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文芸的な、余りに文芸的な(ぶんげいてきな、あまりにぶんげいてきな)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-17 14:56:50  点击:  切换到繁體中文



     三十一 「西洋の呼び声」

 僕はゴオガンの橙色の女に「野性の呼び声」を感じてゐる。しかし又ルドンの「若き仏陀」(土田麦僊ばくせん氏所蔵?)に「西洋の呼び声」を感じてゐる。この「西洋の呼び声」もやはり僕を動かさずにはかない。谷崎潤一郎氏も谷崎氏自身の中に東西両洋の相剋さうこくを感じてゐる。しかし僕の「西洋の呼び声」と云ふのは或は谷崎氏の「西洋の呼び声」とは多少異つてゐるかも知れない。僕はその為に僕の感じる「西洋」のことを書いて見ることにした。
「西洋」の僕に呼びかけるのはいつも造形美術の中からである。文芸上の作品は――殊に散文は存外この点では痛切ではない。それは一つには僕等人間は人間獣であることに東西の差別の少ない為であらう。(最も手近な例を引けば、某医学博士の或少女を凌辱りようじよくしたのは全然神父セルジウスの百姓の娘に対したのと異らない男性の心理である。)それから又僕等の語学的素養は文芸上の作品の美を捉へる為には余りに不完全である為であらう。僕等は、――少くとも僕は紅毛人こうまうじんの書いた詩文の意味だけは理解出来ないことはない。が、僕等の祖先の書いた詩文――たとへば凡兆ぼんてうの「木の股のあでやかなりし柳かな」に対するほど、一字一音の末に到るまで舌舐したなめずりをすることは出来ないのである。西洋の僕に呼びかけるのに造形美術を通してゐるのは必しも偶然ではないかも知れない。
 この「西洋」の底に根を張つてゐるものはいつも不可思議なギリシアである。水の冷暖は古人も言つたやうに飲んで自知する外に仕かたはない。不可思議なギリシアも亦同じことである。僕は最も手短かにギリシアを説明するとすれば、日本にもあるギリシア陶器の幾つかを見ることを勧めるであらう。或は又ギリシア彫刻の写真を見ることを勧めるであらう。それ等の作品の美しさはギリシアの神々の美しさである。或は飽くまでも官能的な、――言はば肉感的な美しさの中に何か超自然と言ふ外はない魅力を含んだ美しさである。この石にみこんだ麝香じやかうか何かの匂のやうに得体えたいの知れない美しさは詩の中にもやはりないことはない。僕はポオル・ヴアレリを読んだ時、(紅毛の批評家は何と言ふか知れない。)ボオドレエルの昔からいつも僕を動かしてゐたかう云ふ美しさに邂逅かいこうした。しかし最も直接に僕にこのギリシアを感じさせたのは前に挙げた一枚のルドンである。……
 ギリシア主義とヘブライ主義との思想上の対立はいろいろの議論を生じてゐる。が、僕はそれ等の議論には余り興味を持つてゐない。唯街頭の演説に耳を傾けるやうに聞いてゐるだけである。しかしこのギリシア的な美しさはかう云ふ問題に門外漢の僕にも「恐しい」と言つても差支へない。僕はここにだけ――このギリシアにだけ僕等の東洋に対立する「西洋の呼び声」を感じるのである。貴族はブウルヂヨアに席を譲つたであらう。ブウルヂヨアも亦プロレタリアに早晩席を譲るであらう。けれども西洋の存する限り、不可思議なギリシアは必ず僕等を、――或は僕等の子孫たちを引き寄せようとするのに違ひない。
 僕はこの文章を書いてゐるうちに古代の日本に渡つて来たアツシリアの竪琴たてごとを思ひ出した。大いなる印度は僕等の東洋を西洋と握手させるかも知れない。しかしそれは未来のことである。西洋は――最も西洋的なギリシアは現在では東洋と握手してゐない。ハイネは「流謫るたくの神々」の中に十字架にはれたギリシアの神々の西洋の片田舎に住んでゐることを書いた。けれどもそれは片田舎にもしろ、兎に角西洋だつたからである。彼等は僕等の東洋には一刻も住んではゐられなかつたであらう。西洋はたとひヘブライ主義の洗礼を受けた後にもしろ、何か僕等の東洋と異つた血脈を持つてゐる。その最も著しい例は或はポルノグラフイイにあるかも知れない。彼等は肉感そのものさへ僕等とおもむきを異にしてゐる。
 或人々は千九百十四五年に死んだドイツの表現主義の中に彼等の西洋を見出してゐる。それから又或人々は――レムブラントやバルザツクのうちに彼等の西洋を見出してゐる人々も勿論多いことであらう。現に秦豊吉はたとよきち氏などはロココ時代の芸術に秦氏の西洋を見出してゐる。僕はかう云ふ種々の西洋を西洋ではないと言ふのではない。しかしそれらの西洋のかげにいつも目を醒ましてゐる一羽の不死鳥――不可思議なギリシアを恐れてゐるのである。恐れてゐる?――或は恐れてゐるのではないかも知れない。けれども妙に抵抗しながら、やはりじりじりと引き寄せられる動物的磁気に近いものを感じないわけには行かないのである。
 僕はし目をつぶれるとすれば、かう云ふ「西洋の呼び声」には目をつぶりたいと思つてゐる。しかし目をつぶることは必しも僕の自由にはならない。僕はつい四五日前の夜に室生犀星氏や何かと一しよに久しぶりにパイプをくはへながら、若い人たちと話してゐる中に十年余りも忘れてゐたボオドレエルの一行を思ひ出した。(それは僕には実験心理的にも興味のある事実だつたのに違ひない。)それから不可思議な荘厳に満ちた一枚のルドンを思ひ出した。
 この「西洋の呼び声」もやはり「野性の呼び声」のやうに僕をどこかへつれて行かうとしてゐる。アポロに対するデイオニソスに彼の偶像を発見した「ツアラトストラ」の詩人は幸福だつた。現世の日本に生まれ合せた僕は文芸的にも僕自身の中に無数の分裂を感ぜざるを得ない。それも或は僕一人に、――何ごとにも影響を受け易い僕一人に限つてゐることであらうか? 僕はこの不可思議なギリシアこそ最も西洋的な文芸上の作品を僕等の日本語に飜訳することをさまたげてゐるのではないかと思つてゐる。或は僕等日本人の正確に理解することさへ(語学上の障害は暫らく問はず)遮げてゐるのではないかと思つてゐる。一枚のルドンは、――いや、いつかフランス美術展覧会に出てゐたモロオの「サロメ」(?)さへかう云ふ点では僕に東西を切り離した大海を想はせずにはかなかつた。この問題を逆にすれば、紅毛人の漢詩を理解しないのも当然であると言はなければならぬ。僕は大英博物館に一人の東洋学者のゐることを聞きかじつてゐる。しかし彼の漢詩の英訳は少くとも僕等日本人には原作の醍醐味だいごみを伝へてゐない。のみならず彼の漢詩論も盛唐をおとして漢魏かんぎげたのは前人の説を破つてゐるにもせよ、やはり僕等日本人には容易に首肯することは出来ないのである。ピカソは黒んぼの芸術に新らしい美しさを発見した。けれども彼等の東洋的芸術に――たとへば大愚良寛の書に新らしい美しさを発見するのはいつであらう。

