その晩は寝ても、妙な夢ばかり見て、何度となくうなされましたが、それでもようやく朝になると、新蔵は早速泰さんの所へ、昨夜の礼旁々電話をかけました。すると電話に出て来たのは、泰さんの店の番頭で、「旦那は今朝ほど早く、どちらかへ御出かけになりました。」と云う挨拶なのです。新蔵はもしやお島婆さんの所へでも、行ったのじゃないかと思いましたが、打ち明けてそう尋ねる訣にも行かず、また尋ねたにした所で、余人の知っている筈もありませんから、帰り々知らせてくれるようにと、よく番頭に頼んで置いて、一まず電話を切ってしまいました。所がかれこれ午近くになると、今度は泰さんから電話がかかって来て、案の定今朝お島婆さんの所へ、家相を見て貰いに行ったと云うのです。「幸、お敏さんに会ったからね、僕の計画だけは手紙にして、そっとあの人の手に握らせて来たよ。返事は明日でなくっちゃわからないが、何しろ非常の場合だから、お敏さんも振って引受けそうなもんだ。」――こう云う泰さんの言葉を聞いていると、いかにも万事が好都合に運びそうな気がしますから、いよいよ新蔵はその計画と云うのが知りたくなって、「一体何をどうする心算なんだ。」と尋ねますと、泰さんはやはり昨夜のように、電話でもにやにや笑っている容子で、「まあ、もう二三日待ち給え。あの婆が相手じゃ、電話だって油断がならないからね。じゃいずれまた僕の方から、電話をかける事にしよう。さようなら。」と云う始末なのです。電話を切った新蔵は、いつもの通りその後で、帳場格子の後へ坐りましたが、さあここ二日の間に自分とお敏との運命がきまるのだと思うと、心細いともつかず、もどかしいともつかず、そうかと云って猶更また嬉しいともつかず、ただ妙にわくわくした心もちになって、帳面も算盤も手につきません。そこでその日は、まだ熱がとれないようだと云うのを口実に、午から二階の居間で寝ていました。が、その間でも絶えず気になったのは、誰かが自分の一挙一動をじっと見つめているような心もちで、これは寝ていると起きているとに関らず、執念深くつきまとっていたそうです。現に午過ぎの三時頃には、確かに二階の梯子段の上り口に、誰か蹲っているものがあって、その視線が葭戸越しに、こちらへ向けられているようでしたから、すぐに飛び起きて、そこまで出て行って見ましたが、ただ磨きこんだ廊下の上に、ぼんやり窓の外の空が映っているだけで、何も人間らしいものは見えませんでした。
こう云う具合でその翌日になると、益々新蔵は気が気でなくなって、泰さんの電話がかかるのを今か今かと待っていましたが、ようやく昨日と同じ刻限になって、約束通り電話口へ呼び出されました。しかし出て見ると泰さんは、昨日よりさらに元気の好い声で、「とうとう君、お敏さんの返事があってね、一切僕の計画通り実行する事になったよ。何、どうして返事を受取った? また用を拵えて、僕自身あの婆の所へ出馬したのさ。すると昨日手紙で頼んであるから、取次に出たお敏さんが、すぐに僕の手へ返事を忍ばせたんだ。可愛い返事だぜ。平仮名で『しょうちいたしました』と書いてある――」と、得意らしく弁じ立てるのです。ところが今日は妙な事に、こう云う言葉の途中から、泰さんの声ばかりでなく、もう一人誰かの声がはいりました。もっともこの声と云うのも、何と云っているのだか、言葉は皆目わからないのですが、とにかく勢いの好い泰さんの声とは正反対に、鼻へかかった、力のない、喘ぐような、まだるい声が、ちょうど陰と日向とのように泰さんの饒舌って行く間を縫って、受話器の底へ流れこむのです。始めの内は新蔵も、混線だろうくらいな量見で、別に気にもしませんでしたから、「それから、それから。」と促し立てて、懐しいお敏の消息を、夢中になって聞いていました。