四七
その夜六時すぎ、つやが来て障子を開いてだんだん満ちて行こうとする月が瓦屋根の重なりの上にぽっかりのぼったのをのぞかせてくれている時、見知らぬ看護婦が美しい花束と大きな西洋封筒に入れた手紙とを持ってはいって来てつやに渡した。つやはそれを葉子の枕もとに持って来た。葉子はもう花も何も見る気にはなれなかった。電気もまだ来ていないのでつやにその手紙を読ませてみた。つやは薄明りにすかしすかし読みにくそうに文字を拾った。
「あなたが手術のために入院なさった事を岡君から聞かされて驚きました。で、きょうが外出日であるのを幸いにお見舞いします。
「僕はあなたにお目にかかる気にはなりません。僕はそれほど偏狭に出来上がった人間です。けれども僕はほんとうにあなたをお気の毒に思います。倉地という人間が日本の軍事上の秘密を外国にもらす商売に関係した事が知れるとともに、姿を隠したという報道を新聞で見た時、僕はそんなに驚きませんでした。しかし倉地には二人ほどの外妾があると付け加えて書いてあるのを見て、ほんとうにあなたをお気の毒に思いました。この手紙を皮肉に取らないでください。僕には皮肉はいえません。
「僕はあなたが失望なさらないように祈ります。僕は来週の月曜日から習志野のほうに演習に行きます。木村からのたよりでは、彼は窮迫の絶頂にいるようです。けれども木村はそこを突き抜けるでしょう。
「花を持って来てみました。お大事に。
古藤生」
つやはつかえつかえそれだけを読み終わった。始終古藤をはるか年下な子供のように思っている葉子は、一種侮蔑するような無感情をもってそれを聞いた。倉地が外妾を二人持ってるといううわさは初耳ではあるけれども、それは新聞の記事であってみればあてにはならない。その外妾二人というのが、美人屋敷と評判のあったそこに住む自分と愛子ぐらいの事を想像して、記者ならばいいそうな事だ。ただそう軽くばかり思ってしまった。
つやがその花束をガラスびんにいけて、なんにも飾ってない床の上に置いて行ったあと、葉子は前同様にハンケチを顔にあてて、機械的に働く心の影と戦おうとしていた。
その時突然死が――死の問題ではなく――死がはっきりと葉子の心に立ち現われた。もし手術の結果、子宮底に穿孔ができるようになって腹膜炎を起こしたら、命の助かるべき見込みはないのだ。そんな事をふと思い起こした。部屋の姿も自分の心もどこといって特別に変わったわけではなかったけれども、どことなく葉子の周囲には確かに死の影がさまよっているのをしっかりと感じないではいられなくなった。それは葉子が生まれてから夢にも経験しない事だった。これまで葉子が死の問題を考えた時には、どうして死を招き寄せようかという事ばかりだった。しかし今は死のほうがそろそろと近寄って来ているのだ。
月はだんだん光を増して行って、電灯に灯もともっていた。目の先に見える屋根の間からは、炊煙だか、蚊遣り火だかがうっすらと水のように澄みわたった空に消えて行く。履き物、車馬の類、汽笛の音、うるさいほどの人々の話し声、そういうものは葉子の部屋をいつものとおり取り巻きながら、そして部屋の中はとにかく整頓して灯がともっていて、少しの不思議もないのに、どことも知れずそこには死がはい寄って来ていた。
葉子はぎょっとして、血の代わりに心臓の中に氷の水を瀉ぎこまれたように思った。死のうとする時はとうとう葉子には来ないで、思いもかけず死ぬ時が来たんだ。今までとめどなく流していた涙は、近づくあらしの前のそよ風のようにどこともなく姿をひそめてしまっていた。葉子はあわてふためいて、大きく目を見開き、鋭く耳をそびやかして、そこにある物、そこにある響きを捕えて、それにすがり付きたいと思ったが、目にも耳にも何か感ぜられながら、何が何やら少しもわからなかった。ただ感ぜられるのは、心の中がわけもなくただわくわくとして、すがりつくものがあれば何にでもすがりつきたいと無性にあせっている、その目まぐるしい欲求だけだった。葉子は震える手で枕をなで回したり、シーツをつまみ上げてじっと握り締めてみたりした。冷たい油汗が手のひらににじみ出るばかりで、握ったものは何の力にもならない事を知った。その失望は形容のできないほど大きなものだった。葉子は一つの努力ごとにがっかりして、また懸命にたよりになるもの、根のあるようなものを追い求めてみた。しかしどこをさがしてみてもすべての努力が全くむだなのを心では本能的に知っていた。
