三三
岡に住所を知らせてから、すぐそれが古藤に通じたと見えて、二月にはいってからの木村の消息は、倉地の手を経ずに直接葉子にあてて古藤から回送されるようになった。古藤はしかし頑固にもその中に一言も自分の消息を封じ込んでよこすような事はしなかった。古藤を近づかせる事は一面木村と葉子との関係を断絶さす機会を早める恐れがないでもなかったが、あの古藤の単純な心をうまくあやつりさえすれば、古藤を自分のほうになずけてしまい、従って木村に不安を起こさせない方便になると思った。葉子は例のいたずら心から古藤を手なずける興味をそそられないでもなかった。しかしそれを実行に移すまでにその興味は嵩じては来なかったのでそのままにしておいた。
木村の仕事は思いのほか都合よく運んで行くらしかった。「日本における未来のピーボデー」という標題に木村の肖像まで入れて、ハミルトン氏配下の敏腕家の一人として、また品性の高潔な公共心の厚い好個の青年実業家として、やがては日本において、米国におけるピーボデーと同様の名声をかちうべき約束にあるものと賞賛したシカゴ・トリビューンの「青年実業家評判記」の切り抜きなどを封入して来た。思いのほか巨額の為替をちょいちょい送ってよこして、倉地氏に支払うべき金額の全体を知らせてくれたら、どう工面しても必ず送付するから、一日も早く倉地氏の保護から独立して世評の誤謬を実行的に訂正し、あわせて自分に対する葉子の真情を証明してほしいなどといってよこした。葉子は――倉地におぼれきっている葉子は鼻の先でせせら笑った。
それに反して倉地の仕事のほうはいつまでも目鼻がつかないらしかった。倉地のいう所によれば日本だけの水先案内業者の組合といっても、東洋の諸港や西部米国の沿岸にあるそれらの組合とも交渉をつけて連絡を取る必要があるのに、日本の移民問題が米国の西部諸州でやかましくなり、排日熱が過度に煽動され出したので、何事も米国人との交渉は思うように行かずにその点で行きなやんでいるとの事だった。そういえば米国人らしい外国人がしばしば倉地の下宿に出入りするのを葉子は気がついていた。ある時はそれが公使館の館員ででもあるかと思うような、礼装をしてみごとな馬車に乗った紳士である事もあり、ある時はズボンの折り目もつけないほどだらしのないふうをした人相のよくない男でもあった。
とにかく二月にはいってから倉地の様子が少しずつすさんで来たらしいのが目立つようになった。酒の量も著しく増して来た。正井がかみつくようにどなられている事もあった。しかし葉子に対しては倉地は前にもまさって溺愛の度を加え、あらゆる愛情の証拠をつかむまでは執拗に葉子をしいたげるようになった。葉子は目もくらむ火酒をあおりつけるようにそのしいたげを喜んで迎えた。
ある夜葉子は妹たちが就寝してから倉地の下宿を訪れた。倉地はたった一人でさびしそうにソウダ・ビスケットを肴にウィスキーを飲んでいた。チャブ台の周囲には書類や港湾の地図やが乱暴に散らけてあって、台の上のからのコップから察すると正井かだれか、今客が帰った所らしかった。襖を明けて葉子のはいって来たのを見ると倉地はいつもになくちょっとけわしい目つきをして書類に目をやったが、そこにあるものを猿臂を延ばして引き寄せてせわしく一まとめにして床の間に移すと、自分の隣に座ぶとんを敷いて、それにすわれと顎を突き出して相図した。そして激しく手を鳴らした。
「コップと炭酸水を持って来い」
用を聞きに来た女中にこういいつけておいて、激しく葉子をまともに見た。
「葉ちゃん(これはそのころ倉地が葉子を呼ぶ名前だった。妹たちの前で葉子と呼び捨てにもできないので倉地はしばらくの間お葉さんお葉さんと呼んでいたが、葉子が貞世を貞ちゃんと呼ぶのから思いついたと見えて、三人を葉ちゃん、愛ちゃん、貞ちゃんと呼ぶようになった。そして差し向かいの時にも葉子をそう呼ぶのだった)は木村に貢がれているな。白状しっちまえ」
