現代日本紀行文学全集 中部日本編 |
ほるぷ出版 |
1976(昭和51)年8月1日 |
1976(昭和51)年8月1日 |
一
島々と云ふ町の宿屋へ着いたのは、午過ぎ――もう夕方に近い頃であつた。宿屋の上り框には、三十恰好の浴衣の男が、青竹の笛を鳴らしてゐた。
私はその癇高い音を聞きながら、埃にまみれた草鞋の紐を解いた。其処へ婢が浅い盥に、洗足の水を汲んで来た。水は冷たく澄んだ底に、粗い砂を沈めてゐた。
二階の縁側の日除けには、日の光が強く残つてゐた。そのせゐか畳も襖も、残酷な程むさくるしく見えた。夏服を浴衣に着換へた私は、括り枕を出して貰つて、長長と仰向けに寝ころんだ儘、昨日東京を立つ時に買つた講談玉菊燈籠を少し読んだ。読みながら、浴衣の糊の臭ひが、始終気になつて仕方がなかつた。
日がかげるとさつきの婢が、塗りの剥げた高盆に[#「高盆に」は底本では「高盆の」]湯札を一枚のせて来た。さうして湯屋は向う側にあるから、一風呂浴びて来てくれと云つた。
それから繩の緒の下駄をはいて、石高な路の向うにある小さな銭湯へはひりに行つた。湯屋は着物を脱ぐ所が、やつと二畳ばかりしかなかつた。
客は私一人ぎりであつた。もう薄暗い湯壺に浸つてゐると、ぽたりと何かが湯の上へ落ちた。手に掬つて、流しの明りに見たら、馬陸と云ふ虫であつた。手のひらの水の中に、その褐色の虫がはつきりと、伸びたり縮んだりするのを見る事は、妙に私を寂しくさせた。
湯屋から帰つて、晩飯の膳に向つた時、私は婢に槍ヶ嶽の案内者を一人頼んでくれと云つた。婢は早速承知して、竹の台のランプに火をともしてから、一人の男を二階に呼び上げた。それは先刻上り口で、青竹の笛を吹いてゐた男であつた。
「槍ヶ嶽の事なら、この人は縁の下の五味まで知つて居ります。」
婢はこんな常談を云ひながら、荒らされた膳を下げて行つた。
私はその男にいろいろ山の事を尋ねた。槍ヶ嶽を越えて、飛騨の蒲田温泉へ出る事が出来るかどうか。近頃噴火の噂がある、焼嶽へも登山出来るかどうか。槍ヶ嶽の峯伝ひに穂高山へ行く事が出来るかどうか。――さう云ふ事が主な問題であつた。男は窮屈さうに畏りながら、無造作にそれらは容易だと答へた。
「旦那さへ御歩けになれりや、何処でも訳はありません。」
私は苦笑[#「苦笑」は底本では「苦突」]した。上州の三山、浅間山、木曾の御嶽、それから駒ヶ嶽――その外山と名づくべき山には、一度も登つた事のない私であつた。
「さうさな。まづ山岳会の連中並みに歩ければ、見つけものと思つて貰はう。」
男が階下へ去つた時、私はすぐに床を敷いて貰つて、古蚊帳の中に横になつた。戸を明け放つた縁側の外には、暗い山に唯一点、赤い炭焼きの火が動いてゐた。それがかすかながら、私の心に、旅愁とも云ふべき寂しさを運んで来た。
やがて婢が戸をしめに来た。戸の走る度に山の上の星月夜が、私の眼界から消えて行つた。間もなく私の寝てゐるまはりは、古蚊帳に四方を遮られた、行燈ばかりの薄暗がりになつた。私は大きな眼をあきながら、古蚊帳の天井を眺めてゐた。するとあの青竹の笛の音が、かすかに又階下から聞えて来た。
二
――山の岨を一つ曲ると、突然私たちの足もとから、何匹かの獣が走り去つた。
「畜生、鉄砲さへあれば、逃しはしないのだが。」
案内者は足を止めて、忌々しさうに舌打ちをしながら、路ばたの橡の大木を見上げた。
橡の若葉が重なり合つて、路の上の空を遮つた枝には、二匹の仔猿をつれた親猿が、静に私たちを見下してゐた。
私は物珍しい眼を挙げて、その三匹の猿が徐に、[#「に、」は底本では「、に」]梢を伝つて行く姿を眺めた。が、猿は案内者にとつては、猿であるよりも先に獲物であつた。彼は立ち去り難いやうに、橡の梢を仰ぎながら、礫を拾つて投げたりした。
「おい、行かう。」
私はかう彼を促した。彼はまだ猿を見返りながら、渋々又歩き出した。私は多少不快であつた。
路は次第に険しくなつた。が、馬が通ると見えて、馬糞が所々に落ちてゐた。さうしてその上には、蛇の目蝶が、渋色の翅を合せた儘、何羽もぎつしり止まつてゐた。
「これが徳本の峠です」
案内者は私を顧みて云つた。
私は小さな雑嚢の外に、何も荷物のない体であつた。が、彼は食器や食糧の外にも、私の毛布や外套などを堆く肩に背負つてゐた。それにも関らず峠へかかると、彼と私の間の距離は、だんだん遠く隔たり始めた。
三十分の後、とうとう私はたつた一人、山路を喘いで行く旅人になつた。うす日に蒸された峠の空気は、無気味な静寂を孕んでゐた。馬糞にたかつてゐる蛇の目蝶と蓙を煽つて行く私、――それがこの急な路の上に、生きて動いてゐるすべてであつた。
