九
底光りのする雲母色の雨雲が縫い目なしにどんよりと重く空いっぱいにはだかって、本牧の沖合いまで東京湾の海は物すごいような草色に、小さく波の立ち騒ぐ九月二十五日の午後であった。きのうの風が凪いでから、気温は急に夏らしい蒸し暑さに返って、横浜の市街は、疫病にかかって弱りきった労働者が、そぼふる雨の中にぐったりとあえいでいるように見えた。
靴の先で甲板をこつこつとたたいて、うつむいてそれをながめながら、帯の間に手をさし込んで、木村への伝言を古藤はひとり言のように葉子にいった。葉子はそれに耳を傾けるような様子はしていたけれども、ほんとうはさして注意もせずに、ちょうど自分の目の前に、たくさんの見送り人に囲まれて、応接に暇もなげな田川法学博士の目じりの下がった顔と、その夫人のやせぎすな肩との描く微細な感情の表現を、批評家のような心で鋭くながめやっていた。かなり広いプロメネード・デッキは田川家の家族と見送り人とで縁日のようににぎわっていた。葉子の見送りに来たはずの五十川女史は先刻から田川夫人のそばに付ききって、世話好きな、人のよい叔母さんというような態度で、見送り人の半分がたを自身で引き受けて挨拶していた。葉子のほうへは見向こうとする模様もなかった。葉子の叔母は葉子から二三間離れた所に、蜘蛛のような白痴の子を小婢に背負わして、自分は葉子から預かった手鞄と袱紗包みとを取り落とさんばかりにぶら下げたまま、花々しい田川家の家族や見送り人の群れを見てあっけに取られていた。葉子の乳母は、どんな大きな船でも船は船だというようにひどく臆病そうな青い顔つきをして、サルンの入り口の戸の陰にたたずみながら、四角にたたんだ手ぬぐいをまっ赤になった目の所に絶えず押しあてては、ぬすみ見るように葉子を見やっていた。その他の人々はじみな一団になって、田川家の威光に圧せられたようにすみのほうにかたまっていた。
葉子はかねて五十川女史から、田川夫婦が同船するから船の中で紹介してやるといい聞かせられていた。田川といえば、法曹界ではかなり名の聞こえた割合に、どこといって取りとめた特色もない政客ではあるが、その人の名はむしろ夫人のうわさのために世人の記憶にあざやかであった。感受力の鋭敏なそしてなんらかの意味で自分の敵に回さなければならない人に対してことに注意深い葉子の頭には、その夫人の面影は長い事宿題として考えられていた。葉子の頭に描かれた夫人は我の強い、情の恣ままな、野心の深い割合に手練の露骨な、良人を軽く見てややともすると笠にかかりながら、それでいて良人から独立する事の到底できない、いわば心の弱い強がり家ではないかしらんというのだった。葉子は今後ろ向きになった田川夫人の肩の様子を一目見たばかりで、辞書でも繰り当てたように、自分の想像の裏書きをされたのを胸の中でほほえまずにはいられなかった。
「なんだか話が混雑したようだけれども、それだけいって置いてください」
ふと葉子は幻想から破れて、古藤のいうこれだけの言葉を捕えた。そして今まで古藤の口から出た伝言の文句はたいてい聞きもらしていたくせに、空々しげにもなくしんみりとした様子で、
「確かに……けれどもあなたあとから手紙ででも詳しく書いてやってくださいましね。間違いでもしているとたいへんですから」
と古藤をのぞき込むようにしていった。古藤は思わず笑いをもらしながら、「間違うとたいへんですから」という言葉を、時おり葉子の口から聞くチャームに満ちた子供らしい言葉の一つとでも思っているらしかった。そして、
「何、間違ったって大事はないけれども……だが手紙は書いて、あなたの寝床の枕の下に置いときましたから、部屋に行ったらどこにでもしまっておいてください。それから、それと一緒にもう一つ……」
といいかけたが、
「何しろ忘れずに枕の下を見てください」