周囲の世界は少しのこだわりもなくずるずると平気で日常の営みをしていた。看護婦が草履で廊下を歩いて行く、その音一つを考えてみても、そこには明らかに生命が見いだされた。その足は確かに廊下を踏み、廊下は礎に続き、礎は大地に据えられていた。患者と看護婦との間に取りかわされる言葉一つにも、それを与える人と受ける人とがちゃんと大地の上に存在していた。しかしそれらは奇妙にも葉子とは全く無関係で没交渉だった。葉子のいる所にはどこにも底がない事を知らねばならなかった。深い谷に誤って落ち込んだ人が落ちた瞬間に感ずるあの焦躁……それが連続してやむ時なく葉子を襲うのだった。深さのわからないような暗い闇が、葉子をただ一人まん中に据えておいて、果てしなくそのまわりを包もうと静かに静かに近づきつつある。葉子は少しもそんな事を欲しないのに、葉子の心持ちには頓着なく、休む事なくとどまる事なく、悠々閑々として近づいて来る。葉子は恐ろしさにおびえて声も得上げなかった。そしてただそこからのがれ出たい一心に心ばかりがあせりにあせった。
もうだめだ、力が尽き切ったと、観念しようとした時、しかし、その奇怪な死は、すうっと朝霧が晴れるように、葉子の周囲から消えうせてしまった。見た所、そこには何一つ変わった事もなければ変わった物もない。ただ夏の夕が涼しく夜につながろうとしているばかりだった。葉子はきょとんとして庇の下に水々しく漂う月を見やった。
ただ不思議な変化の起こったのは心ばかりだった。荒磯に波また波が千変万化して追いかぶさって来ては激しく打ちくだけて、まっ白な飛沫を空高く突き上げるように、これといって取り留めのない執着や、憤りや、悲しみや、恨みやが蛛手によれ合って、それが自分の周囲の人たちと結び付いて、わけもなく葉子の心をかきむしっていたのに、その夕方の不思議な経験のあとでは、一筋の透明なさびしさだけが秋の水のように果てしもなく流れているばかりだった。不思議な事には寝入っても忘れきれないほどな頭脳の激痛も痕なくなっていた。
神がかりにあった人が神から見放された時のように、葉子は深い肉体の疲労を感じて、寝床の上に打ち伏さってしまった。そうやっていると自分の過去や現在が手に取るようにはっきり考えられ出した。そして冷ややかな悔恨が泉のようにわき出した。
「間違っていた……こう世の中を歩いて来るんじゃなかった。しかしそれはだれの罪だ。わからない。しかしとにかく自分には後悔がある。できるだけ、生きてるうちにそれを償っておかなければならない」
内田の顔がふと葉子には思い出された。あの厳格なキリストの教師ははたして葉子の所に尋ねて来てくれるかどうかわからない。そう思いながらも葉子はもう一度内田にあって話をしたい心持ちを止める事ができなかった。
葉子は枕もとのベルを押してつやを呼び寄せた。そして手文庫の中から洋紙でとじた手帳を取り出さして、それに毛筆で葉子のいう事を書き取らした。
「木村さんに。
「わたしはあなたを詐っておりました。わたしはこれから他の男に嫁入ります。あなたはわたしを忘れてくださいまし。わたしはあなたの所に行ける女ではないのです。あなたのお思い違いを充分御自分で調べてみてくださいまし。
「倉地さんに。
「わたしはあなたを死ぬまで。けれども二人とも間違っていた事を今はっきり知りました。死を見てから知りました。あなたにはおわかりになりますまい。わたしは何もかも恨みはしません。あなたの奥さんはどうなさっておいでです。……わたしは一緒に泣く事ができる。
「内田のおじさんに。
「わたしは今夜になっておじさんを思い出しました。おば様によろしく。
「木部さんに。
「一人の老女があなたの所に女の子を連れて参るでしょう。その子の顔を見てやってくださいまし。
「愛子と貞世に。
「愛さん、貞ちゃん、もう一度そう呼ばしておくれ。それでたくさん。
「岡さんに。
「わたしはあなたをも怒ってはいません。
「古藤さんに。
「お花とお手紙とをありがとう。あれからわたしは死を見ました。
七月二十一日 葉子」
つやはこんなぽつりぽつりと短い葉子の言葉を書き取りながら、時々怪訝な顔をして葉子を見た。葉子の口びるはさびしく震えて、目にはこぼれない程度に涙がにじみ出していた。
「もうそれでいいありがとうよ。あなただけね、こんなになってしまったわたしのそばにいてくれるのは。……それだのに、わたしはこんなに零落した姿をあなたに見られるのがつらくって、来た日は途中からほかの病院に行ってしまおうかと思ったのよ。ばかだったわね」
葉子は口ではなつかしそうに笑いながら、ほろほろと涙をこぼしてしまった。
「それをこの枕の下に入れておいておくれ。今夜こそはわたし久しぶりで安々とした心持ちで寝られるだろうよ、あすの手術に疲れないようによく寝ておかないといけないわね。でもこんなに弱っていても手術はできるのかしらん……もう蚊帳をつっておくれ。そしてついでに寝床をもっとそっちに引っぱって行って、月の光が顔にあたるようにしてちょうだいな。戸は寝入ったら引いておくれ。……それからちょっとあなたの手をお貸し。……あなたの手は温かい手ね。この手はいい手だわ」
葉子は人の手というものをこんなになつかしいものに思った事はなかった。力をこめた手でそっと抱いて、いつまでもやさしくそれをなでていたかった。つやもいつか葉子の気分に引き入れられて、鼻をすするまでに涙ぐんでいた。