「それがどうして?」
葉子は左の片肘をちゃぶ台について、その指先で鬢のほつれをかき上げながら、平気な顔で正面から倉地を見返した。
「どうしてがあるか。おれは赤の他人におれの女を養わすほど腑抜けではないんだ」
「まあ気の小さい」
葉子はなおも動じなかった。そこに婢がはいって来たので話の腰が折られた。二人はしばらく黙っていた。
「おれはこれから竹柴へ行く。な、行こう」
「だって明朝困りますわ。わたしが留守だと妹たちが学校に行けないもの」
「一筆書いて学校なんざあ休んで留守をしろといってやれい」
葉子はもちろんちょっとそんな事をいって見ただけだった。妹たちの学校に行ったあとでも、苔香園の婆さんに言葉をかけておいて家を明ける事は常始終だった。ことにその夜は木村の事について倉地に合点させておくのが必要だと思ったのでいい出された時から一緒する下心ではあったのだ。葉子はそこにあったペンを取り上げて紙切れに走り書きをした。倉地が急病になったので介抱のために今夜はここで泊まる。あすの朝学校の時刻までに帰って来なかったら、戸締まりをして出かけていい。そういう意味を書いた。その間に倉地は手早く着がえをして、書類を大きなシナ鞄に突っ込んで錠をおろしてから、綿密にあくかあかないかを調べた。そして考えこむようにうつむいて上目をしながら、両手をふところにさし込んで鍵を腹帯らしい所にしまい込んだ。
九時すぎ十時近くなってから二人は連れ立って下宿を出た。増上寺前に来てから車を傭った。満月に近い月がもうだいぶ寒空高くこうこうとかかっていた。
二人を迎えた竹柴館の女中は倉地を心得ていて、すぐ庭先に離れになっている二間ばかりの一軒に案内した。風はないけれども月の白さでひどく冷え込んだような晩だった。葉子は足の先が氷で包まれたほど感覚を失っているのを覚えた。倉地の浴したあとで、熱めな塩湯にゆっくり浸ったのでようやく人心地がついて戻って来た時には、素早い女中の働きで酒肴がととのえられていた。葉子が倉地と遠出らしい事をしたのはこれが始めてなので、旅先にいるような気分が妙に二人を親しみ合わせた。ましてや座敷に続く芝生のはずれの石垣には海の波が来て静かに音を立てていた。空には月がさえていた。妹たちに取り巻かれたり、下宿人の目をかねたりしていなければならなかった二人はくつろいだ姿と心とで火鉢により添った。世の中は二人きりのようだった。いつのまにか良人とばかり倉地を考え慣れてしまった葉子は、ここに再び情人を見いだしたように思った。そして何とはなく倉地をじらしてじらしてじらし抜いたあげくに、その反動から来る蜜のような歓語を思いきり味わいたい衝動に駆られていた。そしてそれがまた倉地の要求でもある事を本能的に感じていた。
「いいわねえ。なぜもっと早くこんな所に来なかったでしょう。すっかり苦労も何も忘れてしまいましたわ」
葉子はすべすべとほてって少しこわばるような頬をなでながら、とろけるように倉地を見た。もうだいぶ酒の気のまわった倉地は、女の肉感をそそり立てるようなにおいを部屋じゅうにまき散らす葉巻をふかしながら、葉子を尻目にかけた。
「それは結構。だがおれにはさっきの話が喉につかえて残っとるて。胸くそが悪いぞ」
葉子はあきれたように倉地を見た。
「木村の事?」
「お前はおれの金を心まかせに使う気にはなれないんか」
「足りませんもの」
「足りなきゃなぜいわん」
「いわなくったって木村がよこすんだからいいじゃありませんか」
「ばか!」