この時突然「田川法学博士万歳」という大きな声が、桟橋からデッキまでどよみ渡って聞こえて来た。葉子と古藤とは話の腰を折られて互いに不快な顔をしながら、手欄から下のほうをのぞいて見ると、すぐ目の下に、そのころ人の少し集まる所にはどこにでも顔を出す轟という剣舞の師匠だか撃剣の師匠だかする頑丈な男が、大きな五つ紋の黒羽織に白っぽい鰹魚縞の袴をはいて、桟橋の板を朴の木下駄で踏み鳴らしながら、ここを先途とわめいていた。その声に応じて、デッキまではのぼって来ない壮士体の政客や某私立政治学校の生徒が一斉に万歳を繰り返した。デッキの上の外国船客は物珍しさにいち早く、葉子がよりかかっている手欄のほうに押し寄せて来たので、葉子は古藤を促して、急いで手欄の折れ曲がったかどに身を引いた。田川夫婦もほほえみながら、サルンから挨拶のために近づいて来た。葉子はそれを見ると、古藤のそばに寄り添ったまま、左手をやさしく上げて、鬢のほつれをかき上げながら、頭を心持ち左にかしげてじっと田川の目を見やった。田川は桟橋のほうに気を取られて急ぎ足で手欄のほうに歩いていたが、突然見えぬ力にぐっと引きつけられたように、葉子のほうに振り向いた。
田川夫人も思わず良人の向くほうに頭を向けた。田川の威厳に乏しい目にも鋭い光がきらめいては消え、さらにきらめいて消えたのを見すまして、葉子は始めて田川夫人の目を迎えた。額の狭い、顎の固い夫人の顔は、軽蔑と猜疑の色をみなぎらして葉子に向かった。葉子は、名前だけをかねてから聞き知って慕っていた人を、今目の前に見たように、うやうやしさと親しみとの交じり合った表情でこれに応じた。そしてすぐそのばから、夫人の前にも頓着なく、誘惑のひとみを凝らしてその良人の横顔をじっと見やるのだった。
「田川法学博士夫人万歳」「万歳」「万歳」
田川その人に対してよりもさらに声高な大歓呼が、桟橋にいて傘を振り帽子を動かす人々の群れから起こった。田川夫人は忙しく葉子から目を移して、群集に取っときの笑顔を見せながら、レースで笹縁を取ったハンケチを振らねばならなかった。田川のすぐそばに立って、胸に何か赤い花をさして型のいいフロック・コートを着て、ほほえんでいた風流な若紳士は、桟橋の歓呼を引き取って、田川夫人の面前で帽子を高くあげて万歳を叫んだ。デッキの上はまた一しきりどよめき渡った。
やがて甲板の上は、こんな騒ぎのほかになんとなく忙しくなって来た。事務員や水夫たちが、物せわしそうに人中を縫うてあちこちする間に、手を取り合わんばかりに近よって別れを惜しむ人々の群れがここにもかしこにも見え始めた。サルン・デッキから見ると、三等客の見送り人がボーイ長にせき立てられて、続々舷門から降り始めた。それと入れ代わりに、帽子、上着、ズボン、ネクタイ、靴などの調和の少しも取れていないくせに、むやみに気取った洋装をした非番の下級船員たちが、ぬれた傘を光らしながら駆けこんで来た。その騒ぎの間に、一種生臭いような暖かい蒸気が甲板の人を取り巻いて、フォクスルのほうで、今までやかましく荷物をまき上げていた扛重機の音が突然やむと、かーんとするほど人々の耳はかえって遠くなった。隔たった所から互いに呼びかわす水夫らの高い声は、この船にどんな大危険でも起こったかと思わせるような不安をまき散らした。親しい間の人たちは別れの切なさに心がわくわくしてろくに口もきかず、義理一ぺんの見送り人は、ややともするとまわりに気が取られて見送るべき人を見失う。そんなあわただしい抜錨の間ぎわになった。葉子の前にも、急にいろいろな人が寄り集まって来て、思い思いに別れの言葉を残して船を降り始めた。葉子はこんな混雑な間にも田川のひとみが時々自分に向けられるのを意識して、そのひとみを驚かすようななまめいたポーズや、たよりなげな表情を見せるのを忘れないで、言葉少なにそれらの人に挨拶した。叔父と叔母とは墓の穴まで無事に棺を運んだ人夫のように、通り一ぺんの事をいうと、預かり物を葉子に渡して、手の塵をはたかんばかりにすげなく、まっ先に舷梯を降りて行った。葉子はちらっと叔母の後ろ姿を見送って驚いた。今の今までどことて似通う所の見えなかった叔母も、その姉なる葉子の母の着物を帯まで借りて着込んでいるのを見ると、はっと思うほどその姉にそっくりだった。葉子はなんという事なしにいやな心持ちがした。そしてこんな緊張した場合にこんなちょっとした事にまでこだわる自分を妙に思った。そう思う間もあらせず、今度は親類の人たちが五六人ずつ、口々に小やかましく何かいって、あわれむような妬むような目つきを投げ与えながら、幻影のように葉子の目と記憶とから消えて行った。丸髷に結ったり教師らしい地味な束髪に上げたりしている四人の学校友だちも、今は葉子とはかけ隔たった境界の言葉づかいをして、昔葉子に誓った言葉などは忘れてしまった裏切り者の空々しい涙を見せたりして、雨にぬらすまいと袂を大事にかばいながら、傘にかくれてこれも舷梯を消えて行ってしまった。最後に物おじする様子の乳母が葉子の前に来て腰をかがめた。葉子はとうとう行き詰まる所まで来たような思いをしながら、振り返って古藤を見ると、古藤は依然として手欄に身を寄せたまま、気抜けでもしたように、目を据えて自分の二三間先をぼんやりながめていた。