が、その内に泰さんにも、この妙な声が聞えたのでしょう。「何だか騒々しいな。君の方かい。」と尋ねますから、「いや僕の方じゃない。混線だろう。」と答えますと、泰さんはちょいと舌打ちをした気色で、「じゃ一度切って、またかけ直すぜ。」と云いながら、一度所か二度も三度も、交換手に小言を云っちゃ、根気よく繋ぎ直させましたが、やはり蟇の呟くような、ぶつぶつ云う声が聞えるのです。泰さんもしまいには我を折って、「仕方がないな。どこかに故障があるんだろう。――が、それより肝腎の本筋だがね、いよいよお敏さんが承知したとなりゃ、まあ、万々計画通り成功するだろうと思うから、安心して吉報を待ってい給え。」と、またさっきの話を続け出しましたが、新蔵はやはり泰さんの計画と云うのが気になるので、もう一遍昨日のように、「一体何をどうする心算なんだ。」と尋ねますと、相手は例のごとく澄ましたもので、「もう一日辛抱し給え。明日の今時分までにゃ、きっと君にも知らせられるだろうと思うから。――まあ、そんなに急がないで、大船に乗った気で待っているさ。果報は寝て待てって云うじゃないか。」と、冗談まじりに答えました。するとその声がまだ終らない内に、もう一つのぼやけた声が急に耳の側へ来て、「悪あがきは思い止らっしゃれや。」と、はっきり嘲笑ったじゃありませんか。泰さんと新蔵とは思わず同時に両方から、「何だ、今の声は。」と尋ね合いましたが、それぎり受話器の中はひっそりして、あの呟くような鼻声さえ全く聞えなくなってしまいました。「こりゃいけない。今のは君、あの婆だぜ。悪くすると、折角の計画も――まあ、すべてが明日の事だ。じゃこれで失敬するよ。」――こう云いながら、電話を切った泰さんの声の中には、明かに狼狽したけはいが感じられました。また実際お島婆さんが、二人の間の電話にさえ気を配るようになったとすると、勿論泰さんとお敏とが秘密の手紙をやりとりしているにも、目をつけているのに相違ありませんから、泰さんの慌てるのももっともなのです。まして新蔵の身になって見れば、どうする心算か知らないにもせよ、とにかくかけ換のない泰さんの計画が、あの婆に裏を掻かれる以上、それこそ万事休してしまうよりほかはありません。ですから新蔵は電話口を離れると、まるで喪心した人のように、ぼんやり二階の居間へ行って、日が暮れるまで、窓の外の青空ばかり眺めていました。その空にも気のせいか、時々あの忌わしい烏羽揚羽が、何十羽となく群を成して、気味の悪い更紗模様を織り出した事があるそうですが、新蔵はもう体も心もすっかり疲れ果てていましたから、その不思議を不思議として、感じる事さえ出来なかったと云います。
その晩もまた新蔵は悪夢ばかり見続けて、碌々眠る事さえ出来ませんでしたが、それでも夜が明けると、幾分か心に張りが出ましたので、砂を噛むより味のない朝飯をすませると、早速泰さんへ電話をかけました。「莫迦に、早いじゃないか。僕のような朝寝坊の所へ、今時分電話をかけるのは残酷だよ。」――泰さんは実際まだ眠むそうな声で、こう苦情を申し立てましたが、新蔵はそれには返事もしないで、「僕はね、昨日の電話の一件があって以来、とても便々と家にゃいられないからね。これからすぐに君の所へ行くよ。いいえ、電話で君の話を聞いたくらいじゃ、とても気が休まらないんだ。好いかい。すぐに行くからね。」と、だだっ子のように云い張ったそうです。この興奮し切った口調を聞いちゃ、泰さんもほかに仕方がなかったのでしょう。「じゃ来給え。待っているから。」と、素直に答えてくれたので、新蔵は電話を切るが早いか、心配そうな母親にもむずかしい顔を見せただけで、どこへ行くとも断らずに、ふいと店を飛び出しました。