十八
「日はア。」
俊助の眼はまだ野村よりも、掌の紅茶茶碗へ止まり易かった。
「来週の水曜日――午後からと云う事になっているんだが、君の都合が悪るけりゃ、月曜か金曜に繰変えても好い。」
「何、水曜なら、ちょうど僕の方も講義のない日だ。それで――と、栗原さんへは僕の方から出かけて行くのか。」
野村は相手の眉の間にある、思い切りの悪い表情を見落さなかった。
「いや、向うからここへ来て貰おう。第一その方が道順だから。」
俊助は黙って頷いたまま、しばらく閑却されていた埃及煙草へ火をつけた。それから始めてのびのびと椅子の背に頭を靠せながら、
「君はもう卒業論文へとりかかったのか。」と、全く別な方面へ話題を開拓した。
「本だけはぽつぽつ読んでいるが――いつになったら考えが纏るか、自分でもちょいと見当がつかない。殊にこの頃のように俗用多端じゃ――」
こう云いかけた野村の眼には、また冷評されはしないかと云う懸念があった。が、俊助は案外真面目な調子で、
「多端――と云うと?」と問い返した。
「君にはまだ話さなかったかな。僕の母が今は国にいるが、僕でも大学を卒業したら、こちらへ出て来て、一しょになろうと云うんでね。それにゃ国の田地や何かも整理しなけりゃならないから、今度はまあ親父の年忌を兼ねて、その面倒も見に行く心算なんだ。どうもこう云う問題になると、中々哲学史の一冊も読むような、簡単な訳にゃ行かないんだから困る。」
「そりゃそうだろう。殊に君のような性格の人間にゃ――」
俊助は同じ東京の高等学校で机を並べていた関係から、何かにつけて野村一家の立ち入った家庭の事情などを、聞かせられる機会が多かった。野村家と云えば四国の南部では、有名な旧家の一つだと云う事、彼の父が政党に関係して以来、多少は家産が傾いたが、それでも猶近郷では屈指の分限者に相違ないと云う事、初子の父の栗原は彼の母の異腹の弟で、政治家として今日の位置に漕つけるまでには、一方ならず野村の父の世話になっていると云う事、その父の歿後どこかから妾腹の子と名乗る女が出て来て、一時は面倒な訴訟沙汰にさえなった事があると云う事――そう云ういろいろな消息に通じている俊助は、今また野村の帰郷を必要としている背後にも、どれほど複雑な問題が蟠まっているか、略想像出来るような心もちがした。
「まず当分はシュライエルマッヘルどころの騒ぎじゃなさそうだ。」
「シュライエルマッヘル?」
「僕の卒業論文さ。」
野村は気のなさそうな声を出すと、ぐったり五分刈の頭を下げて、自分の手足を眺めていたが、やがて元気を恢復したらしく、胸の金釦をかけ直して、
「もうそろそろ出かけなくっちゃ。――じゃ癲狂院行きの一件は、何分よろしく取計らってくれ給え。」
十九
野村が止めるのも聞かず、俊助は鳥打帽にインバネスをひっかけて、彼と一しょに森川町の下宿を出た。幸とうに風が落ちて、往来には春寒い日の暮が、うす明くアスファルトの上を流れていた。
二人は電車で中央停車場へ行った。野村の下げていた鞄を赤帽に渡して、もう電燈のともっている二等待合室へ行って見ると、壁の上の時計の針が、まだ発車の時刻には大分遠い所を指していた。俊助は立ったまま、ちょいと顎をその針の方へしゃくって見せた。
「どうだ、晩飯を食って行っては。」
「そうさな。それも悪くはない。」
野村は制服の隠しから時計を出して、壁の上のと見比べていたが、
「じゃ君は向うで待っていてくれ給え。僕は先へ切符を買って来るから。」
俊助は独りで待合室の側の食堂へ行った。食堂はほとんど満員だった。それでも彼が入口に立って、逡巡の視線を漂わせていると、気の利いた給仕が一人、すぐに手近の卓子に空席があるのを教えてくれた。が、その卓子には、すでに実業家らしい夫婦づれが、向い合ってフオクを動かしていた。彼は西洋風に遠慮したいと思ったが、ほかに腰を下す所がないので、やむを得ずそこへ連らせて貰う事にした。もっとも相手の夫婦づれは、格別迷惑らしい容子もなく、一輪挿しの桜を隔てながら、大阪弁で頻に饒舌っていた。
