梵雲庵雑話 |
岩波文庫、岩波書店 |
1999(平成11)年8月18日 |
1999(平成11)年8月18日第1刷 |
明治十年前後の小説界について、思い出すままをお話してみるが、震災のため蔵書も何も焼き払ってしまったので、詳しいことや特に年代の如きは、あまり自信をもって言うことが出来ない。このことは特にお断りして置きたい。
一体に小説という言葉は、すでに新しい言葉なので、はじめは読本とか草双紙とか呼ばれていたものである。が、それが改ったのは戊辰の革命以後のことである。
その頃はすべてが改った。言い換えれば、悉く旧物を捨てて新らしきを求め出した時代である。『膝栗毛』や『金の草鞋』よりも、仮名垣魯文の『西洋道中膝栗毛』や『安愚楽鍋』などが持て囃されたのである。草双紙の挿絵を例にとって言えば、『金花七変化』の鍋島猫騒動の小森半之丞に、トンビ合羽を着せたり、靴をはかせたりしている。そういうふうにしなければ、読者に投ずることが出来なかったのである。そうしてさまざまに新しさを追ったものの、時流には抗し難く、『釈迦八相記』(倭文庫)『室町源氏』なども、ついにはかえり見られなくなってしまった。
戯作者の殿りとしては、仮名垣魯文と、後に新聞記者になった山々亭有人(条野採菊)に指を屈しなければならない。魯文は、『仮名読新聞』によって目醒ましい活躍をした人で、また猫々道人とも言ったりした。芸妓を猫といい出したのも、魯文がはじめである。魯文は後に『仮名読新聞』というものを創設した。それは非常に時流に投じたものであった。つづいて前田夏繁が、香雪という雅号で、つづきものを、『やまと新聞』のはじめに盛んに書き出した。
その頃は作者の外に投書家というものがあって、各新聞に原稿を投じていた。彼らのなかからも、注目すべき人が出た。『読売』では中坂まときの時分に、若菜貞爾(胡蝶園)という人が出て小説を書いたが、この人は第十二小区(いまの日本橋馬喰町)の書記をしていた人であった。その他、投書家でもよいものは作者と同じように、原稿料をとっていたように記憶する。(斎藤緑雨なども、この若菜貞爾にひきたてられて、『報知』に入ったものである。)
これらの人々によって、その当時演芸道の復活を見たことは、また忘れることの出来ない事実である。旧物に対する蔑視と、新らしき物に対する憧憬とが、前述のように烈しかったその当時は、役者は勿論のこと、三味線を手にしてさえも、科人のように人々から蔑しめられたものであった。それ故、演芸に関した事柄などは、新聞にはちょっぴりとも書かれなかった。そうした時代に、浮川福平は都々逸の新作を矢継早に発表し、また仮名垣魯文の如きは、その新聞の殆んど半頁を、大胆にも芝居の記事で埋めて、演芸を復活させようとつとめた。
そのうち、かの『雪中梅』の作者末広鉄腸が、『朝日新聞』に書いた。また服部誠一翁がいろいろなものを書いた。寛(総生)は寛でさまざまなもの、例えば秘伝の類、芸妓になる心得だとか地獄を買う田地だとかいうようなものを書いて一しきりは流行ったものである。
読物はこの頃になっては、ずっと新しくなっていて、丁髷の人物にも洋傘やはやり合羽を着せなければ、人々がかえり見ないというふうだった。二代目左団次が舞台でモヘルの着物をつけたり、洋傘をさしたりなどしたのもこの頃のことである。が、作は随分沢山出たが、傑作は殆んどなかった。その折に出たのが、坪内逍遥氏の『書生気質』であった。この書物はいままでの書物とはくらべものにならぬ優れたもので、さかんに売れたものである。
版にしないものはいろいろあったが、出たものには山田美妙斎が編輯していた『都の花』があった。その他硯友社一派の『文庫』が出ていた。
劇評では六二連の富田砂燕という人がいた。この人の前には梅素玄魚という人がいた。後にこの人は楽屋白粉というものをつくって売り出すような事をしたものである。
話が前後したが、成島柳北の『柳橋新誌』の第二篇は、明治七年に出た。これは柳暗のことを書いたものである。その他に『東京新繁昌記』も出た。新しい西欧文明をとり入れ出した東京の姿を書いたもので、馬車だとか煉瓦だとかが現われ出した頃のことが書かれてある。これはかの寺門静軒の『江戸繁昌記』にならって書かれたものである。
一体にこの頃のものは、話は面白かったが、読んで味いがなかった。
◇
明治十三、四年の頃、西鶴の古本を得てから、私は湯島に転居し、『都の花』が出ていた頃紅葉君、露伴君に私は西鶴の古本を見せた。
西鶴は俳諧師で、三十八の歳延宝八年の頃、一日に四千句詠じたことがある。貞享元年に二万三千五百句を一日一夜のうちによんだ。これは才麿という人が、一日一万句を江戸でよんだことに対抗したものであった。散文を書いたのは、天和二年四十二歳の時で、『一代男』がそれである。
幸い私は西鶴の著書があったので、それを紅葉、露伴、中西梅花(この人は新体詩なるものを最初に創り、『梅花詩集』という本をあらわした記念さるべき人である。後、不幸にも狂人になった)、内田魯庵(その頃は花の屋)、石橋忍月、依田百川などの諸君に、それを見せることが出来たのである。
