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或る女(あるおんな)後編

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-21 6:28:18  点击:  切换到繁體中文

底本: 或る女 後編
出版社: 岩波文庫、岩波書店
初版発行日: 1950(昭和25)年9月5日、1968(昭和43)年8月16日第23刷改版
入力に使用: 1998(平成10)年11月16日第37刷

 

   二二

 どこかから菊の香がかすかにかよって来たように思って葉子ようこは快い眠りから目をさました。自分のそばには、倉地くらちが頭からすっぽりとふとんをかぶって、いびきも立てずに熟睡していた。料理屋を兼ねた旅館のに似合わしい華手はで縮緬ちりめんの夜具の上にはもうだいぶ高くなったらしい秋の日の光が障子しょうじ越しにさしていた。葉子は往復一か月の余を船に乗り続けていたので、船脚ふなあしらめきのなごりが残っていて、からだがふらりふらりと揺れるような感じを失ってはいなかったが、広い畳のに大きなやわらかい夜具をのべて、五体を思うまま延ばして、一晩ゆっくりと眠り通したその心地ここちよさは格別だった。仰向けになって、寒からぬ程度に暖まった空気の中に両手を二の腕までむき出しにして、軟らかい髪の毛に快い触覚を感じながら、何を思うともなく天井の木目もくめを見やっているのも、珍しい事のように快かった。
 やや小半時こはんときもそうしたままでいると、帳場でぼんぼん時計が九時を打った。三階にいるのだけれどもその音はほがらかにかわいた空気を伝って葉子の部屋へやまで響いて来た。と、倉地がいきなり夜具をはねのけて床の上に上体を立てて目をこすった。
「九時だな今打ったのは」
 と陸で聞くとおかしいほど大きな塩がれ声でいった。どれほど熟睡していても、時間には鋭敏な船員らしい倉地の様子がなんの事はなく葉子をほほえました。
 倉地が立つと、葉子も床を出た。そしてそのへんを片づけたり、煙草たばこを吸ったりしている間に(葉子は船の中で煙草を吸う事を覚えてしまったのだった)倉地は手早く顔を洗って部屋へやに帰って来た。そして制服に着かえ始めた。葉子はいそいそとそれを手伝った。倉地特有な西洋ふうに甘ったるいような一種のにおいがそのからだにも服にもまつわっていた。それが不思議にいつでも葉子の心をときめかした。
「もうめしを食っとる暇はない。またしばらくせわしいでみじんだ。今夜はおそいかもしれんよ。おれたちには天長節てんちょうせつも何もあったもんじゃない」
 そういわれてみると葉子はきょうが天長節なのを思い出した。葉子の心はなおなお寛濶かんかつになった。
 倉地が部屋を出ると葉子は縁側に出て手欄てすりから下をのぞいて見た。両側に桜並み木のずっとならんだ紅葉坂もみじざかは急勾配こうばいをなして海岸のほうに傾いている、そこを倉地の紺羅紗こんらしゃの姿が勢いよく歩いて行くのが見えた。半分がた散り尽くした桜の葉は真紅しんくに紅葉して、軒並みに掲げられた日章旗が、風のない空気の中にあざやかにならんでいた。その間に英国の国旗が一本まじってながめられるのも開港場らしい風情ふぜいを添えていた。
 遠く海のほうを見ると税関の桟橋にもやわれた四そうほどの汽船の中に、葉子が乗って帰った絵島丸えじままるもまじっていた。まっさおに澄みわたった海に対してきょうの祭日を祝賀するためにマストから檣にかけわたされた小旌こばたがおもちゃのようにながめられた。
 葉子は長い航海の始終しじゅうを一場の夢のように思いやった。その長旅の間に、自分の一身に起こった大きな変化も自分の事のようではなかった。葉子は何がなしに希望に燃えた活々いきいきした心で手欄てすりを離れた。部屋には小ざっぱりと身じたくをした女中じょちゅうが来て寝床をあげていた。一けん半の大床おおとこに飾られた大花活はないけには、菊の花が一抱ひとかかえ分もいけられていて、空気が動くたびごとに仙人せんにんじみた香を漂わした。その香をかぐと、ともするとまだ外国にいるのではないかと思われるような旅心が一気にくだけて、自分はもう確かに日本の土の上にいるのだという事がしっかり思わされた。
「いいお日和ひよりね。今夜あたりは忙しんでしょう」
 と葉子は朝飯のぜんに向かいながら女中にいってみた。
