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或る女(あるおんな)前編

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-21 6:24:42  点击:  切换到繁體中文



       三

 その木部の目は執念しゅうねくもつきまつわった。しかし葉子はそっちを見向こうともしなかった。そして二等の切符でもかまわないからなぜ一等に乗らなかったのだろう。こういう事がきっとあると思ったからこそ、乗り込む時もそういおうとしたのだのに、気がきかないっちゃないと思うと、近ごろになく起きぬけからさえざえしていた気分が、沈みかけた秋の日のように陰ったりめいったりし出して、冷たい血がポンプにでもかけられたように脳のすきまというすきまをかたく閉ざした。たまらなくなって向かいの窓から景色でも見ようとすると、そこにはシェードがおろしてあって、例の四十三四の男が厚い口びるをゆるくあけたままで、ばかな顔をしながらまじまじと葉子を見やっていた。葉子はむっとしてその男のひたいから鼻にかけたあたりを、遠慮もなく発矢はっしと目でむちうった。商人は、ほんとうにむちうたれた人が泣き出す前にするように、笑うような、はにかんだような、不思議な顔のゆがめかたをして、さすがに顔をそむけてしまった。その意気地いくじのない様子がまた葉子の心をいらいらさせた。右に目を移せば三四人先に木部がいた。その鋭い小さな目は依然として葉子を見守っていた。葉子は震えを覚えるばかりに激昂げきこうした神経を両手に集めて、その両手を握り合わせてひざの上のハンケチの包みを押えながら、下駄げたの先をじっと見入ってしまった。今は車内の人が申し合わせて侮辱でもしているように葉子には思えた。古藤が隣座となりざにいるのさえ、一種の苦痛だった。その瞑想的めいそうてきな無邪気な態度が、葉子の内部的経験や苦悶くもんと少しも縁が続いていないで、二人ふたりの間には金輸際こんりんざい理解が成り立ち得ないと思うと、彼女は特別に毛色の変わった自分の境界きょうがいに、そっとうかがい寄ろうとする探偵たんていをこの青年に見いだすように思って、その五分刈ぶがりにした地蔵頭じぞうあたままでが顧みるにも足りない木のくずかなんぞのように見えた。
 やせた木部の小さな輝いた目は、依然として葉子を見つめていた。
 なぜ木部はかほどまで自分を侮辱するのだろう。彼は今でも自分を女とあなどっている。ちっぽけな才力を今でも頼んでいる。女よりも浅ましい熱情を鼻にかけて、今でも自分の運命に差し出がましく立ち入ろうとしている。あの自信のない臆病おくびょうな男に自分はさっきびを見せようとしたのだ。そして彼は自分がこれほどまで誇りを捨てて与えようとした特別の好意をまなじりかえして退けたのだ。
 やせた木部の小さな目は依然として葉子を見つめていた。
 この時突然けたたましい笑い声が、何か熱心に話し合っていた二人ふたりの中年の紳士の口から起こった。その笑い声と葉子となんの関係もない事は葉子にもわかりきっていた。しかし彼女はそれを聞くと、もう欲にも我慢がしきれなくなった。そして右の手を深々ふかぶかと帯の間にさし込んだまま立ち上がりざま、
「汽車に酔ったんでしょうかしらん、頭痛がするの」
 と捨てるように古藤にいい残して、いきなり繰り戸をあけてデッキに出た。
 だいぶ高くなった日の光がぱっと大森田圃おおもりたんぼに照り渡って、海が笑いながら光るのが、並み木の向こうに広すぎるくらい一どきに目にはいるので、軽い瞑眩めまいをさえ覚えるほどだった。鉄の手欄てすりにすがって振り向くと、古藤が続いて出て来たのを知った。その顔には心配そうな驚きの色があからさまに現われていた。
「ひどく痛むんですか」
「ええかなりひどく」
 と答えたがめんどうだと思って、
「いいからはいっていてください。おおげさに見えるといやですから……大丈夫あぶなかありませんとも……」
 といい足した。古藤はしいてとめようとはしなかった。そして、
「それじゃはいっているがほんとうにあぶのうござんすよ……用があったら呼んでくださいよ」
 とだけいって素直すなおにはいって行った。
「Simpleton!」
