二十二
「へええ、東京駅で?」
大井は狼狽したと云うよりも、むしろ決断に迷ったような眼つきをして、狡猾そうにちらりと俊助の顔を窺った。が、その眼が俊助の冷やかな視線に刎返されると、彼は急に悪びれない態度で、
「そうか。僕はちっとも気がつかなかった。」と白状した。
「しかも美人が見送りに来ていたじゃないか。」
勢いに乗った俊助は、もう一度際どい鎌をかけた。けれども大井は存外平然と、薄笑を唇に浮べながら、
「美人か――ありゃ僕の――まあ好いや。」と、思わせぶりな返事に韜晦してしまった。
「一体どこへ行ったんだ?」
「ありゃ僕の――」に辟易した俊助は、今度は全く技巧を捨てて、正面から大井を追窮した。
「国府津まで。」
「それから?」
「それからすぐに引返した。」
「どうして?」
「どうしてったって、――いずれ然るべき事情があってさ。」
この時丁子の花の
が、甘たるく二人の鼻を打った。二人ともほとんど同時に顔を挙げて見ると、いつかもうディッキンソンの銅像の前にさしかかる所だった。丁子は銅像をめぐった芝生の上に、麗らかな日の光を浴びて、簇々とうす紫の花を綴っていた。
「だからさ、その然るべき事情とは抑も何だと尋いているんだ。」
と、大井は愉快そうに、大きな声で笑い出した。
「つまらん事を心配する男だな。然るべき事情と云ったら、要するに然るべき事情じゃないか。」
が、俊助も二度目には、容易に目つぶしを食わされなかった。
「いくら然るべき事情があったって、ちょいと国府津まで行くだけなら、何も手巾まで振らなくったって好さそうなもんじゃないか。」
するとさすがに大井の顔にも、瞬く間周章したらしい気色が漲った。けれども口調だけは相不変傲然と、
「これまた別に然るべき事情があって振ったのさ。」
俊助は相手のたじろいだ虚につけ入って、さらに調戯うような悪問いの歩を進めようとした。が、大井は早くも形勢の非になったのを覚ったと見えて、正門の前から続いている銀杏の並木の下へ出ると、
「君はどこへ行く? 帰るか。じゃ失敬。僕は図書館へ寄って行くから。」と、巧に俊助を抛り出して、さっさと向うへ行ってしまった。
俊助はその後を見送りながら、思わず苦笑を洩したが、この上追っかけて行ってまでも、泥を吐かせようと云う興味もないので、正門を出るとまっすぐに電車通りを隔てている郁文堂の店へ行った。ところがそこへ足を入れると、うす暗い店の奥に立って、古本を探していた男が一人、静に彼の方へ向き直って、
「安田さん。しばらく。」と、優しい声をかけた。
二十三
ほとんど常に夕暮の様な店の奥の乏しい光も、まっ赤な土耳其帽を頂いた藤沢を見分けるには十分だった。俊助は答礼の帽を脱ぎながら、埃臭い周囲の古本と相手のけばけばしい服装との間に、不思議な対照を感ぜずにはいられなかった。
藤沢は大英百科全書の棚に華奢な片手をかけながら、艶かしいとも形容すべき微笑を顔中に漂わせて、
「大井さんには毎日御会いですか。」
「ええ、今も一しょに講義を聴いて来たところです。」
「僕はあの晩以来、一度も御目にかからないんですが――」
俊助は近藤と大井との間の確執が、同じく『城』同人と云う関係上、藤沢もその渦中へ捲きこんだのだろうと想像した。が、藤沢はそう思われる事を避けたいのか、いよいよ優しい声を出して、
「僕の方からは二三度下宿へ行ったんですけれど、生憎いつも留守ばかりで――何しろ大井さんはあの通り、評判のドン・ジュアンですから、その方で暇がないのかも知れませんがね。」
大学へはいって以来、初めて大井を知った俊助は、今日まであの黒木綿の紋附にそんな脂粉の気が纏綿していようとは、夢にも思いがけなかった。そこで思わず驚いた声を出しながら、
「へええ、あれで道楽者ですか。」
「さあ、道楽者かどうですか――とにかく女はよく征服する人ですよ。そう云う点にかけちゃ高等学校時代から、ずっと我々の先輩でした。」
