七
一週間の後、俊助は築地の精養軒で催される『城』同人の音楽会へ行った。音楽会は準備が整わないとか云う事で、やがて定刻の午後六時が迫って来ても、容易に開かれる気色はなかった。会場の次の間には、もう聴衆が大勢つめかけて、電燈の光も曇るほど盛に煙草の煙を立ち昇らせていた。中には大学の西洋人の教師も、一人二人は来ているらしかった。俊助は、大きな護謨の樹の鉢植が据えてある部屋の隅に佇みながら、別に開会を待ち兼ねるでもなく、ぼんやり周囲の話し声に屈托のない耳を傾けていた。
するとどこからか大井篤夫が、今日は珍しく制服を着て、相不変傲然と彼の側へ歩いて来た。二人はちょいと点頭を交換した。
「野村はまだ来ていないか。」
俊助がこう尋ねると、大井は胸の上に両手を組んで、反身にあたりを見廻しながら、
「まだ来ないようだ。――来なくって仕合せさ。僕は藤沢にひっぱられて来たもんだから、もうかれこれ一時間ばかり待たされている。」
俊助は嘲るように微笑した。
「君がたまに制服なんぞ着て来りゃ、どうせ碌な事はありゃしない。」
「これか。これは藤沢の制服なんだ。彼曰、是非僕の制服を借りてくれ給え、そうすると僕はそれを口実に、親爺のタキシイドを借りるから。――そこでやむを得ず、僕がこれを着て、聴きたくもない音楽会なんぞへ出たんだ。」
大井はあたり構わずこんな事を饒舌りながら、もう一度ぐるり部屋の中を見渡して、それから、あすこにいるのは誰、ここにいるのは誰と、世間に名の知られた作家や画家を一々俊助に教えてくれた。のみならず序を以て、そう云う名士たちの醜聞を面白そうに話してくれた。
「あの紋服と来た日にゃ、ある弁護士の細君をひっかけて、そのいきさつを書いた小説を御亭主の弁護士に献じるほど、すばらしい度胸のある人間なんだ。その隣のボヘミアン・ネクタイも、これまた詩よりも女中に手をつけるのが、本職でね。」
俊助はこんな醜い内幕に興味を持つべく、余りに所謂ニル・アドミラリな人間だった。ましてその時はそれらの芸術家の外聞も顧慮してやりたい気もちがあった。そこで彼は大井が一息ついたのを機会にして、切符と引換えに受取ったプログラムを拡げながら、話題を今夜演奏される音楽の方面へ持って行った。が、大井はこの方面には全然無感覚に出来上っていると見えて、鉢植の護謨の葉を遠慮なく爪でむしりながら、
「とにかくその清水昌一とか云う男は、藤沢なんぞの話によると、独唱家と云うよりゃむしろ立派な色魔だね。」と、また話を社会生活の暗黒面へ戻してしまった。
が、幸、その時開会を知らせるベルが鳴って、会場との境の扉がようやく両方へ開かれた。そうして待ちくたびれた聴衆が、まるで潮の引くように、ぞろぞろその扉口へ流れ始めた。俊助も大井と一しょにこの流れに誘われて、次第に会場の方へ押されて行ったが、何気なく途中で後を振り返ると、思わず知らず心の中で「あっ」と云う驚きの声を洩らした。
八
俊助は会場の椅子に着いた後でさえ、まだ全くさっきの驚きから恢復していない事を意識した。彼の心はいつになく、不思議な動揺を感じていた。それは歓喜とも苦痛とも弁別し難い性質のものだった。彼はこの心の動揺に身を任せたいと云う欲望もあった。で同時にまたそうしてはならないと云う気も働いていた。そこで彼は少くとも現在以上の動揺を心に齎さない方便として、成る可く眼を演壇から離さないような工夫をした。
金屏風を立て廻した演壇へは、まずフロックを着た中年の紳士が現れて、額に垂れかかる髪をかき上げながら、撫でるように柔しくシュウマンを唱った。それは Ich Kann's nicht fassen, nicht glauben で始まるシャミッソオの歌だった。俊助はその舌たるい唄いぶりの中から、何か恐るべく不健全な香気が、発散して来るのを感ぜずにはいられなかった。そうしてこの香気が彼の騒ぐ心を一層苛立てて行くような気がしてならなかった。だからようやく独唱が終って、けたたましい拍手の音が起った時、彼はわずかにほっとした眼を挙げて、まるで救いを求めるように隣席の大井を振返った。すると大井はプログラムを丸く巻いて、それを望遠鏡のように眼へ当てながら、演壇の上に頭を下げているシュウマンの独唱家を覗いていたが、