「はい今夜は御宴会が二つばかりございましてね。でも浜のかたでも外務省の夜会にいらっしゃる方もございますから、たんと込み合いはいたしますまいけれども」
 そうこたえながら女中は、昨晩おそく着いて来た、ちょっと得体えたいの知れないこの美しい婦人の素性すじょうを探ろうとするように注意深い目をやった。葉子は葉子で「浜」という言葉などから、横浜という土地を形にして見るような気持ちがした。
 短くなってはいても、なんにもする事なしに一日を暮らすかと思えば、その秋の一日の長さが葉子にはひどく気になり出した。明後日東京に帰るまでの間に、買い物でも見て歩きたいのだけれども、土産物みやげものは木村が例の銀行切手をくずしてあり余るほど買って持たしてよこしたし、手もとには哀れなほどより金は残っていなかった。ちょっとでもじっとしていられない葉子は、日本で着ようとは思わなかったので、西洋向きに注文した華手はですぎるような綿入れに手を通しながら、とつ追いつ考えた。
「そうだ古藤ことうに電話でもかけてみてやろう」
 葉子はこれはいい思案だと思った。東京のほうで親類たちがどんな心持ちで自分を迎えようとしているか、古藤のような男に今度の事がどう響いているだろうか、これは単に慰みばかりではない、知っておかなければならない大事な事だった。そう葉子は思った。そして女中を呼んで東京に電話をつなぐように頼んだ。
 祭日であったせいか電話は思いのほか早くつながった。葉子は少しいたずららしい微笑を笑窪えくぼのはいるその美しい顔に軽く浮かべながら、階段を足早に降りて行った。今ごろになってようやく床を離れたらしい男女の客がしどけないふうをして廊下のここかしこで葉子とすれ違った。葉子はそれらの人々には目もくれずに帳場に行って電話室に飛び込むとぴっしりと戸をしめてしまった。そして受話器を手に取るが早いか、電話に口を寄せて、
「あなた義一さん? あゝそう。義一さんそれは滑稽こっけいなのよ」
 とひとりでにすらすらといってしまってわれながら葉子ははっと思った。その時の浮き浮きした軽い心持ちからいうと、葉子にはそういうより以上に自然な言葉はなかったのだけれども、それではあまりに自分というものを明白にさらけ出していたのに気が付いたのだ。古藤は案のじょう答え渋っているらしかった。とみには返事もしないで、ちゃんと聞こえているらしいのに、ただ「なんです?」と聞き返して来た。葉子にはすぐ東京の様子を飲み込んだように思った。
「そんな事どうでもよござんすわ。あなたお丈夫でしたの」
 といってみると「えゝ」とだけすげない返事が、機械を通してであるだけにことさらすげなく響いて来た。そして今度は古藤のほうから、
「木村……木村君はどうしています。あなた会ったんですか」
 とはっきり聞こえて来た。葉子はすかさず、
「はあ会いましてよ。相変わらず丈夫でいます。ありがとう。けれどもほんとうにかわいそうでしたの。義一さん……聞こえますか。明後日あさって私東京に帰りますわ。もう叔母おばの所には行けませんからね、あすこには行きたくありませんから……あのね、透矢町すきやちょうのね、双鶴館そうかくかん……つがいのつる……そう、おわかりになって?……双鶴館に行きますから……あなた来てくだされる?……でもぜひ聞いていただかなければならない事があるんですから……よくって?……そうぜひどうぞ。明々後日しあさっての朝? ありがとうきっとお待ち申していますからぜひですのよ」
 葉子がそういっている間、古藤の言葉はしまいまで奥歯に物のはさまったように重かった。そしてややともすると葉子との会見を拒もうとする様子が見えた。もし葉子の銀のように澄んだ涼しい声が、古藤を選んで哀訴するらしく響かなかったら、古藤は葉子のいう事を聞いてはいなかったかもしれないと思われるほどだった。
 朝から何事も忘れたように快かった葉子の気持ちはこの電話一つのために妙にこじれてしまった。東京に帰れば今度こそはなかなか容易ならざる反抗が待ちうけているとは十二ぶんに覚悟して、その備えをしておいたつもりではいたけれども、古藤の口うらから考えてみると面とぶつかった実際は空想していたよりも重大であるのを思わずにはいられなかった。葉子は電話室を出るとけさ始めて顔を合わした内儀おかみに帳場格子ごうしの中から挨拶あいさつされて、部屋へやにも伺いに来ないでなれなれしく言葉をかけるその仕打ちにまで不快を感じながら、匆々そうそう三階に引き上げた。