葉子はやがて打ち開いた障子から蚊帳越しにうっとりと月をながめながら考えていた。葉子の心は月の光で清められたかと見えた。倉地が自分を捨てて逃げ出すために書いた狂言が計らずその筋の嫌疑を受けたのか、それとも恐ろしい売国の罪で金をすら葉子に送れぬようになったのか、それはどうでもよかった。よしんば妾が幾人あってもそれもどうでもよかった。ただすべてがむなしく見える中に倉地だけがただ一人ほんとうに生きた人のように葉子の心に住んでいた。互いを堕落させ合うような愛しかたをした、それも今はなつかしい思い出だった。木村は思えば思うほど涙ぐましい不幸な男だった。その思い入った心持ちは何事もわだかまりのなくなった葉子の胸の中を清水のように流れて通った。多年の迫害に復讐する時機が来たというように、岡までをそそのかして、葉子を見捨ててしまったと思われる愛子の心持ちにも葉子は同情ができた。愛子の情けに引かされて葉子を裏切った岡の気持ちはなおさらよくわかった。泣いても泣いても泣き足りないようにかわいそうなのは貞世だった。愛子はいまにきっと自分以上に恐ろしい道に踏み迷う女だと葉子は思った。その愛子のただ一人の妹として……もしも自分の命がなくなってしまった後は……そう思うにつけて葉子は内田を考えた。すべての人は何かの力で流れて行くべき先に流れて行くだろう。そしてしまいにはだれでも自分と同様に一人ぼっちになってしまうんだ。……どの人を見てもあわれまれる……葉子はそう思いふけりながら静かに静かに西に回って行く月を見入っていた。その月の輪郭がだんだんぼやけて来て、空の中に浮き漂うようになると、葉子のまつ毛の一つ一つにも月の光が宿った。涙が目じりからあふれて両方のこめかみの所をくすぐるようにするすると流れ下った。口の中は粘液で粘った。許すべき何人もない。許さるべき何事もない。ただあるがまま……ただ一抹の清い悲しい静けさ。葉子の目はひとりでに閉じて行った。整った呼吸が軽く小鼻を震わして流れた。
つやが戸をたてにそーっとその部屋にはいった時には、葉子は病気を忘れ果てたもののように、がたぴしと戸を締める音にも目ざめずに安らけく寝入っていた。
四八
その翌朝手術台にのぼろうとした葉子は昨夜の葉子とは別人のようだった。激しい呼鈴の音で呼ばれてつやが病室に来た時には、葉子は寝床から起き上がって、したため終わった手紙の状袋を封じている所だったが、それをつやに渡そうとする瞬間にいきなりいやになって、口びるをぶるぶる震わせながらつやの見ている前でそれをずたずたに裂いてしまった。それは愛子にあてた手紙だったのだ。きょうは手術を受けるから九時までにぜひとも立ち会いに来るようにとしたためたのだった。いくら気丈夫でも腹を立ち割る恐ろしい手術を年若い少女が見ていられないくらいは知っていながら、葉子は何がなしに愛子にそれを見せつけてやりたくなったのだ。自分の美しい肉体がむごたらしく傷つけられて、そこから静脈を流れているどす黒い血が流れ出る、それを愛子が見ているうちに気が遠くなって、そのままそこに打ち倒れる、そんな事になったらどれほど快いだろうと葉子は思った。幾度来てくれろと電話をかけても、なんとか口実をつけてこのごろ見も返らなくなった愛子に、これだけの復讐をしてやるのでも少しは胸がすく、そう葉子は思ったのだ。しかしその手紙をつやに渡そうとする段になると、葉子には思いもかけぬ躊躇が来た。もし手術中にはしたない囈言でもいってそれを愛子に聞かれたら。あの冷刻な愛子が面もそむけずにじっと姉の肉体が切りさいなまれるのを見続けながら、心の中で存分に復讐心を満足するような事があったら。こんな手紙を受け取ってもてんで相手にしないで愛子が来なかったら……そんな事を予想すると葉子は手紙を書いた自分に愛想が尽きてしまった。
つやは恐ろしいまでに激昂した葉子の顔を見やりもし得ないで、おずおずと立ちもやらずにそこにかしこまっていた。葉子はそれがたまらないほど癪にさわった。自分に対してすべての人が普通の人間として交わろうとはしない。狂人にでも接するような仕打ちを見せる。だれも彼もそうだ。医者までがそうだ。
「もう用はないのよ。早くあっちにおいで。お前はわたしを気狂いとでも思っているんだろうね。……早く手術をしてくださいってそういっておいで。わたしはちゃんと死ぬ覚悟をしていますからってね」
ゆうべなつかしく握ってやったつやの手の事を思い出すと、葉子は嘔吐を催すような不快を感じてこういった。きたないきたない何もかもきたない。つやは所在なげにそっとそこを立って行った。葉子は目でかみつくようにその後ろ姿を見送った。