と思ふと鈍い翅音がして、青黒い一匹の馬蠅が、ぺたりと私の手の甲に止まつた。さうして其処を鋭く刺した。私は半ば動顛しながら、一打ちにその馬蠅を打ち殺した。「自然は私に敵意を持つてゐる。」――そんな迷信じみた心もちが一層私をわくわくさせた。
私は痛む手を抱へながら、無理やりに足を早め出した。……
三
その日の午後、私たちは水の冷たい梓川の流を徒渉した。
川を埋め残した森林の上には、飛騨信濃境の山々が、――殊にうす雲つた穂高山が、※[#「山+賛」、145-上-13]と私たちを見下してゐた。私は水を渡りながら、ふと東京の或茶屋を思ひ出した。その軒に懸つてゐる岐阜提灯も、ありありと眼に見えるやうな気がした。しかし私を繞つてゐるものは、人煙を絶つた谿谷であつた。私は妙な矛盾の感じを頭一ぱいに持ちながら、無愛想な案内者の尻について、漸く対岸を蔽つてゐる熊笹の中へ辿り着いた。
対岸には大きな山毛欅や樅が、うす暗く森々と聳えてゐた。稀に熊笹が疎になると、雁皮らしい花が赤く咲いた、湿気の多い草の間に、放牧の牛馬の足跡が見えた。
程なく一軒の板葺の小屋が、熊笹の中から現れて来た。これが小島烏水氏以来、屡槍ヶ嶽の登山者が一宿する、名高い嘉門治の小屋であつた。
案内者は小屋の戸を開けると、背負つてゐた荷物を其処へ下した。小屋の中には大きな囲爐裡が、寂しい灰の色を拡げてゐた。案内者はその天井に懸けてあつた、長い釣竿を取り下してから、私一人を後に残して、夕飯の肴に供すべく、梓川の山女を釣りに行つた。
私は蓙や雑嚢を捨てて暫く小屋の前をぶらついてゐた。すると熊笹の中から、大きな黒斑らの牛が一匹、のそのそ側へやつて来た。私は稍不安になつて小屋の戸口へ退却した。牛は沾[#「沾」は底本では「沽」]んだ眼を挙げて、じつと私の顔を眺めた。それから首を横に振つて、もう一度熊笹の中へ引き返した。私はその牛の姿に愛と嫌悪とを同時に感じながら、ぼんやり巻煙草に火をつけた……
曇天の夕焼が消えかかつた時、私たちは囲爐裡の火を囲んで、竹串に炙つた山女を肴に、鍋で炊いた飯を貪り食つた。それから毛布に寒気を凌いで、白樺の皮を巻いて造つた、原始的な燈火をともしながら、夜が戸の外に下つた後も、いろいろ山の事を話し合つた。
白樺の火と榾の火と、――この明暗二種の火の光は、既に燈火の文明の消長を語るものであつた。私は小屋の板壁に、濃淡二つの私の影が動いてゐるのを眺めながら、山の話の途切れた時には、今更のやうに原始時代の日本民族の生活なぞを想像せずにはゐられなかつた。……
四
――雑木の重なり合つたのを押し開いて、もう一度天日の光を浴びると、案内者は私を顧みながら、
「此処が赤沢です」と云つた。
私は鳥打帽を阿弥陀にして、眼の前にひらけた光景を眺めた。
私の前に横はるものは、立体の数を尽した大石であつた。それが狭い峡谷の急な斜面を満たしながら、空を劃つた峯々の向うへ、目のとどく限り連つてゐた。もし形容の言葉を着ければ、正に小さな私たち二人は、遠い山巓から漲り落ちる大石の洪水の上にゐるのであつた。
私たちはこの大石に溢れた谷を、――「黄花駒の爪」の咲いてゐる谷を、虫の這ふやうに登り出した。
暫く苦しい歩みを続けた後、案内者は突然杖を挙げて、私たちの左手に続いてゐる絶壁上を指さしながら、
「御覧なさい。あすこに青猪がゐます」と云つた。
私は彼の杖に沿うて、視線を絶壁の上に投げた。すると荒削りの山の肌が、頂に近く偃ひ松の暗い緑をなすつた所に、小さく一匹の獣が見えた。それが青猪と云ふ異名を負つた、日本アルプスに棲む羚羊であつた。
やがてその日も暮れかかる頃、私たちの周囲には、次第に残雪の色が多くなつて来た。それから石の上に枝を拡げた、寂しい偃ひ松の群も見え始めた。
私は時々大石の上に足を止めて、何時か姿を露し出した、槍ヶ嶽の絶巓を眺めやつた。絶巓は大きな石鏃のやうに、夕焼の余炎が消えかかつた空を、何時も黒々と切り抜いてゐた。「山は自然の始にして又終なり」――私はその頂を眺める度に、かう云ふ文語体の感想を必心に繰返した。それは確か以前読んだ、ラスキンの中にある言葉であつた。
その内に寒い霧の一団が、もう暗くなつた谷の下から、大石と偃ひ松との上を這つて、私たちの方へ上つて来た。さうしてそれがあたりを包むと、俄に小雨交りの風が私たちの顔を吹き始めた。私は漸く山上の高寒を肌に感じながら、一分も早く今夜宿る無人の岩室に辿り着くべく、懸命に急角度の斜面を登つて行つた。が、ふと異様な声に驚かされて、思はず左右を見廻すと、あまり遠くない偃ひ松の茂みの上を、流れるやうに飛んで行く褐色の鳥が一羽あつた。
「何だい、あの鳥は。」
「雷鳥です。」
小雨に濡れた案内者は、剛情な歩みを続けながら、相不変無愛想にかう答へた。
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