二七
「何をわたしは考えていたんだろう。どうかして心が狂ってしまったんだ。こんな事はついぞない事だのに」
葉子はその夜倉地と部屋を別にして床についた。倉地は階上に、葉子は階下に。絵島丸以来二人が離れて寝たのはその夜が始めてだった。倉地が真心をこめた様子でかれこれいうのを、葉子はすげなくはねつけて、せっかくとってあった二階の寝床を、女中に下に運ばしてしまった。横になりはしたがいつまでも寝つかれないで二時近くまで言葉どおりに輾転反側しつつ、繰り返し繰り返し倉地の夫婦関係を種々に妄想したり、自分にまくしかかって来る将来の運命をひたすらに黒く塗ってみたりしていた。それでも果ては頭もからだも疲れ果てて夢ばかりな眠りに陥ってしまった。
うつらうつらとした眠りから、突然たとえようのないさびしさにひしひしと襲われて、――それはその時見た夢がそんな暗示になったのか、それとも感覚的な不満が目をさましたのかわからなかった――葉子は暗闇の中に目を開いた。あらしのために電線に故障ができたと見えて、眠る時にはつけ放しにしておいた灯がどこもここも消えているらしかった。あらしはしかしいつのまにか凪ぎてしまって、あらしのあとの晩秋の夜はことさら静かだった。山内いちめんの杉森からは深山のような鬼気がしんしんと吐き出されるように思えた。こおろぎが隣の部屋のすみでかすれがすれに声を立てていた。わずかなしかも浅い睡眠には過ぎなかったけれども葉子の頭は暁前の冷えを感じて冴え冴えと澄んでいた。葉子はまず自分がたった一人で寝ていた事を思った。倉地と関係がなかったころはいつでも一人で寝ていたのだが、よくもそんな事が長年にわたってできたものだったと自分ながら不思議に思われるくらい、それは今の葉子を物足らなく心さびしくさせていた。こうして静かな心になって考えると倉地の葉子に対する愛情が誠実であるのを疑うべき余地はさらになかった。日本に帰ってから幾日にもならないけれども、今まではとにかく倉地の熱意に少しも変わりが起こった所は見えなかった。いかに恋に目がふさがっても、葉子はそれを見きわめるくらいの冷静な眼力は持っていた。そんな事は充分に知り抜いているくせに、おぞましくも昨夜のようなばかなまねをしてしまった自分が自分ながら不思議なくらいだった。どんなに情に激した時でもたいていは自分を見失うような事はしないで通して来た葉子にはそれがひどく恥ずかしかった。船の中にいる時にヒステリーになったのではないかと疑った事が二三度ある――それがほんとうだったのではないかしらんとも思われた。そして夜着にかけた洗い立てのキャリコの裏の冷え冷えするのをふくよかな頤に感じながら心の中で独語ちた。
「何をわたしは考えていたんだろう。どうかして心が狂ってしまったんだ。こんな事はついぞない事だのに」
そういいながら葉子は肩だけ起き直って、枕もとの水を手さぐりでしたたか飲みほした。氷のように冷えきった水が喉もとを静かに流れ下って胃の腑に広がるまではっきりと感じられた。酒も飲まないのだけれども、酔後の水と同様に、胃の腑に味覚ができて舌の知らない味を味わい得たと思うほど快く感じた。それほど胸の中は熱を持っていたに違いない。けれども足のほうは反対に恐ろしく冷えを感じた。少しその位置を動かすと白さをそのままな寒い感じがシーツから逼って来るのだった。葉子はまたきびしく倉地の胸を思った。それは寒さと愛着とから葉子を追い立てて二階に走らせようとするほどだった。しかし葉子はすでにそれをじっとこらえるだけの冷静さを回復していた。倉地の妻に対する処置は昨夜のようであっては手ぎわよくは成し遂げられぬ。もっと冷たい知恵に力を借りなければならぬ――こう思い定めながら暁の白むのを知らずにまた眠りに誘われて行った。
翌日葉子はそれでも倉地より先に目をさまして手早く着がえをした。自分で板戸を繰りあけて見ると、縁先には、枯れた花壇の草や灌木が風のために吹き乱された小庭があって、その先は、杉、松、その他の喬木の茂みを隔てて苔香園の手広い庭が見やられていた。きのうまでいた双鶴館の周囲とは全く違った、同じ東京の内とは思われないような静かな鄙びた自然の姿が葉子の目の前には見渡された。まだ晴れきらない狭霧をこめた空気を通して、杉の葉越しにさしこむ朝の日の光が、雨にしっとりと潤った庭の黒土の上に、まっすぐな杉の幹を棒縞のような影にして落としていた。色さまざまな桜の落ち葉が、日向では黄に紅に、日影では樺に紫に庭をいろどっていた。いろどっているといえば菊の花もあちこちにしつけられていた。しかし一帯の趣味は葉子の喜ぶようなものではなかった。塵一つさえないほど、貧しく見える瀟洒な趣味か、どこにでも金銀がそのまま捨ててあるような驕奢な趣味でなければ満足ができなかった。残ったのを捨てるのが惜しいとかもったいないとかいうような心持ちで、余計な石や植木などを入れ込んだらしい庭の造りかたを見たりすると、すぐさまむしり取って目にかからない所に投げ捨てたく思うのだった。その小庭を見ると葉子の心の中にはそれを自分の思うように造り変える計画がうずうずするほどわき上がって来た。
