私は「黙っちゃ居ねえ」と云う簡単な言葉が、何を言い顕わして居るかを、直ぐ見て取る事が出来た。余りの不意に思わず気息を引くと、迸る様に鋭く動悸が心臓を衝くのを感じた。而してそわそわしながら、ヤコフ・イリイッチの方を向くと、彼の眼は巖の様な堅い輪廓の睫の中から、ぎらっと私を見据えて居た。思わず視線をすべらして下を向くと、世の中は依然として夏の光の中に眠った様で、波は相変らずちゃぶりちゃぶりと長閑な階律を刻んで居る。 私は下を向いた儘、心は差迫りながら、それで居て閑々として、波の階律に比べて私の動悸が何の位早く打つかを算えて居た。而してヤコフ・イリイッチが更に語を次いだのは、三十秒にも足らぬ短い間であったが、それが恐ろしい様な、待ち遠しい様な長さであった。 私は波を見つめて居る。ヤコフ・イリイッチの豹の様な大きな眼睛は、私の眼から耳にかけたあたりを揉み込む様に見据えて居るのを私はまざまざと感じて、云うべからざる不快を覚えた。 ヤコフ・イリイッチは歯を喰いしばる様にして、
お前も連帯であげられ無えとも限ら無えが、「知ら無え知ら無え」で通すんだぞ、生じっか……
此の時ぴーと耳を劈く様な響きが遠くで起った。其の方を向くと船渠の黒い細い煙突の一つから斜にそれた青空をくっきりと染め抜いて、真白く一団の蒸気が漂うて居る。ある限りの煉瓦の煙突からは真黒い煙がむくむくと立ち上って、むっとする様な暑さを覚えしめる。労働を強うる為めに、鉄と蒸気とが下す命令である。私は此の叫びを聞いて起き上ろうとすると、
待て。
とヤコフ・イリイッチが睨み据えた。
きょろきょろするない。
宜いか、生じっか何んとか云って見ろ、生命は無えから。
長げえ身の上話もこの為めにしたんだ。
と云いながら、彼は始めて私から視線を外ずして、やおら立ち上った。胴の間には既に眼を覚したものが二三人居る。
起きろ野郎共、汽笛が鳴ってらい。さ、今日ですっかり片付けて仕舞うんだ。
而して大欠伸をしながら、彼は寝乱れた労働者の間を縫って、オデッサ丸の船階子を上って行った。 私も持場について午後の労働を始めた。最も頭脳を用うる余地のない、而して最も肉体を苦しめる労働はかんかん虫のする労働である。小さなカンテラ一つと、形の色々の金槌二つ三つとを持って、船の二重底に這い込み、石炭がすでに真黒になって、油の様にとろりと腐敗したままに溜って居る塩水の中に、身体を半分浸しながら、かんかんと鉄 を敲き落すのである。隣近所でおろす槌の響は、狭い空洞の中に籠り切って、丁度鳴りはためいて居る大鐘に頭を突っ込んだ通りだ。而して暑さに蒸れ切った空気と、夜よりも暗い暗闇とは、物恐ろしい仮睡に総ての人を誘うのである。敲いて居る中に気が遠くなって、頭と胴とが切り放された様に、頭は頭だけ、手は手だけで、勝手な働きをかすかに続けながら、悪い夢にでもうなされた様な重い心になって居るかと思うと、突然暗黒な物凄い空間の中に眼が覚める。周囲からは鼓膜でも破り相な勢で鉄と鉄とが相打つ音が逼る。動悸が手に取る如く感ぜられて、呼吸は今絶えるかとばかりに苦しい。喘いでも喘いでも、鼻に這入って来るのは窒素ばかりかと思われる汚い空気である。私は其の午後もそんな境涯に居た。然し私は其の日に限って其の境涯を格別気にしなかった。今日一日で仕事が打切りになると云う事も、一つの大なる期待ではあったが、軈て現われ来るべき大事件は若い好奇心と敵愾心とを極端に煽り立てて、私は勇士を乘せて戦場に駆け出そうとする牡馬の様に、暗闇の中で眼を輝かした。 とうとう仕事は終った。其の日は三時半で一統に仕事をやめ、其処此処と残したところに手を入れて、偖て会社から検査員の来るのを待つ計りになった。私はかの二重底から数多の仲間と甲板に這い出して、油照りに横から照りつける午後の日を船橋の影によけながら、古ペンキや赤 でにちゃにちゃと油ぎって汚れた金槌を拭いにかかった。而して拭いながらいつかヤコフ・イリイッチが「法律ってものは人間に都合よく出来て居やがるんだ。シャンパンを飲み過ぎちゃなら無えとか、靴下を二十足の上持っちゃなら無えとかそんな法律は薬にし度くも無え。