二八
こんな夢のような楽しさがたわいもなく一週間ほどはなんの故障もひき起こさずに続いた。歓楽に耽溺しやすい、従っていつでも現在をいちばん楽しく過ごすのを生まれながら本能としている葉子は、こんな有頂天な境界から一歩でも踏み出す事を極端に憎んだ。葉子が帰ってから一度しか会う事のできない妹たちが、休日にかけてしきりに遊びに来たいと訴え来るのを、病気だとか、家の中が片づかないとか、口実を設けて拒んでしまった。木村からも古藤の所か五十川女史の所かにあててたよりが来ているには相違ないと思ったけれども、五十川女史はもとより古藤の所にさえ住所が知らしてないので、それを回送してよこす事もできないのを葉子は知っていた。定子――この名は時々葉子の心を未練がましくさせないではなかった。しかし葉子はいつでも思い捨てるようにその名を心の中から振り落とそうと努めた。倉地の妻の事は何かの拍子につけて心を打った。この瞬間だけは葉子の胸は呼吸もできないくらい引き締められた。それでも葉子は現在目前の歓楽をそんな心痛で破らせまいとした。そしてそのためには倉地にあらん限りの媚びと親切とをささげて、倉地から同じ程度の愛撫をむさぼろうとした。そうする事が自然にこの難題に解決をつける導火線にもなると思った。
倉地も葉子に譲らないほどの執着をもって葉子がささげる杯から歓楽を飲み飽きようとするらしかった。不休の活動を命としているような倉地ではあったけれども、この家に移って来てから、家を明けるような事は一度もなかった。それは倉地自身が告白するように破天荒な事だったらしい。二人は、初めて恋を知った少年少女が世間も義理も忘れ果てて、生命さえ忘れ果てて肉体を破ってまでも魂を一つに溶かしたいとあせる、それと同じ熱情をささげ合って互い互いを楽しんだ。楽しんだというよりも苦しんだ。その苦しみを楽しんだ。倉地はこの家に移って以来新聞も配達させなかった。郵便だけは移転通知をして置いたので倉地の手もとに届いたけれども、倉地はその表書きさえ目を通そうとはしなかった。毎日の郵便はつやの手によって束にされて、葉子が自分の部屋に定めた玄関わきの六畳の違い棚にむなしく積み重ねられた。葉子の手もとには妹たちからのほかには一枚のはがきさえ来なかった。それほど世間から自分たちを切り放しているのを二人とも苦痛とは思わなかった。苦痛どころではない、それが幸いであり誇りであった。門には「木村」とだけ書いた小さい門札が出してあった。木村という平凡な姓は二人の楽しい巣を世間にあばくような事はないと倉地がいい出したのだった。
しかしこんな生活を倉地に長い間要求するのは無理だということを葉子はついに感づかねばならなかった。ある夕食の後倉地は二階の一間で葉子を力強く膝の上に抱き取って、甘い私語を取りかわしていた時、葉子が情に激して倉地に与えた熱い接吻の後にすぐ、倉地が思わず出たあくびをじっとかみ殺したのをいち早く見て取ると、葉子はこの種の歓楽がすでに峠を越した事を知った。その夜は葉子には不幸な一夜だった。かろうじて築き上げた永遠の城塞が、はかなくも瞬時の蜃気楼のように見る見るくずれて行くのを感じて、倉地の胸に抱かれながらほとんど一夜を眠らずに通してしまった。
それでも翌日になると葉子は快活になっていた。ことさら快活に振る舞おうとしていたには違いないけれども、葉子の倉地に対する溺愛は葉子をしてほとんど自然に近い容易さをもってそれをさせるに充分だった。
「きょうはわたしの部屋でおもしろい事して遊びましょう。いらっしゃいな」
そういって少女が少女を誘うように牡牛のように大きな倉地を誘った。倉地は煙ったい顔をしながら、それでもそのあとからついて来た。
部屋はさすがに葉子のものであるだけ、どことなく女性的な軟らか味を持っていた。東向きの腰高窓には、もう冬といっていい十一月末の日が熱のない強い光を射つけて、アメリカから買って帰った上等の香水をふりかけた匂い玉からかすかながらきわめて上品な芳芬を静かに部屋の中にまき散らしていた。葉子はその匂い玉の下がっている壁ぎわの柱の下に、自分にあてがわれたきらびやかな縮緬の座ぶとんを移して、それに倉地をすわらせておいて、違い棚から郵便の束をいくつとなく取りおろして来た。
