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或る女(あるおんな)前編

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-21 6:24:42  点击:  切换到繁體中文

底本: 或る女 前編
出版社: 岩波文庫、岩波書店
初版発行日: 1950(昭和25)年5月5日、1968(昭和43)年6月16日第27刷改版
入力に使用: 1998(平成10)年11月16日第42刷
校正に使用: 1998(平成10)年11月16日第42刷

 

     一

 新橋しんばしを渡る時、発車を知らせる二番目のベルが、霧とまではいえない九月の朝の、けむった空気に包まれて聞こえて来た。葉子ようこは平気でそれを聞いたが、車夫は宙を飛んだ。そして車が、鶴屋つるやという町のかどの宿屋を曲がって、いつでも人馬の群がるあの共同井戸のあたりを駆けぬける時、停車場の入り口の大戸をしめようとする駅夫と争いながら、八がたしまりかかった戸の所に突っ立ってこっちを見まもっている青年の姿を見た。
「まあおそくなってすみませんでした事……まだ間に合いますかしら」
 と葉子がいいながら階段をのぼると、青年は粗末な麦稈むぎわら帽子をちょっと脱いで、黙ったまま青い切符きっぷを渡した。
「おやなぜ一等になさらなかったの。そうしないといけないわけがあるからかえてくださいましな」
 といおうとしたけれども、火がつくばかりに駅夫がせき立てるので、葉子は黙ったまま青年とならんで小刻みな足どりで、たった一つだけあいている改札口へと急いだ。改札はこの二人ふたりの乗客を苦々にがにがしげに見やりながら、左手を延ばして待っていた。二人がてんでんに切符を出そうとする時、
「若奥様、これをお忘れになりました」
 といいながら、羽被はっぴの紺のにおいの高くするさっきの車夫が、薄い大柄おおがらなセルの膝掛ひざかけを肩にかけたままあわてたように追いかけて来て、オリーヴ色の絹ハンケチに包んだ小さな物を渡そうとした。
「早く早く、早くしないと出っちまいますよ」改札がたまらなくなって癇癪声かんしゃくごえをふり立てた。
 青年の前で「若奥様」と呼ばれたのと、改札ががみがみどなり立てたので、針のように鋭い神経はすぐ彼女をあまのじゃくにした。葉子は今まで急ぎ気味ぎみであった歩みをぴったり止めてしまって、落ち付いた顔で、車夫のほうに向きなおった。
「そう御苦労よ。家に帰ったらね、きょうは帰りがおそくなるかもしれませんから、お嬢さんたちだけで校友会にいらっしゃいってそういっておくれ。それから横浜よこはま近江屋おうみや――西洋小間物屋こまものやの近江屋が来たら、きょうこっちから出かけたからっていうようにってね」
 車夫はきょときょとと改札と葉子とをかたみがわりに見やりながら、自分が汽車にでも乗りおくれるようにあわてていた。改札の顔はだんだん険しくなって、あわや通路をしめてしまおうとした時、葉子はするするとそのほうに近よって、
「どうもすみませんでした事」
 といって切符をさし出しながら、改札の目の先で花が咲いたようにほほえんで見せた。改札はばかになったような顔つきをしながら、それでもおめおめと切符にあなを入れた。
 プラットフォームでは、駅員も見送り人も、立っている限りの人々は二人ふたりのほうに目を向けていた。それを全く気づきもしないような物腰ものごしで、葉子は親しげに青年と肩を並べて、しずしずと歩きながら、車夫の届けた包み物の中には何があるかあててみろとか、横浜のように自分の心をひく町はないとか、切符を一緒にしまっておいてくれろとかいって、音楽者のようにデリケートなその指先で、わざとらしく幾度か青年の手に触れる機会を求めた。列車の中からはある限りの顔が二人を見迎え見送るので、青年が物慣れない処女しょじょのようにはにかんで、しかも自分ながら自分をおこっているのが葉子にはおもしろくながめやられた。