はきだめを覗いちゃなら無えとか、落ちたものを拾っちゃなら無えとか云うんなら、数え切れ無え程あるんだ。そんな片手落ちな成敗にへえへえと云って居られるかい。人間が法律を作れりゃあ、虫だって作れる筈だ」と云ったのを想い出して、虫の法律的制裁が今日こそ公然と行われるんだと思った。 丁度四時半頃でもあったろう、小蒸汽の汽笛が遠くで鳴るのを聞いた。間違なくセミオン会社所有の小蒸汽の汽笛だ。「来たな」と思うと胸は穏かでない。船階子の上り口には労働者が十四五人群がって船の着くのを見守って居た。 私の好奇心は我慢し切れぬ程高まって、商売道具の掃除をして居られなくなった。一つ見物してやろうと思って立ち上ろうとする途端に、
様あ見やがれ。
と云う鋭い声がかの一群から響いたので、私はもう遣ったのかと宙を飛んで、
ワハ…………
と笑って居る、其の群に近づいて見ると、一同は手に手に重も相な獲物をぶらさげて居た。而して瞬く暇にかんかん虫は総て其の場に馳せ集まって、「何んだ何んだ」とひしめき返して、始めから居たかんかん虫は誰と誰であるか更に判らなくなって居る。ナポレオンが手下の騎兵を使う時でも、斯うまでの早業はむずかしろう。[#「むずかしろう。」はママ] 私は手欄から下を覗いて居た。 積荷のない為め、思うさま船脚が浮いたので、上甲板は海面から小山の様に高まって居る。其の甲板にグリゴリー・ペトニコフが足をかけようとした刹那、誰が投げたのか、長方形のクヅ鉄[#「クヅ鉄」はママ]が飛んで行って、其の頭蓋骨を破ったので、迸る血烟と共に、彼は階子を逆落しにもんどりを打って小蒸汽の錨の下に落ちて、横腹に大負傷をしたのである。薄地セルの華奢な背広を着た太った姿が、血みどろになって倒れて居るのを、二人の水夫が茫然立って見て居た。 私の心にはイフヒムが急に拡大して考えられた。どんな大活動が演ぜられるかと待ち設けた私の期待は、背負投げを喰わされた気味であったが、きびきびとした成功が齎らす、身ぶるいのする様な爽かな感じが、私の心を引っ掴んだ。私は此の勢に乘じてイフヒムを先きに立てて、更に何か大きな事でもして見たい気になった。而してイフヒムがどんな態度で居るかと思って眼を配ったが、何処にまぎれたのか、其の姿は見当らなかった。 一時間の後に二人の警部が十数人の巡査を連れて来船した。自分等は其の厳しい監視の下に、一人々々凡て危険と目ざされる道具を船に残して、大運搬船に乘り込ませられたのであった。上げて来る潮で波が大まかにうねりを打って、船渠の後方に沈みかけた夕陽が、殆ど水平に横顔に照りつける。地平線に近く夕立雲が渦を巻き返して、驟雨の前に鈍った静かさに、海面は煮つめた様にどろりとなって居る。ドゥニパー河の淡水をしたたか交えたケルソンでも海は海だ。風はなくとも夕されば何処からともなく潮の香が来て、湿っぽく人を包む。蚊柱の声の様に聞こえて来るケルソン市の薄暮のささやきと、大運搬船を引く小蒸汽の刻をきざむ様な響とが、私の胸の落ちつかないせわしい心地としっくり調子を合わせた。 私は立った儘大運搬船の上を見廻して見た。 寂然して溢れる計り坐ったり立ったりして居るのが皆んなかんかん虫の手合いである。其の間に白帽白衣の警官が立ち交って、戒め顔に佩劔を撫で廻して居る。舳に眼をやるとイフヒムが居た。とぐろを巻いた大繩の上に腰を下して、両手を後方で組み合せて、頭をよせかけたまま眠って居るらしい。ヤコフ・イリイッチはと見ると一人おいた私の隣りに大きく胡坐をかいてくわえ煙管をぱくぱくやって居た。
へん、大袈裟な真似をしやがって、
と云う声がしたので、見ると大黒帽の上から三角布で頬被りをした男が、不平相にあたりを見廻して居たが、一人の巡査が彼を見おろして居るのに気が附くと、しげしげそれを見返して、唾でも吐き出す様に、
畜生。
と云って、穢らわし相に下を向いて仕舞った。
(一九〇六年於米国華盛頓府、一九一〇年十月「白樺」)
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
上一页 [1] [2] [3] 尾页
|