「成程、清水と云う男は、立派に色魔たるべき人相を具えているな。」と、呟くような声で云った。
俊助は初めてその中年の紳士が清水昌一と云う男だったのに気がついた。そこでまた演壇の方へ眼を返すと、今度はそこへ裾模様の令嬢が、盛な喝采に迎えられながら、ヴァイオリンを抱いてしずしずと登って来る所だった。令嬢はほとんど人形のように可愛かったが、遺憾ながらヴァイオリンはただ間違わずに一通り弾いて行くと云うだけのものだった。けれども俊助は幸と、清水昌一のシュウマンほど悪甘い刺戟に脅かされないで、ともかくも快よくチャイコウスキイの神秘な世界に安住出来るのを喜んだ。が、大井はやはり退屈らしく、後頭部を椅子の背に凭せて、時々無遠慮に鼻を鳴らしていたが、やがて急に思いついたという調子で、
「おい、野村君が来ているのを知っているか。」
「知っている。」
俊助は小声でこう答えながら、それでもなお眼は金屏風の前の令嬢からほかへ動かさなかった。と、大井は相手の答が物足らなかったものと見えて、妙に悪意のある微笑を漂わせながら、
「おまけにすばらしい美人を二人連れて来ている。」と、念を押すようにつけ加えた。
が、俊助は何とも答えなかった。そうして今までよりは一層熱心に演壇の上から流れて来るヴァイオリンの静かな音色に耳を傾けているらしかった。……
それからピアノの独奏と四部合唱とが終って、三十分の休憩時間になった時、俊助は大井に頓着なく、逞い体を椅子から起して、あの護謨の樹の鉢植のある会場の次の間へ、野村の連中を探しに行った。しかし後に残った大井の方は、まだ傲然と腕組みをしたまま、ただぐったりと頭を前へ落して、演奏が止んだのも知らないのか、いかにも快よさそうに、かすかな寝息を洩らしていた。
九
次の間へ来て見ると、果して野村が栗原の娘と並んで、大きな暖炉の前へ佇んでいた。血色の鮮かな、眼にも眉にも活々した力の溢れている、年よりは小柄な初子は、俊助の姿を見るが早いか、遠くから靨を寄せて、気軽くちょいと腰をかがめた。と、野村も広い金釦の胸を俊助の方へ向けながら、度の強い近眼鏡の後に例のごとく人の好さそうな微笑を漲らせて、鷹揚に「やあ」と頷いて見せた。俊助は暖炉の上の鏡を背負って、印度更紗の帯をしめた初子と大きな体を制服に包んだ野村とが、向い合って立っているのを眺めた時、刹那の間彼等の幸福が妬しいような心もちさえした。
「今夜はすっかり遅くなってしまった。何しろ僕等の方は御化粧に手間が取れるものだから。」
俊助と二言三言雑談を交換した後で、野村は大理石のマントル・ピイスへ手をかけながら、冗談のような調子でこう云った。
「あら、いつ私たちが御手間を取らせて? 野村さんこそ御出でになるのが遅かったじゃないの?」
初子はわざと濃い眉をひそめて、媚びるように野村の顔を見上げたが、すぐにまたその視線を俊助の方へ投げ返すと、
「先日は私妙な事を御願いして――御迷惑じゃございませんでしたの?」
「いや、どうしまして。」
俊助はちょいと初子に会釈しながら、後はやはり野村だけへ話しかけるような態度で、
「昨日新田から返事が来たが、月水金の内でさえあれば、いつでも喜んで御案内すると云うんだ。だからその内で都合の好い日に参観して来給え。」
「そうか。そりゃ難有う。――で、初子さんはいつ行って見ます?」
「いつでも。どうせ私用のない体なんですもの。野村さんの御都合で極めて頂けば好いわ。」
「僕が極めるって――じゃ僕も随行を仰せつかるんですか。そいつは少し――」
野村は五分刈の頭へ大きな手をやって、辟易したらしい気色を見せた。と、初子は眼で笑いながら、声だけ拗ねた調子で、
