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カインの末裔(カインのまつえい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-21 11:07:43  点击:  切换到繁體中文

底本: カインの末裔 クララの出家
出版社: 岩波文庫、岩波書店
初版発行日: 1940(昭和15)年9月10日、1980(昭和55)年5月16日第25刷改版
入力に使用: 1990(平成2)年4月15日第35刷


底本の親本: 有島武郎著作集 第三輯
出版社: 新潮社
初版発行日: 1918(大正7)年2月刊

 

   (一)

 長い影を地にひいて、痩馬やせうま手綱たづなを取りながら、れは黙りこくって歩いた。大きな汚い風呂敷包と一緒に、章魚たこのように頭ばかり大きい赤坊あかんぼうをおぶった彼れの妻は、少し跛脚ちんばをひきながら三、四間も離れてその跡からとぼとぼとついて行った。
 北海道の冬は空までせまっていた。蝦夷富士えぞふじといわれるマッカリヌプリのふもとに続く胆振いぶりの大草原を、日本海から内浦湾うちうらわんに吹きぬける西風が、打ち寄せる紆濤うねりのように跡から跡から吹き払っていった。寒い風だ。見上げると八合目まで雪になったマッカリヌプリは少し頭を前にこごめて風に歯向いながら黙ったまま突立っていた。昆布岳こんぶだけの斜面に小さく集った雲の塊を眼がけて日は沈みかかっていた。草原の上には一本の樹木も生えていなかった。心細いほど真直まっすぐな一筋道を、彼れと彼れの妻だけが、よろよろと歩く二本の立木のように動いて行った。
 二人は言葉を忘れた人のようにいつまでも黙って歩いた。馬がいばりをする時だけ彼れは不性無性ふしょうぶしょうたちどまった。妻はその暇にようやく追いついてせなかの荷をゆすり上げながら溜息をついた。馬が溺りをすますと二人はまた黙って歩き出した。
「ここらおやじ(熊の事)が出るずら」
 四里にわたるこの草原の上で、たった一度妻はこれだけの事をいった。慣れたものには時刻といい、所柄ところがらといい熊の襲来を恐れる理由があった。彼れはいまいましそうに草の中につばを吐き捨てた。
 草原の中の道がだんだん太くなって国道に続く所まで来た頃には日は暮れてしまっていた。物の輪郭りんかく円味まるみを帯びずに、堅いままで黒ずんで行くこちんとした寒い晩秋の夜が来た。
 着物は薄かった。そして二人はっていた。妻は気にして時々赤坊を見た。生きているのか死んでいるのか、とにかく赤坊はいびきも立てないで首を右の肩にがくりと垂れたまま黙っていた。
 国道の上にはさすがに人影が一人二人動いていた。大抵は市街地に出て一杯飲んでいたのらしく、行違いにしたたか酒の香を送ってよこすものもあった。彼れは酒の香をかぐと急にえぐられるような渇きと食欲とを覚えて、すれ違った男を見送ったりしたが、いまいましさに吐き捨てようとする唾はもう出て来なかった。のりのように粘ったものがくちびるの合せ目をとじ付けていた。
 内地ならば庚申塚こうしんづかか石地蔵でもあるはずの所に、真黒になった一丈もありそうな標示杭ひょうじぐいが斜めになって立っていた。そこまで来ると干魚ひざかなをやくにおいがかすかに彼れの鼻をうったと思った。彼れははじめて立停った。痩馬も歩いた姿勢をそのままにのそりと動かなくなった。たてがみ尻尾しりっぽだけが風に従ってなびいた。
「何んていうだ農場は」
 背丈せたけの図抜けて高い彼れは妻を見おろすようにしてこうつぶやいた。
「松川農場たらいうだが」
「たらいうだ? 白痴こけ