「さあけさは岩戸のすきから世の中をのぞいて見るのよ。それもおもしろいでしょう」
といいながら倉地に寄り添った。倉地は幾十通とある郵便物を見たばかりでいいかげんげんなりした様子だったが、だんだんと興味を催して来たらしく、日の順に一つの束からほどき始めた。
いかにつまらない事務用の通信でも、交通遮断の孤島か、障壁で高く囲まれた美しい牢獄に閉じこもっていたような二人に取っては予想以上の気散じだった。倉地も葉子もありふれた文句にまで思い存分の批評を加えた。こういう時の葉子はそのほとばしるような暖かい才気のために世にすぐれておもしろ味の多い女になった。口をついて出る言葉言葉がどれもこれも絢爛な色彩に包まれていた。二日目の所には岡から来た手紙が現われ出た。船の中での礼を述べて、とうとう葉子と同じ船で帰って来てしまったために、家元では相変わらずの薄志弱行と人毎に思われるのが彼を深く責める事や、葉子に手紙を出したいと思ってあらゆる手がかりを尋ねたけれども、どうしてもわからないので会社で聞き合わせて事務長の住所を知り得たからこの手紙を出すという事や、自分はただただ葉子を姉と思って尊敬もし慕いもしているのだから、せめてその心を通わすだけの自由が与えてもらいたいという事だのが、思い入った調子で、下手な字体で書いてあった。葉子は忘却の廃址の中から、生々とした少年の大理石像を掘りあてた人のようにおもしろがった。
「わたしが愛子の年ごろだったらこの人と心中ぐらいしているかもしれませんね。あんな心を持った人でも少し齢を取ると男はあなたみたいになっちまうのね」
「あなたとはなんだ」
「あなたみたいな悪党に」
「それはお門が違うだろう」
「違いませんとも……御同様にというほうがいいわ。私は心だけあなたに来て、からだはあの人にやるとほんとはよかったんだが……」
「ばか! おれは心なんぞに用はないわい」
「じゃ心のほうをあの人にやろうかしらん」
「そうしてくれ。お前にはいくつも心があるはずだから、ありったけくれてしまえ」
「でもかわいそうだからいちばん小さそうなのを一つだけあなたの分に残して置きましょうよ」
そういって二人は笑った。倉地は返事を出すほうに岡のその手紙を仕分けた。葉子はそれを見て軽い好奇心がわくのを覚えた。
たくさんの中からは古藤のも出て来た。あて名は倉地だったけれども、その中からは木村から葉子に送られた分厚な手紙だけが封じられていた。それと同時な木村の手紙があとから二本まで現われ出た。葉子は倉地の見ている前で、そのすべてを読まないうちにずたずたに引き裂いてしまった。
「ばかな事をするじゃない。読んで見るとおもしろかったに」
葉子を占領しきった自信を誇りがな微笑に見せながら倉地はこういった。
「読むとせっかくの昼御飯がおいしくなくなりますもの」
そういって葉子は胸くその悪いような顔つきをして見せた。二人はまたたわいなく笑った。
報正新報社からのもあった。それを見ると倉地は、一時はもみ消しをしようと思ってわたりをつけたりしたのでこんなものが来ているのだがもう用はなくなったので見るには及ばないといって、今度は倉地が封のままに引き裂いてしまった。葉子はふと自分が木村の手紙を裂いた心持ちを倉地のそれにあてはめてみたりした。しかしその疑問もすぐ過ぎ去ってしまった。
やがて郵船会社からあてられた江戸川紙の大きな封書が現われ出た。倉地はちょっと眉に皺をよせて少し躊躇したふうだったが、それを葉子の手に渡して葉子に開封させようとした。何の気なしにそれを受け取った葉子は魔がさしたようにはっと思った。とうとう倉地は自分のために……葉子は少し顔色を変えながら封を切って中から卒業証書のような紙を二枚と、書記が丁寧に書いたらしい書簡一封とを探り出した。