「義一さん、船の出るのも間が無さそうですからどうか此女……わたしの乳母ですの……の手を引いておろしてやってくださいましな。すべりでもすると怖うござんすから」
と葉子にいわれて古藤は始めてわれに返った。そしてひとり言のように、
「この船で僕もアメリカに行って見たいなあ」
とのんきな事をいった。
「どうか桟橋まで見てやってくださいましね。あなたもそのうちぜひいらっしゃいましな……義一さんそれではこれでお別れ。ほんとうに、ほんとうに」
といいながら葉子はなんとなく親しみをいちばん深くこの青年に感じて、大きな目で古藤をじっと見た。古藤も今さらのように葉子をじっと見た。
「お礼の申しようもありません。この上のお願いです。どうぞ妹たちを見てやってくださいまし。あんな人たちにはどうしたって頼んではおけませんから。……さようなら」
「さようなら」
古藤は鸚鵡返しに没義道にこれだけいって、ふいと手欄を離れて、麦稈帽子を目深にかぶりながら、乳母に付き添った。
葉子は階子の上がり口まで行って二人に傘をかざしてやって、一段一段遠ざかって行く二人の姿を見送った。東京で別れを告げた愛子や貞世の姿が、雨にぬれた傘のへんを幻影となって見えたり隠れたりしたように思った。葉子は不思議な心の執着から定子にはとうとう会わないでしまった。愛子と貞世とはぜひ見送りがしたいというのを、葉子はしかりつけるようにいってとめてしまった。葉子が人力車で家を出ようとすると、なんの気なしに愛子が前髪から抜いて鬢をかこうとした櫛が、もろくもぽきりと折れた。それを見ると愛子は堪え堪えていた涙の堰を切って声を立てて泣き出した。貞世は初めから腹でも立てたように、燃えるような目からとめどなく涙を流して、じっと葉子を見つめてばかりいた。そんな痛々しい様子がその時まざまざと葉子の目の前にちらついたのだ。一人ぽっちで遠い旅に鹿島立って行く自分というものがあじきなくも思いやられた。そんな心持ちになると忙しい間にも葉子はふと田川のほうを振り向いて見た。中学校の制服を着た二人の少年と、髪をお下げにして、帯をおはさみにしめた少女とが、田川と夫人との間にからまってちょうど告別をしているところだった。付き添いの守りの女が少女を抱き上げて、田川夫人の口びるをその額に受けさしていた。葉子はそんな場面を見せつけられると、他人事ながら自分が皮肉でむちうたれるように思った。竜をも化して牝豚にするのは母となる事だ。今の今まで焼くように定子の事を思っていた葉子は、田川夫人に対してすっかり反対の事を考えた。葉子はそのいまいましい光景から目を移して舷梯のほうを見た。しかしそこにはもう乳母の姿も古藤の影もなかった。
たちまち船首のほうからけたたましい銅鑼の音が響き始めた。船の上下は最後のどよめきに揺らぐように見えた。長い綱を引きずって行く水夫が帽子の落ちそうになるのを右の手でささえながら、あたりの空気に激しい動揺を起こすほどの勢いで急いで葉子のかたわらを通りぬけた。見送り人は一斉に帽子を脱いで舷梯のほうに集まって行った。その際になって五十川女史ははたと葉子の事を思い出したらしく、田川夫人に何かいっておいて葉子のいる所にやって来た。
「いよいよお別れになったが、いつぞやお話しした田川の奥さんにおひきあわせしようからちょっと」
葉子は五十川女史の親切ぶりの犠牲になるのを承知しつつ、一種の好奇心にひかされて、そのあとについて行こうとした。葉子に初めて物をいう田川の態度も見てやりたかった。その時、
「葉子さん」