 それからはもうほんとうになんにもする事がなかった。ただ倉地の帰って来るのばかりがいらいらするほど待ちに待たれた。品川台場しながわだいば沖あたりで打ち出す祝砲がかすかに腹にこたえるように響いて、子供らは往来でそのころしきりにはやった南京花火なんきんはなびぱちぱちと鳴らしていた。天気がいいので女中たちははしゃぎきった冗談などを言い言いあらゆる部屋へやを明け放して、仰山ぎょうさんらしくはたきやほうきの音を立てた。そしてただ一人ひとりこの旅館では居残っているらしい葉子の部屋を掃除そうじせずに、いきなり縁側にぞうきんをかけたりした。それが出て行けがしの仕打ちのように葉子には思えば思われた。
「どこか掃除の済んだ部屋があるんでしょう。しばらくそこを貸してくださいな。そしてここもきれいにしてちょうだい。部屋の掃除もしないでぞうきんがけなぞしたってなんにもなりはしないわ」
 と少しけんを持たせていってやると、けさ来たのとは違う、横浜生まれらしい、わるずれのした中年の女中は、始めて縁側から立ち上がって小めんどうそうに葉子を畳廊下一つを隔てた隣の部屋に案内した。
 けさまで客がいたらしく、掃除は済んでいたけれども、火鉢ひばちだの、炭取りだの、古い新聞だのが、部屋のすみにはまだ置いたままになっていた。あけ放した障子からかわいた暖かい光線が畳の表三ほどまでさしこんでいる、そこにひざを横くずしにすわりながら、葉子は目を細めてまぶしい光線を避けつつ、自分の部屋を片づけている女中の気配けはいに用心の気を配った。どんな所にいても大事な金目かねめなものをくだらないものと一緒にほうり出しておくのが葉子の癖だった。葉子はそこにいかにも伊達だて寛濶かんかつな心を見せているようだったが、同時に下らない女中ずれが出来心でも起こしはしないかと思うと、細心に監視するのも忘れはしなかった。こうして隣の部屋に気を配っていながらも、葉子は部屋のすみにきちょうめんに折りたたんである新聞を見ると、日本に帰ってからまだ新聞というものに目を通さなかったのを思い出して、手に取り上げて見た。テレビン油のようなにおいがぷんぷんするのでそれがきょうの新聞である事がすぐ察せられた。はたして第一面には「聖寿万歳」と肉太にくぶとに書かれた見出しの下に貴顕の肖像が掲げられてあった。葉子は一か月の余も遠のいていた新聞紙を物珍しいものに思ってざっと目をとおし始めた。
 一面にはその年の六月に伊藤いとう内閣と交迭してできたかつら内閣に対していろいろな注文を提出した論文が掲げられて、海外通信にはシナ領土内における日露にちろの経済的関係を説いたチリコフ伯の演説の梗概こうがいなどが見えていた。二面には富口とみぐちという文学博士が「最近日本におけるいわゆる婦人の覚醒かくせい」という続き物の論文を載せていた。福田ふくだという女の社会主義者の事や、歌人として知られた与謝野晶子よさのあきこ女史の事などの名が現われているのを葉子は注意した。しかし今の葉子にはそれが不思議に自分とはかけ離れた事のように見えた。
 三面に来ると四号活字で書かれた木部孤※(「竹かんむり/(工+卩)」、第3水準1-89-60)きべこきょうという字が目に着いたので思わずそこを読んで見る葉子はあっと驚かされてしまった。

○某大汽船会社船中の大怪事
事務長と婦人船客との道ならぬ恋――
船客は木部孤※(「竹かんむり/(工+卩)」、第3水準1-89-60)の先妻

 こういう大業おおぎょうな標題がまず葉子の目を小痛こいたく射つけた。

「本邦にて最も重要なる位置にある某汽船会社の所有船○○丸の事務長は、先ごろ米国航路に勤務中、かつて木部孤※(「竹かんむり/(工+卩)」、第3水準1-89-60)してほどもなく姿をくらましたる莫連ばくれん女某が一等船客として乗り込みいたるをそそのかし、その女を米国に上陸せしめずひそかに連れ帰りたる怪事実あり。しかも某女といえるは米国に先行せる婚約のおっとまである身分のものなり。船客に対して最も重き責任をになうべき事務長にかかる不埒ふらちの挙動ありしは、事務長一個の失態のみならず、その汽船会社の体面にも影響する由々ゆゆしき大事なり。事の仔細しさいはもれなく本紙の探知したる所なれども、改悛かいしゅんの余地を与えんため、しばらく発表を見合わせおくべし。もしある期間を過ぎても、両人の醜行改まる模様なき時は、本紙は容赦なく詳細の記事を掲げて畜生道ちくしょうどうに陥りたる二人ふたりを懲戒し、あわせて汽船会社の責任を問う事とすべし。読者請う刮目かつもくしてその時を待て」

