁縫物など引き受けて遣つてもゐたが、それとても狹い村だから、月に一圓五十錢の收入は覺束ない。
 そして、もう六十に手の達いた父の乘雲は、家の慘状みじめさを見るに見かねて、それかと言つて何一つ家計の補助たしになる樣な事も出來ず、若い時は雲水もして歩いた僧侶上りの、思ひ切りよく飄然と家出をして了つて、この頃漸く居處が確まつた樣な状態であつた。
 健でないにしたところが、必ず、何かもつと收入の多い職業を見附けねばならなかつたのだ。
『健や、四月になつたら學校は罷めて、何處さか行ぐべアがな?』と、渠の母親――背中の方が頭より高い程腰の曲つた、極く小柄な渠の母親は、時々心配相に恁う言つた。
『あゝ、行くさ。』と、其度渠は※(「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2-94-57)こんな返事をしてゐた。
『何處さ?』
『東京。』
 東京へ行く! 行つて奈何する? 渠は以前の經驗で、多少は其名を成してゐても、詩では到底生活されぬ事を知つてゐた。且つは又、此頃の健には些とも作詩の興がなかつた。
 小説を書かう、といふ希望は、大分長い間健の胸にあつた。初めて書いてみたのは、去年の夏、もう暑中休暇に間のない頃であつた。『面影』といふのがそれで、晝は學校に出ながら、四日續け樣に徹夜して百四十何枚を書き了へると、渠はそれを東京の知人に送つた。十二三日經つて、原稿はその儘歸つて來た。また別の人に送つて、また歸つて來た。三度目に送る時は、四錢の送料はあつたけれども、添へてやる手紙の郵税が無かつた。健は、何十通の古手紙を出してみて、漸々一枚、消印の逸れてゐる郵劵を見つけ出した。そしてそれを貼つて送つた。或る雨の降る日であつた。妻の敏子は、到頭金にならなかつた原稿の、包紙の雨に濡れたのを持つて、渠の居間にしてゐるむさくるしい二階に上つて來た。
『また歸つて來たのか? アハヽヽヽ。』と渠は笑つた。そして、その儘本箱の中に投げ込んで、二度と出して見ようともしなかつた。
 何時の間にか、渠は自信といふものを失つてゐた。然しそれは、渠自身も、周圍の人も氣が附かなかつた。
 そして、前夜、短い手紙でも書く樣に、何氣なくスラスラと解職願を書きながらも、學校を罷めて奈何するといふ決心はなかつたのだ。
 健はいつもの樣に亭乎すらりとした體を少し反身そりみに、確乎しつかりした歩調で歩いて、行き合ふ兒女こども等の會釋に微笑みながらも、始終思慮深い目附をして、
『罷めても食へぬし、罷めなくても食へぬ……』と、その事許り思つてゐた。 
 家へ入ると、通し庭の壁際に据ゑた小形の竈の前に小くしやがんで、干菜でも煮るらしく、鍋の下を焚いてゐた母親が、『けえつたか。おなかつたべアな?』と、強ひて作つた樣な笑顏を見せた。今が今まで我家の將來でも考へて、胸が塞つてゐたのであらう。
 縞目も見えぬ洗ひ晒しの双子の筒袖の、袖口の擦り切れたのを着てゐて、白髮交りの頭に冠つた淺黄の手拭の上には、白く灰がかゝつてゐた。
『然うでもない。』と言つて、渠は足駄を脱いだ。上框あがりがまちには妻の敏子が、垢着いた木綿物の上に女兒を負つて、頭にかゝるほつれ毛を氣にしながら、ランプの火屋ほやを研いてゐた。
『今夜は客があるぞ、屹度。』
『誰方?』
 それには答へないで、
『あゝ、今日は急しかつた。』と言ひながら、健は勢ひよくドン/\梯子を上つて行つた。

(その一、終)
(予が今までに書いたものは、自分でも忘れたい、人にも忘れて貰ひたい。そして、予は今、予にとつての新らしい覺悟を以てこの長篇を書き出して見た。他日になつたら、また、この作をも忘れたく、忘れて貰ひたくなる時があるかも知れぬ。――啄木)




 



底本:「石川啄木作品集 第三巻」昭和出版社
   1970(昭和45)年11月20日発行
入力:Nana ohbe
校正:林 幸雄
2003年10月23日作成
青空文庫ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について
  • このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
  • 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
  • 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。

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