と突然いって、葉子の肩に手をかけたものがあった。振り返るとビールの酔いのにおいがむせかえるように葉子の鼻を打って、目の心まで紅くなった知らない若者の顔が、近々と鼻先にあらわれていた。はっと身を引く暇もなく、葉子の肩はびしょぬれになった酔いどれの腕でがっしりと巻かれていた。
「葉子さん、覚えていますかわたしを……あなたはわたしの命なんだ。命なんです」
といううちにも、その目からはほろほろと煮えるような涙が流れて、まだうら若いなめらかな頬を伝った。膝から下がふらつくのを葉子にすがって危うくささえながら、
「結婚をなさるんですか……おめでとう……おめでとう……だがあなたが日本にいなくなると思うと……いたたまれないほど心細いんだ……わたしは……」
もう声さえ続かなかった。そして深々と息気をひいてしゃくり上げながら、葉子の肩に顔を伏せてさめざめと男泣きに泣き出した。
この不意な出来事はさすがに葉子を驚かしもし、きまりも悪くさせた。だれだとも、いつどこであったとも思い出す由がない。木部孤と別れてから、何という事なしに捨てばちな心地になって、だれかれの差別もなく近寄って来る男たちに対して勝手気ままを振る舞ったその間に、偶然に出あって偶然に別れた人の中の一人でもあろうか。浅い心でもてあそんで行った心の中にこの男の心もあったであろうか。とにかく葉子には少しも思い当たる節がなかった。葉子はその男から離れたい一心に、手に持った手鞄と包み物とを甲板の上にほうりなげて、若者の手をやさしく振りほどこうとして見たが無益だった。親類や朋輩たちの事あれがしな目が等しく葉子に注がれているのを葉子は痛いほど身に感じていた。と同時に、男の涙が薄い単衣の目を透して、葉子の膚にしみこんで来るのを感じた。乱れたつやつやしい髪のにおいもつい鼻の先で葉子の心を動かそうとした。恥も外聞も忘れ果てて、大空の下ですすり泣く男の姿を見ていると、そこにはかすかな誇りのような気持ちがわいて来た。不思議な憎しみといとしさがこんがらかって葉子の心の中で渦巻いた。葉子は、
「さ、もう放してくださいまし、船が出ますから」
ときびしくいって置いて、かんで含めるように、
「だれでも生きてる間は心細く暮らすんですのよ」
とその耳もとにささやいて見た。若者はよくわかったというふうに深々とうなずいた。しかし葉子を抱く手はきびしく震えこそすれ、ゆるみそうな様子は少しも見えなかった。
物々しい銅鑼の響きは左舷から右舷に回って、また船首のほうに聞こえて行こうとしていた。船員も乗客も申し合わしたように葉子のほうを見守っていた。先刻から手持ちぶさたそうにただ立って成り行きを見ていた五十川女史は思いきって近寄って来て、若者を葉子から引き離そうとしたが、若者はむずかる子供のように地だんだを踏んでますます葉子に寄り添うばかりだった。船首のほうに群がって仕事をしながら、この様子を見守っていた水夫たちは一斉に高く笑い声を立てた。そしてその中の一人はわざと船じゅうに聞こえ渡るようなくさめをした。抜錨の時刻は一秒一秒に逼っていた。物笑いの的になっている、そう思うと葉子の心はいとしさから激しいいとわしさに変わって行った。
「さ、お放しください、さ」
ときわめて冷酷にいって、葉子は助けを求めるようにあたりを見回した。
田川博士のそばにいて何か話をしていた一人の大兵な船員がいたが、葉子の当惑しきった様子を見ると、いきなり大股に近づいて来て、
「どれ、わたしが下までお連れしましょう」
というや否や、葉子の返事も待たずに若者を事もなく抱きすくめた。若者はこの乱暴にかっとなって怒り狂ったが、その船員は小さな荷物でも扱うように、若者の胴のあたりを右わきにかいこんで、やすやすと舷梯を降りて行った。五十川女史はあたふたと葉子に挨拶もせずにそのあとに続いた。しばらくすると若者は桟橋の群集の間に船員の手からおろされた。
けたたましい汽笛が突然鳴りはためいた。田川夫妻の見送り人たちはこの声で活を入れられたようになって、どよめき渡りながら、田川夫妻の万歳をもう一度繰り返した。若者を桟橋に連れて行った、かの巨大な船員は、大きな体躯を猿のように軽くもてあつかって、音も立てずに桟橋からずしずしと離れて行く船の上にただ一条の綱を伝って上がって来た。人々はまたその早業に驚いて目を見張った。