 葉子は下くちびるをかみしめながらこの記事を読んだ。いったい何新聞だろうと、その時まで気にも留めないでいた第一面を繰りもどして見ると、麗々れいれいと「報正新報」と書してあった。それを知ると葉子の全身は怒りのためにつめの先まで青白くなって、おさえつけても抑えつけてもぶるぶると震え出した。「報正新報」といえば田川たがわ法学博士の機関新聞だ。その新聞にこんな記事が現われるのは意外でもあり当然でもあった。田川夫人という女はどこまで執念しゅうねく卑しい女なのだろう。田川夫人からの通信に違いないのだ。「報正新報」はこの通信を受けると、報道の先鞭せんべんをつけておくためと、読者の好奇心をあおるためとに、いち早くあれだけの記事を載せて、田川夫人からさらにくわしい消息の来るのを待っているのだろう。葉子は鋭くもこうすいした。もしこれがほかの新聞であったら、倉地の一身上の危機でもあるのだから、葉子はどんな秘密な運動をしても、この上の記事の発表はもみ消さなければならないと胸を定めたに相違なかったけれども、田川夫人が悪意をこめてさせている仕事だとして見ると、どのみち書かずにはおくまいと思われた。郵船会社のほうで高圧的な交渉でもすればとにかく、そのほかには道がない。くれぐれも憎い女は田川夫人だ……こういちずに思いめぐらすと葉子は船の中での屈辱を今さらにまざまざと心に浮かべた。
「お掃除そうじができました」
 そう襖越ふすまごしにいいながらさっきの女中は顔も見せずにさっさ階下したに降りて行ってしまった。葉子は結局それを気安い事にして、その新聞を持ったまま、自分の部屋へやに帰った。どこを掃除したのだと思われるような掃除のしかたで、はたきまでがちがだなの下におき忘られていた。過敏にきちょうめんできれい好きな葉子はもうたまらなかった。自分でてきぱきとそこいらを片づけて置いて、パラソルと手携てさげを取り上げるが否やその宿を出た。
 往来に出るとその旅館の女中が四五人早じまいをして昼間ひるまの中を野毛山のげやまの大神宮のほうにでも散歩に行くらしい後ろ姿を見た。そそくさと朝の掃除を急いだ女中たちの心も葉子には読めた。葉子はその女たちを見送るとなんという事なしにさびしく思った。
 帯の間にはさんだままにしておいた新聞の切り抜きが胸を焼くようだった。葉子は歩き歩きそれを引き出して手携てさげにしまいかえた。旅館は出たがどこに行こうというあてもなかった葉子はうつむいて紅葉坂もみじざかをおりながら、さしもしないパラソルの石突きで霜解しもどけけになった土を一足ひとあし一足突きさして歩いて行った。いつのまにかじめじめしたうすぎたない狭い通りに来たと思うと、はしなくもいつか古藤と一緒に上がった相模屋さがみやの前を通っているのだった。「相模屋」と古めかしい字体で書いた行燈あんどんの紙までがその時のままですすけていた。葉子は見覚えられているのを恐れるように足早にその前を通りぬけた。
 停車場前はすぐそこだった。もう十二時近い秋の日ははなやかに照り満ちて、思ったより数多い群衆が運河にかけ渡したいくつかの橋をにぎやかに往来していた。葉子は自分一人ひとりがみんなから振り向いて見られるように思いなした。それがあたりまえの時ならば、どれほど多くの人にじろじろと見られようとも度を失うような葉子ではなかったけれども、たった今いまいましい新聞の記事を見た葉子ではあり、いかにも西洋じみた野暮やぼくさい綿入わたいれを着ている葉子であった。服装にちりほどでも批点の打ちどころがあると気がひけてならない葉子としては、旅館を出て来たのが悲しいほど後悔された。
 葉子はとうとう税関波止場はとばの入り口まで来てしまった。その入り口の小さな煉瓦れんが造りの事務所には、年の若い監視補たちが二重金ぼたんの背広に、海軍帽をかぶって事務を取っていたが、そこに近づく葉子の様子を見ると、きのう上陸した時から葉子を見知っているかのように、その飛び放れて華手はで造りな姿に目を定めるらしかった。物好きなその人たちは早くも新聞の記事を見て問題となっている女が自分に違いないと目星をつけているのではあるまいかと葉子は何事につけても愚痴っぽくひけ目になる自分を見いだした。葉子はしかしそうしたふうに見つめられながらもそこを立ち去る事ができなかった。もしや倉地が昼飯でも食べにあの大きな五体を重々しく動かしながら船のほうから出て来はしないかと心待ちがされたからだ。