それから葉子は家の中をすみからすみまで見て回った。きのう玄関口に葉子を出迎えた女中が、戸を繰る音を聞きつけて、いち早く葉子の所に飛んで来たのを案内に立てた。十八九の小ぎれいな娘で、きびきびした気象らしいのに、いかにも蓮っ葉でない、主人を持てば主人思いに違いないのを葉子は一目で見ぬいて、これはいい人だと思った。それはやはり双鶴館の女将が周旋してよこした、宿に出入りの豆腐屋の娘だった。つや(彼女の名はつやといった)は階子段下の玄関に続く六畳の茶の間から始めて、その隣の床の間付きの十二畳、それから十二畳と廊下を隔てて玄関とならぶ茶席風の六畳を案内し、廊下を通った突き当たりにある思いのほか手広い台所、風呂場を経て張り出しになっている六畳と四畳半(そこがこの家を建てた主人の居間となっていたらしく、すべての造作に特別な数寄が凝らしてあった)に行って、その雨戸を繰り明けて庭を見せた。そこの前栽は割合に荒れずにいて、ながめが美しかったが、葉子は垣根越しに苔香園の母屋の下の便所らしいきたない建て物の屋根を見つけて困ったものがあると思った。そのほかには台所のそばにつやの四畳半の部屋が西向きについていた。女中部屋を除いた五つの部屋はいずれもなげし付きになって、三つまでは床の間さえあるのに、どうして集めたものかとにかく掛け物なり置き物なりがちゃんと飾られていた。家の造りや庭の様子などにはかなりの注文も相当の眼識も持ってはいたが、絵画や書の事になると葉子はおぞましくも鑑識の力がなかった。生まれつき機敏に働く才気のお陰で、見たり聞いたりした所から、美術を愛好する人々と膝をならべても、とにかくあまりぼろらしいぼろは出さなかったが、若い美術家などがほめる作品を見てもどこが優れてどこに美しさがあるのか葉子には少しも見当のつかない事があった。絵といわず字といわず、文学的の作物などに対しても葉子の頭はあわれなほど通俗的であるのを葉子は自分で知っていた。しかし葉子は自分の負けじ魂から自分の見方が凡俗だとは思いたくなかった。芸術家などいう連中には、骨董などをいじくって古味というようなものをありがたがる風流人と共通したような気取りがある。その似而非気取りを葉子は幸いにも持ち合わしていないのだと決めていた。葉子はこの家に持ち込まれている幅物を見て回っても、ほんとうの値打ちがどれほどのものだかさらに見当がつかなかった。ただあるべき所にそういう物のあることを満足に思った。
つやの部屋のきちんと手ぎわよく片づいているのや、二三日空家になっていたのにも係わらず、台所がきれいにふき掃除がされていて、布巾などが清々しくからからにかわかしてかけてあったりするのは一々葉子の目を快く刺激した。思ったより住まい勝手のいい家と、はきはきした清潔ずきな女中とを得た事がまず葉子の寝起きの心持ちをすがすがしくさせた。
葉子はつやのくんで出したちょうどいいかげんの湯で顔を洗って、軽く化粧をした。昨夜の事などは気にもかからないほど心は軽かった。葉子はその軽い心を抱きながら静かに二階に上がって行った。何とはなしに倉地に甘えたいような、わびたいような気持ちでそっと襖を明けて見ると、あの強烈な倉地の膚の香いが暖かい空気に満たされて鼻をかすめて来た。葉子はわれにもなく駆けよって、仰向けに熟睡している倉地の上に羽がいにのしかかった。
暗い中で倉地は目ざめたらしかった。そして黙ったまま葉子の髪や着物から花べんのようにこぼれ落ちるなまめかしい香りを夢心地でかいでいるようだったが、やがて物たるげに、
「もう起きたんか。何時だな」
といった。まるで大きな子供のようなその無邪気さ。葉子は思わず自分の頬を倉地のにすりつけると、寝起きの倉地の頬は火のように熱く感ぜられた。
「もう八時。……お起きにならないと横浜のほうがおそくなるわ」
倉地はやはり物たるげに、袖口からにょきんと現われ出た太い腕を延べて、短い散切り頭をごしごしとかき回しながら、