葉子の目は怒気を含んで手欄からしばらくの間かの若者を見据えていた。若者は狂気のように両手を広げて船に駆け寄ろうとするのを、近所に居合わせた三四人の人があわてて引き留める、それをまたすり抜けようとして組み伏せられてしまった。若者は組み伏せられたまま左の腕を口にあてがって思いきりかみしばりながら泣き沈んだ。その牛のうめき声のような泣き声が気疎く船の上まで聞こえて来た。見送り人は思わず鳴りを静めてこの狂暴な若者に目を注いだ。葉子も葉子で、姿も隠さず手欄に片手をかけたまま突っ立って、同じくこの若者を見据えていた。といって葉子はその若者の上ばかりを思っているのではなかった。自分でも不思議だと思うような、うつろな余裕がそこにはあった。古藤が若者のほうには目もくれずにじっと足もとを見つめているのにも気が付いていた。死んだ姉の晴れ着を借り着していい心地になっているような叔母の姿も目に映っていた。船のほうに後ろを向けて(おそらくそれは悲しみからばかりではなかったろう。その若者の挙動が老いた心をひしいだに違いない)手ぬぐいをしっかりと両眼にあてている乳母も見のがしてはいなかった。
いつのまに動いたともなく船は桟橋から遠ざかっていた。人の群れが黒蟻のように集まったそこの光景は、葉子の目の前にひらけて行く大きな港の景色の中景になるまでに小さくなって行った。葉子の目は葉子自身にも疑われるような事をしていた。その目は小さくなった人影の中から乳母の姿を探り出そうとせず、一種のなつかしみを持つ横浜の市街を見納めにながめようとせず、凝然として小さくうずくまる若者ののらしい黒点を見つめていた。若者の叫ぶ声が、桟橋の上で打ち振るハンケチの時々ぎらぎらと光るごとに、葉子の頭の上に張り渡された雨よけの帆布の端から余滴がぽつりぽつりと葉子の顔を打つたびに、断続して聞こえて来るように思われた。
「葉子さん、あなたは私を見殺しにするんですか……見殺しにするん……」
一〇
始めての旅客も物慣れた旅客も、抜錨したばかりの船の甲板に立っては、落ち付いた心でいる事ができないようだった。跡始末のために忙しく右往左往する船員の邪魔になりながら、何がなしの興奮にじっとしてはいられないような顔つきをして、乗客は一人残らず甲板に集まって、今まで自分たちがそば近く見ていた桟橋のほうに目を向けていた。葉子もその様子だけでいうと、他の乗客と同じように見えた。葉子は他の乗客と同じように手欄によりかかって、静かな春雨のように降っている雨のしずくに顔をなぶらせながら、波止場のほうをながめていたが、けれどもそのひとみにはなんにも映ってはいなかった。その代わり目と脳との間と覚しいあたりを、親しい人や疎い人が、何かわけもなくせわしそうに現われ出て、銘々いちばん深い印象を与えるような動作をしては消えて行った。葉子の知覚は半分眠ったようにぼんやりして注意するともなくその姿に注意をしていた。そしてこの半睡の状態が破れでもしたらたいへんな事になると、心のどこかのすみでは考えていた。そのくせ、それを物々しく恐れるでもなかった。からだまでが感覚的にしびれるような物うさを覚えた。
若者が現われた。(どうしてあの男はそれほどの因縁もないのに執念く付きまつわるのだろうと葉子は他人事のように思った)その乱れた美しい髪の毛が、夕日とかがやくまぶしい光の中で、ブロンドのようにきらめいた。かみしめたその左の腕から血がぽたぽたとしたたっていた。そのしたたりが腕から離れて宙に飛ぶごとに、虹色にきらきらと巴を描いて飛び跳った。
「……わたしを見捨てるん……」
葉子はその声をまざまざと聞いたと思った時、目がさめたようにふっとあらためて港を見渡した。そして、なんの感じも起こさないうちに、熟睡からちょっと驚かされた赤児が、またたわいなく眠りに落ちて行くように、再び夢ともうつつともない心に返って行った。港の景色はいつのまにか消えてしまって、自分で自分の腕にしがみ付いた若者の姿が、まざまざと現われ出た。葉子はそれを見ながらどうしてこんな変な心持ちになるのだろう。血のせいとでもいうのだろうか。事によるとヒステリーにかかっているのではないかしらんなどとのんきに自分の身の上を考えていた。いわば悠々閑々と澄み渡った水の隣に、薄紙一重の界も置かず、たぎり返って渦巻き流れる水がある。葉子の心はその静かなほうの水に浮かびながら、滝川の中にもまれもまれて落ちて行く自分というものを他人事のようにながめやっているようなものだった。葉子は自分の冷淡さにあきれながら、それでもやっぱり驚きもせず、手欄によりかかってじっと立っていた。