 葉子はそろそろと海洋通りをグランド・ホテルのほうに歩いてみた。倉地が出て来れば、倉地のほうでも自分を見つけるだろうし、自分のほうでも後ろに目はないながら、出て来たのを感づいてみせるという自信を持ちながら、後ろも振り向かずにだんだん波止場から遠ざかった。海ぞいに立て連ねた石杭いしぐいをつなぐ頑丈がんじょうな鉄鎖には、西洋人の子供たちがこうしほどな洋犬やあまに付き添われて事もなげに遊び戯れていた。そして葉子を見ると心安立こころやすだてに無邪気にほほえんで見せたりした。小さなかわいい子供を見るとどんな時どんな場合でも、葉子は定子さだこを思い出して、胸がしめつけられるようになって、すぐ涙ぐむのだった。この場合はことさらそうだった。見ていられないほどそれらの子供たちは悲しい姿に葉子の目に映った。葉子はそこから避けるように足を返してまた税関のほうに歩み近づいた。監視課の事務所の前を来たりったりする人数は絡繹らくえきとして絶えなかったが、その中に事務長らしい姿はさらに見えなかった。葉子は絵島丸まで行って見る勇気もなく、そこを幾度もあちこちして監視補たちの目にかかるのもうるさかったので、すごすごと税関の表門を県庁のほうに引き返した。

       二三

 その夕方倉地がほこりにまぶれ汗にまぶれて紅葉坂をすたすたと登って帰って来るまでも葉子は旅館のしきいをまたがずに桜の並み木の下などを徘徊はいかいして待っていた。さすがに十一月となると夕暮れを催した空は見る見る薄寒くなって風さえ吹き出している。一日の行楽に遊び疲れたらしい人の群れにまじってふきげんそうに顔をしかめた倉地は真向まっこうに坂の頂上を見つめながら近づいて来た。それを見やると葉子は一時に力を回復したようになって、すぐおどり出して来るいたずら心のままに、一本の桜の木をたてに倉地をやり過ごしておいて、後ろから静かに近づいて手と手とが触れ合わんばかりに押しならんだ。倉地はさすがに不意をくってまじまじと寒さのために少し涙ぐんで見える大きな涼しい葉子の目を見やりながら、「どこからわいて出たんだ」といわんばかりの顔つきをした。一つ船の中に朝となく夜となく一緒になって寝起きしていたものを、きょう始めて半日の余も顔を見合わさずに過ごして来たのが思った以上に物さびしく、同時にこんな所で思いもかけず出あったが予想のほかに満足であったらしい倉地の顔つきを見て取ると、葉子は何もかも忘れてただうれしかった。そのまっ黒によごれた手をいきなり引っつかんで熱い口びるでかみしめていたわってやりたいほどだった。しかし思いのままに寄り添う事すらできない大道だいどうであるのをどうしよう。葉子はそのせつない心をねて見せるよりほかなかった。
「わたしもうあの宿屋には泊まりませんわ。人をばかにしているんですもの。あなたお帰りになるなら勝手にひとりでいらっしゃい」
「どうして……」
 といいながら倉地は当惑したように往来に立ち止まってしげしげと葉子を見なおすようにした。
「これじゃ(といってほこりにまみれた両手をひろげ襟頸えりくびを抜き出すように延ばして見せて渋い顔をしながら)どこにも行けやせんわな」
「だからあなたはお帰りなさいましといってるじゃありませんか」
 そう冒頭まえおきをして葉子は倉地と押し並んでそろそろ歩きながら、女将おかみの仕打ちから、女中のふしだらまで尾鰭おひれをつけて讒訴いいつけて、早く双鶴館そうかくかんに移って行きたいとせがみにせがんだ。倉地は何か思案するらしくそっぽを見い見い耳を傾けていたが、やがて旅館に近くなったころもう一度立ち止まって、
「きょう双鶴館あそこから電話で部屋へやの都合を知らしてよこす事になっていたがお前聞いたか……(葉子はそういいつけられながら今まですっかり忘れていたのを思い出して、少しくてれたように首を振った)……ええわ、じゃ電報を打ってから先に行くがいい。わしは荷物をして今夜あとから行くで」
 そういわれてみると葉子はまた一人ひとりだけ先に行くのがいやでもあった。といって荷物の始末には二人ふたりのうちどちらか一人居残らねばならない。
