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カインの末裔(カインのまつえい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-21 11:07:43  点击:  切换到繁體中文


 仁右衛門の馬は前脚を二足とも折ってしまっていた。仁右衛門は惘然ぼんやりしたまま、不思議相ふしぎそうな顔をして押寄せた人波を見守って立ってるほかはなかった。
 獣医の心得もある蹄鉄屋ていてつやの顔を群集の中に見出してようやく正気に返った仁右衛門は、馬の始末を頼んですごすごと競馬場を出た。彼れは自分で何が何だかちっとも分らなかった。彼れは夢遊病者のように人の間を押分けて歩いて行った。事務所の角まで来ると何という事なしにいきなりみちの小石を二つ三つつかんで入口の硝子ガラスにたたきつけた。三枚ほどの硝子は微塵みじんにくだけて飛び散った。彼れはその音を聞いた。それはしかし耳を押えて聞くように遠くの方で聞こえた。彼れは悠々ゆうゆうとしてまたそこを歩み去った。
 彼れが気がついた時には、何方どっちをどう歩いたのか、昆布岳の下を流れるシリベシ河の河岸の丸石に腰かけてぼんやり河面かわづらを眺めていた。彼れの眼の前を透明な水が跡から跡から同じような渦紋かもんを描いては消し描いては消して流れていた。彼れはじっとそのたわむれを見詰めながら、遠い過去の記憶でも追うように今日の出来事を頭の中で思い浮べていた。すべての事が他人事ひとごとのように順序よく手に取るように記憶によみがえった。しかし自分が放り出される所まで来ると記憶の糸はぷっつり切れてしまった。彼れはそこの所を幾度も無関心に繰返した。笠井の娘――笠井の娘――笠井の娘がどうしたんだ――彼れは自問自答した。段々眼がかすんで来た。笠井の娘……笠井……笠井だな馬を片輪かたわにしたのは。そう考えても笠井は彼れに全く関係のない人間のようだった。その名は彼れの感情を少しも動かす力にはならなかった。彼れはそうしたままで深い眠りに落ちてしまった。
 彼れは夜中になってからひょっくり小屋に帰って来た。入口からぷんと石炭酸の香がした。それをぐと彼れは始めて正気に返って改めて自分の小屋を物珍らしげに眺めた。そうなると彼れは夢からさめるようにつまらない現実に帰った。鈍った意識の反動として細かい事にも鋭く神経が働き出した。石炭酸の香は何よりも先ず死んだ赤坊を彼れに思い出さした。もし妻に怪我けがでもあったのではなかったか――彼れはの消えて真闇まっくらな小屋の中を手さぐりで妻を尋ねた。眼をさまして起きかえった妻の気配がした。
「今頃まで何所どこさいただ。馬は村の衆が連れて帰ったに。いたわしい事べおっびろげてはあ」
 妻は眠っていなかったようなはっきりした声でこういった。彼れは闇に慣れて来た眼で小屋の片隅かたすみをすかして見た。馬は前脚に重味がかからないように、腹にむしろをあてがって胸の所をはりからつるしてあった。両方の膝頭ひざがしらは白い切れで巻いてあった。その白い色がすべて黒い中にはっきりと仁右衛門の眼に映った。石炭酸の香はそこから漂って来るのだった。彼れは火の気のない囲炉裡いろりの前に、草鞋わらじばきで頭を垂れたまま安座あぐらをかいた。馬もこそっとも音をさせずに黙っていた。蚊のなく声だけが空気のささやきのようにかすかに聞こえていた。仁右衛門は膝頭で腕を組み合せて、寝ようとはしなかった。馬と彼れは互に憐れむように見えた。
 しかし翌日になると彼れはまたこの打撃から跳ね返っていた。彼れは前の通りな狂暴な彼れになっていた。彼れはプラオを売って金に代えた。雑穀屋からは、燕麦からすむぎが売れた時事務所から直接に代価を支払うようにするからといって、麦や大豆の前借りをした。そして馬力を頼んでそれを自分の小屋に運ばして置いて、賭場とばに出かけた。