 彼れは妻と言葉を交わしたのがしゃくにさわった。そして馬の鼻をぐんと手綱でしごいてまた歩き出した。らくなった谷をへだてて少し此方こっちよりも高い位の平地に、忘れたように間をおいてともされた市街地のかすかな灯影ほかげは、人気ひとけのない所よりもかえって自然を淋しく見せた。彼れはそのを見るともう一種のおびえを覚えた。人の気配けはいをかぎつけると彼れは何んとか身づくろいをしないではいられなかった。自然さがその瞬間に失われた。それを意識する事が彼れをいやが上にも仏頂面ぶっちょうづらにした。「敵が眼の前に来たぞ。馬鹿なつらをしていやがって、尻子玉しりこだまでもひっこぬかれるな」とでもいいそうな顔を妻の方に向けて置いて、歩きながら帯をしめ直した。良人おっとの顔付きには気も着かないほど眼を落した妻は口をだらりとけたまま一切無頓着でただ馬の跡について歩いた。
 K市街地の町端まちはずれには空屋あきやが四軒までならんでいた。小さな窓は髑髏どくろのそれのような真暗な眼を往来に向けて開いていた。五軒目には人が住んでいたがうごめく人影の間に囲炉裡いろり根粗朶ねそだがちょろちょろと燃えるのが見えるだけだった。六軒目には蹄鉄屋ていてつやがあった。怪しげな煙筒からは風にこきおろされた煙の中にまじって火花が飛び散っていた。店は熔炉ようろ火口ひぐちを開いたように明るくて、馬鹿馬鹿しくだだっ広い北海道の七間道路が向側むこうがわまではっきりと照らされていた。片側町ではあるけれども、とにかく家並があるだけに、しい方向むきを変えさせられた風の脚が意趣に砂をげた。砂は蹄鉄屋の前の火の光に照りかえされて濛々もうもうと渦巻く姿を見せた。仕事場のふいごまわりには三人の男が働いていた。鉄砧かなしきにあたる鉄槌かなづちの音が高く響くと疲れ果てた彼れの馬さえが耳を立てなおした。彼れはこの店先きに自分の馬を引張って来る時の事を思った。妻は吸い取られるように暖かそうな火の色に見惚みとれていた。二人は妙にわくわくした心持ちになった。
 蹄鉄屋の先きは急に闇がこまかくなって大抵の家はもう戸じまりをしていた。荒物屋あらものやを兼ねた居酒屋いざかやらしい一軒から食物の香と男女のふざけ返った濁声だみごえがもれるほかには、真直まっすぐな家並は廃村のように寒さの前にちぢこまって、電信柱だけが、けうというなりを立てていた。彼れと馬と妻とは前の通りに押黙って歩いた。歩いては時折り思い出したように立停った。立停ってはまた無意味らしく歩き出した。
 四、五町歩いたと思うと彼らはもう町はずれに来てしまっていた。道がへし折られたように曲って、その先きは、真闇まっくらな窪地に、急な勾配こうばいを取って下っていた。彼らはその突角とっかくまで行ってまた立停った。遙か下の方からは、うざうざするほど繁り合った濶葉樹林かつようじゅりんに風の這入はいる音のほかに、シリベシ河のかすかな水の音だけが聞こえていた。
「聞いて見ずに」
 妻は寒さに身をふるわしながらこううめいた。
われ聞いて見べし」
 いきなりそこにしゃごんでしまった彼れの声は地の中からでも出て来たようだった。妻は荷をゆりあげて鼻をすすりすすり取って返した。一軒の家の戸をたたいて、ようやく松川農場のありかを教えてもらった時は、彼れの姿を見分けかねるほど遠くに来ていた。大きな声を出す事が何んとなく恐ろしかった。恐ろしいばかりではない、声を出す力さえなかった。そして跛脚ちんばをひきひきまた返って来た。
 彼らは眠くなるほど疲れ果てながらまた三町ほど歩かねばならなかった。そこに下見囲したみがこい板葺いたぶきの真四角な二階建がほかの家並を圧して立っていた。