 いちばん近い二等車の昇降口の所に立っていた車掌は右の手をポッケットに突っ込んで、くつ爪先つまさきで待ちどおしそうに敷き石をたたいていたが、葉子がデッキに足を踏み入れると、いきなり耳をつんざくばかりに呼び子を鳴らした。そして青年(青年は名を古藤ことうといった)が葉子に続いて飛び乗った時には、機関車の応笛おうてきが前方で朝の町のにぎやかなさざめきを破って響き渡った。
 葉子は四角なガラスをはめた入り口の繰り戸を古藤が勢いよくあけるのを待って、中にはいろうとして、八分通りつまった両側の乗客に稲妻いなずまのように鋭く目を走らしたが、左側の中央近く新聞を見入った、やせた中年の男に視線がとまると、はっと立ちすくむほど驚いた。しかしその驚きはまたたく暇もないうちに、顔からも足からも消えうせて、葉子はわるびれもせず、取りすましもせず、自信ある女優が喜劇の舞台にでも現われるように、軽い微笑を右のほおだけに浮かべながら、古藤に続いて入り口に近い右側の空席に腰をおろすと、あでやかに青年を見返りながら、小指をなんともいえないよい形に折り曲げた左手で、びんおくをかきなでるついでに、地味じみに装って来た黒のリボンにさわってみた。青年の前に座を取っていた四十三四のあぶらぎった商人ていの男は、あたふたと立ち上がって自分の後ろのシェードをおろして、おりふし横ざしに葉子に照りつける朝の光線をさえぎった。
 紺の飛白かすり書生下駄しょせいげたをつっかけた青年に対して、素性すじょうが知れぬほど顔にも姿にも複雑な表情をたたえたこの女性の対照は、幼い少女の注意をすらひかずにはおかなかった。乗客一同の視線はあやをなして二人ふたりの上に乱れ飛んだ。葉子は自分が青年の不思議な対照になっているという感じを快く迎えてでもいるように、青年に対してことさら親しげな態度を見せた。
 品川しながわを過ぎて短いトンネルを汽車が出ようとする時、葉子はきびしく自分を見すえる目をまゆのあたりに感じておもむろにそのほうを見かえった。それは葉子が思ったとおり、新聞に見入っているかのやせた男だった。男の名は木部孤※(「竹かんむり/(工+卩)」、第3水準1-89-60)きべこきょうといった。葉子が車内に足を踏み入れた時、だれよりも先に葉子に目をつけたのはこの男であったが、だれよりも先に目をそらしたのもこの男で、すぐ新聞を目八にさし上げて、それに読み入って素知そしらぬふりをしたのに葉子は気がついていた。そして葉子に対する乗客の好奇心が衰え始めたころになって、彼は本気に葉子を見つめ始めたのだ。葉子はあらかじめこの刹那せつなに対する態度を決めていたからあわても騒ぎもしなかった。目をすずのように大きく張って、親しいびの色を浮かべながら、黙ったままで軽くうなずこうと、少し肩と顔とをそっちにひねって、心持ち上向うわむきかげんになった時、稲妻のように彼女の心に響いたのは、男がその好意に応じてほほえみかわす様子のないという事だった。実際男の一文字眉いちもんじまゆは深くひそんで、その両眼はひときわ鋭さを増して見えた。それを見て取ると葉子の心の中はかっとなったが、みかまけたひとみはそのままで、するすると男の顔を通り越して、左側の古藤の血気けっきのいいほおのあたりに落ちた。古藤は繰り戸のガラス越しに、切り割りのがけをながめてつくねんとしていた。
「また何か考えていらっしゃるのね」
 葉子はやせた木部きべにこれ見よがしという物腰ではなやかにいった。
 古藤はあまりはずんだ葉子の声にひかされて、まんじりとその顔を見守った。その青年の単純なあからさまな心に、自分の笑顔えがおの奥の苦い渋い色が見抜かれはしないかと、葉子は思わずたじろいだほどだった。
「なんにも考えていやしないが、陰になったがけの色が、あまりきれいだもんで……紫に見えるでしょう。もう秋がかって来たんですよ。」
 青年は何も思っていはしなかったのだ。
「ほんとうにね」
 葉子は単純に応じて、もう一度ちらっと木部を見た。やせた木部の目は前と同じに鋭く輝いていた。葉子は正面に向き直るとともに、その男のひとみの下で、悒鬱ゆううつな険しい色を引きしめた口のあたりにみなぎらした。木部はそれを見て自分の態度を後悔すべきはずである。

       二