西鶴は私の四大恩人の一人であるが、私が西鶴を発見したことに関聯してお話ししたいのは、福沢先生の本のことである。福沢先生の本によって、十二、三歳の頃、私ははじめて新らしい西欧の文明を知った。私の家は商家だったが、旧家だったため、草双紙、読本その他寛政、天明の通人たちの作ったもの、一九、京伝、三馬、馬琴、種彦、烏亭焉馬などの本が沢山にあった。特に京伝の『骨董集』は、立派な考証学で、決して孫引きのないもので、専ら『一代男』『一代女』古俳諧等の書から直接に材料をとって来たものであった。この『骨董集』を読んでいるうちに、福沢先生の『西洋旅案内』『学問のすゝめ』『かたわ娘』によって西洋の文明を示されたのである。(この『かたわ娘』は古い従来の風俗を嘲ったもので、それに対抗して万亭応賀は『当世利口女』を書いた。が私には『当世利口女』はつまらなく『かたわ娘』が面白かったものである。)
新らしい文明をかくして福沢先生によって学んだが、『骨董集』を読んだために、西鶴が読んでみたくなり出した。が、その頃でも古本が少なかったもので、なかなか手には入らなかった。私の知っていた酒井藤兵衛という古本屋には、山のようにつぶす古本があったものである。何せ明治十五、六年の頃は、古本をつぶしてしまう頃だった。私はその本屋をはじめ、小川町の「三久」、浜町の「京常」、池の端の「バイブル」、駒形の「小林文七」「鳥吉」などから頻りに西鶴の古本を漁り集めた。(この「鳥吉」は、芝居の本を多く扱っていたが、関根只誠氏がどういう都合かで売払った本を沢山私のところにもって来てくれたものである。)中川徳基が、昔の研究はまず地理から始めなければならぬ、といって『紫の一本』『江戸咄』『江戸雀』『江戸真砂六十帖』などいう書物や、古絵図類を集めていたのもこの頃であった。
西鶴の本は沢山集った。それらを私は幸田、中西、尾崎の諸君に手柄顔をして見せたものであった。
そうして西鶴を研究し出した諸君によって、西鶴調なるものが復活したのである。これは、山田美妙斎などによって提唱された言文一致体の文章に対する反抗となったものであって、特に露伴君の文章なぞは、大いに世を動かしたものであった。
内田魯庵君の著『きのふけふ』(博文館発行)の中に、この頃の私のことは書いてあるから、私の口から申すのはこれくらいで差控えて置きたいと思う。
私も愛鶴軒と言って『読売新聞』に投書していたが、あまり続けて書かなかった。(私は世の中がめんどうになって、愛鶴軒という雅号なども捨ててしまった。そして幸田君にわけを話すと、幸田君は――愛鶴軒は歿したり――と新聞に書いてくれた。)その後、中西君も『読売』に入社し、西鶴の口調で盛んに小説を書いた。その前、饗庭篁村氏がさかんに八文字屋で書かれ、また幸堂得知氏などが洒落文を書かれたものである。純粋に西鶴風なものは誰も書かなかったが、誰からともなく西鶴が世の中に芽をふいたのである。
◇
私は元来小説よりも、新らしい事実が好きだった。ここに言う新らしいとは、珍らしいということである。西鶴の本は、かつて聞いたことのない珍らしいもので満ちていた。赤裸々に自然を書いたからである。人間そのものを書いたからである。ただ人間そのものを書いたきりで、何とも決めていないところに西鶴の妙味がある。これは俳諧の力から来たものである。
私は福沢先生によって新らしい文明を知り、京伝から骨董のテエストを得、西鶴によって人間を知ることが出来た。いま一つは一休禅師の『一休骸骨』『一休草紙』などによって、宗教を知り始めたことである。そして無宗教を知り――無というよりも空、即ち昨日は無、明日は空、ただ現在に生き、趣味に生きる者である――故にバラモン教からも、マホメット教からも、何からも同一の感じをもつことが出来るようになった。
私は江戸の追憶者として見られているが、私は江戸の改革を経て来た時代に生きて来た者である。新しくなって行きつつあった日本文明の中で生きて来た者であって、西欧の文明に対して、打ち克ち難い憧憬をもっていた者である。私は実に、漢文よりはさきに横文字を習った。実はごく若い頃は、あちらの文明に憧れたあまり、アメリカへ帰化したいと願っていたことがある。アメリカへ行くと、日本のことを皆から聞かれるだろうと思ったものだ。そこで、実は日本のことを研究し出したのである。私の日本文学の研究の動機の一つは、まったくそこにあったのである。
二十二、三歳の頃――明治十三、四年頃――湯島へ移り、図書館で読書している間に、草双紙を読み、『燕石十種』(六十冊)――これは達磨屋吾一が江戸橋の古本屋で写生して、東紫(後で聞けば関根只誠氏)に贈ったものであった。――を読み、毎日々々通って写本した。その頃石橋思案、幸田成行の諸君と知己になったのである。私は明治二十二年頃、一切の書物から離れてしまったが、それまでには、私の口からこんなことを申すのは口幅広いことのようであるが、浮世草紙の類は、一万巻は読んでいると思う。この頃『一代男』を一円で買ったものであるが、今日でも千円はしている。思えば私は安く学問をしたものである。
黒髪をあだには白くなしはせじ、わがたらちねの撫でたまひしを、という愚詠をしたが、今白髪となって何の功もないことを恥じている。
(大正十四年三月『早稲田文学』二二九号)
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