 競馬の日の晩に村では一大事が起った。その晩おそくまで笠井の娘は松川の所に帰って来なかった。こんな晩に若い男女が畑の奥や森の中に姿を隠すのは珍らしい事でもないので初めのうちは打捨てておいたが、余りおそくなるので、笠井の小屋を尋ねさすとそこにもいなかった。笠井は驚いて飛んで来た。しかし広い山野をどう探しようもなかった。夜のあけあけに大捜索が行われた。娘は河添かわぞい窪地くぼちの林の中に失神して倒れていた。正気づいてから聞きただすと、大きな男が無理やりに娘をそこに連れて行って残虐ざんぎゃくを極めたはずかしめかたをしたのだとわかった。笠井は広岡の名をいってしたり顔に小首を傾けた。事務所の硝子ガラスを広岡がこわすのを見たという者が出て来た。
 犯人の捜索は極めて秘密に、同時にこんな田舎いなかにしては厳重に行われた。場主の松川は少からざる懸賞までした。しかし手がかりは皆目かいもくつかなかった。疑いは妙に広岡の方にかかって行った。赤坊を殺したのは笠井だと広岡の始終いうのは誰でも知っていた。広岡の馬をつまずかしたのは間接ながら笠井の娘の仕業しわざだった。蹄鉄屋が馬を広岡の所に連れて行ったのは夜の十時頃だったが広岡は小屋にいなかった。その晩広岡を村で見かけたものは一人もなかった。賭場にさえいなかった。仁右衛門に不利益な色々な事情は色々に数え上げられたが、具体的な証拠は少しも上らないで夏がくれた。
 秋の収穫時になるとまた雨が来た。乾燥が出来ないために、折角みのったものまで腐る始末だった。小作はわやわやと事務所に集って小作料割引の歎願をしたが無益だった。彼らはあんじょう燕麦売揚うりあげ代金の中から厳密に小作料を控除された。来春の種子たねは愚か、冬の間を支える食料も満足に得られない農夫が沢山出来た。
 その間にあって仁右衛門だけは燕麦の事で事務所に破約したばかりでなく、一文の小作料も納めなかった。綺麗に納めなかった。始めの間帳場はなだめつすかしつして幾らかでも納めさせようとしたが、如何どうしても応じないので、財産を差押えると威脅おどかした。仁右衛門は平気だった。押えようといって何を押えようぞ、小屋の代金もまだ事務所に納めてはなかった。彼れはそれを知りぬいていた。事務所からは最後の手段として多少の損はしても退場さすと迫って来た。しかし彼れはがんとして動かなかった。ペテンにかけられた雑穀屋をはじめ諸商人は貸金の元金は愚か利子さえ出させる事が出来なかった。

     (七)

「まだか」、この名は村中に恐怖をいた。彼れの顔を出す所には人々は姿を隠した。川森さえとうむかしに仁右衛門の保証を取消して、仁右衛門に退場を迫る人となっていた。市街地でも農場内でも彼れに融通をしようというものは一人もなくなった。佐藤の夫婦は幾度も事務所に行って早く広岡を退場させてくれなければ自分たちが退場すると申出た。駐在巡査すら広岡の事件に関係する事をていよく避けた。笠井の娘を犯したものは――何らの証拠がないにもかかわらず――仁右衛門に相違ないときまってしまった。すべて村の中で起ったいかがわしい出来事は一つ残らず仁右衛門になすりつけられた。
 仁右衛門は押太おしぶとく腹を据えた。彼れは自分の夢をまだ取消そうとはしなかった。彼れの後悔しているものは博奕ばくちだけだった。来年からそれにさえ手を出さなければ、そして今年同様に働いて今年同様の手段を取りさえすれば、三、四年の間に一かどまとまった金を作るのは何でもないと思った。いまに見かえしてくれるから――そう思って彼れは冬を迎えた。
 しかし考えて見ると色々な困難が彼れの前にはよこたわっていた。食料は一冬事かかぬだけはあっても、金は哀れなほどより貯えがなかった。馬は競馬以来廃物になっていた。冬の間かせぎに出れば、その留守に気の弱い妻が小屋から追立てを喰うのは知れ切っていた。といって小屋に居残れば居食いをしているほかはないのだ。来年の種子たねさえ工面のしようのないのは今から知れ切っていた。
