梵雲庵雑話 |
岩波文庫、岩波書店 |
1999(平成11)年8月18日 |
1999(平成11)年8月18日第1刷 |
凧の話もこれまで沢山したので、別に新らしい話もないが、読む人も違おうから、考え出すままにいろいろな事を話して見よう。
凧の種類には扇、袢纏、鳶、蝉、あんどん、奴、三番叟、ぶか、烏、すが凧などがあって、主に細工物で、扇の形をしていたり、蝉の形になっていたりするものである。これらの種類のものは支那から来たもののようである。また普通の凧の絵は、達磨、月浪、童子格子、日の出に鶴、雲龍、玉取龍、鯉の滝上り、山姥に金太郎、或いは『三国志』や『水滸伝』の人物などのものがある。また字を書いたのでは、鷲、獅子、虎、龍、嵐、魚、鶴、などと大体凧の絵や字は定まっている。けれども『三国志』や『水滸伝』の人物の二人立三人立などの細かい絵になると、高く揚った場合、折角の絵も分らないから、それよりも月浪とか童子格子とか、字なら龍とか嵐などがいいようである。長崎の凧は昔葡萄牙や和蘭の船の旗を模したと見えて、今日でも信号旗のようなものが多い。
糸目のつけ方にはいろいろあって、両かしぎ、下糸目、上糸目、乳糸目、三本糸目、二本糸目、本糸目などがある。両かしぎというのは、左右へかしぐようにつける糸目で、凧の喧嘩には是非これに限る。下糸目にすれば手繰った時凧が下を向いて来るし、上糸目にすれば下って来る。乳糸目というのは普通糸目の他に乳のように左右へ別に二本殖やすのである。二本糸目というのは、うら張りの具合で、上下二本の糸目でも充分なのである。本糸目というと、即ち骨の重った所及び角々全部へ糸目をつけたものである。骨は巻骨即ち障子骨、六本骨、七本骨などがあって、巻骨は骨へ細い紙を巻いたもので、障子の骨のようになっているので、障子骨の名もある。六本骨七本骨は、普通の骨組みで、即ちX形に組んだ骨が這入っているのである。そうしてこの巻骨の障子骨は丈夫で良い凧としてある。なお上等の凧は、紙の周囲に糸が這入っているのが例である。
糸は「いわない」またの名を「きんかん」というのが最もよいとしている。この凧に附随したものは、即ち「雁木」と「うなり」だが、長崎では「ビードロコマ」といって雁木の代りにビードロの粉を松やにで糸へつけて、それで相手の凧の糸を摺り切るのである。「うなり」は鯨を第一とし、次ぎは籐であるが、その音がさすがに違うのである。また真鍮で造ったものもあったが、値も高いし、重くもあるので廃ってしまった。今日では「ゴムうなり」が出来たようだ。それからこの「うなり」を、凧よりも長いのを付けると、昔江戸などでは「おいらん」と称えて田舎式としたものである。
凧にも随分大きなものがあって、阿波の撫養町の凧は、美濃紙千五百枚、岡崎の「わんわん」という凧も、同じく千五百枚を張るのであるという。その他、大代の「菊一」というのが千四百枚、北浜の「笹」というのが千枚、吉永の「釘抜」が九百枚、木津新町の「菊巴」が九百枚の大きさである。
珍らしいものでは、飛騨に莨の葉を凧にしたものがある。また南洋では袋のような凧を揚げて、その凧から糸を垂れて水中の魚を釣るという面白い用途もある。朝鮮の凧は五本骨で、真中に大きな丸い穴が空いていて、上に日、下に月が描いてある。真中に大きな穴が空いていてよく揚ると思うが、誠に不思議である。前にいった「すが凧」というのは「すが糸」であげる精巧な小さな凧で、これは今日では飾り凧とされている。これは江戸の頃、秋山正三郎という者がこしらえたもので、上野の広小路で売っていたのである。その頃この広小路のすが凧売りの錦絵が出来ていたと思った。
さて私の子供の時分のことを思い出して話して見よう。その頃、男の子の春の遊びというと、玩具では纏や鳶口、外の遊びでは竹馬に独楽などであったが、第一は凧である。電線のない時分であるから、初春の江戸の空は狭きまでに各種の凧で飾られたものである。その時分は町中でも諸所に広場があったので、そこへ持ち出して揚げる。揚りきるとそのまま家々の屋根などを巧みに避けて、自分の家へ持ち帰り、家の内に坐りながら、大空高く揚った凧を持って楽しんでいたものである。大きいのになると、十四、五枚のものもあったが、それらは大人が揚げたものであった。
私のいた日本橋馬喰町の近くには、秩父屋という名高い凧屋があって、浅草の観音の市の日から、店先きに種々の綺麗な大きな凧を飾って売り出したものであった。昔は凧の絵の赤い色は皆な蘇枋というもので描いたので、これはやはり日本橋の伊勢佐という生薬屋で専売していたのだが、これを火で温めながら、凧へ塗ったものである。その秩父屋でも何時も店で、火の上へ蘇枋を入れた皿を掛けて、温めながら凧を立て掛けて置いて、いろいろな絵を描いていたが、誠にいい気分のものであった。またこの秩父屋の奴凧は、名優坂東三津五郎の似顔で有名なものだった。この秩父屋にいた職人が、五年ばかり前まで、上野のいとう松坂の横で凧屋をしていたが、この人の家の奴凧も、主家のを写したのであるから、やはり三津五郎の顔であった。
それからもう一つ、私の近所で名高かったものは、両国の釣金の「堀龍」という凧であった。これは両国の袂の釣竿屋の金という人が拵らえて売る凧で、龍という字が二重になっているのだが、これは喧嘩凧として有名なもので、随って尾などは絶対につけずに揚げるいわゆる坊主凧であった。
今日でも稀には見掛けるが、昔の凧屋の看板というものが面白かった。籠で蛸の形を拵らえて、目玉に金紙が張ってあって、それが風でくるりくるりと引っくり返るようになっていた。足は例の通り八本プラリブラリとぶら下っていて、頭には家に依って豆絞りの手拭で鉢巻をさせてあるのもあり、剣烏帽子を被っているものもあったりした。
この凧遊びも二月の初午になると、その後は余り揚げる子供もなくなって、三月に這入ると、もう「三月の下り凧」と俗に唱えて、この時分に凧を揚げると笑われたものであった。
さておしまいに、手元に書きとめてある凧の句を二ツ三ツ挙げて見よう。
えた村の空も一つぞ凧 去来
葛飾や江戸を離れぬ凧 其角
美しき凧あがりけり乞食小屋 一茶
物の名の鮹や古郷のいかのぼり 宗因
糸つける人と遊ぶや凧 嵐雪
今の列子糸わく重し人形凧 尺草
(大正七年一月『趣味之友』第二十五号)
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