倉地は右の肩を小山のようにそびやかして、上体を斜に構えながら葉子をにらみつけた。葉子はその目の前で海から出る夏の月のようにほほえんで見せた。
「木村は葉ちゃんに惚れとるんだよ」
「そして葉ちゃんはきらってるんですわね」
「冗談は措いてくれ。……おりゃ真剣でいっとるんだ。おれたちは木村に用はないはずだ。おれは用のないものは片っ端から捨てるのが立てまえだ。嬶だろうが子だろうが……見ろおれを……よく見ろ。お前はまだこのおれを疑っとるんだな。あとがまには木村をいつでもなおせるように食い残しをしとるんだな」
「そんな事はありませんわ」
「ではなんで手紙のやり取りなどしおるんだ」
「お金がほしいからなの」
葉子は平気な顔をしてまた話をあとに戻した。そして独酌で杯を傾けた。倉地は少しどもるほど怒りが募っていた。
「それが悪いといっとるのがわからないか……おれの面に泥を塗りこくっとる……こっちに来い(そういいながら倉地は葉子の手を取って自分の膝の上に葉子の上体をたくし込んだ)。いえ、隠さずに。今になって木村に未練が出て来おったんだろう。女というはそうしたもんだ。木村に行きたくば行け、今行け。おれのようなやくざを構っとると芽は出やせんから。……お前にはふて腐れがいっちよく似合っとるよ……ただしおれをだましにかかると見当違いだぞ」
そういいながら倉地は葉子を突き放すようにした。葉子はそれでも少しも平静を失ってはいなかった。あでやかにほほえみながら、
「あなたもあんまりわからない……」
といいながら今度は葉子のほうから倉地の膝に後ろ向きにもたれかかった。倉地はそれを退けようとはしなかった。
「何がわからんかい」
しばらくしてから、倉地は葉子の肩越しに杯を取り上げながらこう尋ねた。葉子には返事がなかった。またしばらくの沈黙の時間が過ぎた。倉地がもう一度何かいおうとした時、葉子はいつのまにかしくしくと泣いていた。倉地はこの不意打ちに思わずはっとしたようだった。
「なぜ木村から送らせるのが悪いんです」
葉子は涙を気取らせまいとするように、しかし打ち沈んだ調子でこういい出した。
「あなたの御様子でお心持ちが読めないわたしだとお思いになって? わたしゆえに会社をお引きになってから、どれほど暮らし向きに苦しんでいらっしゃるか……そのくらいはばかでもわたしにはちゃんと響いています。それでもしみったれた事をするのはあなたもおきらい、わたしもきらい……わたしは思うようにお金をつかってはいました。いましたけれども……心では泣いてたんです。あなたのためならどんな事でも喜んでしよう……そうこのごろ思ったんです。それから木村にとうとう手紙を書きました。わたしが木村をなんと思ってるか、今さらそんな事をお疑いになるのあなたは。そんな水臭い回し気をなさるからついくやしくなっちまいます。……そんなわたしだかわたしではないか……(そこで葉子は倉地から離れてきちんとすわり直して袂で顔をおおうてしまった)泥棒をしろとおっしゃるほうがまだ増しです……あなたお一人でくよくよなさって……お金の出所を……暮らし向きが張り過ぎるなら張り過ぎると……なぜ相談に乗らせてはくださらないの……やはりあなたはわたしを真身には思っていらっしゃらないのね……」
倉地は一度は目を張って驚いたようだったが、やがて事もなげに笑い出した。
「そんな事を思っとったのか。ばかだなあお前は。御好意は感謝します……全く。しかしなんぼやせても枯れても、おれは女の子の二人や三人養うに事は欠かんよ。月に三百や四百の金が手回らんようなら首をくくって死んで見せる。お前をまで相談に乗せるような事はいらんのだよ。そんな陰にまわった心配事はせん事にしようや。こののんき坊のおれまでがいらん気をもませられるで……」
「そりゃうそです」