その日天気は上々で東向きの壁はさわってみたら内部からでもほんのりと暖かみを感ずるだろうと思われるほど暑くなっていた。葉子はきのうまでの疲労と衰弱とに似ず、その日は起きるとから黙って臥てはいられないくらい、からだが動かしたかった。動かすたびごとに襲って来る腹部の鈍痛や頭の混乱をいやが上にも募らして、思い存分の苦痛を味わってみたいような捨てばちな気分になっていた。そしてふらふらと少しよろけながら、衣紋も乱したまま部屋の中を片づけようとして床の間の所に行った。懸け軸もない床の間の片すみにはきのう古藤が持って来た花が、暑さのために蒸れたようにしぼみかけて、甘ったるい香を放ってうなだれていた。葉子はガラスびんごとそれを持って縁側の所に出た。そしてその花のかたまりの中にむずと熱した手を突っ込んだ。死屍から来るような冷たさが葉子の手に伝わった。葉子の指先は知らず知らず縮まって没義道にそれを爪も立たんばかり握りつぶした。握りつぶしてはびんから引き抜いて手欄から戸外に投げ出した。薔薇、ダリア、小田巻、などの色とりどりの花がばらばらに乱れて二階から部屋の下に当たるきたない路頭に落ちて行った。葉子はほとんど無意識に一つかみずつそうやって投げ捨てた。そして最後にガラスびんを力任せにたたきつけた。びんは目の下で激しくこわれた。そこからあふれ出た水がかわききった縁側板に丸い斑紋をいくつとなく散らかして。
ふと見ると向こうの屋根の物干し台に浴衣の類を持って干しに上がって来たらしい女中風の女が、じっと不思議そうにこっちを見つめているのに気がついた。葉子とは何の関係もないその女までが、葉子のする事を怪しむらしい様子をしているのを見ると、葉子の狂暴な気分はますます募った。葉子は手欄に両手をついてぶるぶると震えながら、その女をいつまでもいつまでもにらみつけた。女のほうでも葉子の仕打ちに気づいて、しばらくは意趣に見返すふうだったが、やがて一種の恐怖に襲われたらしく、干し物を竿に通しもせずにあたふたとあわてて干し物台の急な階子を駆けおりてしまった。あとには燃えるような青空の中に不規則な屋根の波ばかりが目をちかちかさせて残っていた。葉子はなぜにとも知れぬため息を深くついてまんじりとそのあからさまな景色を夢かなぞのようにながめ続けていた。
やがて葉子はまたわれに返って、ふくよかな髪の中に指を突っ込んで激しく頭の地をかきながら部屋に戻った。
そこには寝床のそばに洋服を着た一人の男が立っていた。激しい外光から暗い部屋のほうに目を向けた葉子には、ただまっ黒な立ち姿が見えるばかりでだれとも見分けがつかなかった。しかし手術のために医員の一人が迎えに来たのだと思われた。それにしても障子のあく音さえしなかったのは不思議な事だ。はいって来ながら声一つかけないのも不思議だ。と、思うと得体のわからないその姿は、そのまわりの物がだんだん明らかになって行く間に、たった一つだけまっ黒なままでいつまでも輪郭を見せないようだった。いわば人の形をしたまっ暗な洞穴が空気の中に出来上がったようだった。始めの間好奇心をもってそれをながめていた葉子は見つめれば見つめるほど、その形に実質がなくって、まっ暗な空虚ばかりであるように思い出すと、ぞーっと水を浴びせられたように怖毛をふるった。「木村が来た」……何という事なしに葉子はそう思い込んでしまった。爪の一枚一枚までが肉に吸い寄せられて、毛という毛が強直して逆立つような薄気味わるさが総身に伝わって、思わず声を立てようとしながら、声は出ずに、口びるばかりがかすかに開いてぶるぶると震えた。そして胸の所に何か突きのけるような具合に手をあげたまま、ぴったりと立ち止まってしまった。
その時その黒い人の影のようなものが始めて動き出した。動いてみるとなんでもない、それはやはり人間だった。見る見るその姿の輪郭がはっきりわかって来て、暗さに慣れて来た葉子の目にはそれが岡である事が知れた。
「まあ岡さん」
葉子はその瞬間のなつかしさに引き入れられて、今まで出なかった声をどもるような調子で出した。岡はかすかに頬を紅らめたようだった。そしていつものとおり上品に、ちょっと畳の上に膝をついて挨拶した。まるで一年も牢獄にいて、人間らしい人間にあわないでいた人のように葉子には岡がなつかしかった。葉子とはなんの関係もない広い世間から、一人の人が好意をこめて葉子を見舞うためにそこに天降ったとも思われた。走り寄ってしっかりとその手を取りたい衝動を抑える事ができないほどに葉子の心は感激していた。葉子は目に涙をためながら思うままの振る舞いをした。自分でも知らぬ間に、葉子は、岡のそば近くすわって、右手をその肩に、左手を畳に突いて、しげしげと相手の顔を見やる自分を見いだした。
「ごぶさたしていました」
「よくいらしってくださってね」
どっちからいい出すともなく二人の言葉は親しげにからみ合った。葉子は岡の声を聞くと、急に今まで自分から逃げていた力が回復して来たのを感じた。逆境にいる女に対して、どんな男であれ、男の力がどれほど強いものであるかを思い知った。男性の頼もしさがしみじみと胸に逼った。葉子はわれ知らずすがり付くように、岡の肩にかけていた右手をすべらして、膝の上に乗せている岡の右手の甲の上からしっかりと捕えた。岡の手は葉子の触覚に妙に冷たく響いて来た。
「長く長くおあいしませんでしたわね。わたしあなたを幽霊じゃないかと思いましてよ。変な顔つきをしたでしょう。貞世は……あなたけさ病院のほうからいらしったの?」
