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三つの窓(みっつのまど)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-18 10:26:24  点击:  切换到繁體中文


 けれどもこの海戦の前の出来事は感じ易いK中尉の心にいまだにはっきり残っていた。戦闘準備をととのえた一等戦闘艦××はやはり五隻の軍艦を従え、なみの高い海を進んで行った。すると右舷うげんの大砲が一門なぜかふたを開かなかった。しかももう水平線には敵の艦隊の挙げる煙も幾すじかかすかにたなびいていた。この手ぬかりを見た水兵たちの一人は砲身の上へまたがるが早いか、身軽に砲口まで腹這はらばって行き、両足でふたを押しあけようとした。しかし蓋をあけることは存外ぞんがい容易には出来ないらしかった。水兵は海を下にしたまま、何度も両足をあがくようにしていた。が、時々顔を挙げては白い歯を見せて笑ったりもしていた。そのうちに××は大うねりに進路を右へ曲げはじめた。同時にまた海は右舷うげん全体へすさまじいなみを浴びせかけた。それは勿論あっと言うに大砲に跨った水兵の姿をさらってしまうのにるものだった。海の中に落ちた水兵は一生懸命に片手を挙げ、何かおお声に叫んでいた。ブイは水兵たちのののしる声と一しょに海の上へ飛んで行った。しかし勿論××は敵の艦隊を前にした以上、ボオトをおろすわけにはかなかった。水兵はブイにとりついたものの、見る見る遠ざかるばかりだった。彼の運命は遅かれ早かれ溺死できしするのにまっていた。のみならずふかはこの海にも決して少いとは言われなかった。……
 若い楽手がくしゅの戦死に対するK中尉の心もちはこの海戦の前の出来事の記憶と対照を作らずにいるわけはなかった。彼は兵学校へはいったものの、いつか一度は自然主義の作家になることを空想していた。のみならず兵学校を卒業してからもモオパスサンの小説などを愛読していた。人生はこう云うK中尉には薄暗い一面を示し勝ちだった。彼は××に乗り組んだのち、エジプトの石棺せっかんに書いてあった「人生――戦闘せんとう」と云う言葉を思い出し、××の将校や下士卒は勿論、××そのものこそ言葉通りにエジプト人の格言を鋼鉄に組み上げていると思ったりした。従って楽手の死骸の前には何かあらゆる戦いを終った静かさを感じずにはいられなかった。しかしあの水兵のようにどこまでも生きようとする苦しさもたまらないと思わずにはいられなかった。
 K中尉はひたいの汗を拭きながら、せめては風にでも吹かれるために後部甲板こうぶかんぱんのハッチを登って行った。すると十二インチ砲塔ほうとうの前に綺麗きれいに顔をった甲板士官かんぱんしかん一人ひとり両手をうしろに組んだまま、ぶらぶら甲板を歩いていた。そのまた前には下士かし一人ひとり頬骨ほおぼねの高い顔を半ば俯向うつむけ、砲塔を後ろに直立していた。K中尉はちょっと不快になり、そわそわ甲板士官の側へ歩み寄った。
「どうしたんだ?」
「何、副長の点検前に便所へはいっていたもんだから。」
 それは勿論軍艦の中では余り珍らしくない出来事だった。K中尉はそこに腰をおろし、スタンションを取り払った左舷さげんの海や赤い鎌なりの月を眺め出した。あたりは甲板士官のくつの音のほかに人声も何も聞えなかった。K中尉は幾分か気安さを感じ、やっときょうの海戦中の心もちなどを思い出していた。
「もう一度わたくしはお願い致します。善行賞ぜんこうしょうはお取り上げになっても仕かたはありません。」
 下士かしにわかに顔を挙げ、こう甲板士官に話しかけた。K中尉は思わず彼を見上げ、薄暗い彼の顔の上に何か真剣な表情を感じた。しかし快活な甲板士官はやはり両手を組んだまま、静かに甲板を歩きつづけていた。
莫迦ばかなことを言うな。」
「けれどもここに起立していてはわたくしの部下に顔も合わされません。進級の遅れるのも覚悟しております。」
「進級の遅れるのは一大事だ。それよりそこに起立していろ。」
 甲板士官はこう言ったのち、気軽にまた甲板を歩きはじめた。K中尉も理智的には甲板士官に同意見だった。のみならずこの下士の名誉心を感傷的と思う気もちもないわけではなかった。が、じっと頭をれた下士は妙にK中尉を不安にした。
「ここに起立しているのは恥辱ちじょくであります。」
 下士は低い声に頼みつづけた。
「それはお前の招いたことだ。」
「罰は甘んじて受けるつもりでおります。ただどうか起立していることは」
「ただ恥辱と云う立てまえから見れば、どちらも畢竟ひっきょう同じことじゃないか?」
「しかし部下に威厳を失うのはわたくしとしては苦しいのであります。」
 甲板士官は何とも答えなかった。下士は、――下士もあきらめたと見え、「あります」に力を入れたぎり、一言ひとことも言わずにたたずんでいた。K中尉はだんだん不安になり、(しかもまた一面にはこの下士の感傷主義にだまされまいと云う気もないわけではなかった。)何か彼のために言ってやりたいのを感じた。しかしその「何か」も口を出た時には特色のない言葉に変っていた。
「静かだな。」
「うん。」
 甲板士官はこう答えたなり、今度はあごをなでて歩いていた。海戦の前夜にK中尉に「昔、木村重成きむらしげなりは……」などと言い、特に叮嚀ていねいっていたあごを。……
 この下士は罰をすましたのち、いつか行方ゆくえ不明になってしまった。が、投身することは勿論当直とうちょくのある限りは絶対に出来ないのに違いなかった。のみならず自殺のおこなわれ易い石炭庫せきたんこの中にもいないことは半日とたたないうちに明かになった。しかし彼の行方不明になったことは確かに彼の死んだことだった。彼は母や弟にそれぞれ遺書を残していた。彼に罰を加えた甲板士官は誰の目にも落ち着かなかった。K中尉は小心しょうしんものだけに人一倍彼に同情し、K中尉自身の飲まない麦酒ビールを何杯もいずにはいられなかった。が、同時にまた相手の酔うことを心配しずにもいられなかった。
「何しろあいつは意地っぱりだったからなあ。しかし死ななくってもいじゃないか?――」
 相手は椅子いすからずり落ちかかったなり、何度もこんな愚痴ぐちを繰り返していた。
「おれはただ立っていろと言っただけなんだ。それを何も死ななくったって、……」
 ××の鎮海湾ちんかいわん碇泊ていはくしたのち煙突えんとつ掃除そうじにはいった機関兵は偶然この下士を発見した。彼は煙突の中に垂れた一すじのくさり縊死いししていた。が、彼の水兵服は勿論、皮や肉も焼け落ちたために下っているのは骸骨がいこつだけだった。こう云う話はガンルウムにいたK中尉にも伝わらないわけはなかった。彼はこの下士の砲塔の前にたたずんでいた姿を思い出し、まだどこかに赤い月の鎌なりにかかっているように感じた。
 この三人の死はK中尉の心にいつまでも暗い影を投げていた。彼はいつか彼等の中に人生全体さえ感じ出した。しかし年月ねんげつはこの厭世えんせい主義者をいつか部内でも評判のい海軍少将の一人に数えはじめた。彼は揮毫きごうすすめられても、滅多めったに筆をとり上げたことはなかった。が、やむを得ない場合だけは必ず画帖がじょうなどにこう書いていた。