 焚火たきびにあたって、きかなくなった馬の前脚をじっと見つめながらも考えこんだまま暮すような日が幾日も続いた。
 佐藤をはじめ彼れの軽蔑けいべつし切っている場内の小作者どもは、おめおめと小作料を搾取しぼりとられ、商人に重い前借をしているにもかかわらず、とにかくさした屈托くったくもしないで冬を迎えていた。相当の雪囲いの出来ないような小屋は一つもなかった。貧しいなりに集って酒も飲み合えば、助け合いもした。仁右衛門には人間がよってたかって彼れ一人を敵にまわしているように見えた。
 冬は遠慮なく進んで行った。見渡す大空が先ず雪に埋められたように何所どこから何所まで真白になった。そこから雪は滾々こんこんとしてとめ度なく降って来た。人間の哀れな敗残の跡を物語る畑も、勝ちほこった自然の領土である森林も等しなみに雪の下に埋れて行った。一夜のうちに一尺も二尺も積り重なる日があった。小屋と木立だけが空と地との間にあって汚ない斑点しみだった。
 仁右衛門はある日膝まで這入はいる雪の中をこいで事務所に出かけて行った。いくらでもいいから馬を買ってくれろと頼んで見た。帳場はあざ笑って脚の立たない馬は、金を喰う機械見たいなものだといった。そして竹箆返しっぺがえしに跡釜あとがまが出来たから小屋を立退けとせまった。愚図愚図していると今までのような煮え切らない事はして置かない、この村の巡査でまにあわなければ倶知安くっちゃんからでも頼んで処分するからそう思えともいった。仁右衛門は帳場に物をいわれると妙に向腹むかっぱらが立った。鼻をあかしてくれるから見ておれといい捨てて小屋に帰った。
 金を喰う機械――それに違いなかった。仁右衛門は不愍ふびんさから今まで馬を生かして置いたのを後悔した。彼れは雪の中に馬を引張り出した。老いぼれたようになった馬はなつかしげに主人の手に鼻先きを持って行った。仁右衛門は右手に隠して持っていたおの眉間みけんを喰らわそうと思っていたが、どうしてもそれが出来なかった。彼れはまた馬をいて小屋に帰った。
 その翌日彼れは身仕度をして函館はこだてに出懸けた。彼れは場主と一喧嘩ひとけんかして笠井の仕遂しおおせなかった小作料の軽減を実行させ、自分も農場にいつづき、小作者の感情をも柔らげて少しは自分を居心地よくしようと思ったのだ。彼れは汽車の中で自分のいい分を十分に考えようとした。しかし列車の中の沢山の人の顔はもう彼れの心を不安にした。彼れは敵意をふくんだ眼で一人一人めつけた。
 函館の停車場に着くと彼はもうその建物の宏大もないのにきもをつぶしてしまった。不恰好ぶかっこうな二階建ての板家に過ぎないのだけれども、その一本の柱にも彼れは驚くべき費用を想像した。彼れはまた雪のかきのけてある広い往来を見て驚いた。しかし彼れの誇りはそんな事に敗けてはいまいとした。ややともするとおびえて胸の中ですくみそうになる心を励まし励まし彼れは巨人のように威丈高いたけだかにのそりのそりと道を歩いた。人々は振返って自然から今切り取ったばかりのようなこの男を見送った。
 やがて彼れは松川の屋敷に這入って行った。農場の事務所から想像していたのとは話にならないほどちがった宏大な邸宅だった。敷台を上る時に、彼れはつまごを脱いでから、我れにもなく手拭てぬぐいを腰から抜いて足の裏を綺麗きれいに押拭った。澄んだ水の表面のほかに、自然には決してない滑らかに光った板の間の上を、彼れは気味の悪い冷たさを感じながら、奥に案内されて行った。美しく着飾った女中が主人の部屋のふすまをあけると、息気いきのつまるような強烈な不快な匂が彼れの鼻を強く襲った。そして部屋の中は夏のように暑かった。