給仕が註文を聞いて行くと、間もなく野村が夕刊を二三枚つかんで、忙しそうにはいって来た。彼は俊助に声をかけられて、やっと相手の居場所に気がつくと、これは隣席の夫婦づれにも頓着なく、無造作に椅子をひき寄せて、
「今、切符を買っていたら、大井君によく似た人を見かけたが、まさか先生じゃあるまいな。」
「大井だって、停車場へ来ないとは限らないさ。」
「いや、何でも女づれらしかったから。」
そこへスウプが来た。二人はそれぎり大井を閑却して、嵐山の桜はまだ早かろうの、瀬戸内の汽船は面白かろうのと、春めいた旅の話へ乗り換えてしまった。するとその内に、野村が皿の変るのを待ちながら、急に思い出したと云う調子で、
「今初子さんの所へ例の件を電話でそう云って置いた。」
「じゃ今日は誰も送りに来ないか。」
「来るものか。何故?」
何故と尋かれると、俊助も返事に窮するよりほかはなかった。
「栗原へは今朝手紙を出すまで、国へ帰るとも何とも云っちゃなかったんだから――その手紙も電話で聞くと、もう少しさっき届いたばかりだそうだ。」
野村はまるで送りに来ない初子のために、弁解の労を執るような口調だった。
「そうか。道理で今日辰子さんに遇ったが何ともそう云う話は聞かなかった。」
「辰子さんに遇った? いつ?」
「午すぎに電車の中で。」
俊助はこう答えながら、さっき下宿で辰子の話が出たにも関らず、何故今までこんな事を黙っていたのだろうと考えた。が、それは彼自身にも偶然か故意か、判断がつけられなかった。
二十
プラットフォオムの上には例のごとく、見送りの人影が群っていた。そうしてそれが絶えず蠢いている上に、電燈のともった列車の窓が、一つずつ明く切り抜かれていた。野村もその窓から首を出して、外に立っている俊助と、二言三言落着かない言葉を交換した。彼等は二人とも、周囲の群衆の気もちに影響されて、発車が待遠いような、待遠くないような、一種の慌しさを感じずにはいられなかった。殊に俊助は話が途切れると、ほとんど敵意があるような眼で、左右の人影を眺めながら、もどかしそうに下駄の底を鳴らしていた。
その内にやっと発車の電鈴が響いた。
「じゃ行って来給え。」
俊助は鳥打帽の庇へ手をかけた。
「失敬、例の一件は何分よろしく願います。」と、野村はいつになく、改まった口調で挨拶した。
汽車はすぐに動き出した。俊助はいつまでもプラットフォオムに立って、次第に遠ざかって行く野村を見送るほど、感傷癖に囚われてはいなかった。だから彼はもう一度鳥打帽の庇へ手をかけると、未練なくあたりの人影に交って、入口の階段の方へ歩き出した。
が、その時、ふと彼の前を通りすぎる汽車の窓が眼にはいると、思いがけずそこには大井篤夫が、マントの肘を窓枠に靠せながら、手巾を振っているのが見えた。俊助は思わず足を止めた。と同時にさっき大井を見かけたと云う野村の言葉を思い出した。けれども大井は俊助の姿に気がつかなかったものと見えて、見る見る汽車の窓と共に遠くなりながらも、頻に手巾を振り続けていた。俊助は狐につままれたような気がして、茫然とその後を見送るよりほかはなかった。
が、この衝動から恢復した時、俊助の心は何よりも、その手巾の閃きに応ずべき相手を物色するのに忙しかった。彼はインバネスの肩を聳かせて、前後左右に雪崩れ出した見送り人の中へ視線を飛ばした。勿論彼の頭の中には、女づれのようだったと云う野村の言葉が残っていた。しかしそれらしい女の姿を、いくら探しても見当らなかった。と云うよりもそれらしい女が、いつも人影の間にうろうろしていた。そうしてその代りどれが本当の相手だか、さらに判別がつかなかった。彼はとうとう物色を断念しなければならなかった。
