錦糸堀
僕は天神橋の袂から又円タクに乗ることにした。この界隈はどこを見ても、――僕はもう今昔の変化を云々するのにも退屈した。僕の目に触れるものは半ば出来上つた小公園である。或は亜鉛塀を繞らした工場である。或は又見すぼらしいバラツクである。斎藤茂吉氏は何かの機会に「ものの行きとどまらめやも」と歌ひ上げた。しかし今日の本所は「ものの行き」を現してゐない。そこにあるものは震災の為に生じた「ものの飛び」に近いものである。僕は昔この辺に糧秣廠のあつたことを思ひ出し、更にその糧秣廠に火事のあつたことを思ひ出し、如露亦如電といふ言葉の必しも誇張でないことを感じた。
僕の通つてゐた第三中学校も鉄筋コンクリイトに変つてゐる。僕はこの中学校へ五年の間通ひつづけた。当時の校舎も震災の為に灰になつてしまつたのであらう。が、僕の中学時代には鼠色のペンキを塗つた二階建の木造だつた。それから校舎のまはりにはポプラアが何本かそよいでゐた。(この界隈は土の痩せてゐる為にポプラア以外の木は育ち悪かつたのである。)僕はそこへ通つてゐるうちに英語や数学を覚えた外にも如何に僕等人間の情け無いものであるかを経験した。かう云ふのは僕の先生たちや友だちの悪口を言つてゐるのではない。僕等人間と云ふうちには勿論僕のこともはひつてゐるのである。たとへば僕等は或友だちをいぢめ、彼を砂の中に生き埋めにした。僕等の彼をいぢめたのは格別理由のあつた訣ではない。若し又理由らしいものを挙げるとすれば、唯彼の生意気だつた、――或は彼は彼自身を容易に曲げようとしなかつたからである。僕はもう五六年前、久しぶりに彼とこの話をし、この小事件も彼の心に暗い影を落してゐるのを感じた。彼は今は揚子江の岸に不相変孤独に暮らしてゐる。……
かう云ふ僕の友だちと一しよに僕の記憶に浮んで来るのは僕等を教へた先生たちである。僕はこの「繁昌記」の中に一々そんな記憶を加へるつもりはない。けれども唯一人この機会にスケツチしておきたいのは山田先生である。山田先生は第三中学校の剣道部と云ふものの先生だつた。先生の剣道は封建時代の剣客に勝るとも劣らなかつたであらう。何でも先生に学んだ一人は武徳会の大会に出、相手の小手へ竹刀を入れると、余り気合ひの烈しかつた為に相手の腕を一打ちに折つてしまつたとか云ふことだつた。が、僕の伝へたいのは先生の剣道のことばかりではない。先生は又食物を減じ、仙人に成る道も修行してゐた。のみならず明治時代にも不老不死の術に通じた、正真紛れのない仙人の住んでゐることを確信してゐた。僕は不幸にも先生のやうに仙人に敬意を感じてゐない。しかし先生の鍛煉にはいつも敬意を感じてゐる。先生は或時博物学教室へ行き、そこにあつたコツプの昇汞水を水と思つて飲み干してしまつた。それを知つた博物学の先生は驚いて医者を迎へにやつた。医者は勿論やつて来るが早いか、先生に吐剤を飲ませようとした。けれども先生は吐剤と云ふことを知ると、自若としてかう云ふ返事をした。
「山田次郎吉は六十を越しても、まだ人様のゐられる前でへどを吐くほど耄碌はしませぬ。どうか車を一台お呼び下さい。」
先生は何とか云ふ法を行ひ、とうとう医者にもかからずにしまつた。僕はこの三四年の間は誰からも先生の噂を聞かない。あの面長の山田先生は或はもう列仙伝中の人々と一しよに遊んでゐるのであらう。しかし僕は不相変埃臭い空気の中に、――僕等をのせた円タクは僕のそんなことを考へてゐるうちに江東橋を渡つて走つて行つた。
緑町、亀沢町
江東橋を渡つた向うもやはりバラツクばかりである。僕は円タクの窓越しに赤錆をふいた亜鉛屋根だのペンキ塗りの板目だのを見ながら、確か明治四十三年にあつた大水のことを思ひ出した。今日の本所は火事には会つても、洪水に会ふことはないであらう。が、その時の大水は僕の記憶に残つてゐるのでは一番水嵩の高いものだつた。江東橋界隈の人々の第三中学校へ避難したのもやはりこの大水のあつた時である。僕は江東橋を越えるのにも一面に漲つた泥水の中を泳いで行かなければならなかつた。……
「実際その時は大変でしたよ。尤も僕の家などは床の上へ水は来なかつたけれども。」
「では浅い所もあつたのですね?」
「緑町二丁目――かな。何でもあの辺は膝位まででしたがね。僕はSと云ふ友だちと一しよにその露地の奥にゐるもう一人の友だちを見舞ひに行つたんです。するとSと云ふ友だちが溝の中へ落ちてしまつてね。……」
「ああ、水が出てゐたから、溝のあることがわからなかつたんですね。」
「ええ、――しかしSのやつは膝まで水の上に出てゐたんです。それがあつと言ふ拍子に可也深い溝だつたと見え、水の上に出てゐるのは首だけになつてしまつたんでせう。僕は思はず笑つてしまつてね。」
僕等をのせた円タクはかう云ふ僕等の話の中に寿座の前を通り過ぎた。画看板を掲げた寿座は余り昔と変らないらしかつた。僕の父の話によれば、この辺、――二つ目通りから先は「津軽様」の屋敷だつた。「御維新」前の或年の正月、父は川向うへ年始に行き、帰りに両国橋を渡つて来ると、少しも見知らない若侍が一人偶然父と道づれになつた。彼もちやんと大小をさし、鷹の羽の紋のついた上下を着てゐた。父は彼と話してゐるうちにいつか僕の家を通り過ぎてしまつた。のみならずふと気づいた時には「津軽様」の溝の中へ転げこんでゐた。同時に又若侍はいつかどこかへ見えなくなつてゐた。父は泥まみれになつたまま、僕の家へ帰つて来た。何でも父の刀は鞘走つた拍子にさかさまに溝の中に立つたと云ふことである。それから若侍に化けた狐は(父は未だこの若侍を狐だつたと信じてゐる。)刀の光に恐れた為にやつと逃げ出したのだと云ふことである。実際狐の化けたかどうかは僕にはどちらでも差支へない。僕は唯父の口からかう云ふ話を聞かされる度にいつも昔の本所の如何に寂しかつたかを想像してゐた。
僕等は亀沢町の角で円タクをおり、元町通りを両国へ歩いて行つた。菓子屋の寿徳庵は昔のやうにやはり繁昌してゐるらしい。しかしその向うの質屋の店は安田銀行に変つてゐる。この質屋の「利いちやん」も僕の小学時代の友だちだつた。僕はいつか遊び時間に僕等の家にあるものを自慢し合つたことを覚えてゐる。僕の友だちは僕のやうに年とつた小役人の息子ばかりではない。が、誰も「利いちやん」の言葉には驚嘆せずにはゐられなかつた。
「僕の家の土蔵の中には大砲万右衛門の化粧廻しもある。」
大砲は僕等の小学時代に、――常陸山や梅ヶ谷の大関だつた時代に横綱を張つた相撲だつた。
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] 下一页 尾页