 葉子は心の中でこうつぶやくと、焼き捨てたように古藤の事なんぞは忘れてしまって、手欄てすりひじをついたまま放心して、晩夏の景色をつつむ引き締まった空気に顔をなぶらした。木部の事も思わない。緑やあいや黄色のほか、これといって輪郭のはっきりした自然の姿も目に映らない。ただ涼しい風がそよそよとびんの毛をそよがして通るのを快いと思っていた。汽車は目まぐるしいほどの快速力で走っていた。葉子の心はただ渾沌こんとんと暗く固まった物のまわりを飽きる事もなく幾度も幾度も左から右に、右から左に回っていた。こうして葉子にとっては長い時間が過ぎ去ったと思われるころ、突然頭の中を引っかきまわすような激しい音を立てて、汽車は六郷川ろくごうがわの鉄橋を渡り始めた。葉子は思わずぎょっとして夢からさめたように前を見ると、ばしの鉄材が蛛手くもでになって上を下へと飛びはねるので、葉子は思わずデッキのパンネルに身を退いて、両袖りょうそでで顔をおさえて物を念じるようにした。
 そうやって気を静めようと目をつぶっているうちに、まつ毛を通し袖を通して木部の顔とことにその輝く小さな両眼とがまざまざと想像に浮かび上がって来た。葉子の神経は磁石じしゃくに吸い寄せられた砂鉄のように、堅くこの一つの幻像の上に集注して、車内にあった時と同様な緊張した恐ろしい状態に返った。停車場に近づいた汽車はだんだんと歩度をゆるめていた。田圃たんぼのここかしこに、俗悪な色で塗り立てた大きな広告看板が連ねて建ててあった。葉子はそでを顔から放して、気持ちの悪い幻像を払いのけるように、一つ一つその看板を見迎え見送っていた。所々ところどころに火が燃えるようにその看板は目に映って木部の姿はまたおぼろになって行った。その看板の一つに、長い黒髪を下げた姫が経巻きょうかんを持っているのがあった。その胸に書かれた「中将湯ちゅうじょうとう」という文字を、なにげなしに一字ずつ読み下すと、彼女は突然私生児の定子の事を思い出した。そしてその父なる木部の姿は、かかる乱雑な連想の中心となって、またまざまざと焼きつくように現われ出た。
 その現われ出た木部の顔を、いわば心の中の目で見つめているうちに、だんだんとその鼻の下からひげが消えうせて行って、輝くひとみの色は優しい肉感的なあたたかみを持ち出して来た。汽車は徐々に進行をゆるめていた。やや荒れ始めた三十男の皮膚の光沢つやは、神経的な青年の蒼白あおじろい膚の色となって、黒く光ったやわらかいつむりの毛がきわ立って白い額をなでている。それさえがはっきり見え始めた。列車はすでに川崎かわさき停車場のプラットフォームにはいって来た。葉子の頭の中では、汽車が止まりきる前に仕事をしおおさねばならぬというふうに、今見たばかりの木部の姿がどんどん若やいで行った。そして列車が動かなくなった時、葉子はその人のかたわらにでもいるように恍惚うっとりとした顔つきで、思わず知らず左手を上げて――小指をやさしく折り曲げて――やわらかいびんおくをかき上げていた。これは葉子が人の注意をひこうとする時にはいつでもする姿態しなである。
 この時、繰り戸がけたたましくあいたと思うと、中から二三人の乗客がどやどやと現われ出て来た。
 しかもその最後から、涼しい色合いのインバネスを羽織はおった木部が続くのを感づいて、葉子の心臓は思わずはっと処女の血をったようにときめいた。木部が葉子の前まで来てすれすれにそのそばを通り抜けようとした時、二人ふたりの目はもう一度しみじみと出あった。木部の目は好意を込めた微笑にひたされて、葉子の出ようによっては、すぐにも物をいい出しそうに口びるさえ震えていた。葉子も今まで続けていた回想の惰力に引かされて、思わずほほえみかけたのであったが、その瞬間燕返つばめがえしに、見も知りもせぬ路傍の人に与えるような、冷刻な驕慢きょうまんな光をそのひとみから射出いだしたので、木部の微笑は哀れにも枝を離れた枯れ葉のように、二人の間をむなしくひらめいて消えてしまった。葉子は木部のあわてかたを見ると、車内で彼から受けた侮辱にかなり小気味よくむくい得たという誇りを感じて、胸の中がややすがすがしくなった。木部はやせたその右肩を癖のように怒らしながら、急ぎ足に濶歩かっぽして改札口の所に近づいたが、切符を懐中から出すために立ち止まった時、深い悲しみの色をまゆの間にみなぎらしながら、振り返ってじっと葉子の横顔に目を注いだ。葉子はそれを知りながらもとより侮蔑ぶべつ一瞥いちべつをも与えなかった。