 葉子は木部が魂を打ちこんだ初恋のまとだった。それはちょうど日清にっしん戦争が終局を告げて、国民一般はだれかれの差別なく、この戦争に関係のあった事柄や人物やに事実以上の好奇心をそそられていたころであったが、木部は二十五という若いとしで、ある大新聞社の従軍記者になってシナに渡り、月並みな通信文の多い中に、きわだって観察の飛び離れた心力のゆらいだ文章を発表して、天才記者という名を博してめでたく凱旋がいせんしたのであった。そのころ女流キリスト教徒の先覚者として、キリスト教婦人同盟の副会長をしていた葉子の母は、木部の属していた新聞社の社長と親しい交際のあった関係から、ある日その社の従軍記者を自宅に招いて慰労の会食を催した。その席で、小柄こがら白皙はくせきで、詩吟の声の悲壮な、感情の熱烈なこの少壮従軍記者は始めて葉子を見たのだった。
 葉子はその時十九だったが、すでに幾人もの男に恋をし向けられて、その囲みを手ぎわよく繰りぬけながら、自分の若い心を楽しませて行くタクトは充分に持っていた。十五の時に、はかまをひもでめる代わりに尾錠びじょうで締めるくふうをして、一時女学生界の流行を風靡ふうびしたのも彼女である。そのあかい口びるを吸わして首席を占めたんだと、厳格でとおっている米国人の老校長に、思いもよらぬ浮き名を負わせたのも彼女である。上野うえのの音楽学校にはいってヴァイオリンのけいこを始めてから二か月ほどのあいだにめきめき上達して、教師や生徒の舌を巻かした時、ケーべル博士はかせ一人ひとりは渋い顔をした。そしてある日「お前の楽器は才で鳴るのだ。天才で鳴るのではない」と無愛想ぶあいそにいってのけた。それを聞くと「そうでございますか」と無造作むぞうさにいいながら、ヴァイオリンを窓の外にほうりなげて、そのまま学校を退学してしまったのも彼女である。キリスト教婦人同盟の事業に奔走し、社会では男まさりのしっかり者という評判を取り、家内では趣味の高いそして意志の弱い良人おっとを全く無視して振る舞ったその母の最も深い隠れた弱点を、拇指ぼし食指しょくしとのあいだちゃんと押えて、一歩もひけを取らなかったのも彼女である。葉子の目にはすべての人が、ことに男が底の底まで見すかせるようだった。葉子はそれまで多くの男をかなり近くまでもぐり込ませて置いて、もう一歩という所で突っぱなした。恋の始めにはいつでも女性が祭り上げられていて、ある機会を絶頂に男性が突然女性を踏みにじるという事を直覚のように知っていた葉子は、どの男に対しても、自分との関係の絶頂がどこにあるかを見ぬいていて、そこに来かかると情け容赦もなくその男を振り捨ててしまった。そうして捨てられた多くの男は、葉子を恨むよりも自分たちの獣性を恥じるように見えた。そして彼らは等しく葉子を見誤っていた事を悔いるように見えた。なぜというと、彼らは一人ひとりとして葉子に対して怨恨えんこんをいだいたり、憤怒ふんぬをもらしたりするものはなかったから。そして少しひがんだ者たちは自分の愚を認めるよりも葉子をとし不相当にませた女と見るほうが勝手だったから。
 それは恋によろしい若葉の六月のある夕方ゆうがただった。日本橋にほんばし釘店くぎだなにある葉子の家には七八人の若い従軍記者がまだ戦塵せんじんの抜けきらないようなふうをして集まって来た。十九でいながら十七にも十六にも見れば見られるような華奢きゃしゃ可憐かれんな姿をした葉子が、慎みの中にも才走った面影おもかげを見せて、二人ふたりの妹と共に給仕きゅうじに立った。そしてしいられるままに、ケーベル博士からののしられたヴァイオリンの一手もかなでたりした。木部の全霊はただ一目ひとめでこの美しい才気のみなぎりあふれた葉子の容姿に吸い込まれてしまった。葉子も不思議にこの小柄な青年に興味を感じた。そして運命は不思議ないたずらをするものだ。木部はその性格ばかりでなく、容貌ようぼう――骨細ほねぼそな、顔の造作の整った、天才ふう蒼白あおじろいなめらかな皮膚の、よく見ると他の部分の繊麗な割合に下顎骨かがっこつの発達した――までどこか葉子のそれに似ていたから、自意識の極度に強い葉子は、自分の姿を木部に見つけ出したように思って、一種の好奇心を挑発ちょうはつせられずにはいなかった。木部は燃えやすい心に葉子を焼くようにかきいだいて、葉子はまた才走った頭に木部の面影を軽く宿して、その一夜の饗宴きょうえんはさりげなく終わりを告げた。