 板よりも固い畳の上には所々に獣の皮が敷きつめられていて、障子しょうじに近い大きな白熊の毛皮の上の盛上るような座蒲団ざぶとんの上に、はったん褞袍どてらを着こんだ場主が、大火鉢おおひばちに手をかざして安座あぐらをかいていた。仁右衛門の姿を見るとぎろっにらみつけた眼をそのまま床の方に振り向けた。仁右衛門は場主の一眼ひとめでどやし付けられて這入る事も得せずにしりごみしていると、場主の眼がまた床の間からこっちに帰って来そうになった。仁右衛門は二度睨みつけられるのを恐れるあまりに、無器用な足どりで畳の上ににちゃっにちゃっと音をさせながら場主の鼻先きまでのそのそ歩いて行って、出来るだけ小さく窮屈そうに坐りこんだ。
「何しに来た」
 底力のある声にもう一度どやし付けられて、仁右衛門は思わず顔を挙げた。場主は真黒な大きな巻煙草のようなものを口にくわえて青い煙をほがらかに吹いていた。そこからは気息いきづまるような不快な匂が彼れの鼻の奥をつんつん刺戟しげきした。
「小作料の一文も納めないで、どのつら下げて来臭きくさった。来年からは魂を入れかえろ。そして辞儀の一つもする事を覚えてから出直すなら出直して来い。馬鹿」
 そして部屋をゆするような高笑たかわらいが聞こえた。仁右衛門が自分でも分らない事を寝言のようにいうのを、始めの間は聞き直したり、補ったりしていたが、やがて場主は堪忍袋を切らしたという風にこう怒鳴どなったのだ。仁右衛門は高笑いの一とくぎりごとに、たたかれるように頭をすくめていたが、辞儀もせずに夢中で立上った。彼れの顔は部屋の暑さのためと、のぼせ上ったために湯気を出さんばかり赤くなっていた。
 仁右衛門はすっかり打摧うちくだかれて自分の小さな小屋に帰った。彼れには農場の空の上までも地主の頑丈がんじょうそうな大きな手が広がっているように思えた。雪を含んだ雲は気息いき苦しいまでに彼れの頭を押えつけた。「馬鹿」その声はややともすると彼れの耳の中で怒鳴られた。何んという暮しの違いだ。何んという人間の違いだ。親方が人間なられは人間じゃない。俺れが人間なら親方は人間じゃない。彼れはそう思った。そして唯呆ただあきれて黙って考えこんでしまった。
 粗朶そだがぶしぶしとぶるその向座むこうざには、妻が襤褸ぼろにつつまれて、髪をぼうぼうと乱したまま、愚かな眼と口とを節孔ふしあなのように開け放してぼんやり坐っていた。しんしんと雪はとめ度なく降り出して来た。妻のひざの上には赤坊もいなかった。
 その晩から天気は激変して吹雪ふぶきになった。翌朝あくるあさ仁右衛門が眼をさますと、吹き込んだ雪が足から腰にかけてうっすら積っていた。鋭い口笛のようなうなりを立てて吹きまく風は、小屋をめきりめきりとゆすぶり立てた。風が小凪おなぐと滅入めいるような静かさが囲炉裡いろりまでせまって来た。
 仁右衛門は朝から酒を欲したけれども一滴もありようはなかった。寝起きから妙に思い入っているようだった彼れは、何かのきっかけに勢よく立ち上って、おのを取上げた。そして馬の前に立った。馬はなつかしげに鼻先きをつき出した。仁右衛門は無表情な顔をして口をもごもごさせながら馬の眼と眼との間をおとなしくでていたが、いきなり体を浮かすように後ろに反らして斧を振り上げたと思うと、力まかせにその眉間みけんに打ちこんだ。うとましい音が彼れの腹にこたえて、馬は声も立てずに前膝をついて横倒しにどうと倒れた。痙攣的けいれんてきに後脚でるようなまねをして、潤みを持った眼は可憐かれんにも何かを見詰めていた。
「やれ怖い事するでねえ、いたましいまあ」
 すすぎ物をしていた妻は、振返ってこの様を見ると、恐ろしい眼付きをしておびえるように立上りながらこういった。
「黙れってば。物いうとれもたたき殺されっぞ」
 仁右衛門は殺人者が生き残った者を脅かすような低い皺枯しわがれた声でたしなめた。
 嵐が急にやんだように二人の心にはかーんとした沈黙が襲って来た。仁右衛門はだらんと下げた右手に斧をぶらさげたまま、妻は雑巾ぞうきんのように汚い布巾ふきんを胸の所に押しあてたまま、はばかるように顔を見合せて突立っていた。