中央停車場の外へ出て、丸の内の大きな星月夜を仰いだ時も、俊助はまださっきの不思議な心もちから、全く自由にはなっていなかった。彼には大井がその汽車へ乗り合せていたと云う事より、汽車の窓で手巾を振っていたと云う事が、滑稽なくらい矛盾な感を与えるものだった。あの悪辣な人間を以て自他共に許している大井篤夫が、どうしてあんな芝居じみた真似をしていたのだろう。あるいは人が悪いのは附焼刃で、実は存外正直な感傷主義者が正体かも知れない。――俊助はいろいろな臆測の間に迷いながら、新開地のような広い道路を、濠側まで行って電車に乗った。
ところが翌日大学へ行くと、彼は純文科に共通な哲学概論の教室で、昨夜七時の急行へ乗った筈の大井と、また思いがけなく顔を合せた。
二十一
その日俊助は、いつよりもやや出席が遅れたので、講壇をめぐった聴講席の中でも、一番後の机に坐らなければならなかった。所がそこへ坐って見ると、なぞえに向うへ低くなった二三列前の机に、見慣れた黒木綿の紋附が、澄まして頬杖をついていた。俊助はおやと思った。それから昨夜中央停車場で見かけたのは、大井篤夫じゃなかったのかしらと思った。が、すぐにまた、いや、やはり大井に違いなかったと思い返した。そうしたら、彼が手巾を振っているのを見た時よりも、一層狐につままれたような心もちになった。
その内に大井は何かの拍子に、ぐるりとこちらへ振返った。顔を見ると、例のごとく傲岸不遜な表情があった。俊助は当然なるべきこの表情を妙にもの珍しく感じながら、「やあ」と云う挨拶を眼で送った。と、大井も黒木綿の紋附の肩越に、顎でちょいと会釈をしたが、それなりまた向うを向いて、隣にいた制服の学生と、何か話をし始めたらしかった。俊助は急に昨夜の一件を確かめたい気が強くなって来た。が、そのためにわざわざ席を離れるのは、面倒でもあるし、莫迦莫迦しくもあった。そこで万年筆へインクを吸わせながら、いささか腰を擡げ兼ねていると、哲学概論を担当している、有名なL教授が、黒い鞄を小脇に抱えて、のそのそ外からはいって来てしまった。
L教授は哲学者と云うよりも、むしろ実業家らしい風采を備えていた。それがその日のように、流行の茶の背広を一着して、金の指環をはめた手を動かしながら、鞄の中の草稿を取り出したりなどしていると、殊に講壇よりは事務机の後に立たせて見たいような心もちがした。が、講義は教授の風采とは没交渉に、その面倒なカント哲学の範疇の議論から始められた。俊助は専門の英文学の講義よりも、反って哲学や美学の講義に忠実な学生だったから、ざっと二時間ばかりの間、熱心に万年筆を動かして、手際よくノオトを取って行った。それでも合い間毎に顔を挙げて、これは煩杖をついたまま、滅多にペンを使わないらしい大井の後姿を眺めると、時々昨夜以来の不思議な気分が、カントと彼との間へ靄のように流れこんで来るのを感ぜずにはいられなかった。
だからやがて講義がすんで、机を埋めていた学生たちがぞろぞろ講堂の外へ流れ出すと、彼は入口の石段の上に足を止めて、後から来る大井と一しょになった。大井は相不変ノオト・ブックのはみ出した懐へ、無精らしく両手を突込んでいたが、俊助の顔を見るなりにやにや笑い出して、
「どうした。この間の晩の美人たちは健在か。」と、逆に冷評を浴びせかけた。
二人のまわりには大勢の学生たちが、狭い入口から両側の石段へ、しっきりなく溢れ出していた。俊助は苦笑を漏したまま、大井の言葉には答えないで、ずんずんその石段の一つを下りて行った。そうしてそこに芽を吹いている欅の並木の下へ出ると、始めて大井の方を振り返って、
「君は気がつかなかったか、昨夜東京駅で遇ったのを。」と、探りの一句を投げこんで見た。
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