岡はちょっと返事をためらったようだった。
「いゝえ家から来ました。ですからわたし、きょうの御様子は知りませんが、きのうまでのところではだんだんおよろしいようです。目さえさめていらっしゃると『おねえ様おねえ様』とお泣きなさるのがほんとうにおかわいそうです」
葉子はそれだけ聞くともう感情がもろくなっていて胸が張り裂けるようだった。岡は目ざとくもそれを見て取って、悪い事をいったと思ったらしかった。そして少しあわてたように笑い足しながら、
「そうかと思うと、たいへんお元気な事もあります。熱の下がっていらっしゃる時なんかは、愛子さんにおもしろい本を読んでおもらいになって、喜んで聞いておいでです」
と付け足した。葉子は直覚的に岡がその場の間に合わせをいっているのだと知った。それは葉子を安心させるための好意であるとはいえ、岡の言葉は決して信用する事ができない。毎日一度ずつ大学病院まで見舞いに行ってもらうつやの言葉に安心ができないでいて、だれか目に見たとおりを知らせてくれる人はないかとあせっていた矢先、この人ならばと思った岡も、つや以上にいいかげんをいおうとしているのだ。この調子では、とうに貞世が死んでしまっていても、人たちは岡がいって聞かせるような事をいつまでも自分にいうのだろう。自分にはだれ一人として胸を開いて交際しようという人はいなくなってしまったのだ。そう思うとさびしいよりも、苦しいよりも、かっと取りのぼせるほど貞世の身の上が気づかわれてならなくなった。
「かわいそうに貞世は……さぞやせてしまったでしょうね?」
葉子は口裏をひくようにこう尋ねてみた。
「始終見つけているせいですか、そんなにも見えません」
岡はハンカチで首のまわりをぬぐって、ダブル・カラーの合わせを左の手でくつろげながら少し息気苦しそうにこう答えた。
「なんにもいただけないんでしょうね」
「ソップと重湯だけですが両方ともよく食べなさいます」
「ひもじがっておりますか」
「いゝえそんなでも」
もう許せないと葉子は思い入って腹を立てた。腸チブスの予後にあるものが、食欲がない……そんなしらじらしい虚構があるものか。みんな虚構だ。岡のいう事もみんな虚構だ。昨夜は病院に泊まらなかったという、それも虚構でなくてなんだろう。愛子の熱情に燃えた手を握り慣れた岡の手が、葉子に握られて冷えるのももっともだ。昨夜はこの手は……葉子はひとみを定めて自分の美しい指にからまれた岡の美しい右手を見た。それは女の手のように白くなめらかだった。しかしこの手が昨夜は、……葉子は顔をあげて岡を見た。ことさらにあざやかに紅いその口びる……この口びるが昨夜は……眩暈がするほど一度に押し寄せて来た憤怒と嫉妬とのために、葉子は危うくその場にあり合わせたものにかみつこうとしたが、からくそれをささえると、もう熱い涙が目をこがすように痛めて流れ出した。
「あなたはよくうそをおつきなさるのね」
葉子はもう肩で息気をしていた。頭が激しい動悸のたびごとに震えるので、髪の毛は小刻みに生き物のようにおののいた。そして岡の手から自分の手を離して、袂から取り出したハンケチでそれを押しぬぐった。目に入る限りのもの、手に触れる限りのものがまたけがらわしく見え始めたのだ。岡の返事も待たずに葉子は畳みかけて吐き出すようにいった。
「貞世はもう死んでいるんです。それを知らないとでもあなたは思っていらっしゃるの。あなたや愛子に看護してもらえばだれでもありがたい往生ができましょうよ。ほんとうに貞世は仕合わせな子でした。……おゝおゝ貞世! お前はほんとに仕合わせな子だねえ。……岡さんいって聞かせてください、貞世はどんな死にかたをしたか。飲みたい死に水も飲まずに死にましたか。あなたと愛子がお庭を歩き回っているうちに死んでいましたか。それとも……それとも愛子の目が憎々しく笑っているその前で眠るように息気を引き取りましたか。どんなお葬式が出たんです。早桶はどこで注文なさったんです。わたしの早桶のより少し大きくしないとはいりませんよ。……わたしはなんというばかだろう早く丈夫になって思いきり貞世を介抱してやりたいと思ったのに……もう死んでしまったのですものねえ。うそです……それからなぜあなたも愛子ももっとしげしげわたしの見舞いには来てくださらないの。あなたはきょうわたしを苦しめに……なぶりにいらしったのね……」
「そんな飛んでもない!」
岡がせきこんで葉子の言葉の切れ目にいい出そうとするのを、葉子は激しい笑いでさえぎった。
「飛んでもない……そのとおり。あゝ頭が痛い。わたしは存分に呪いを受けました。御安心なさいましとも。決してお邪魔はしませんから。わたしはさんざん踊りました。今度はあなた方が踊っていい番ですものね。……ふむ、踊れるものならみごとに踊ってごらんなさいまし。……踊れるものなら、はゝゝ」
葉子は狂女のように高々と笑った。岡は葉子の物狂おしく笑うのを見ると、それを恥じるようにまっ紅になって下を向いてしまった。