「田川法学博士」
葉子はまたふといたずら者らしくこんなことを思っていた。が、田川夫妻が自分と反対の舷の籐椅子に腰かけて、世辞世辞しく近寄って来る同船者と何か戯談口でもきいているとひとりで決めると、安心でもしたように幻想はまたかの若者にかえって行った。葉子はふと右の肩に暖かみを覚えるように思った。そこには若者の熱い涙が浸み込んでいるのだ。葉子は夢遊病者のような目つきをして、やや頭を後ろに引きながら肩の所を見ようとすると、その瞬間、若者を船から桟橋に連れ出した船員の事がはっと思い出されて、今まで盲いていたような目に、まざまざとその大きな黒い顔が映った。葉子はなお夢みるような目を見開いたまま、船員の濃い眉から黒い口髭のあたりを見守っていた。
船はもうかなり速力を早めて、霧のように降るともなく降る雨の中を走っていた。舷側から吐き出される捨て水の音がざあざあと聞こえ出したので、遠い幻想の国から一足飛びに取って返した葉子は、夢ではなく、まがいもなく目の前に立っている船員を見て、なんという事なしにぎょっとほんとうに驚いて立ちすくんだ。始めてアダムを見たイヴのように葉子はまじまじと珍しくもないはずの一人の男を見やった。
「ずいぶん長い旅ですが、何、もうこれだけ日本が遠くなりましたんだ」
といってその船員は右手を延べて居留地の鼻を指さした。がっしりした肩をゆすって、勢いよく水平に延ばしたその腕からは、強くはげしく海上に生きる男の力がほとばしった。葉子は黙ったまま軽くうなずいた、胸の下の所に不思議な肉体的な衝動をかすかに感じながら。
「お一人ですな」
塩がれた強い声がまたこう響いた。葉子はまた黙ったまま軽くうなずいた。
船はやがて乗りたての船客の足もとにかすかな不安を与えるほどに速力を早めて走り出した。葉子は船員から目を移して海のほうを見渡して見たが、自分のそばに一人の男が立っているという、強い意識から起こって来る不安はどうしても消す事ができなかった。葉子にしてはそれは不思議な経験だった。こっちから何か物をいいかけて、この苦しい圧迫を打ち破ろうと思ってもそれができなかった。今何か物をいったらきっとひどい不自然な物のいいかたになるに決まっている。そうかといってその船員には無頓着にもう一度前のような幻想に身を任せようとしてもだめだった。神経が急にざわざわと騒ぎ立って、ぼーっと煙った霧雨のかなたさえ見とおせそうに目がはっきりして、先ほどのおっかぶさるような暗愁は、いつのまにかはかない出来心のしわざとしか考えられなかった。その船員は傍若無人に衣嚢の中から何か書いた物を取り出して、それを鉛筆でチェックしながら、時々思い出したように顔を引いて眉をしかめながら、襟の折り返しについたしみを、親指の爪でごしごしと削ってははじいていた。
葉子の神経はそこにいたたまれないほどちかちかと激しく働き出した。自分と自分との間にのそのそと遠慮もなく大股ではいり込んで来る邪魔者でも避けるように、その船員から遠ざかろうとして、つと手欄から離れて自分の船室のほうに階子段を降りて行こうとした。
「どこにおいでです」
後ろから、葉子の頭から爪先までを小さなものででもあるように、一目に籠めて見やりながら、その船員はこう尋ねた。葉子は、
「船室まで参りますの」
と答えないわけには行かなかった。その声は葉子の目論見に反して恐ろしくしとやかな響きを立てていた。するとその男は大股で葉子とすれすれになるまで近づいて来て、
「船室ならば永田さんからのお話もありましたし、おひとり旅のようでしたから、医務室のわきに移しておきました。御覧になった前の部屋より少し窮屈かもしれませんが、何かに御便利ですよ。御案内しましょう」
といいながら葉子をすり抜けて先に立った。何か芳醇な酒のしみと葉巻煙草とのにおいが、この男固有の膚のにおいででもあるように強く葉子の鼻をかすめた。葉子は、どしんどしんと狭い階子段を踏みしめながら降りて行くその男の太い首から広い肩のあたりをじっと見やりながらそのあとに続いた。