 木部の記者としての評判は破天荒はてんこうといってもよかった。いやしくも文学を解するものは木部を知らないものはなかった。人々は木部が成熟した思想をひっさげて世の中に出て来る時の華々はなばなしさをうわさし合った。ことに日清戦役という、その当時の日本にしては絶大な背景を背負っているので、この年少記者はある人々からは英雄ヒーロー一人ひとりとさえして崇拝された。この木部がたびたび葉子の家を訪れるようになった。その感傷的な、同時にどこか大望たいもうに燃え立ったようなこの青年の活気は、家じゅうの人々の心を捕えないでは置かなかった。ことに葉子の母が前から木部を知っていて、非常に有為ゆうい多望な青年だとほめそやしたり、公衆の前で自分の子とも弟ともつかぬ態度で木部をもてあつかったりするのを見ると、葉子は胸の中でせせら笑った。そして心を許して木部に好意を見せ始めた。木部の熱意が見る見るおさえがたく募り出したのはもちろんの事である。
 かの六月の夜が過ぎてからほどもなく木部と葉子とは恋という言葉で見られねばならぬような間柄あいだがらになっていた。こういう場合葉子がどれほど恋の場面を技巧化し芸術化するに巧みであったかはいうに及ばない。木部は寝ても起きても夢の中にあるように見えた。二十五というそのころまで、熱心な信者で、清教徒風せいきょうとふうの誇りを唯一の立場としていた木部がこの初恋においてどれほど真剣になっていたかは想像する事ができる。葉子は思いもかけず木部の火のような情熱に焼かれようとする自分を見いだす事がしばしばだった。
 そのうちに二人ふたりの間柄はすぐ葉子の母に感づかれた。葉子に対してかねてからある事では一種の敵意を持ってさえいるように見えるその母が、この事件に対して嫉妬しっととも思われるほど厳重な故障を持ち出したのは、不思議でないというべきさかいを通り越していた。世故せこに慣れきって、落ち付き払った中年の婦人が、心の底の動揺に刺激されてたくらみ出すと見える残虐な譎計わるだくみは、年若い二人の急所をそろそろとうかがいよって、腸も通れと突き刺してくる。それを払いかねて木部が命限りにもがくのを見ると、葉子の心に純粋な同情と、男に対する無条件的な捨て身な態度が生まれ始めた。葉子は自分で造り出した自分のおとしあなにたわいもなく酔い始めた。葉子はこんな目もくらむような晴れ晴れしいものを見た事がなかった。女の本能が生まれて始めて芽をふき始めた。そして解剖刀メスのような日ごろの批判力は鉛のように鈍ってしまった。葉子の母が暴力では及ばないのを悟って、すかしつなだめつ、良人おっとまでを道具につかったり、木部の尊信する牧師を方便にしたりして、あらん限りの知力をしぼった懐柔策も、なんのかいもなく、冷静な思慮深い作戦計画を根気こんきよく続ければ続けるほど、葉子は木部を後ろにかばいながら、健気けなげにもか弱い女の手一つで戦った。そして木部の全身全霊をつめさきおもいの果てまで自分のものにしなければ、死んでも死ねない様子が見えたので、母もとうとうを折った。そして五か月の恐ろしい試練の後に、両親の立ち会わない小さな結婚の式が、秋のある午後、木部の下宿げしゅく一間ひとまで執り行なわれた。そして母に対する勝利の分捕ぶんどひんとして、木部は葉子一人のものとなった。
 木部はすぐ葉山はやまに小さな隠れのような家を見つけ出して、二人はむつまじくそこに移り住む事になった。葉子の恋はしかしながらそろそろと冷え始めるのに二週間以上を要しなかった。彼女は競争すべからぬ関係の競争者に対してみごとに勝利を得てしまった。日清戦争というものの光も太陽が西に沈むたびごとに減じて行った。それらはそれとしていちばん葉子を失望させたのは同棲どうせい後始めて男というものの裏を返して見た事だった。葉子を確実に占領したという意識に裏書きされた木部は、今までおくびにも葉子に見せなかった女々めめしい弱点を露骨ろこつに現わし始めた。後ろから見た木部は葉子には取り所のない平凡な気の弱い精力の足りない男に過ぎなかった。筆一本握る事もせずに朝から晩まで葉子に膠着こうちゃくし、感傷的なくせに恐ろしくわがままで、今日こんにち今日の生活にさえ事欠きながら、万事を葉子の肩になげかけてそれが当然な事でもあるような鈍感なおぼっちゃんじみた生活のしかたが葉子の鋭い神経をいらいらさせ出した。