葉子は顔をおおうたままきっぱりと矢継ぎ早にいい放った。倉地は黙ってしまった。葉子もそのまましばらくはなんとも言い出でなかった。
母屋のほうで十二を打つ柱時計の声がかすかに聞こえて来た。寒さもしんしんと募っていたには相違なかった。しかし葉子はそのいずれをも心の戸の中までは感じなかった。始めは一種のたくらみから狂言でもするような気でかかったのだったけれども、こうなると葉子はいつのまにか自分で自分の情におぼれてしまっていた。木村を犠牲にしてまでも倉地におぼれ込んで行く自分があわれまれもした。倉地が費用の出所をついぞ打ち明けて相談してくれないのが恨みがましく思われもした。知らず知らずのうちにどれほど葉子は倉地に食い込み、倉地に食い込まれていたかをしみじみと今さらに思い知った。どうなろうとどうあろうと倉地から離れる事はもうできない。倉地から離れるくらいなら自分はきっと死んで見せる。倉地の胸に歯を立ててその心臓をかみ破ってしまいたいような狂暴な執念が葉子を底知れぬ悲しみへ誘い込んだ。
心の不思議な作用として倉地も葉子の心持ちは刺青をされるように自分の胸に感じて行くらしかった。やや程経ってから倉地は無感情のような鈍い声でいい出した。
「全くはおれが悪かったのかもしれない。一時は全く金には弱り込んだ。しかしおれは早や世の中の底潮にもぐり込んだ人間だと思うと度胸がすわってしまいおった。毒も皿も食ってくれよう、そう思って(倉地はあたりをはばかるようにさらに声を落とした)やり出した仕事があの組合の事よ。水先案内のやつらはくわしい海図を自分で作って持っとる。要塞地の様子も玄人以上ださ。それを集めにかかってみた。思うようには行かんが、食うだけの金は余るほど出る」
葉子は思わずぎょっとして息気がつまった。近ごろ怪しげな外国人が倉地の所に出入りするのも心当たりになった。倉地は葉子が倉地の言葉を理解して驚いた様子を見ると、ほとほと悪魔のような顔をしてにやりと笑った。捨てばちな不敵さと力とがみなぎって見えた。
「愛想が尽きたか……」
愛想が尽きた。葉子は自分自身に愛想が尽きようとしていた。葉子は自分の乗った船はいつでも相客もろともに転覆して沈んで底知れぬ泥土の中に深々ともぐり込んで行く事を知った。売国奴、国賊、――あるいはそういう名が倉地の名に加えられるかもしれない……と思っただけで葉子は怖毛をふるって、倉地から飛びのこうとする衝動を感じた。ぎょっとした瞬間にただ瞬間だけ感じた。次にどうかしてそんな恐ろしいはめから倉地を救い出さなければならないという殊勝な心にもなった。しかし最後に落ち着いたのは、その深みに倉地をことさら突き落としてみたい悪魔的な誘惑だった。それほどまでの葉子に対する倉地の心尽くしを、臆病な驚きと躊躇とで迎える事によって、倉地に自分の心持ちの不徹底なのを見下げられはしないかという危惧よりも、倉地が自分のためにどれほどの堕落でも汚辱でも甘んじて犯すか、それをさせてみて、満足しても満足しても満足しきらない自分の心の不足を満たしたかった。そこまで倉地を突き落とすことは、それだけ二人の執着を強める事だとも思った。葉子は何事を犠牲に供しても灼熱した二人の間の執着を続けるばかりでなくさらに強める術を見いだそうとした。倉地の告白を聞いて驚いた次の瞬間には、葉子は意識こそせねこれだけの心持ちに働かれていた。「そんな事で愛想が尽きてたまるものか」と鼻であしらうような心持ちに素早くも自分を落ち着けてしまった。驚きの表情はすぐ葉子の顔から消えて、妖婦にのみ見る極端に肉的な蠱惑の微笑がそれに代わって浮かみ出した。
「ちょっと驚かされはしましたわ。……いいわ、わたしだってなんでもしますわ」
倉地は葉子が言わず語らずのうちに感激しているのを感得していた。