「横浜?……横浜にはもう用はないわい。いつ首になるか知れないおれがこの上の御奉公をしてたまるか。これもみんなお前のお陰だぞ。業つくばりめ」
といっていきなり葉子の首筋を腕にまいて自分の胸に押しつけた。
しばらくして倉地は寝床を出たが、昨夜の事などはけろりと忘れてしまったように平気でいた。二人が始めて離れ離れに寝たのにも一言もいわないのがかすかに葉子を物足らなく思わせたけれども、葉子は胸が広々としてなんという事もなく喜ばしくってたまらなかった。で、倉地を残して台所におりた。自分で自分の食べるものを料理するという事にもかつてない物珍しさとうれしさとを感じた。
畳一畳がた日のさしこむ茶の間の六畳で二人は朝餉の膳に向かった。かつては葉山で木部と二人でこうした楽しい膳に向かった事もあったが、その時の心持ちと今の心持ちとを比較する事もできないと葉子は思った。木部は自分でのこのこと台所まで出かけて来て、長い自炊の経験などを得意げに話して聞かせながら、自分で米をといだり、火をたきつけたりした。その当座は葉子もそれを楽しいと思わないではなかった。しかししばらくのうちにそんな事をする木部の心持ちがさもしくも思われて来た。おまけに木部は一日一日とものぐさになって、自分では手を下しもせずに、邪魔になる所に突っ立ったままさしずがましい事をいったり、葉子には何らの感興も起こさせない長詩を例の御自慢の美しい声で朗々と吟じたりした。葉子はそんな目にあうと軽蔑しきった冷ややかなひとみでじろりと見返してやりたいような気になった。倉地は始めからそんな事はてんでしなかった。大きな駄々児のように、顔を洗うといきなり膳の前にあぐらをかいて、葉子が作って出したものを片端からむしゃむしゃときれいに片づけて行った。これが木部だったら、出す物の一つ一つに知ったかぶりの講釈をつけて、葉子の腕まえを感傷的にほめちぎって、かなりたくさんを食わずに残してしまうだろう。そう思いながら葉子は目でなでさするようにして倉地が一心に箸を動かすのを見守らずにはいられなかった。
やがて箸と茶わんとをからりとなげ捨てると、倉地は所在なさそうに葉巻をふかしてしばらくそこらをながめ回していたが、いきなり立ち上がって尻っぱしょりをしながら裸足のまま庭に飛んで降りた。そしてハーキュリーズが針仕事でもするようなぶきっちょうな様子で、狭い庭を歩き回りながら片すみから片づけ出した。まだびしゃびしゃするような土の上に大きな足跡が縦横にしるされた。まだ枯れ果てない菊や萩などが雑草と一緒くたに情けも容赦もなく根こぎにされるのを見るとさすがの葉子もはらはらした。そして縁ぎわにしゃがんで柱にもたれながら、時にはあまりのおかしさに高く声をあげて笑いこけずにはいられなかった。
倉地は少し働き疲れると苔香園のほうをうかがったり、台所のほうに気を配ったりしておいて、大急ぎで葉子のいる所に寄って来た。そして泥になった手を後ろに回して、上体を前に折り曲げて、葉子の鼻の先に自分の顔を突き出してお壺口をした。葉子もいたずららしく周囲に目を配ってその顔を両手にはさみながら自分の口びるを与えてやった。倉地は勇み立つようにしてまた土の上にしゃがみこんだ。
倉地はこうして一日働き続けた。日がかげるころになって葉子も一緒に庭に出てみた。ただ乱暴な、しょう事なしのいたずら仕事とのみ思われたものが、片づいてみるとどこからどこまで要領を得ているのを発見するのだった。葉子が気にしていた便所の屋根の前には、庭のすみにあった椎の木が移してあったりした。玄関前の両側の花壇の牡丹には、藁で器用に霜がこいさえしつらえてあった。
こんなさびしい杉森の中の家にも、時々紅葉館のほうから音曲の音がくぐもるように聞こえて来たり、苔香園から薔薇の香りが風の具合でほんのりとにおって来たりした。ここにこうして倉地と住み続ける喜ばしい期待はひと向きに葉子の心を奪ってしまった。
平凡な人妻となり、子を生み、葉子の姿を魔物か何かのように冷笑おうとする、葉子の旧友たちに対して、かつて葉子がいだいていた火のような憤りの心、腐っても死んでもあんなまねはして見せるものかと誓うように心であざけったその葉子は、洋行前の自分というものをどこかに置き忘れたように、そんな事は思いも出さないで、旧友たちの通って来た道筋にひた走りに走り込もうとしていた。
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