8
シイカは川岸へ出るいつもの露路の坂を、ひとり下って行った。空には星が冷やかな無関心を象徴していた。彼女にはあの坂の向うの空に光っている北斗七星が、ああやって、いつものとおりの形を持していることが不自然だった。自分の身に今、これだけの気持の変化が起っているのに天体が昨日と同じ永劫の運行を続け、人生がまた同じ歩みを歩んで行くことが、なぜか彼女にとって、ひどく排他的な意地悪るさを感じさせた。彼女は今、自分が残してきた巷の上に、どんよりと感じられる都会のどよめきへ、ほのかな意識を移していた。
だが、彼女の気持に変化を与え、彼女を憂愁の闇でとざしてしまった事実というのは、劇場の二階から突き落されて、一枚の熊の毛皮のように圧しつぶされてしまった、あのヴァイオリンを弾く銀行家の息子ではなかった。また、彼女のために、殺人まで犯した男の純情でもなかった。では?……
彼女が籠に入れられた一羽の伝書鳩を受け取り、彼に、さよなら、とつめたい一語を残してあのガランとした裁判所の入口から出てきた時、ホテルへ向うアスファルトの舗道を、音もなく走って行った一台のダイアナであった。行き過ぎなりに、チラと見た男の顔。幸福を盛ったアラバスタアの盃のように輝かしく、角かくしをした美しい花嫁を側に坐らせて。……
彼女の行いがどうであろうと、彼女の食慾がどうであろうと、けっして汚されはしない、たった一つの想い出が、暗い霧の中に遠ざかって行く哀愁であった。
心を唱う最後の歌を、せめて、自分を知らない誰かに聞いてもらいたい慾望が、彼女のか弱い肉体の中に、生を繋ぐただ一本の銀の糸となって、シイカは小脇に抱えた籠の中の鳩に、優しい瞳を落したのだった。
9
一台の馬車が、朗かな朝の中を走って行った。中には彼ともう一人、女優のように華手なシャルムーズを着た女が坐っていた。馬車は大きな音を立てながら、橋を渡って揺れて行った。彼の心は奇妙と明るかった。橋の袂に立っている花売の少女が、不思議そうな顔をして、このおかしな馬車を見送っていた。チュウリップとフリイヂヤの匂いが、緑色の春の陽差しに溶けこんで、金網を張った小いさな窓から、爽かに流れこんできた。
何もかもこれでいい。自分は一人の女を恋している。それでいい。それだけでいい。橋の向うへ行ったとて、この金網の小窓からは、何がいったい見られよう。……
三階建の洋館が平屋の連りに変って行った。空地がそこここに見えだした。花園、並木、灰色の道。――たった一つのこの路が、長く長く馬車の行方に続いていた。その涯の所に突然大きな建物が、解らないものの中で一番解らないものの象徴のように、巍然として聳えていた。彼はそれを監獄だと信じていた。
やがて馬車は入口に近づいた。だが、門の表札には刑務所という字は見つからなかった。同乗の女がいきなり大声に笑いだした。年老った門番の老人が、悲しそうな顔をして、静かに門を開けた。錆びついた鉄の掛金がギイと鳴った。老人はやはりこの建物の中で、花瓶にさした一輪の椿の花のように死んでしまった自分の娘の事を考えていた。男の手紙を枕の下に入れたまま、老人が臨終の枕頭へ行くと、とろんとした暗い瞳を動かして、その手を握り、男の名前を呼び続けながら死んで行った、まだ年若い彼のたった一人の娘の事を。最後に呼んだ名前が、親の自分の名ではなく、見も知らない男の名前だった悲しい事実を考えていた。
10
シイカは朝起きると、縁側へ出てぼんやりと空を眺めた。彼女はそれから、小筥の中からそっと取りだした一枚の紙片を、鳩の足に結えつけると、庭へ出て、一度強く鳩を胸に抱き締めながら、頬をつけてから手を離した。鳩は一遍グルリと空に環を描き、今度はきゅうに南の方へ向って、糸の切れた紙鳶のように飛んで行った。
シイカは蓋を開けられた鳥籠を見た。彼女の春がそこから逃げて行ってしまったのを感じた。彼女は青葉を固く噛みしめながら、芝生の上に身を投げだしてしまった。彼女の瞳が涙よりも濡れて、明るい太陽が彼女の睫毛に、可憐な虹を描いていた。
新聞社の屋根でたった一人、紫色の仕事着を着た給仕の少女が、襟にさし忘れた縫針の先でぼんやり欄干を突っつきながら、お嫁入だとか、電気局だとかいうことを考えていた。見下した都会の底に、いろいろの形をした建物が、海の底の貝殻のように光っていた。
無数の伝書鳩の群れが、澄みきった青空の下に大きく環を描いて、新聞社の建物の上を散歩していた。そのたびに黒い影が窓硝子をかすめて行った。少女はふと、その群から離れて、一羽の鳩が、すぐ側の欄干にとまっているのを見つけた。可愛い嘴を時々開き、真丸な目をぱちぱちさせながら、じっとそこにとまっていた。あすこの群の方へははいらずに、まるで永い間里へやられていた里子のように、一羽しょんぼりと離れている様子が、少女には何か愛くるしく可憐しかった。彼女が近づいて行っても、鳩は逃げようともせずにじっとしていた。少女はふとその足のところに結えつけられている紙片に気がついた。
11
四月になったら、ふっくらと広い寝台を据え、黒い、九官鳥の籠を吊そうと思っています。
私は、寝台の上に腹這い、頬杖をつきながら、鳥に言葉を教えこもうとおもうのです。
君は幸あふれ、
われは、なみだあふる。
もしも彼女が、嘴の重みで、のめりそうになるほど嘲笑しても、私は、もう一度言いなおそう。
さいはひは、あふるべきところにあふれ、
なみだ、また――
それでもガラガラわらったら、私はいっそあの皺枯れ声に、
あたしゃね、おっかさんがね、
お嫁入りにやるんだとさ、
と、おぼえさせようとおもっています。
12
明るい街を、碧い眼をした三人の尼さんが、真白の帽子、黒の法衣の裾をつまみ、黒い洋傘を日傘の代りにさして、ゆっくりと歩いて行った。穏やかな会話が微風のように彼女たちの唇を漏れてきた。
――もう春ですわね。
――ほんとに。春になると、私はいつも故国の景色を想いだします。この異国に来てからもう七度の春が巡ってきました。
――どこの国も同んなじですわね、世界じゅう。
――私の妹も、もう長い裾の洋服を着せられたことでしょう。
――カスタニイの並木路を、母とよく歩いて行ったものです。
――神様が、妹に、立派な恋人をお授けくださいますように!
―― Amen!
―― Amen!
(11に挿入した句章は作者F・Oの承諾による)
底本:「日本文学全集88 名作集(三)昭和編」集英社
1970(昭和45)年1月25日発行
入力:土屋隆
校正:林幸雄
2003年2月27日作成
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