現代日本文学大系 43 芥川龍之介集 |
筑摩書房 |
1968(昭和43)年8月25日 |
1968(昭和43)年8月25日初版第1刷 |
千八百八十年五月何日かの日暮れ方である。二年ぶりにヤスナヤ・ポリヤナを訪れた Ivan Turgenyef は主の Tolstoi 伯爵と一しよに、ヴアロンカ川の向うの雑木林へ、山鴫を打ちに出かけて行つた。
鴫打ちの一行には、この二人の翁の外にも、まだ若々しさの失せないトルストイ夫人や、犬をつれた子供たちが加はつてゐた。
ヴアロンカ川へ出るまでの路は、大抵麦畑の中を通つてゐた。日没と共に生じた微風は、その麦の葉を渡りながら、静に土の匂を運んで来た。トルストイは銃を肩にしながら、誰よりも先に歩いて行つた。さうして時々後を向いては、トルストイ夫人と歩いてゐるトウルゲネフに話しかけた。その度に「父と子と」の作家は、やや驚いたやうに眼を挙げながら、嬉しさうに滑らかな返事をした。時によると又幅の広い肩を揺すつて、嗄れた笑ひ声を洩す事もあつた。それは無骨なトルストイに比べると、上品な趣があると同時に、何処か女らしい答ぶりだつた。
路がだらだら坂になつた時、兄弟らしい村の子供が、向うから二人走つて来た。彼等はトルストイの顔を見ると、一度に足を止めて目礼をした。それから又元のやうに、はだしの足の裏を見せながら、勢よく坂を駈け上つて行つた。トルストイの子供たちの中には、後から彼等へ何事か、大声に呼びかけるものもあつた。が、二人はそれも聞えないやうに、見る見る麦畑の向うに隠れてしまつた。
「村の子供たちは面白いよ。」
トルストイは残を顔に受けながら、トウルゲネフの方を振返つた。
「ああ云ふ連中の言葉を聞いてゐると、我々には思ひもつかない、直截な云ひまはしを教へられる事がある。」
トウルゲネフは微笑した。今の彼は昔の彼ではない。昔の彼はトルストイの言葉に、子供らしい感激を感じると、我知らず皮肉に出勝ちだつた。……
「この間もああ云ふ連中を教えてゐると、――」
トルストイは話し続けた。
「いきなり一人、教室を飛び出さうとする子供があるのだね。そこで何処へ行くのだと尋いて見たら、白墨を食ひ欠きに行くのですと云ふのだ。貰ひに行くとも云はなければ、折つて来るとも云ふのではない。食ひ欠きに行くと云ふのだね。かう云ふ言葉が使へるのは、現に白墨を噛じつてゐる露西亜の子供があるばかりだ。我々大人には到底出来ない。」
「成程、これは露西亜の子供に限りさうだ。その上僕なぞはそんな話を聞かされると、しみじみ露西亜へ帰つて来たと云ふ心持がする。」
トウルゲネフは今更のやうに、麦畑へ眼を漂はせた。
「さうだらう。仏蘭西なぞでは子供までが、巻煙草位は吸ひ兼ねない。」
「さう云へばあなたもこの頃は、さつぱり煙草を召し上らないやうでございますね。」
トルストイ夫人は夫の悪謔から、巧妙に客を救ひ出した。
「ええ、すつかり煙草はやめにしました。巴里に二人美人がゐましてね、その人たちは私が煙草臭いと、接吻させないと云ふものですから。」
今度はトルストイが苦笑した。
その内に一行はヴアロンカ川を渡つて、鴫打ちの場所へ辿り着いた。其処は川から遠くない、雑木林が疎になつた、湿気の多い草地だつた。
トルストイはトウルゲネフに、最も好い打ち場を譲つた。そして彼自身はその打ち場から、百五十歩ばかり遠のいた、草地の一隅に位置を定めた。それからトルストイ夫人はトウルゲネフの側に、子供たちは彼等のずつと後に、各々分れてゐる事になつた。
空はまだ赤らんでゐた。その空を絡つた木々の梢が、一面にぼんやり煙つてゐるのは、もう匂の高い若芽が、簇つてゐるのに違ひなかつた。トウルゲネフは銃を提げたなり、透かすやうに木々の間を眺めた。薄明い林の中からは、時々風とは云へぬ程の風が、気軽さうな囀りを漂はせて来た。
