「富士見の渡し」
僕等は両国橋の袂を左へ切れ、大川に沿つて歩いて行つた。「百本杭」のないことは前にも書いた通りである。しかし「伊達様」は残つてゐるかも知れない。僕はまだ幼稚園時代からこの「伊達様」の中にある和霊神社のお神楽を見に行つたものである。なんでも母などの話によれば、女中の背中におぶさつたまま、熱心にお神楽をみてゐるうちに「うんこ」をしてしまつたこともあつたらしい。しかし何処を眺めても、亜鉛葺きのバラツクの外に「伊達様」らしい屋敷は見えなかつた。「伊達様」の庭には木犀が一本秋ごとに花を盛つてゐたものである。僕はその薄甘いひを子供心にも愛してゐた。あの木犀も震災の時に勿論灰になつてしまつたことであらう。
流転の相の僕を脅すのは「伊達様」の見えなかつたことばかりではない。僕は確かこの近所にあつた「富士見の渡し」を思ひ出した。が、渡し場らしい小屋は何処にも見えない。僕は丁度道ばたに芋を洗つてゐた三十前後の男に渡し場の有無をたづねて見ることにした。しかし彼は「富士見の渡し」といふ名前を知つてゐないのは勿論、渡し場のあつたことさへ知らないらしかつた。「富士見の渡し」はこの河岸から「明治病院」の裏手に当る向う河岸へ通つてゐた。その又向う河岸は掘割りになり、そこに時々何処かの家の家鴨なども泳いでゐたものである。僕は中学へはひつた後も或親戚を尋ねる為めに度々「富士見の渡し」を渡つて行つた。その親戚は三遊派の「五りん」とかいふもののお上さんだつた。僕の家へ何かの拍子に円朝の息子の出入したりしたのもかういふ親戚のあつた為めであらう。僕は又その家の近所に今村次郎といふ標札を見付け、この名高い速記者(種々の講談の)に敬意を感じたことを覚えてゐる。――
僕は講談といふものを寄席では殆ど聞いたことはない。僕の知つてゐる講釈師は先代の邑井吉瓶だけである。(もつとも典山とか伯山とか或は又伯龍とかいふ新時代の芸術家を知らない訣ではない。)従つて僕は講談を知る為めに大抵今村次郎氏の速記本に依つた。しかし落語は家族達と一しよに相生町の広瀬だの米沢町(日本橋区)の立花家だのへ聞きに行つたものである。殊に度々行つたのは相生町の広瀬だつた。が、どういふ落語を聞いたかは生憎はつきりと覚えてゐない。唯吉田国五郎の人形芝居を見たことだけは未だにありありと覚えてゐる。しかも僕の見た人形芝居は大抵小幡小平次とか累とかいふ怪談物だつた。僕は近頃大阪へ行き、久振りに文楽を見物した。けれども今日の文楽は僕の昔見た人形芝居よりも軽業じみたけれんを使つてゐない。吉田国五郎の人形芝居は例へば清玄の庵室などでも、血だけらな[#「血だらけな」の誤り?]清玄の幽霊は大夫の見台が二つに割れると、その中から姿を現はしたものである。寄席の広瀬も焼けてしまつたであらう。今村次郎氏も明治病院の裏手に――僕は正直に白状すれば、今村次郎氏の現存してゐるかどうかも知らないものの一人である。
そのうちに僕は震災前と――といふよりも寧ろ二十年前と少しも変らないものを発見した。それは両国駅の引込み線を抑へた、三尺に足りない草土手である。僕は実際この草土手に「国亡びて山河在り」といふ詠嘆を感じずにはゐられなかつた。しかしこの小さい草土手にかういふ詠嘆を感じるのはそれ自身僕には情なかつた。
「お竹倉」
僕の知人は震災の為めに何人もこの界隈に斃れてゐる。僕の妻の親戚などは男女九人の家族中、やつと命を全うしたのは二十前後の息子だけだつた。それも火の粉を防ぐ為めに戸板をかざして立つてゐたのを旋風の為めに捲き上げられ、安田家の庭の池の側へ落ちてどうにか息を吹き返したのである。それから又僕の家へ毎日のやうに遊びに来た「お条さん」という人などは命だけは助かつたものの、一時は発狂したのも同様だつた。(「お条さん」は髪の毛の薄い為めに何処へも片付かずにゐる人だつた。しかし髪の毛を生やす為めに蝙蝠の血などを頭へ塗つてゐた。)最後に僕の通つてゐた江東小学校の校長さんは両眼とも明を失つた上、前年にはたつた一人の息子を失ひ、震災の年には御夫婦とも焼け死んでしまつたとか言ふことだつた。僕も本所に住んでゐたとすれば、恐らくは矢張りこの界隈に火事を避けてゐたことであらう。従つて又僕は勿論、僕の家族も彼等のやうに非業の最後を遂げてゐたかも知れない。僕は高い褐色の本所会館を眺めながら、こんなことをO君と話し合つたりした。
「しかし両国橋を渡つた人は大抵助かつてゐたのでせう?」
「両国橋を渡つた人はね。……それでも元町通りには高圧線の落ちたのに触れて死んだ人もあつたと言ふことですよ。」
「兎に角東京中でも被服廠程大勢焼け死んだところはなかつたのでせう。」
かういふ種々の悲劇のあつたのはいづれも昔の「お竹倉」の跡である。僕の知つてゐた頃の「お竹倉」は大体「御維新」前と変らなかつたものの、もう総武鉄道会社の敷地の中に加へられてゐた。僕はこの鉄道会社の社長の次男の友達だつたから、妄りに人を入れなかつた「お竹倉」の中へも遊びに行つた。そこは前にも言つたやうに雑木林や竹藪のある、町中には珍らしい野原だつた。のみならず古い橋のかかつた掘割りさへ大川に通じてゐた。僕は時々空気銃を肩にし、その竹藪や雑木林の中に半日を暮らしたものである。溝板の上に育つた僕に自然の美しさを教へたものは何よりも先に「お竹倉」だつたであらう。僕は中学を卒業する前に英訳の「猟人日記」を拾ひ読みにしながら、何度も「お竹倉」の中の景色を――「とりかぶと」の花の咲いた藪の陰や大きい昼の月のかかつた雑木林の梢を思ひ出したりした。「お竹倉」は勿論その頃には厳しい陸軍被服廠や両国駅に変つてゐた。けれども震災後の今日を思へば、――「卻つて并州を望めば是故郷」と支那人の歌つたのも偶然ではない。
総武鉄道の工事の始まつたのはまだ僕の小学時代だつたであらう。その以前の「お竹倉」は夜は「本所の七不思議」を思ひ出さずにはゐられない程もの寂しかつたのに違ひない。夜は?――いや、昼間さへ僕は「お竹倉」の中を歩きながら、「おいてき堀」や「片葉の芦」は何処かこのあたりにあるものと信じない訣には行かなかつた。現に夜学に通ふ途中、「お竹倉」の向うに莫迦囃しを聞き、てつきりあれは「狸囃し」に違ひないと思つたことを覚えてゐる。それはおそらくは小学時代の僕一人の恐怖ではなかつたのであらう。なんでも総武鉄道の工事中にそこへ通つてゐた線路工夫の一人は宵闇の中に幽霊を見、気絶してしまつたとかいふことだつた。
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