二十四五脚の椅子が食卓に背を向けてずらっとならべてある食堂の中ほどから、横丁のような暗い廊下をちょっとはいると、右の戸に「医務室」と書いた頑丈な真鍮の札がかかっていて、その向かいの左の戸には「No.12 早月葉子殿」と白墨で書いた漆塗りの札が下がっていた。船員はつかつかとそこにはいって、いきなり勢いよく医務室の戸をノックすると、高いダブル・カラーの前だけをはずして、上着を脱ぎ捨てた船医らしい男が、あたふたと細長いなま白い顔を突き出したが、そこに葉子が立っているのを目ざとく見て取って、あわてて首を引っ込めてしまった。船員は大きなはばかりのない声で、
「おい十二番はすっかり掃除ができたろうね」
というと、医務室の中からは女のような声で、
「さしておきましたよ。きれいになってるはずですが、御覧なすってください。わたしは今ちょっと」
と船医は姿を見せずに答えた。
「こりゃいったい船医の私室なんですが、あなたのためにお明け申すっていってくれたもんですから、ボーイに掃除するようにいいつけておきましたんです。ど、きれいになっとるかしらん」
船員はそうつぶやきながら戸をあけて一わたり中を見回した。
「むゝ、いいようです」
そして道を開いて、衣嚢から「日本郵船会社絵島丸事務長勲六等倉地三吉」と書いた大きな名刺を出して葉子に渡しながら、
「わたしが事務長をしとります。御用があったらなんでもどうか」
葉子はまた黙ったままうなずいてその大きな名刺を手に受けた。そして自分の部屋ときめられたその部屋の高い閾を越えようとすると、
「事務長さんはそこでしたか」
と尋ねながら田川博士がその夫人と打ち連れて廊下の中に立ち現われた。事務長が帽子を取って挨拶しようとしている間に、洋装の田川夫人は葉子を目ざして、スカーツの絹ずれの音を立てながらつかつかと寄って来て眼鏡の奥から小さく光る目でじろりと見やりながら、
「五十川さんがうわさしていらしった方はあなたね。なんとかおっしゃいましたねお名は」
といった。この「なんとかおっしゃいましたね」という言葉が、名もないものをあわれんで見てやるという腹を充分に見せていた。今まで事務長の前で、珍しく受け身になっていた葉子は、この言葉を聞くと、強い衝動を受けたようになってわれに返った。どういう態度で返事をしてやろうかという事が、いちばんに頭の中で二十日鼠のようにはげしく働いたが、葉子はすぐ腹を決めてひどく下手に尋常に出た。「あ」と驚いたような言葉を投げておいて、丁寧に低くつむりを下げながら、
「こんな所まで……恐れ入ります。わたし早月葉と申しますが、旅には不慣れでおりますのにひとり旅でございますから……」
といってひとみを稲妻のように田川に移して、
「御迷惑ではこざいましょうが何分よろしく願います」
とまたつむりを下げた。田川はその言葉の終わるのを待ち兼ねたように引き取って、
「何不慣れはわたしの妻も同様ですよ。何しろこの船の中には女は二人ぎりだからお互いです」
とあまりなめらかにいってのけたので、妻の前でもはばかるように今度は態度を改めながら事務長に向かって、
「チャイニース・ステアレージには何人ほどいますか日本の女は」
と問いかけた。事務長は例の塩から声で
「さあ、まだ帳簿もろくろく整理して見ませんから、しっかりとはわかり兼ねますが、何しろこのごろはだいぶふえました。三四十人もいますか。奥さんここが医務室です。何しろ九月といえば旧の二八月の八月ですから、太平洋のほうは暴ける事もありますんだ。たまにはここにも御用ができますぞ。ちょっと船医も御紹介しておきますで」
「まあそんなに荒れますか」
と田川夫人は実際恐れたらしく、葉子を顧みながら少し色をかえた。事務長は事もなげに、
「暴けますんだずいぶん」
と今度は葉子のほうをまともに見やってほほえみながら、おりから部屋を出て来た興録という船医を三人に引き合わせた。