 木部が改札口を出て姿が隠れようとした時、今度は葉子の目がじっとその後ろ姿をいかけた。木部が見えなくなった後も、葉子の視線はそこを離れようとはしなかった。そしてその目にはさびしく涙がたまっていた。
「また会う事があるだろうか」
 葉子はそぞろに不思議な悲哀を覚えながら心の中でそういっていたのだった。

       四

 列車が川崎駅を発すると、葉子はまた手欄てすりによりかかりながら木部の事をいろいろと思いめぐらした。やや色づいた田圃たんぼの先に松並み木が見えて、そのあいだから低く海の光る、平凡な五十三次風つぎふうな景色が、電柱で句読くとうを打ちながら、空洞うつろのような葉子の目の前で閉じたり開いたりした。赤とんぼも飛びかわす時節で、その群れが、燧石ひうちいしから打ち出される火花のように、赤い印象を目の底に残して乱れあった。いつ見ても新開地じみて見える神奈川かながわを過ぎて、汽車が横浜の停車場に近づいたころには、八時を過ぎた太陽の光が、紅葉坂もみじざかの桜並み木を黄色く見せるほどに暑く照らしていた。
 煤煙ばいえんでまっ黒にすすけた煉瓦れんが壁の陰に汽車がまると、中からいちばん先に出て来たのは、右手にかのオリーヴ色の包み物を持った古藤だった。葉子はパラソルをつえに弱々しくデッキを降りて、古藤に助けられながら改札口を出たが、ゆるゆる歩いている間に乗客はさきを越してしまって、二人ふたりはいちばんあとになっていた。客を取りおくれた十四五人の停車場づきの車夫が、待合部屋まちあいべやの前にかたまりながら、やつれて見える葉子に目をつけて何かとうわさし合うのが二人の耳にもはいった。「むすめ」「らしゃめん」というような言葉さえそのはしたない言葉の中には交じっていた。開港場のがさつな卑しい調子は、すぐ葉子の神経にびりびりと感じて来た。
 何しろ葉子は早く落ち付く所を見つけ出したかった。古藤は停車場の前方の川添いにある休憩所まで走って[#「走って」は底本では「走つて」]行って見たが、帰って来るとぶりぶりして、駅夫あがりらしい茶店の主人は古藤の書生っぽ姿をいかにもばかにしたような断わりかたをしたといった。二人はしかたなくうるさく付きまつわる車夫を追い払いながら、潮の香の漂った濁った小さな運河を渡って、ある狭いきたない町の中ほどにある一軒の小さな旅人宿にはいって行った。横浜という所には似もつかぬような古風な外構そとがまえで、美濃紙みのがみのくすぶり返った置き行燈あんどんには太い筆つきで相模屋さがみやと書いてあった。葉子はなんとなくその行燈に興味をひかれてしまっていた。いたずら好きなその心は、嘉永かえいごろの浦賀うらがにでもあればありそうなこの旅籠屋はたごやに足を休めるのを恐ろしくおもしろく思った。店にしゃがんで、番頭と何か話しているあばずれたような女中までが目にとまった。そして葉子がていよく物を言おうとしていると、古藤がいきなり取りかまわない調子で、
「どこか静かな部屋へやに案内してください」
 と無愛想ぶあいそさきを越してしまった。
「へいへい、どうぞこちらへ」
 女中は二人をまじまじと見やりながら、客の前もかまわず、番頭と目を見合わせて、さげすんだらしい笑いをもらして案内に立った。
 ぎしぎしと板ぎしみのするまっ黒な狭い階子段はしごだんを上がって、西に突き当たった六畳ほどの狭い部屋へやに案内して、突っ立ったままで荒っぽく二人を不思議そうに女中は見比べるのだった。油じみた襟元えりもとを思い出させるような、西に出窓のある薄ぎたない部屋の中を女中をひっくるめてにらみ回しながら古藤は、
外部そとよりひどい……どこか他所よそにしましょうか」
 と葉子を見返った。葉子はそれには耳もかさずに、思慮深い貴女きじょのような物腰で女中のほうに向いていった。
隣室となりも明いていますか……そう。夜まではどこも明いている……そう。お前さんがここの世話をしておいで?……ならほか部屋へやもついでに見せておもらいしましょうかしらん」
 女中はもう葉子には軽蔑けいべつの色は見せなかった。そして心得顔こころえがおに次の部屋とのあいふすまをあけるあいだに、葉子は手早く大きな銀貨を紙に包んで、
「少しかげんが悪いし、またいろいろお世話になるだろうから」