「ここへう」
 やがて仁右衛門はうめくように斧を一寸ちょっと動かして妻を呼んだ。
 彼れは妻に手伝わせて馬の皮をぎ始めた。生臭い匂が小屋一杯になった。厚い舌をだらりと横に出した顔だけの皮を残して、馬はやがて裸身はだかみにされてわらの上に堅くなってよこたわった。白いすじと赤い肉とが無気味なしまとなってそこにらされた。仁右衛門は皮を棒のように巻いて藁繩でしばり上げた。
 それから仁右衛門のいうままに妻は小屋の中を片付けはじめた。背負えるだけは雑穀も荷造りして大小二つの荷が出来た。妻は良人おっとの心持ちが分るとまた長い苦しい漂浪の生活を思いやっておろおろと泣かんばかりになったが、夫の荒立った気分を怖れて涙を飲みこみ飲みこみした。仁右衛門は小屋の真中に突立ってすみから隅まで目測でもするように見廻した。二人は黙ったままでつまごをはいた。妻が風呂敷をかぶって荷を背負うと仁右衛門は後ろから助け起してやった。妻はとうとう身を震わして泣き出した。意外にも仁右衛門は叱りつけなかった。そして自分は大きな荷を軽々と背負い上げてその上に馬の皮を乗せた。二人は言い合せたようにもう一度小屋を見廻した。
 小屋の戸を開けると顔向けも出来ないほど雪が吹き込んだ。荷を背負って重くなった二人の体はまだ堅くならない白い泥の中に腰のあたりまで埋まった。
 仁右衛門は一旦戸外そとに出てから待てといって引返して来た。荷物を背負ったままで、彼れは藁繩の片っ方の端を囲炉裡にくべ、もう一つの端を壁際にもって行ってその上にこまかく刻んだ馬糧の藁をふりかけた。
 天も地も一つになった。さっと風が吹きおろしたと思うと、積雪は自分の方から舞い上るように舞上った。それが横なぐりになびいて矢よりも早く空を飛んだ。佐藤の小屋やそのまわりの木立は見えたり隠れたりした。風に向った二人の半身はたちまち白く染まって、細かい針で絶間なく刺すような刺戟しげきは二人の顔を真赤にして感覚を失わしめた。二人は睫毛まつげに氷りつく雪を打振い打振い雪の中をこいだ。
 国道に出ると雪道がついていた。踏み堅められない深みに落ちないように仁右衛門は先きに立って瀬踏みをしながら歩いた。大きな荷を背負った二人の姿はまろびがちに少しずつ動いて行った。共同墓地の下を通る時、妻は手を合せてそっちを拝みながら歩いた――わざとらしいほど高い声を挙げて泣きながら。二人がこの村に這入はいった時は一頭の馬も持っていた。一人の赤坊もいた。二人はそれらのものすら自然から奪い去られてしまったのだ。
 その辺から人家は絶えた。吹きつける雪のためにへし折られる枯枝がややともすると投槍のように襲って来た。吹きまく風にもまれて木という木は魔女の髪のように乱れ狂った。
 二人の男女は重荷の下に苦しみながら少しずつ倶知安くっちゃんの方に動いて行った。
 椴松帯とどまつたいが向うに見えた。すべてのが裸かになった中に、この樹だけは幽鬱ゆううつな暗緑の葉色をあらためなかった。真直な幹が見渡す限り天をいて、怒濤どとうのような風の音をめていた。二人の男女はありのように小さくその林に近づいて、やがてその中に呑み込まれてしまった。

(一九一七、六、一三、鶏鳴を聞きつつ擱筆かくひつ




 



底本:「カインの末裔 クララの出家」岩波文庫、岩波書店
   1940(昭和15)年9月10日第1刷発行
   1980(昭和55)年5月16日第25刷改版発行
   1990(平成2)年4月15日第35刷発行
底本の親本:「有島武郎著作集 第三輯」新潮社
   1918(大正7)年2月刊
初出:「新小説」
   1917(大正6)年7月号
入力:鈴木厚司
校正:地田尚
2000年3月4日公開
2005年9月24日修正
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