出て見ると、空はどんよりと曇って、東の方の雲の間に赤銅色の光が漂っている、妙に蒸暑い天気でしたが、元よりそんな事は気にかける余裕もなく、すぐ電車へ飛び乗って、すいているのを幸と、まん中の座席へ腰を下したそうです。すると一時恢復したように見えた疲労が、意地悪くまだ残っていたのか、新蔵は今更のように気が沈んで、まるで堅い麦藁帽子が追々頭をしめつけるのかと思うほど、烈しい頭痛までして来ました。そこで気を紛せたい一心から、今まで下駄の爪先ばかりへやっていた眼を、隣近所へ挙げて見ると、この電車にもまた不思議があった。――と云うのは、天井の両側に行儀よく並んでいる吊皮が、電車の動揺するのにつれて、皆振子のように揺れていますが、新蔵の前の吊皮だけは、始終じっと一つ所に、動かないでいるのです。それも始は可笑しいなくらいな心もちで、深くは気にも止めませんでしたが、その内にまた誰かに見つめられているような、気味の悪い心もちが自然に強くなり出したので、こんな吊皮の下に坐っているのが、いけないのだろうと思いましたから、向う側の隅にある空席へわざわざ移りました。移って、ふと上を見ると、今まで揺られていた吊皮が突然造りつけたように動かなくなって、その代りさっきの吊皮が、さも自由になったのを喜ぶらしく、勢いよくぶらつき始めたじゃありませんか。新蔵は毎度の事ながら、この時もやはり頭痛さえ忘れるほど、何とも云えない恐怖を感じて、思わず救いを求めるごとく、ほかの乗客たちの顔を見廻しました。と、斜に新蔵と向い合った、どこかの隠居らしい婆さんが一人、黒絽の被布の襟を抜いて、金縁の眼鏡越しにじろりと新蔵の方を見返したのです。勿論それはあの神下しの婆なぞとは何の由縁もない人物だったのには相違ありませんが、その視線を浴びると同時に、新蔵はたちまちお島婆さんの青んぶくれの顔を思い出しましたから、もう矢も楯もたまりません。いきなり切符を車掌へ渡すと、仕事を仕損じた掏摸より早く、電車を飛び降りてしまいました。が、何しろ凄まじい速力で、進行していた電車ですから、足が地についたと思うと、麦藁帽子が飛ぶ。下駄の鼻緒が切れる。その上俯向きに前へ倒れて、膝頭を摺剥くと云う騒ぎです。いや、もう少し起き上るのが遅かったら、砂煙を立てて走って来た、どこかの貨物自働車に、轢かれてしまった事でしょう。泥だらけになった新蔵は、ガソリンの煙を顔に吹きつけて、横なぐれに通りすぎた、その自働車の黄色塗の後に、商標らしい黒い蝶の形を眺めた時、全く命拾いをしたのが、神業のような気がしたそうです。
それが鞍掛橋の停留場へ一町ばかり手前でしたが、仕合せと通りかかった辻車が一台あったので、ともかくもその車へ這い上ると、まだ血相を変えたまま、東両国へ急がせました。が、その途中も動悸はするし、膝頭の傷はずきずき痛むし、おまけに今の騒動があった後ですから、いつ何時この車もひっくり返りかねないような、縁起の悪い不安もあるし、ほとんど生きている空はなかったそうです。殊に車が両国橋へさしかかった時、国技館の天に朧銀の縁をとった黒い雲が重なり合って、広い大川の水面に蜆蝶の翼のような帆影が群っているのを眺めると、新蔵はいよいよ自分とお敏との生死の分れ目が近づいたような、悲壮な感激に動かされて、思わず涙さえ浮めました。ですから車が橋を渡って、泰さんの家の門口へやっと梶棒を下した時には、嬉しいのか、悲しいのか、自分にも判然しないほど、ただ無性に胸が迫って、けげんな顔をしている車夫の手へ、方外な賃銭を渡す間も惜しいように、倉皇と店先の暖簾をくぐりました。
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