 といいながら、それを女中に渡した。そしてずっと並んだ五つの部屋を一つ一つ見て回って、掛け軸、花びん、団扇うちわさし、小屏風こびょうぶ、机というようなものを、自分の好みに任せてあてがわれた部屋のとすっかり取りかえて、すみからすみまできれいに掃除そうじをさせた。そして古藤を正座にえて小ざっぱりした座ぶとんにすわると、にっこりほほえみながら、
「これなら半日ぐらい我慢ができましょう」
 といった。
「僕はどんな所でも平気なんですがね」
 古藤はこう答えて、葉子の微笑を追いながら安心したらしく、
「気分はもうなおりましたね」
 と付け加えた。
「えゝ」
 と葉子は何げなく微笑を続けようとしたが、その瞬間につと思い返してまゆをひそめた。葉子には仮病けびょうを続ける必要があったのをつい忘れようとしたのだった。それで、
「ですけれどもまだこんななんですの。こら動悸どうきが」
 といいながら、地味じみ風通ふうつう単衣物ひとえものの中にかくれたはなやかな襦袢じゅばんそでをひらめかして、右手を力なげに前に出した。そしてそれと同時に呼吸をぐっとつめて、心臓とおぼしいあたりにはげしく力をこめた。古藤はすき通るように白い手くびをしばらくなで回していたが、脈所みゃくどころに探りあてると急に驚いて目を見張った。
「どうしたんです、え、ひどく不規則じゃありませんか……痛むのは頭ばかりですか」
「いゝえ、おなかも痛みはじめたんですの」
「どんなふうに」
ぎゅっきりででももむように……よくこれがあるんで困ってしまうんですのよ」
 古藤は静かに葉子の手を離して、大きな目で深々ふかぶかと葉子をみつめた。
「医者を呼ばなくっても我慢ができますか」
 葉子は苦しげにほほえんで見せた。
「あなただったらきっとできないでしょうよ。……慣れっこですからこらえて見ますわ。その代わりあなた永田ながたさん……永田さん、ね、郵船会社の支店長の……あすこに行って船の切符の事を相談して来ていただけないでしょうか。御迷惑ですわね。それでもそんな事までお願いしちゃあ……ようござんす、わたし、車でそろそろ行きますから」
 古藤は、女というものはこれほどの健康の変調をよくもこうまで我慢をするものだというような顔をして、もちろん自分が行ってみるといい張った。
 実はその日、葉子は身のまわりの小道具や化粧品を調ととのえかたがた、米国行きの船の切符を買うために古藤を連れてここに来たのだった。葉子はそのころすでに米国にいるある若い学士と許嫁いいなずけの間柄になっていた。新橋で車夫が若奥様と呼んだのも、この事が出入りのものの間に公然と知れわたっていたからの事だった。
 それは葉子が私生子を設けてからしばらく後の事だった。ある冬の夜、葉子の母の親佐おやさが何かの用でその良人おっとの書斎に行こうと階子段はしごだんをのぼりかけると、上から小間使いがまっしぐらに駆けおりて来て、危うく親佐にぶっ突かろうとしてそのそばをすりぬけながら、何か意味のわからない事を早口にいって[#「いって」は底本では「いつて」]走り去った。その島田髷しまだまげや帯の乱れた後ろ姿が、嘲弄ちょうろうの言葉のように目を打つと、親佐は口びるをかみしめたが、足音だけはしとやか階子段はしごだんを上がって、いつもに似ず書斎の戸の前に立ち止まって、しわぶきを一つして、それから規則正しくをおいて三度戸をノックした。
 こういう事があってから五日いつかとたたぬうちに、葉子の家庭すなわち早月家さつきけは砂の上の塔のようにもろくもくずれてしまった。親佐はことに冷静な底気味わるい態度で夫婦の別居を主張した。そして日ごろの柔和に似ず、傷ついた[#「傷ついた」は底本では「傷ついに」]牡牛おうしのように元どおりの生活を回復しようとひしめく良人おっとや、中にはいっていろいろ言いなそうとした親類たちの言葉を、きっぱりとしりぞけてしまって、良人を釘店くぎだなのだだっ広い住宅にたった一人ひとり残したまま、葉子ともに三人の娘を連れて、親佐は仙台せんだいに立ちのいてしまった。木部の友人たちが葉子の不人情を怒って、木部のとめるのもきかずに、社会から葬ってしまえとひしめいているのを葉子は聞き知っていたから、ふだんならば一も二もなく父をかばって母にたてをつくべきところを、素直すなおに母のするとおりになって、葉子は母と共に仙台にうずもれに行った。母は母で、自分の家庭から葉子のような娘の出た事を、できるだけ世間せけんに知られまいとした。