「どうせ二人一緒に汽車に乗るわけにも行くまい」
 倉地がこういい足した時葉子は危うく、ではきょうの「報正新報」を見たかといおうとするところだったが、はっと思い返してのどの所でおさえてしまった。
「なんだ」
 倉地は見かけのわりに恐ろしいほど敏捷びんしょうに働く心で、顔にも現わさない葉子の躊躇ちゅうちょを見て取ったらしくこうなじるように尋ねたが、葉子がなんでもないとこたえると、少しも拘泥こうでいせずに、それ以上問い詰めようとはしなかった。
 どうしても旅館に帰るのがいやだったので、非常な物足らなさを感じながら、葉子はそのままそこから倉地に別れる事にした。倉地は力のこもった目で葉子をじっと見てちょっとうなずくとあとをも見ないでどんどんと旅館のほうに濶歩かっぽして行った。葉子は残り惜しくその後ろ姿を見送っていたが、それになんという事もない軽い誇りを感じてかすかにほほえみながら、倉地が登って来た坂道を一人ひとりで降りて行った。
 停車場に着いたころにはもう瓦斯ガスがそこらにともっていた。葉子は知った人にあうのを極端に恐れ避けながら、汽車の出るすぐ前まで停車場前の茶店の一間ひとまに隠れていて一等室に飛び乗った。だだっぴろいその客車には外務省の夜会に行くらしい三人の外国人が銘々、デコルテーを着飾った婦人を介抱して乗っているだけだった。いつものとおりその人たちは不思議に人をひきつける葉子の姿に目をそばだてた。けれども葉子はもう左手の小指を器用に折り曲げて、左のびんのほつれ毛を美しくかき上げるあの嬌態しなをして見せる気はなくなっていた。へやのすみに腰かけて、手携てさげとパラソルとをひざに引きつけながら、たった一人その部屋へやの中にいるもののように鷹揚おうように構えていた。偶然顔を見合わせても、葉子は張りのあるその目を無邪気に(ほんとうにそれは罪を知らない十六七の乙女おとめの目のように無邪気だった)大きく見開いて相手の視線をはにかみもせず迎えるばかりだった。先方の人たちの年齢がどのくらいで容貌ようぼうがどんなふうだなどという事も葉子は少しも注意してはいなかった。その心の中にはただ倉地の姿ばかりがいろいろに描かれたり消されたりしていた。
 列車が新橋しんばしに着くと葉子はしとやかに車を出たが、ちょうどそこに、唐桟とうざん角帯かくおびを締めた、箱丁はこやとでもいえばいえそうな、気のきいた若い者が電報を片手に持って、目ざとく葉子に近づいた。それが双鶴館そうかくかんからの出迎えだった。
 横浜にも増して見るものにつけて連想の群がり起こる光景、それから来る強い刺激……葉子は宿から回された人力車じんりきしゃの上から銀座ぎんざ通りの夜のありさまを見やりながら、危うく幾度も泣き出そうとした。定子の住む同じ土地に帰って来たと思うだけでももう胸はわくわくした。愛子あいこ貞世さだよもどんな恐ろしい期待に震えながら自分の帰るのを待ちわびているだろう。あの叔父叔母おじおばがどんな激しい言葉で自分をこの二人ふたりの妹に描いて見せているか。構うものか。なんとでもいうがいい。自分はどうあっても二人を自分の手に取りもどしてみせる。こうと思い定めた上は指もささせはしないから見ているがいい。……ふと人力車が尾張町おわりちょうのかどを左に曲がると暗い細い通りになった。葉子は目ざす旅館が近づいたのを知った。その旅館というのは、倉地が色ざたでなくひいきにしていた芸者がある財産家に落籍ひかされて開いた店だというので、倉地からあらかじめかけ合っておいたのだった。人力車がその店に近づくに従って葉子はその女将おかみというのにふとした懸念を持ち始めた。未知の女同志が出あう前に感ずる一種の軽い敵愾心てきがいしんが葉子の心をしばらくは余の事柄ことがらから切り放した。葉子は車の中で衣紋えもんを気にしたり、束髪そくはつの形を直したりした。
 昔の煉瓦建れんがだてをそのまま改造したと思われる漆喰しっくい塗りの頑丈がんじょうな、かど地面の一構えに来て、煌々こうこうと明るい入り口の前に車夫が梶棒かじぼうを降ろすと、そこにはもう二三人の女の人たちが走り出て待ち構えていた。葉子は裾前すそまえをかばいながら車から降りて、そこに立ちならんだ人たちの中からすぐ女将おかみを見分ける事ができた。背たけが思いきって低く、顔形も整ってはいないが、三十女らしく分別ふんべつの備わった、きかん気らしい、あかぬけのした人がそれに違いないと思った。葉子は思い設けた以上の好意をすぐその人に対して持つ事ができたので、ことさら快い親しみを持ち前の愛嬌あいきょうに添えながら、挨拶あいさつをしようとすると、その人は事もなげにそれをさえぎって、