「駒鳥や鶸が啼いて居ります。」
トルストイ夫人は首を傾けながら、独り語のやうにかう云つた。
徐に沈黙の半時間が過ぎた。
その間に空は水のやうになつた。同時に遠近の樺の幹が、それだけ白々と見えるやうになつた。駒鳥や鶸の声の代りに、今は唯五十雀が、稀に鳴き声を送つて来る、――トウルゲネフはもう一度、疎な木々の中を透かして見た。が、今度は林の奥も、あら方夕暗みに沈んでゐた。
この時一発の銃声が、突然林間に響き渡つた。後に待つてゐた子供たちは、その反響がまだ消えない内に、犬と先を争ひながら、獲物を拾ひに駈けて行つた。
「御主人に先を越されました。」
トウルゲネフは微笑しながら、トルストイ夫人を振り返つた。
やがて二男のイリアが母の所へ、草の中を走つて来た。さうしてトルストイの射止めたのは、山鴫だと云ふ報告をした。
トウルゲネフは口を挾んだ。
「誰が見つけました?」
「ドオラ(犬の名)が見つけたのです。――見つけた時は、まだ生きてゐましたよ。」
イリアは又母の方を向くと、健康さうな頬を火照らせながら、その山鴫が見つかつた時の一部始終を話して聞かせた。
トウルゲネフの空想には、「猟人日記」の一章のやうな、小品の光景がちらりと浮んだ。
イリアが帰つて行つた後は、又元の通り静かになつた。薄暗い林の奥からは、春らしい若芽の匂だの湿つた土の匂だのが、しつとりとあたりへ溢れて来た。その中に何か眠さうな鳥が、時たま遠くに啼く声がした。
「あれは、――?」
「縞蒿雀です。」
トウルゲネフはすぐに返事をした。
縞蒿雀は忽ち啼きやんだ。それぎり少時は夕影の木々に、ぱつたり囀りが途絶えてしまつた。空は、――微風さへ全然落ちた空は、その生気のない林の上に、だんだん蒼い色を沈めて来る、――と思ふと鳧が一羽、寂しい声を飛ばせながら、頭の上を翔けて通つた。
再び一発の銃声が、林間の寂寞を破つたのは、それから一時間も後の事だつた。
「リヨフ・ニコラエヰツチは鴫打ちでも、やはり私を負かしさうです。」
トウルゲネフは眼だけ笑ひながら、ちよいと肩を聳かせた。
子供たちが皆駈けだした音、ドオラが時々吠え立てる声、――それがもう一度静まつた時には、既に冷かな星の光が、点々と空に散らばつてゐた。林も今は見廻す限り、ひつそりと夜を封じた儘、枝一つ動かす気色もなかつた。二十分、三十分、――退屈な時が過ぎると共に、この暮れ尽した湿地の上には、何処か薄明い春の靄が、ぼんやり足もとへ這ひ寄り始めた。が、彼等のゐまはりへは、未に一羽も鴫らしい鳥は、現れるけはひが見えなかつた。
「今日はどう致しましたかしら。」
トルストイ夫人の呟きには、気の毒さうな調子も交つてゐた。
「こんなことは滅多にないのでございますけれども、――」
「奥さん、御聞きなさい。夜鶯が啼いてゐます。」
トウルゲネフは殊更に、縁のない方面へ話題を移した。
暗い林の奥からは、実際もう夜鶯が、朗かな声を漂はせて来た。二人は少時黙然と、別々の事を考へながら、ぢつとその声に聞き入つてゐた。……
すると急に、――トウルゲネフ自身の言葉を借りれば、「しかしこの『急に』がわかるものは、唯猟人ばかりである。」――急に向うの草の中から、紛れやうのない啼き声と共に、一羽の山鴫が舞上つた。山鴫は枝垂れた木々の間に、薄白い羽裏を閃かせながら、すぐに宵暗へ消えようとする、――トウルゲネフはその瞬間、銃を肩に当てるが早いか、器用にぐいと引き金を引いた。
一抹の煙と短い火と、――銃声は静な林の奥へ、長い反響を轟かせた。
「中つたかね?」