「だって私その新田さんって方にも、御目にかかった事がないんでしょう。ですもの、私たちだけじゃ行かれはしないわ。」
「何、安田の名刺を貰って行けば、向うでちゃんと案内してくれますよ。」
二人がこんな押問答を交換していると、突然、そこへ、暁星学校の制服を着た十ばかりの少年が、人ごみの中をくぐり抜けるようにして、勢いよく姿を現した。そうしてそれが俊助の顔を見ると、いきなり直立不動の姿勢をとって、愛嬌のある挙手の礼をして見せた。こちらの三人は思わず笑い出した。中でも一番大きな声を出して笑ったのは、野村だった。
「やあ、今夜は民雄さんも来ていたのか。」
俊助は両手で少年の肩を抑えながら、調戯うようにその顔を覗きこんだ。
「ああ、皆で自動車へ乗って来たの。安田さんは?」
「僕は電車で来た。」
「けちだなあ、電車だなんて。帰りに自動車へ乗せて上げようか。」
「ああ、乗せてくれ給え。」
この間も俊助は少年の顔を眺めながら、しかも誰かが民雄の後を追って、彼等の近くへ歩み寄ったのを感ぜずにはいられなかった。
十
俊助は眼を挙げた。と、果して初子の隣に同年輩の若い女が、紺地に藍の竪縞の着物の胸を蘆手模様の帯に抑えて、品よくすらりと佇んでいた。彼女は初子より大柄だった。と同時に眼鼻立ちは、愛くるしかるべき二重瞼までが、遥に初子より寂しかった。しかもその二重瞼の下にある眼は、ほとんど憂鬱とも形容したい、潤んだ光さえ湛えていた。さっき会場へはいろうとする間際に、偶然後へ振り返った、俊助の心を躍らせたものは、実にこのもの思わしげな、水々しい瞳の光だった。彼はその瞳の持ち主と咫尺の間に向い合った今、再び最前の心の動揺を感じない訳には行かなかった。
「辰子さん。あなたまだ安田さんを御存知なかったわね。――辰子さんと申しますの。京都の女学校を卒業なすった方。この頃やっと東京詞が話せるようになりました。」
初子は物慣れた口ぶりで、彼女を俊助に紹介した。辰子は蒼白い頬の底にかすかな血の色を動かして、淑かに束髪の頭を下げた。俊助も民雄の肩から手を離して、叮嚀に初対面の会釈をした。幸、彼の浅黒い頬がいつになく火照っているのには、誰も気づかずにいたらしかった。
すると野村も横合いから、今夜は特に愉快そうな口を出して、
「辰子さんは初子さんの従妹でね、今度絵の学校へはいるものだから、それでこっちへ出て来る事になったんだ。所が毎日初子さんが例の小説の話ばかり聞かせるので、余程体にこたえるのだろう。どうもこの頃はちと健康が思わしくない。」
「まあ、ひどい。」
初子と辰子とは同時にこう云った。が、辰子の声は、初子のそれに気押されて、ほとんど聞えないほど低い声だった。けれども俊助は、この始めて聞いた辰子の声の中に、優しい心を裏切るものが潜んでいるような心もちがした。それが彼には心強い気を起させた。
「画と云うと――やはり洋画を御やりになるのですか。」
相手の声に勇気を得た俊助は、まだ初子と野村とが笑い合っている内に、こう辰子へ問いかけた。辰子はちょいと眼を帯止めの翡翠へ落して、
「は。」と、思ったよりもはっきりした返事をした。
「画は却々うまい。優に初子さんの小説と対峙するに足るくらいだ。――だから、辰子さん。僕が好い事を教えて上げましょう。これから初子さんが小説の話をしたら、あなたも盛に画の話をするんです。そうでもしなくっちゃ、体がたまりません。」
俊助はただ微笑で野村に答えながら、もう一度辰子に声をかけて見た。
「お体は実際お悪いんですか。」
「ええ、心臓が少し――大した事はございませんけれど。」
するとさっきから退屈そうな顔をして、一同の顔を眺めていた民雄が、下からぐいぐい俊助の手をひっぱって、
「辰子さんはね、あすこの梯子段を上っても、息が切れるんだとさ。僕は二段ずつ一遍にとび上る事が出来るんだぜ。」
俊助は辰子と顔を見合せて、ようやく心置きのない微笑を交換した。
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