「いずれ御挨拶は後ほど、さぞお寒うございましてしょう。お二階へどうぞ」
 といって自分から先に立った。居合わせた女中たちは目はしをきかしていろいろと世話に立った。入り口の突き当たりの壁には大きなぼんぼん時計が一つかかっているだけでなんにもなかった。その右手の頑丈がんじょうな踏み心地ごこちのいい階子段はしごだんをのぼりつめると、他の部屋へやから廊下で切り放されて、十六畳と八畳と六畳との部屋が鍵形かぎがたに続いていた。ちり一つすえずにきちん掃除そうじが届いていて、三か所に置かれた鉄びんから立つ湯気ゆげで部屋の中はやわらかく暖まっていた。
「お座敷へと申すところですが、御気ごきさくにこちらでおくつろぎくださいまし……三間みまともとってはございますが」
 そういいながら女将おかみ長火鉢ながひばちの置いてある六畳のへと案内した。
 そこにすわってひととおりの挨拶を言葉少なに済ますと、女将は葉子の心を知り抜いているように、女中を連れて階下に降りて行ってしまった。葉子はほんとうにしばらくなりとも一人ひとりになってみたかったのだった。軽い暖かさを感ずるままに重い縮緬ちりめん羽織はおりを脱ぎ捨てて、ありたけの懐中物を帯の間から取り出して見ると、凝りがちな肩も、重苦しく感じた胸もすがすがしくなって、かなり強い疲れを一時に感じながら、猫板ねこいたの上にひじを持たせて居ずまいをくずしてもたれかかった。古びを帯びた蘆屋釜あしやがまから鳴りを立てて白く湯気の立つのも、きれいにかきならされた灰の中に、堅そうな桜炭の火が白い被衣かつぎの下でほんのりと赤らんでいるのも、精巧な用箪笥ようだんすのはめ込まれた一けんの壁に続いた器用な三尺床に、白菊をさした唐津焼からつやきの花活はないけがあるのも、かすかにたきこめられた沈香じんこうのにおいも、目のつんだ杉柾すぎまさの天井板も、っそりとみがきのかかった皮付きの柱も、葉子に取っては――重い、こわい、堅い船室からようやく解放されて来た葉子に取ってはなつかしくばかりながめられた。こここそは屈強の避難所だというように葉子はつくづくあたりを見回した。そして部屋へやのすみにある生漆きうるしを塗った桑の広蓋ひろぶたを引き寄せて、それに手携てさげや懐中物を入れ終わると、飽く事もなくそのふちから底にかけての円味まるみを持った微妙な手ざわりをいつくしんだ。
 場所がらとてそこここからこの界隈かいわいに特有な楽器の声が聞こえて来た。天長節であるだけにきょうはことさらそれがにぎやかなのかもしれない。戸外にはぽくりやあずま下駄げたの音が少しえて絶えずしていた。着飾きかざった芸者たちがみがき上げた顔をびりびりするような夜寒よさむに惜しげもなく伝法でんぽうにさらして、さすがに寒気かんきに足を早めながら、ばれた所に繰り出して行くその様子が、まざまざとものの音を聞いたばかりで葉子の想像には描かれるのだった。合い乗りらしい人力車のわだちの音も威勢よく響いて来た。葉子はもう一度これは屈強な避難所に来たものだと思った。この界隈かいわいでは葉子はまなじりかえして人から見られる事はあるまい。
 珍しくあっさりした、魚のあたらしい夕食を済ますと葉子は風呂ふろをつかって、思い存分髪を洗った。しない船の中の淡水では洗っても洗ってもねちねちとあかの取り切れなかったものが、さわれば手が切れるほどさばさばと油が抜けて、葉子は頭の中まで軽くなるように思った。そこに女将おかみも食事を終えて話相手になりに来た。
「たいへんおおそうございますこと、今夜のうちにお帰りになるでしょうか」
 そう女将おかみは葉子の思っている事をさきがけにいった。「さあ」と葉子もはっきりしない返事をしたが、小寒こさむくなって来たので浴衣ゆかたを着かえようとすると、そこにそでだたみにしてある自分の着物につくづく愛想あいそが尽きてしまった。このへんの女中に対してもそんなしつっこいけばけばしいがらの着物は二度と着る気にはなれなかった。そうなると葉子はしゃにむにそれがたまらなくなって来るのだ。葉子はうんざりした様子をして自分の着物から女将おかみに目をやりながら、