トルストイはこちらへ歩み寄りながら、声高に彼へ問ひかけた。
「中つたとも。石のやうに落ちて来た。」
子供たちはもう犬と一しよに、トウルゲネフの周囲へ集まつてゐた。
「探して御出で。」
トルストイは彼等に云ひつけた。
子供たちはドオラを先に、其処此処と獲物を探し歩いた。が、いくら探して見ても、山鴫の屍骸は見つからなかつた。ドオラも遮二無二駈け廻つては、時々草の中へ佇んだ儘、不足さうに唸るばかりだつた。
しまひには、トルストイやトウルゲネフも、子供たちへ助力を与へに来た。しかし山鴫は何処へ行つたか、やはり羽根さへも見当らなかつた。
「ゐないやうだね。」
二十分の後トルストイは、暗い木々の間に佇みながら、トウルゲネフの方へ言葉をかけた。
「ゐない訳があるものか? 石のやうに落ちるのを見たのだから、――」
トウルゲネフはかう云ひながらも、あたりの草むらを見廻してゐた。
「中つた事は中つても、羽根へ中つただけだつたかも知れない。それなら落ちてからも逃げられる筈だ。」
「いや、羽根へ中つただけではない。確に僕は仕止めたのだ。」
トルストイは当惑さうに、ちよいと太い眉をひそめた。
「では犬が見つけさうなものだ。ドオラは仕止めた鳥と云へば、きつと啣へて来るのだから、――」
「しかし実際仕止めたのだから仕方がない。」
トウルゲネフは銃を抱へた儘、苛立たしさうな手真似をした。
「仕止めたか、仕止めないか、その位な区別は子供にもわかる。僕はちやんと見てゐたのだ。」
トルストイは嘲笑ふやうに、じろりと相手の顔を眺めた。
「それでは犬はどうしたのだ?」
「犬なぞは僕の知つた事ではない。僕は唯見た通りを云ふのだ。何しろ石のやうに落ちて来たのだから、――」
トウルゲネフはトルストイの眼に、挑戦的な光を見ると、思はずかう金切声を出した。
「Il st tombe comme pierre, je t'assure !」
「しかしドオラが見つけない筈はない。」
この時幸ひトルストイ夫人が、二人の翁に笑顔を見せながら、さりげない仲裁を試みに来た。夫人は明朝もう一度、子供たちを探しによこすから、今夜はこの儘トルストイの屋敷へ、引き上げた方が好からうと云つた。トウルゲネフはすぐに賛成した。
「ではさう願ふ事にしませう。明日になればきつとわかります。」
「さうだね、明日になればきつとわかるだらう。」
トルストイはまだ不服さうに、意地の悪い反語を投げつけると、突然トウルゲネフへ背を見せながら、さつさと林の外へ歩き出した。……
トウルゲネフが寝室へ退いたのは、その夜の十一時前後だつた。彼はやつと独りになると、どつかり椅子へ坐つた儘、茫然とあたりを眺め廻した。
寝室は平生トルストイが、書斎に定めてゐる一室だつた。大きな書架、龕の中の半身像、三四枚の肖像の額、壁にとりつけた牡鹿の頭、――彼の周囲にはそれらの物が、蝋燭の光に照らされながら、少しも派手な色彩のない、冷かな空気をつくつてゐた。が、それにも関らず、単に独りになつたと云ふ事が、兎に角今夜のトウルゲネフには、不思議な程嬉しい気がするのだつた。
――彼が寝室へ退く前、主客は一家の男女と共に、茶の卓子を囲みながら、雑談に夜を更かしてゐた。トウルゲネフは出来得る限り、快活に笑つたり話したりした。しかしトルストイはその間でも、不相変浮かない顔をしたなり、滅多に口も開かなかつた。それが始終トウルゲネフには、面憎くもあれば無気味でもあつた。だから彼は一家の男女に、ふだんよりも愛嬌を振り撒いては、わざと主人の沈黙を無視するやうに振舞はうとした。
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