「聞いてください」
やがて岡はこういってきっとなった。
「伺いましょう」
葉子もきっとなって岡を見やったが、すぐ口じりにむごたらしい皮肉な微笑をたたえた。それは岡の気先をさえ折るに充分なほどの皮肉さだった。
「お疑いなさってもしかたがありません。わたし、愛子さんには深い親しみを感じております……」
「そんな事なら伺うまでもありませんわ。わたしをどんな女だと思っていらっしゃるの。愛子さんに深い親しみを感じていらっしゃればこそ、けさはわざわざ何日ごろ死ぬだろうと見に来てくださったのね。なんとお礼を申していいか、そこはお察しくださいまし。きょうは手術を受けますから、死骸になって手術室から出て来る所をよっく御覧なさってあなたの愛子に知らせて喜ばしてやってくださいましよ。死にに行く前に篤とお礼を申します。絵島丸ではいろいろ御親切をありがとうございました。お陰様でわたしはさびしい世の中から救い出されました。あなたをおにいさんともお慕いしていましたが、愛子に対しても気恥ずかしくなりましたから、もうあなたとは御縁を断ちます。というまでもない事ですわね。もう時間が来ますからお立ちくださいまし」
「わたし、ちっとも知りませんでした。ほんとうにそのおからだで手術をお受けになるのですか」
岡はあきれたような顔をした。
「毎日大学に行くつやはばかですから何も申し上げなかったんでしょうよ。申し上げてもお聞こえにならなかったかもしれませんわね」
と葉子はほほえんで、まっさおになった顔にふりかかる髪の毛を左の手で器用にかき上げた。その小指はやせ細って骨ばかりのようになりながらも、美しい線を描いて折れ曲がっていた。
「それはぜひお延ばしくださいお願いしますから……お医者さんもお医者さんだと思います」
「わたしがわたしだもんですからね」
葉子はしげしげと岡を見やった。その目からは涙がすっかりかわいて、額の所には油汗がにじみ出ていた。触れてみたら氷のようだろうと思われるような青白い冷たさが生えぎわかけて漂っていた。
「ではせめてわたしに立ち会わしてください」
「それほどまでにあなたはわたしがお憎いの?……麻酔中にわたしのいう囈口でも聞いておいて笑い話の種になさろうというのね。えゝ、ようごさいますいらっしゃいまし、御覧に入れますから。呪いのためにやせ細ってお婆さんのようになってしまったこのからだを頭から足の爪先まで御覧に入れますから……今さらおあきれになる余地もありますまいけれど」
そういって葉子はやせ細った顔にあらん限りの媚びを集めて、流眄に岡を見やった。岡は思わず顔をそむけた。
そこに若い医員がつやをつれてはいって来た。葉子は手術のしたくができた事を見て取った。葉子は黙って医員にちょっと挨拶したまま衣紋をつくろってすぐ座を立った。それに続いて部屋を出て来た岡などは全く無視した態度で、怪しげな薄暗い階子段を降りて、これも暗い廊下を四五間たどって手術室の前まで来た。つやが戸のハンドルを回してそれをあけると、手術室からはさすがにまぶしい豊かな光線が廊下のほうに流れて来た。そこで葉子は岡のほうに始めて振り返った。
「遠方をわざわざ御苦労さま。わたしはまだあなたに肌を御覧に入れるほどの莫連者にはなっていませんから……」
そう小さな声でいって悠々と手術室にはいって行った。岡はもちろん押し切ってあとについては来なかった。
着物を脱ぐ間に、世話に立ったつやに葉子はこうようやくにしていった。
「岡さんがはいりたいとおっしゃっても入れてはいけないよ。それから……それから(ここで葉子は何がなしに涙ぐましくなった)もしわたしが囈言のような事でもいいかけたら、お前に一生のお願いだからね、わたしの口を……口を抑えて殺してしまっておくれ。頼むよ。きっと!」
婦人科病院の事とて女の裸体は毎日幾人となく扱いつけているくせに、やはり好奇な目を向けて葉子を見守っているらしい助手たちに、葉子はやせさらばえた自分をさらけ出して見せるのが死ぬよりつらかった。ふとした出来心から岡に対していった言葉が、葉子の頭にはいつまでもこびり付いて、貞世はもうほんとうに死んでしまったもののように思えてしかたがなかった。貞世が死んでしまったのに何を苦しんで手術を受ける事があろう。そう思わないでもなかった。しかし場合が場合でこうなるよりしかたがなかった。
まっ白な手術衣を着た医員や看護婦に囲まれて、やはりまっ白な手術台は墓場のように葉子を待っていた。そこに近づくと葉子はわれにもなく急におびえが出た。思いきり鋭利なメスで手ぎわよく切り取ってしまったらさぞさっぱりするだろうと思っていた腰部の鈍痛も、急に痛みが止まってしまって、からだ全体がしびれるようにしゃちこばって冷や汗が額にも手にもしとどに流れた。葉子はただ一つの慰藉のようにつやを顧みた。そのつやの励ますような顔をただ一つのたよりにして、細かく震えながら仰向けに冷やっとする手術台に横たわった。