「見てくださいこれを。この冬は米国にいるのだとばかり決めていたので、あんなものを作ってみたんですけれども、我慢にももう着ていられなくなりましたわ。後生ごしょう。あなたの所に何かふだんのあいたのでもないでしょうか」
「どうしてあなた。わたしはこれでござんすもの」
 と女将おかみ剽軽ひょうきんにも気軽くちゃんと立ち上がって自分の背たけの低さを見せた。そうして立ったままでしばらく考えていたが、踊りで仕込み抜いたような手つきではたひざの上をたたいて、
「ようございます。わたし一つ倉地さんをびっくらさして上げますわ。わたしの妹ぶんに当たるのに柄といい年格好といい、失礼ながらあなた様とそっくりなのがいますから、それのを取り寄せてみましょう。あなた様は洗い髪でいらっしゃるなり……いかが、わたしがすっかり仕立てて差し上げますわ」
 この思い付きは葉子には強い誘惑だった。葉子は一も二もなく勇み立って承知した。
 その晩十一時を過ぎたころに、まとめた荷物を人力車四台に積み乗せて、倉地が双鶴館そうかくかんに着いて来た。葉子は女将おかみの入れ知恵でわざと玄関には出迎えなかった。葉子はいたずら者らしくひとり笑いをしながらひざをしてみたが、それには自分ながら気がひけたので、右足を左のももの上に積み乗せるようにしてその足先をとんびにしてすわってみた。ちょうどそこにかなり酔ったらしい様子で、倉地が女将おかみの案内も待たずにずしんずしんという足どりではいって来た。葉子と顔を見合わした瞬間には部屋へやを間違えたと思ったらしく、少しあわてて身を引こうとしたが、すぐ櫛巻くしまきにして黒襟くろえりをかけたその女が葉子だったのに気が付くと、いつもの渋いように顔をくずして笑いながら、
「なんだばかをしくさって」
 とほざくようにいって、長火鉢ながひばちの向かい座にどっかとあぐらをかいた。ついて来た女将おかみは立ったまましばらく二人ふたりを見くらべていたが、
「ようよう……変てこなお内裏雛様だいりびなさま
 と陽気にかけ声をして笑いこけるようにぺちゃんとそこにすわり込んだ。三人は声を立てて笑った。
 と、女将おかみは急にまじめに返って倉地に向かい、
「こちらはきょうの報正新報を……」
 といいかけるのを、葉子はすばやく目でさえぎった。女将はあぶない土端場どたんばで踏みとどまった。倉地は酔眼を女将に向けながら、
「何」
 としり上がりに問い返した。
「そう早耳を走らすとつんぼと間違えられますとさ」
 と女将おかみは事もなげに受け流した。三人はまた声を立てて笑った。
 倉地と女将との間に一別以来のうわさ話がしばらくのあいだ取りかわされてから、今度は倉地がまじめになった。そして葉子に向かってぶっきらぼうに、
「お前もう寝ろ」
 といった。葉子は倉地と女将とをならべて一目見たばかりで、二人ふたりの間の潔白なのを見て取っていたし、自分が寝てあとの相談というても、今度の事件を上手じょうずにまとめようというについての相談だという事がのみ込めていたので、素直すなおに立って座をはずした。
 中の十畳を隔てた十六畳に二人の寝床は取ってあったが、二人の会話はおりおりかなりはっきりもれて来た。葉子は別に疑いをかけるというのではなかったが、やはりじっと耳を傾けないではいられなかった。
 何かの話のついでに入用な事が起こったのだろう、倉地はしきりに身のまわりを探って、何かを取り出そうとしている様子だったが、「あいつの手携てさげに入れたかしらん」という声がしたので葉子ははっと思った。あれには「報正新報」の切り抜きが入れてあるのだ。もう飛び出して行ってもおそいと思って葉子は断念していた。やがてはたして二人は切り抜きを見つけ出した様子だった。
「なんだあいつも知っとったのか」
 思わず少し高くなった倉地の声がこう聞こえた。
「道理でさっき私がこの事をいいかけるとあのかたが目で留めたんですよ。やはり先方あちらでもあなたに知らせまいとして。いじらしいじゃありませんか」
 そういう女将の声もした。そして二人はしばらく黙っていた。
 葉子は寝床を出てその場に行こうかとも思った。しかし今夜は二人に任せておくほうがいいと思い返してふとんを耳までかぶった。そしてだいぶ夜がふけてから倉地が寝に来るまで快い安眠に前後を忘れていた。

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