その瞬間俊助の頭の中には、昨夜汽車の窓で手巾を振っていた大井の姿が、ありありと浮び上って来た。と同時にやはり藤沢が、何か大井に含む所があって、好い加減に中傷の毒舌を弄しているのではないかとも思った。が、次の瞬間に藤沢はちょいと首を曲げて、媚びるような微笑を送りながら、
「何でも最近はどこかのレストランの給仕と大へん仲が好くなっているそうです。御同様羨望に堪えない次第ですがね。」
俊助は藤沢がこう云う話を、むしろ大井の名誉のために弁じているのだと云う事に気がついた。それと共に、頭の中の大井の姿は、いよいよその振っている手巾から、濃厚に若い女性の
を放散せずにはすまさなかった。
「そりゃ盛ですね。」
「盛ですとも。ですから僕になんぞ会っている暇がないのも、重々無理はないんです。おまけに僕の行く用向きと云うのが、あの精養軒の音楽会の切符の御金を貰いに行くんですからね。」
藤沢はこう云いながら、手近の帳場机にある紙表紙の古本をとり上げたが、所々好い加減に頁を繰ると、すぐに俊助の方へ表紙を見せて、
「これも花房さんが売ったんですね。」
俊助は自然微笑が唇に上って来るのを意識した。
「梵字の本ですね。」
「ええ、マハアバラタか何からしいですよ。」
二十四
「安田さん、御客様でございますよ。」
こう云う女中の声が聞えた時、もう制服に着換えていた俊助は[#「は」は底本では「はは」]、よしとか何とか曖昧な返事をして置いて、それからわざと元気よく、梯子段を踏み鳴しながら、階下へ行った。行って見ると、玄関の格子の中には、真中から髪を割って、柄の長い紫のパラソルを持った初子が、いつもよりは一層溌剌と外光に背いて佇んでいた。俊助は閾の上に立ったまま、眩しいような感じに脅かされて、
「あなた御一人?」と尋ねて見た。
「いいえ、辰子さんも。」
初子は身を斜にして、透すように格子の外を見た。格子の外には、一間に足らない御影の敷石があって、そのまた敷石のすぐ外には、好い加減古びたくぐり門があった。初子の視線を追った俊助は、そのくぐり門の戸を開け放した向うに、見覚えのある紺と藍との竪縞の着物が、日の光を袂に揺りながら、立っているのを発見した。
「ちょいと上って、御茶でも飲んで行きませんか。」
「難有うございますけれど――」
初子は嫣然と笑いながら、もう一度眼を格子の外へやった。
「そうですか。じゃすぐに御伴しましょう。」
「始終御迷惑ばかりかけますのね。」
「何、どうせ今日は遊んでいる体なんです。」
俊助は手ばしこく編上の紐をからげると外套を腕にかけたまま、無造作に角帽を片手に掴んで、初子の後からくぐり門の戸をくぐった。
初子のと同じ紫のパラソルを持って、外に待っていた辰子は、俊助の姿を見ると、しなやかな手を膝に揃えて、叮嚀に黙礼の頭を下げた。俊助はほとんど冷淡に会釈を返した。返しながら、その冷淡なのがあるいは辰子に不快な印象を与えはしないだろうかと気づかった。と同時にまた初子の眼には、それでもまだ彼の心中を裏切るべき優しさがありはしまいかとも思った。が、初子は二人の応対には頓着なく、斜に紫のパラソルを開きながら、
「電車は? 正門前から御乗りになって。」
「ええ、あちらの方が近いでしょう。」
三人は狭い往来を歩き出した。
「辰子さんはね、どうしても今日はいらっしゃらないって仰有ったのよ。」
俊助は「そうですか?」と云う眼をして、隣に歩いている辰子を見た。辰子の顔には、薄く白粉を刷いた上に、紫のパラソルの反映がほんのりと影を落していた。
「だって、私、気の違っている人なんぞの所へ行くのは、気味が悪いんですもの。」
「私は平気。」
初子はくるりとパラソルを廻しながら、
「時々気違いになって見たいと思う事もあるわ。」
「まあ、いやな方ね。どうして?」
「そうしたら、こうやって生きているより、もっといろいろ変った事がありそうな気がするの。あなたそう思わなくって?」
「私? 私は変った事なんぞなくったって好いわ。もうこれで沢山。」
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