十一
辰子は蒼白い頬に片靨を寄せたまま、静に民雄から初子へ眼を移して、
「民雄さんはそりゃお強いの。さっきもあの梯子段の手すりへ跨って、辷り下りようとなさるんでしょう。私吃驚して、墜ちて死んだらどうなさるのって云ったら――ねえ、民雄さん。あなたあの時、僕はまだ死んだ事がないから、どうするかわからないって仰有ったわね。私可笑しくって――」
「成程ね、こりゃ却々哲学的だ。」
野村はまた誰よりも大きな声で笑い出した。
「まあ、生意気ったらないのね。――だから姉さんがいつでも云うんだわ、民雄さんは莫迦だって。」
部屋の中の火気に蒸されて、一層血色の鮮になった初子が、ちょっと睨める真似をしながら、こう弟を窘めると、民雄はまだ俊助の手をつかまえたまま、
「ううん。僕は莫迦じゃないよ。」
「じゃ利巧か?」
今度は俊助まで口を出した。
「ううん、利巧でもない。」
「じゃ何だい。」
民雄はこう云った野村の顔を見上げながら、ほとんど滑稽に近い真面目さを眉目の間に閃かせて、
「中位。」と道破した。
四人は声を合せて失笑した。
「中位は好かった。大人もそう思ってさえいれば、一生幸福に暮せるのに相違ない。こりゃ初子さんなんぞは殊に拳々服膺すべき事かも知れませんぜ。辰子さんの方は大丈夫だが――」
その笑い声が静まった時、野村は広い胸の上に腕を組んで、二人の若い女を見比べた。
「何とでもおっしゃい。今夜は野村さん私ばかりいじめるわね。」
「じゃ僕はどうだ。」
俊助は冗談のように野村の矢面に立った。
「君もいかん。君は中位を以て自任出来ない男だ。――いや、君ばかりじゃない。近代の人間と云うやつは、皆中位で満足出来ない連中だ。そこで勢い、主我的になる。主我的になると云う事は、他人ばかり不幸にすると云う事じゃない。自分までも不幸にすると云う事だ。だから用心しなくっちゃいけない。」
「じゃ君は中位派か。」
「勿論さ。さもなけりゃ、とてもこんな泰然としちゃいられはしない。」
俊助は憫むような眼つきをして、ちらりと野村の顔を見た。
「だがね、主我的になると云う事は、自分ばかり不幸にする事じゃない。他人までも不幸にする事だ。だろう。そうするといくら中位派でも、世の中の人間が主我的だったら、やっぱり不安だろうじゃないか。だから君のように泰然としていられるためには、中位派たる以上に、主我的でない世の中を――でなくとも、先ず主我的でない君の周囲を信用しなけりゃならないと云う事になる。」
「そりゃまあ信用しているさ。が、君は信用した上でも――待った。一体君は全然人間を当てにしていないのか。」
俊助はやはり薄笑いをしたまま、しているとも、していないとも答えなかった。初子と辰子との眼がもの珍らしそうに、彼の上へ注がれているのを意識しながら。
十二
音楽会が終った後で、俊助はとうとう大井と藤沢とに引きとめられて、『城』同人の茶話会に出席しなければならなくなった。彼は勿論進まなかった。が、藤沢以外の同人には、多少の好奇心もない事はなかった。しかも切符を貰っている義理合い上、無下に断ってしまうのも気の毒だと云う遠慮があった。そこで彼はやむを得ず、大井と藤沢との後について、さっきの次の間の隣にある、小さな部屋へ通ったのだった。
通って見ると部屋の中には、もう四五人の大学生が、フロックの清水昌一と一しょに、小さな卓子を囲んでいた。藤沢はその連中を一々俊助に紹介した。その中では近藤と云う独逸文科の学生と、花房と云う仏蘭西文科の学生とが、特に俊助の注意を惹いた人物だった。近藤は大井よりも更に背の低い、大きな鼻眼鏡をかけた青年で、『城』同人の中では第一の絵画通と云う評判を荷っていた。これはいつか『帝国文学』へ、堂々たる文展の批評を書いたので、自然名前だけは俊助の記憶にも残っているのだった。もう一人の花房は、一週間以前『鉢の木』へ藤沢と一しょに来た黒のソフトで、英仏独伊の四箇国語のほかにも、希臘語や羅甸語の心得があると云う、非凡な語学通で通っていた。そうしてこれまた Hanabusa と署名のある英仏独伊希臘羅甸の書物が、時々本郷通の古本屋に並んでいるので、とうから名前だけは俊助も承知している青年だった。この二人に比べると、ほかの『城』同人は存外特色に乏しかった。が、身綺麗な服装の胸へ小さな赤薔薇の造花をつけている事は、いずれも軌を一にしているらしかった。俊助は近藤の隣へ腰を下しながら、こう云うハイカラな連中に交っている大井篤夫の野蛮な姿を、滑稽に感ぜずにはいられなかった。