 妻が黙ったまま立留たちどまったので、彼れはそれが松川農場の事務所である事を知った。ほんとうをいうと彼れは始めからこの建物がそれにちがいないと思っていたが、這入るのがいやなばかりに知らんふりをして通りぬけてしまったのだ。もう進退きわまった。彼れは道の向側の立樹たちきの幹に馬をつないで、燕麦からすむぎと雑草とを切りこんだ亜麻袋を鞍輪くらわからほどいて馬の口にあてがった。ぼりりぼりりという歯ぎれのいい音がすぐ聞こえ出した。彼れと妻とはまた道を横切って、事務所の入口の所まで来た。そこで二人は不安らしく顔を見合わせた。妻がぎごちなそうに手を挙げて髪をいじっている間に彼れは思い切って半分ガラスになっている引戸を開けた。滑車がけたたましい音をたてて鉄の溝をすべった。がたぴしする戸ばかりをあつかい慣れている彼れの手の力があまったのだ。妻がぎょっとするはずみにせなかの赤坊も眼をさまして泣き出した。帳場にいた二人の男は飛び上らんばかりに驚いてこちらを見た。そこには彼れと妻とが泣く赤坊の始末もせずにのそりと突立っていた。
「何んだ手前てめえたちは、戸を開けっぱなしにしくさって風が吹き込むでねえか。這入るのなら早く這入ってう」
 こんあつしをセルの前垂れで合せて、かし角火鉢かくひばち横座よこざに坐った男がまゆをしかめながらこう怒鳴どなった。人間の顔――ことにどこか自分より上手うわてな人間の顔を見ると彼れの心はすぐ不貞腐ふてくされるのだった。やいばに歯向う獣のように捨鉢すてばちになって彼れはのさのさと図抜けて大きな五体を土間に運んで行った。妻はおずおずと戸をめて戸外に立っていた、赤坊の泣くのも忘れ果てるほどに気を転倒させて。
 声をかけたのは三十前後の、眼の鋭い、口髭くちひげの不似合な、長顔の男だった。農民の間で長顔の男を見るのは、豚の中で馬の顔を見るようなものだった。彼れの心は緊張しながらもその男の顔を珍らしげに見入らない訳には行かなかった。彼れは辞儀一つしなかった。
 赤坊がくびり殺されそうに戸の外で泣き立てた。彼れはそれにも気を取られていた。
 上框あがりがまちに腰をかけていたもう一人の男はややしばらく彼れの顔を見つめていたが、浪花節なにわぶし語りのような妙に張りのある声で突然口を切った。
「お主は川森さんのゆかりのものじゃないんかの。どうやら顔が似とるじゃが」
 今度は彼れの返事も待たずに長顔の男の方を向いて、
帳場ちょうばさんにも川森からはないたはずじゃがの。ぬしがの血筋を岩田が跡に入れてもらいたいいうてな」
 また彼れの方を向いて、
「そうじゃろがの」
 それに違いなかった。しかし彼れはその男を見ると虫唾むしずが走った。それも百姓に珍らしい長い顔の男で、禿あがった額から左の半面にかけて火傷やけどの跡がてらてらと光り、下瞼したまぶたが赤くべっかんこをしていた。そしてくちびるが紙のように薄かった。
 帳場と呼ばれた男はその事なら飲み込めたという風に、時々上眼うわめにらにらみ、色々な事を彼れにただした。そして帳場机の中から、美濃紙みのがみ細々こまごまと活字を刷った書類を出して、それに広岡仁右衛門にんえもんという彼れの名と生れ故郷とを記入して、よく読んでから判を押せといって二通つき出した。仁右衛門(これから彼れという代りに仁右衛門と呼ぼう)はもとより明盲あきめくらだったが、農場でも漁場ぎょばでも鉱山でも飯を食うためにはそういう紙の端に盲判を押さなければならないという事は心得ていた。彼れは腹がけのどんぶりの中を探り廻わしてぼろぼろの紙のかたまりをつかみ出した。そしてたけのこの皮をぐように幾枚もの紙を剥がすと真黒になった三文判がころがり出た。彼れはそれに息気いきを吹きかけて証書にあなのあくほど押しつけた。そして渡された一枚を判と一緒に丼の底にしまってしまった。これだけの事で飯の種にありつけるのはありがたい事だった。戸外では赤坊がまだ泣きやんでいなかった。

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