始めのうちは葉子もそれを木部の詩人らしい無邪気さからだと思ってみた。そしてせっせせっせと世話女房らしく切り回す事に興味をつないでみた。しかし心の底の恐ろしく物質的な葉子にどうしてこんな辛抱がいつまでも続こうぞ。結婚前までは葉子のほうから迫ってみたにも係わらず、崇高と見えるまでに極端な潔癖屋だった彼であったのに、思いもかけぬ貪婪どんらん陋劣ろうれつな情欲の持ち主で、しかもその欲求を貧弱な体質で表わそうとするのに出っくわすと、葉子は今まで自分でも気がつかずにいた自分を鏡で見せつけられたような不快を感ぜずにはいられなかった。夕食を済ますと葉子はいつでも不満と失望とでいらいらしながら夜を迎えねばならなかった。木部の葉子に対する愛着が募れば募るほど、葉子は一生が暗くなりまさるように思った。こうして死ぬために生まれて来たのではないはずだ。そう葉子はくさくさしながら思い始めた。その心持ちがまた木部に響いた。木部はだんだん監視の目をもって葉子の一挙一動を注意するようになって来た。同棲どうせいしてから半か月もたたないうちに、木部はややもすると高圧的に葉子の自由を束縛するような態度を取るようになった。木部の愛情は骨にしみるほど知り抜きながら、鈍っていた葉子の批判力はまたみがきをかけられた。その鋭くなった批判力で見ると、自分と似よった姿なり性格なりを木部に見いだすという事は、自然が巧妙な皮肉をやっているようなものだった。自分もあんな事をおもい、あんな事をいうのかと思うと、葉子の自尊心は思う存分に傷つけられた。
 ほかの原因もある。しかしこれだけで充分だった。二人ふたりが一緒になってから二か月目に、葉子は突然失踪しっそうして、父の親友で、いわゆる物事のよくわかる高山たかやまという医者の病室に閉じこもらしてもらって、三日みっかばかりは食う物も食わずに、浅ましくも男のために目のくらんだ自分の不覚を泣き悔やんだ。木部が狂気のようになって、ようやく葉子の隠れ場所を見つけて会いに来た時は、葉子は冷静な態度でしらじらしく面会した。そして「あなたの将来のおためにきっとなりませんから」と何げなげにいってのけた。木部がその言葉に骨を刺すような諷刺ふうしを見いだしかねているのを見ると、葉子は白くそろった美しい歯を見せて声を出して笑った。
 葉子と木部との間柄はこんなたわいもない場面を区切りにしてはかなくも破れてしまった。木部はあらんかぎりの手段を用いて、なだめたり、すかしたり、強迫までしてみたが、すべては全く無益だった。いったん木部から離れた葉子の心は、何者も触れた事のない処女のそれのようにさえ見えた。
 それから普通の期間を過ぎて葉子は木部の子を分娩ぶんべんしたが、もとよりその事を木部に知らせなかったばかりでなく、母にさえある他の男によって生んだ子だと告白した。実際葉子はその後、母にその告白を信じさすほどの生活をあえてしていたのだった。しかし母は目ざとくもその赤ん坊に木部の面影を探り出して、キリスト信徒にあるまじき悪意をこのあわれな赤ん坊に加えようとした。赤ん坊は女中部屋じょちゅうべやに運ばれたまま、祖母のひざには一度も乗らなかった。意地いじの弱い葉子の父だけは孫のかわいさからそっと赤ん坊を葉子の乳母うばの家に引き取るようにしてやった。そしてそのみじめな赤ん坊は乳母の手一つに育てられて定子さだこという六歳の童女になった。
 その後葉子の父は死んだ。母も死んだ。木部は葉子と別れてから、狂瀾きょうらんのような生活に身を任せた。衆議院議員の候補に立ってもみたり、純文学に指を染めてもみたり、旅僧のような放浪生活も送ったり、妻を持ち子を成し、酒にふけり、雑誌の発行も企てた。そしてそのすべてに一々不満を感ずるばかりだった。そして葉子が久しぶりで汽車の中で出あった今は、妻子を里に返してしまって、ある由緒ゆいしょある堂上華族どうじょうかぞくの寄食者となって、これといってする仕事もなく、胸の中だけにはいろいろな空想を浮かべたり消したりして、とかく回想にふけりやすい日送りをしている時だった。

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