はたしてそれは免職と、退職慰労との会社の辞令だった。手紙には退職慰労金の受け取り方に関する注意が事々しい行書で書いてあるのだった。葉子はなんといっていいかわからなかった。こんな恋の戯れの中からかほどな打撃を受けようとは夢にも思ってはいなかったのだ。倉地がここに着いた翌日葉子にいって聞かせた言葉はほんとうの事だったのか。これほどまでに倉地は真身になってくれていたのか。葉子は辞令を膝の上に置いたまま下を向いて黙ってしまった。目がしらの所が非常に熱い感じを得たと思った、鼻の奥が暖かくふさがって来た。泣いている場合ではないと思いながらも、葉子は泣かずにはいられないのを知り抜いていた。
「ほんとうに私がわるうございました……許してくださいまし……(そういううちに葉子はもう泣き始めていた)……私はもう日陰の妾としてでも囲い者としてでもそれで充分に満足します。えゝ、それでほんとうにようござんす。わたしはうれしい……」
倉地は今さら何をいうというような平気な顔で葉子の泣くのを見守っていたが、
「妾も囲い者もあるかな、おれには女はお前一人よりないんだからな。離縁状は横浜の土を踏むと一緒に嬶に向けてぶっ飛ばしてあるんだ」
といってあぐらの膝で貧乏ゆすりをし始めた。さすがの葉子も息気をつめて、泣きやんで、あきれて倉地の顔を見た。
「葉子、おれが木村以上にお前に深惚れしているといつか船の中でいって聞かせた事があったな。おれはこれでいざとなると心にもない事はいわないつもりだよ。双鶴館にいる間もおれは幾日も浜には行きはしなんだのだ。たいていは家内の親類たちとの談判で頭を悩ませられていたんだ。だがたいていけりがついたから、おれは少しばかり手回りの荷物だけ持って一足先にここに越して来たのだ。……もうこれでええや。気がすっぱりしたわ。これには双鶴館のお内儀も驚きくさるだろうて……」
会社の辞令ですっかり倉地の心持ちをどん底から感じ得た葉子は、この上倉地の妻の事を疑うべき力は消え果てていた。葉子の顔は涙にぬれひたりながらそれをふき取りもせず、倉地にすり寄って、その両肩に手をかけて、ぴったりと横顔を胸にあてた。夜となく昼となく思い悩みぬいた事がすでに解決されたので、葉子は喜んでも喜んでも喜び足りないように思った。自分も倉地と同様に胸の中がすっきりすべきはずだった。けれどもそうは行かなかった。葉子はいつのまにか去られた倉地の妻その人のようなさびしい悲しい自分になっているのを発見した。
倉地はいとしくってならぬようにエボニー色の雲のようにまっ黒にふっくりと乱れた葉子の髪の毛をやさしくなで回した。そしていつもに似ずしんみりした調子になって、
「とうとうおれも埋れ木になってしまった。これから地面の下で湿気を食いながら生きて行くよりほかにはない。――おれは負け惜しみをいうはきらいだ。こうしている今でもおれは家内や娘たちの事を思うと不憫に思うさ。それがない事ならおれは人間じゃないからな。……だがおれはこれでいい。満足この上なしだ。……自分ながらおれはばかになり腐ったらしいて」
そういって葉子の首を固くかきいだいた。葉子は倉地の言葉を酒のように酔い心地にのみ込みながら「あなただけにそうはさせておきませんよ。わたしだって定子をみごとに捨てて見せますからね」と心の中で頭を下げつつ幾度もわびるように繰り返していた。それがまた自分で自分を泣かせる暗示となった。倉地の胸に横たえられた葉子の顔は、綿入れと襦袢とを通して倉地の胸を暖かく侵すほど熱していた。倉地の目も珍しく曇っていた。そうして泣き入る葉子を大事そうにかかえたまま、倉地は上体を前後に揺すぶって、赤子でも寝かしつけるようにした。戸外ではまた東京の初冬に特有な風が吹き出たらしく、杉森がごうごうと鳴りを立てて、枯れ葉が明るい障子に飛鳥のような影を見せながら、からからと音を立ててかわいた紙にぶつかった。それは埃立った、寒い東京の街路を思わせた。けれども部屋の中は暖かだった。葉子は部屋の中が暖かなのか寒いのかさえわからなかった。ただ自分の心が幸福にさびしさに燃えただれているのを知っていた。ただこのままで永遠は過ぎよかし。ただこのままで眠りのような死の淵に陥れよかし。とうとう倉地の心と全く融け合った自分の心を見いだした時、葉子の魂の願いは生きようという事よりも死のうという事だった。葉子はその悲しい願いの中に勇み甘んじておぼれて行った。
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