「御蔭様で、今夜は盛会でした。」
タキシイドを着た藤沢は、女のような柔しい声で、まず独唱家の清水に挨拶した。
「いや、どうもこの頃は咽喉を痛めているもんですから――それより『城』の売行きはどうです? もう収支償うくらいには行くでしょう。」
「いえ、そこまで行ってくれれば本望なんですが――どうせ我々の書く物なんぞが、売れる筈はありゃしません。何しろ人道主義と自然主義と以外に、芸術はないように思っている世間なんですから。」
「そうですかね。だがいつまでも、それじゃすまないでしょう。その内に君の『ボオドレエル詩抄』が、羽根の生えたように売れる時が来るかも知れない。」
清水は見え透いた御世辞を云いながら、給仕の廻して来た紅茶を受けとると、隣に坐っていた花房の方を向いて、
「この間の君の小説は、大へん面白く拝見しましたよ。あれは何から材料を取ったんですか。」
「あれですか。あれはゲスタ・ロマノルムです。」
「はあ、ゲスタ・ロマノルムですか。」
清水はけげんな顔をしながら、こう好い加減な返事をすると、さっきから鉈豆の煙管できな臭い刻みを吹かせていた大井が、卓子の上へ頬杖をついて、
「何だい、そのゲスタ・ロマノルムってやつは?」と、無遠慮な問を抛りつけた。
十三
「中世の伝説を集めた本でしてね。十四五世紀の間に出来たものなんですが、何分原文がひどい羅甸なんで――」
「君にも読めないかい。」
「まあ、どうにかですね。参考にする飜訳もいろいろありますから。――何でもチョオサアやシェクスピイアも、あれから材料を採ったんだそうです。ですからゲスタ・ロマノルムだって、中々莫迦には出来ませんよ。」
「じゃ君は少くとも材料だけは、チョオサアやシェクスピイアと肩を並べていると云う次第だね。」
俊助はこう云う問答を聞きながら、妙な事を一つ発見した。それは花房の声や態度が、不思議なくらい藤沢に酷似していると云う事だった。もし離魂病と云うものがあるとしたならば、花房は正に藤沢の離魂体とも見るべき人間だった。が、どちらが正体でどちらが影法師だか、その辺の際どい消息になると、まだ俊助にははっきりと見定めをつける事がむずかしかった。だから彼は花房の饒舌っている間も、時々胸の赤薔薇を気にしている藤沢を偸み見ずにはいられなかった。
すると今度はその藤沢が、縁に繍のある手巾で紅茶を飲んだ口もとを拭いながら、また隣の独唱家の方を向いて、
「この四月には『城』も特別号を出しますから、その前後には近藤さんを一つ煩わせて、展覧会を開こうと思っています。」
「それも妙案ですな。が、展覧会と云うと、何ですか、やはり諸君の作品だけを――」
「ええ、近藤さんの木版画と、花房さんや私の油絵と――それから西洋の画の写真版とを陳列しようかと思っているんです。ただ、そうなると、警視庁がまた裸体画は撤回しろなぞとやかましい事を云いそうでしてね。」
「僕の木版画は大丈夫だが、君や花房君の油絵は危険だぜ。殊に君の『Utamaro の黄昏』に至っちゃ――あなたはあれを御覧になった事がありますか。」
こう云って、鼻眼鏡の近藤はマドロス・パイプの煙を吐きながら、流し眼にじろりと俊助の方を見た。と、俊助がまだ答えない内に、卓子の向うから藤沢が口を挟んで、
「そりゃ君、まだ御覧にならないのですよ。いずれその内に、御眼にかけようとは思っているんですが――安田さんは絵本歌枕と云うものを御覧になった事がありますか。ありません? 私の『Utamaro の黄昏』は、あの中の一枚を装飾的に描いたものなんです。行き方は――と、近藤さん、あれは何と云ったら好いんでしょう。モオリス・ドニでもなし、そうかと云って――」
近藤は鼻眼鏡の後の眼を閉じてしばらく考に耽っていたが、やがて重々しい口を開こうとすると、また大井が横合いから、鉈豆の煙管を啣えたままで、
「つまり君、春画みたいなものなんだろう。」と、乱暴な註釈を施してしまった。
ところが藤沢は存外不快にも思わなかったと見えて、例のごとく無気味なほど柔しい微笑を漂わせながら、
「ええ、そう云えば一番早いかも知れませんね。」と、恬然として大井に賛成した。
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