「よしそれで話はわかった。木村……木村からもしぼり上げろ、構うものかい。人間並みに見られないおれたちが人間並みに振る舞っていてたまるかい。葉ちゃん……命」
「命!……命
命※[#感嘆符三つ、131-15]」
葉子は自分の激しい言葉に目もくるめくような酔いを覚えながら、あらん限りの力をこめて倉地を引き寄せた。膳の上のものが音を立ててくつがえるのを聞いたようだったが、そのあとは色も音もない焔の天地だった。すさまじく焼けただれた肉の欲念が葉子の心を全く暗ましてしまった。天国か地獄かそれは知らない。しかも何もかもみじんにつきくだいて、びりびりと震動する炎々たる焔に燃やし上げたこの有頂天の歓楽のほかに世に何者があろう。葉子は倉地を引き寄せた。倉地において今まで自分から離れていた葉子自身を引き寄せた。そして切るような痛みと、痛みからのみ来る奇怪な快感とを自分自身に感じて陶然と酔いしれながら、倉地の二の腕に歯を立てて、思いきり弾力性に富んだ熱したその肉をかんだ。
その翌日十一時すぎに葉子は地の底から掘り起こされたように地球の上に目を開いた。倉地はまだ死んだもの同然にいぎたなく眠っていた。戸板の杉の赤みが鰹節の心のように半透明にまっ赤に光っているので、日が高いのも天気が美しく晴れているのも察せられた。甘ずっぱく立てこもった酒と煙草の余燻の中に、すき間もる光線が、透明に輝く飴色の板となって縦に薄暗さの中を区切っていた。いつもならばまっ赤に充血して、精力に充ち満ちて眠りながら働いているように見える倉地も、その朝は目の周囲に死色をさえ注していた。むき出しにした腕には青筋が病的に思われるほど高く飛び出てはいずっていた。泳ぎ回る者でもいるように頭の中がぐらぐらする葉子には、殺人者が凶行から目ざめて行った時のような底の知れない気味わるさが感ぜられた。葉子は密やかにその部屋を抜け出して戸外に出た。
降るような真昼の光線にあうと、両眼は脳心のほうにしゃにむに引きつけられてたまらない痛さを感じた。かわいた空気は息気をとめるほど喉を干からばした。葉子は思わずよろけて入り口の下見板に寄りかかって、打撲を避けるように両手で顔を隠してうつむいてしまった。
やがて葉子は人を避けながら芝生の先の海ぎわに出てみた。満月に近いころの事とて潮は遠くひいていた。蘆の枯れ葉が日を浴びて立つ沮洳地のような平地が目の前に広がっていた。しかし自然は少しも昔の姿を変えてはいなかった。自然も人もきのうのままの営みをしていた。葉子は不思議なものを見せつけられたように茫然として潮干潟の泥を見、うろこ雲で飾られた青空を仰いだ。ゆうべの事が真実ならこの景色は夢であらねばならぬ。この景色が真実ならゆうべの事は夢であらねばならぬ。二つが両立しようはずはない。……葉子は茫然としてなお目にはいって来るものをながめ続けた。
痲痺しきったような葉子の感覚はだんだん回復して来た。それと共に瞑眩を感ずるほどの頭痛をまず覚えた。次いで後腰部に鈍重な疼みがむくむくと頭をもたげるのを覚えた。肩は石のように凝っていた。足は氷のように冷えていた。
ゆうべの事は夢ではなかったのだ……そして今見るこの景色も夢ではあり得ない……それはあまりに残酷だ、残酷だ。なぜゆうべをさかいにして、世の中はかるたを裏返したように変わっていてはくれなかったのだ。
この景色のどこに自分は身をおく事ができよう。葉子は痛切に自分が落ち込んで行った深淵の深みを知った。そしてそこにしゃがんでしまって、苦い涙を泣き始めた。
懺悔の門の堅く閉ざされた暗い道がただ一筋、葉子の心の目には行く手に見やられるばかりだった。
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