医員の一人が白布の口あてを口から鼻の上にあてがった。それだけで葉子はもう息気がつまるほどの思いをした。そのくせ目は妙にさえて目の前に見る天井板の細かい木理までが動いて走るようにながめられた。神経の末梢が大風にあったようにざわざわと小気味わるく騒ぎ立った。心臓が息気苦しいほど時々働きを止めた。
やがて芳芬の激しい薬滴が布の上にたらされた。葉子は両手の脈所を医員に取られながら、その香いを薄気味わるくかいだ。
「ひとーつ」
執刀者が鈍い声でこういった。
「ひとーつ」
葉子のそれに応ずる声は激しく震えていた。
「ふたーつ」
葉子は生命の尊さをしみじみと思い知った。死もしくは死の隣へまでの不思議な冒険……そう思うと血は凍るかと疑われた。
「ふたーつ」
葉子の声はますます震えた。こうして数を読んで行くうちに、頭の中がしんしんと冴えるようになって行ったと思うと、世の中がひとりでに遠のくように思えた。葉子は我慢ができなかった。いきなり右手を振りほどいて力任せに口の所を掻い払った。しかし医員の力はすぐ葉子の自由を奪ってしまった。葉子は確かにそれにあらがっているつもりだった。
「倉地が生きている間――死ぬものか、……どうしてももう一度その胸に……やめてください。狂気で死ぬとも殺されたくはない。やめて……人殺し」
そう思ったのかいったのか、自分ながらどっちとも定めかねながら葉子はもだえた。
「生きる生きる……死ぬのはいやだ……人殺し!……」
葉子は力のあらん限り戦った、医者とも薬とも……運命とも……葉子は永久に戦った。しかし葉子は二十も数を読まないうちに、死んだ者同様に意識なく医員らの目の前に横たわっていたのだ。
四九
手術を受けてから三日を過ぎていた。その間非常に望ましい経過を取っているらしく見えた容態は三日目の夕方から突然激変した。突然の高熱、突然の腹痛、突然の煩悶、それは激しい驟雨が西風に伴われてあらしがかった天気模様になったその夕方の事だった。
その日の朝からなんとなく頭の重かった葉子は、それが天候のためだとばかり思って、しいてそういうふうに自分を説服して、憂慮を抑えつけていると、三時ごろからどんどん熱が上がり出して、それと共に下腹部の疼痛が襲って来た。子宮底穿孔
なまじっか医書を読みかじった葉子はすぐそっちに気を回した。気を回してはしいてそれを否定して、一時延ばしに容態の回復を待ちこがれた。それはしかしむだだった。つやがあわてて当直医を呼んで来た時には、葉子はもう生死を忘れて床の上に身を縮み上がらしておいおいと泣いていた。
医員の報告で院長も時を移さずそこに駆けつけた。応急の手あてとして四個の氷嚢が下腹部にあてがわれた。葉子は寝衣がちょっと肌にさわるだけの事にも、生命をひっぱたかれるような痛みを覚えて思わずきゃっと絹を裂くような叫び声をたてた。見る見る葉子は一寸の身動きもできないくらい疼痛に痛めつけられていた。
激しい音を立てて戸外では雨の脚が瓦屋根をたたいた。むしむしする昼間の暑さは急に冷え冷えとなって、にわかに暗くなった部屋の中に、雨から逃げ延びて来たらしい蚊がぶーんと長く引いた声を立てて飛び回った。青白い薄闇に包まれて葉子の顔は見る見るくずれて行った。やせ細っていた頬はことさらげっそりとこけて、高々とそびえた鼻筋の両側には、落ちくぼんだ両眼が、中有の中を所きらわずおどおどと何物かをさがし求めるように輝いた。美しい弧を描いて延びていた眉は、めちゃくちゃにゆがんで、眉間の八の字の所に近々と寄り集まった。かさかさにかわききった口びるからは吐く息気ばかりが強く押し出された。そこにはもう女の姿はなかった。得体のわからない動物がもだえもがいているだけだった。
間を置いてはさし込んで来る痛み……鉄の棒をまっ赤に焼いて、それで下腹の中を所きらわずえぐり回すような[#「ような」は底本では「やうな」]痛みが来ると、葉子は目も口もできるだけ堅く結んで、息気もつけなくなってしまった。何人そこに人がいるのか、それを見回すだけの気力もなかった。天気なのかあらしなのか、それもわからなかった。稲妻が空を縫って走る時には、それが自分の痛みが形になって現われたように見えた。少し痛みが退くとほっと吐息をして、助けを求めるようにそこに付いている医員に目ですがった。痛みさえなおしてくれれば殺されてもいいという心と、とうとう自分に致命的な傷を負わしたと恨む心とが入り乱れて、旋風のようにからだじゅうを通り抜けた。倉地がいてくれたら……木村がいてくれたら……あの親切な木村がいてくれたら……そりゃだめだ。もうだめだ。……だめだ。貞世だって苦しんでいるんだ、こんな事で……痛い痛い痛い……つやはいるのか(葉子は思いきって目を開いた。目の中が痛かった)いる。心配そうな顔をして、……うそだあの顔が何が心配そうな顔なものか……みんな他人だ……なんの縁故もない人たちだ……みんなのんきな顔をして何事もせずにただ見ているんだ……この悩みの百分の一でも知ったら……あ、痛い痛い痛い! 定子……お前はまだどこかに生きているのか、貞世は死んでしまったのだよ、定子……わたしも死ぬんだ死ぬよりも苦しい、この苦しみは……ひどい、これで死なれるものか……こんなにされて死なれるものか……何か……どこか……だれか……助けてくれそうなものだのに……神様! あんまりです……