女子教育とか、家庭の薫陶とかいう事をおりあるごとに口にしていた親佐は、その言葉に対して虚偽という利子を払わねばならなかった。一方をもみ消すためには一方にどんと火の手をあげる必要がある。早月母子さつきおやこが東京を去るとまもなく、ある新聞は早月さつきドクトルの女性に関するふしだらを書き立てて、それにつけての親佐の苦心と貞操とを吹聴ふいちょうしたついでに、親佐が東京を去るようになったのは、熱烈な信仰から来る義憤と、愛児を父の悪感化から救おうとする母らしい努力に基づくものだ。そのために彼女はキリスト教婦人同盟の副会長という顕要な位置さえ投げすてたのだと書き添えた。
 仙台における早月親佐はしばらくのあいだは深く沈黙を守っていたが、見る見る周囲に人を集めて華々はなばなしく活動をし始めた。その客間は若い信者や、慈善家や、芸術家たちのサロンとなって、そこからリバイバルや、慈善いちや、音楽会というようなものが形を取って生まれ出た。ことに親佐が仙台支部長として働き出したキリスト教婦人同盟の運動は、その当時野火のびのような勢いで全国に広がり始めた赤十字社の勢力にもおさおさ劣らない程の盛況を呈した。知事令夫人も、名だたる素封家そほうかの奥さんたちもその集会には列席した。そして三か年の月日は早月親佐を仙台には無くてはならぬ名物の一つにしてしまった。性質が母親とどこか似すぎているためか、似たように見えて一調子違っているためか、それとも自分を慎むためであったか、はたの人にはわからなかったが、とにかく葉子はそんなはなやかな雰囲気ふんいきに包まれながら、不思議なほど沈黙を守って、ろくろく晴れの座などには姿を現わさないでいた。それにもかかわらず親佐の客間に吸い寄せられる若い人々の多数は葉子に吸い寄せられているのだった。葉子の控え目なしおらしい様子がいやが上にも人のうわさを引くたねとなって、葉子という名は、多才で、情緒のこまやかな、美しい薄命児をだれにでも思い起こさせた。彼女の立ちすぐれた眉目形みめかたち花柳かりゅうの人たちさえうらやましがらせた。そしていろいろな風聞が、清教徒風に質素な早月の佗住居わびずまいの周囲をかすみのように取り巻き始めた。
 突然小さな仙台市は雷にでも打たれたようにある朝の新聞記事に注意を向けた。それはその新聞の商売がたきであるる新聞の社主であり主筆である某が、親佐と葉子との二人ふたりに同時に慇懃いんぎんを通じているという、全紙にわたった不倫きわまる記事だった。だれも意外なような顔をしながら心の中ではそれを信じようとした。
 この日髪の毛の濃い、口の大きい、色白な一人ひとりの青年を乗せた人力車じんりきしゃが、仙台の町中をせわしく駆け回ったのを注意した人はおそらくなかったろうが、その青年は名を木村きむらといって、日ごろから快活な活動好きな人として知られた男で、その熱心な奔走の結果、翌日の新聞紙の広告欄には、二段抜きで、知事令夫人以下十四五名の貴婦人の連名で早月親佐さつきおやさ冤罪えんざいすすがれる事になった。この稀有けうおおげさな広告がまた小さな仙台の市中をどよめき渡らした。しかし木村の熱心も口弁も葉子の名を広告の中に入れる事はできなかった。
 こんな騒ぎが持ち上がってから早月親佐の仙台における今までの声望は急に無くなってしまった。そのころちょうど東京に居残っていた早月が病気にかかって薬に親しむ身となったので、それをしおに親佐は子供を連れて仙台を切り上げる事になった。
 木村はその後すぐ早月母子おやこを追って東京に出て来た。そして毎日入りびたるように早月家に出入りして、ことに親佐の気に入るようになった。親佐が病気になって危篤に陥った時、木村は一生の願いとして葉子との結婚を申し出た。親佐はやはり母だった。死期を前に控えて、いちばん気にせずにいられないものは、葉子の将来だった。木村ならばあのわがままな、男を男とも思わぬ葉子に仕えるようにして行く事ができると思った。そしてキリスト教婦人同盟の会長をしている五十川いそがわ女史に後事を託して死んだ。この五十川女史のまあまあというような不思議なあいまいな切り盛りで、木村は、どこか不確実ではあるが、ともかく葉子を妻としうる保障を握ったのだった。

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