田川夫妻を見送ってから葉子は自分の部屋にはいった。さらぬだにどこかじめじめするような船室には、きょうの雨のために蒸すような空気がこもっていて、汽船特有な西洋臭いにおいがことに強く鼻についた。帯の下になった葉子の胸から背にかけたあたりは汗がじんわりにじみ出たらしく、むしむしするような不愉快を感ずるので、狭苦しい寝台を取りつけたり、洗面台を据えたりしてあるその間に、窮屈に積み重ねられた小荷物を見回しながら、帯を解き始めた。化粧鏡の付いた箪笥の上には、果物のかごが一つと花束が二つ載せてあった。葉子は襟前をくつろげながら、だれからよこしたものかとその花束の一つを取り上げると、そのそばから厚い紙切れのようなものが出て来た。手に取って見ると、それは手札形の写真だった。まだ女学校に通っているらしい、髪を束髪にした娘の半身像で、その裏には「興録さま。取り残されたる千代より」としてあった。そんなものを興録がしまい忘れるはずがない。わざと忘れたふうに見せて、葉子の心に好奇心なり軽い嫉妬なりをあおり立てようとする、あまり手もとの見えすいたからくりだと思うと、葉子はさげすんだ心持ちで、犬にでもするようにぽいとそれを床の上にほうりなげた。一人の旅の婦人に対して船の中の男の心がどういうふうに動いているかをその写真一枚が語り貌だった、葉子はなんという事なしに小さな皮肉な笑いを口びるの所に浮かべていた。
寝台の下に押し込んである平べったいトランクを引き出して、その中から浴衣を取り出していると、ノックもせずに突然戸をあけたものがあった。葉子は思わず羞恥から顔を赤らめて、引き出した派手な浴衣を楯に、しだらなく脱ぎかけた長襦袢の姿をかくまいながら立ち上がって振り返って見ると、それは船医だった。はなやかな下着を浴衣の所々からのぞかせて、帯もなくほっそりと途方に暮れたように身を斜にして立った葉子の姿は、男の目にはほしいままな刺激だった。懇意ずくらしく戸もたたかなかった興録もさすがにどぎまぎして、はいろうにも出ようにも所在に窮して、閾に片足を踏み入れたまま当惑そうに立っていた。
「飛んだふうをしていまして御免くださいまし。さ、おはいり遊ばせ。なんぞ御用でもいらっしゃいましたの」
と葉子は笑いかまけたようにいった。興録はいよいよ度を失いながら、
「いゝえ何、今でなくってもいいのですが、元のお部屋のお枕の下にこの手紙が残っていましたのを、ボーイが届けて来ましたんで、早くさし上げておこうと思って実は何したんでしたが……」
といいながら衣嚢から二通の手紙を取り出した。手早く受け取って見ると、一つは古藤が木村にあてたもの、一つは葉子にあてたものだった。興録はそれを手渡すと、一種の意味ありげな笑いを目だけに浮かべて、顔だけはいかにももっともらしく葉子を見やっていた。自分のした事を葉子もしたと興録は思っているに違いない。葉子はそう推量すると、かの娘の写真を床の上から拾い上げた。そしてわざと裏を向けながら見向きもしないで、
「こんなものがここにも落ちておりましたの。お妹さんでいらっしゃいますか。おきれいですこと」
といいながらそれをつき出した。
興録は何かいいわけのような事をいって部屋を出て行った。と思うとしばらくして医務室のほうから事務長のらしい大きな笑い声が聞こえて来た。それを聞くと、事務長はまだそこにいたかと、葉子はわれにもなくはっとなって、思わず着かえかけた着物の衣紋に左手をかけたまま、うつむきかげんになって横目をつかいながら耳をそばだてた。破裂するような事務長の笑い声がまた聞こえて来た。そして医務室の戸をさっとあけたらしく、声が急に一倍大きくなって、
「Devil take it! No tame creature then,eh?」と乱暴にいう声が聞こえたが、それとともにマッチをする音がして、やがて葉巻をくわえたままの口ごもりのする言葉で、
「もうじき検疫船だ。準備はいいだろうな」
といい残したまま事務長は船医の返事も待たずに行ってしまったらしかった。かすかなにおいが葉子の部屋にも通って来た。
葉子は聞き耳をたてながらうなだれていた顔を上げると、正面をきって何という事なしに微笑をもらした。そしてすぐぎょっとしてあたりを見回したが、われに返って自分一人きりなのに安堵して、いそいそと着物を着かえ始めた。
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