葉子は身もだえもできない激痛の中で、シーツまでぬれとおるほどな油汗をからだじゅうにかきながら、こんな事をつぎつぎに口走るのだったが、それはもとより言葉にはならなかった。ただ時々痛いというのがむごたらしく聞こえるばかりで、傷ついた牛のように叫ぶほかはなかった。
ひどい吹き降りの中に夜が来た。しかし葉子の容態は険悪になって行くばかりだった。電灯が故障のために来ないので、室内には二本の蝋燭が風にあおられながら、薄暗くともっていた。熱度を計った医員は一度一度そのそばまで行って、目をそばめながら度盛りを見た。
その夜苦しみ通した葉子は明けがた近く少し痛みからのがれる事ができた。シーツを思いきりつかんでいた手を放して、弱々と額の所をなでると、たびたび看護婦がぬぐってくれたのにも係わらず、ぬるぬるするほど手も額も油汗でしとどになっていた。「とても助からない」と葉子は他人事のように思った。そうなってみると、いちばん強い望みはもう一度倉地に会ってただ一目その顔を見たいという事だった。それはしかし望んでもかなえられる事でないのに気づいた。葉子の前には暗いものがあるばかりだった。葉子はほっとため息をついた。二十六年間の胸の中の思いを一時に吐き出してしまおうとするように。
やがて葉子はふと思い付いて目でつやを求めた。夜通し看護に余念のなかったつやは目ざとくそれを見て寝床に近づいた。葉子は半分目つきに物をいわせながら、
「枕の下枕の下」
といった。つやが枕の下をさがすとそこから、手術の前の晩につやが書き取った書き物が出て来た。葉子は一生懸命な努力でつやにそれを焼いて捨てろ、今見ている前で焼いて捨てろと命じた。葉子の命令はわかっていながら、つやが躊躇しているのを見ると、葉子はかっと腹が立って、その怒りに前後を忘れて起き上がろうとした。そのために少しなごんでいた下腹部の痛みが一時に押し寄せて来た。葉子は思わず気を失いそうになって声をあげながら、足を縮めてしまった。けれども一生懸命だった。もう死んだあとにはなんにも残しておきたくない。なんにもいわないで死のう。そういう気持ちばかりが激しく働いていた。
「焼いて」
悶絶するような苦しみの中から、葉子はただ一言これだけを夢中になって叫んだ。つやは医員に促されているらしかったが、やがて一台の蝋燭を葉子の身近に運んで来て、葉子の見ている前でそれを焼き始めた。めらめらと紫色の焔が立ち上がるのを葉子は確かに見た。
それを見ると葉子は心からがっかりしてしまった。これで自分の一生はなんにもなくなったと思った。もういい……誤解されたままで、女王は今死んで行く……そう思うとさすがに一抹の哀愁がしみじみと胸をこそいで通った。葉子は涙を感じた。しかし涙は流れて出ないで、目の中が火のように熱くなったばかりだった。
またもひどい疼痛が襲い始めた、葉子は神の締め木にかけられて、自分のからだが見る見るやせて行くのを自分ながら感じた。人々が薄気味わるげに見守っているのにも気がついた。
それでもとうとうその夜も明け離れた。
葉子は精も根も尽き果てようとしているのを感じた。身を切るような痛みさえが時々は遠い事のように感じられ出したのを知った。もう仕残していた事はなかったかと働きの鈍った頭を懸命に働かして考えてみた。その時ふと定子の事が頭に浮かんだ。あの紙を焼いてしまっては木部と定子とがあう機会はないかもしれない。だれかに定子を頼んで……葉子はあわてふためきながらその人を考えた。
内田……そうだ内田に頼もう。葉子はその時不思議ななつかしさをもって内田の生涯を思いやった。あの偏頗で頑固で意地っぱりな内田の心の奥の奥に小さく潜んでいる澄みとおった魂が始めて見えるような心持ちがした。
葉子はつやに古藤を呼び寄せるように命じた。古藤の兵営にいるのはつやも知っているはずだ。古藤から内田にいってもらったら内田が来てくれないはずはあるまい、内田は古藤を愛しているから。
それから一時間苦しみ続けた後に、古藤の例の軍服姿は葉子の病室に現われた。葉子の依頼をようやく飲みこむと、古藤はいちずな顔に思い入った表情をたたえて、急いで座を立った。
葉子はだれにとも何にともなく息気を引き取る前に内田の来るのを祈った。
しかし小石川に住んでいる内田はなかなかやって来る様子も見せなかった。
「痛い痛い痛い……痛い」
葉子が前後を忘れわれを忘れて、魂をしぼり出すようにこううめく悲しげな叫び声は、大雨のあとの晴れやかな夏の朝の空気をかき乱して、惨ましく聞こえ続けた。
(後編 了)
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