君看双眼色きみみよそうがんのいろ
不語似無愁かたらざればうれいなきににたり


     3 一等戦闘艦××

 一等戦闘艦××は横須賀よこすか軍港のドックにはいることになった。修繕工事しゅうぜんこうじは容易にはかどらなかった。二万トンの××は高い両舷りょうげんの内外に無数の職工をたからせたまま、何度もいつにない苛立いらだたしさを感じた。が、海に浮かんでいることもかきにとりつかれることを思えば、むずがゆい気もするのに違いなかった。
 横須賀軍港には××の友だちの△△も碇泊ていはくしていた。一万二千噸の△△は××よりも年の若い軍艦だった。彼等は広い海越しに時々声のない話をした。△△は××の年齢には勿論、造船技師の手落ちからかじの狂い易いことに同情していた。が、××をいたわるために一度もそんな問題を話し合ったことはなかった。のみならず何度も海戦をして来た××に対する尊敬のためにいつも敬語を用いていた。
 するとある曇った午後、△△は火薬庫に火のはいったためににわかに恐しい爆声を挙げ、半ば海中に横になってしまった。××は勿論びっくりした。(もっとも大勢おおぜいの職工たちはこの××のふるえたのを物理的に解釈したのに違いなかった。)海戦もしない△△の急に片輪かたわになってしまう、――それは実際××にはほとんど信じられないくらいだった。彼は努めて驚きを隠し、はるかに△△を励したりした。が、△△は傾いたまま、ほのおや煙の立ちのぼる中にただうなり声を立てるだけだった。
 それから三四日たったのち、二万噸の××は両舷の水圧を失っていたためにだんだん甲板かんぱん乾割ひわれはじめた。この容子ようすを見た職工たちはいよいよ修繕工事を急ぎ出した。が、××はいつのにか彼自身を見離していた。△△はまだ年も若いのに目の前の海に沈んでしまった。こう云う△△の運命を思えば、彼の生涯は少くとも喜びや苦しみをめ尽していた。××はもう昔になったある海戦の時を思い出した。それは旗もずたずたにければ、マストさえ折れてしまう海戦だった。……
 二万噸の××は白じらと乾いたドックの中に高だかと艦首をもたげていた。彼の前には巡洋艦や駆逐艇が何隻も出入しゅつにゅうしていた。それから新らしい潜航艇や水上飛行機も見えないことはなかった。しかしそれ等は××にははかなさを感じさせるばかりだった。××は照ったり曇ったりする横須賀軍港を見渡したまま、じっと彼の運命を待ちつづけていた。そのあいだもやはりおのずから甲板のじりじりり返って来るのに幾分か不安を感じながら。……

(昭和二年六月十日)




 



底本:「芥川龍之介全集6」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年3月24日第1刷発行
   1993(平成5)年2月25日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月~11月刊行
入力:j.utiyama
校正:多羅尾伴内
2004年1月5日作成
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