     三十二 批評時代

 批評や随筆の流行は即ち創作の振はない半面を示したものである。――これは僕の議論ではない。佐藤春夫氏の議論である。(「中央公論」五月号所載)同時に又三宅幾三郎いくさぶらう氏の議論である。(「文芸時代」五月号所載)僕は偶然を一にした両氏の議論に興味を感じた。両氏の議論はあたつてゐるであらう。今日の作家たちは佐藤氏の言ふやうに疲れてゐるのに違ひない。(尤も「僕は疲れてゐない」と主張する作家は例外である。)或は休みない制作の為に、(世界に日本の文壇ほど濫作らんさくを強ひる所はない。)或は又身辺の雑事の為に、或は又争ひ難い年齢の為に、或は又、――事情はいろいろ変つてゐるにしても、兎に角多少は疲れてゐるであらう。現に紅毛の作家たちの中にも晩年には批評のペンを執つて閑をつぶしたものも少くはなかつた。……
 佐藤氏はこの批評時代に一層根本的なものに触れることを必要であると力説してゐる。三宅氏の「第一義的の批評」を要求するのも恐らくは佐藤氏と大差ないであらう。僕も亦各人の批評のペンにも血のしたたることを望んでゐる。何を批評上では第一義的とするか?――それは各人各説かも知れない。その又各人各説であることに所謂「真の批評」の出現する事実上の困難はあるのかも知れない。しかし僕等は各人各説でも兎に角僕等の信条や疑問を叩きつける外はないのである。現に正宗白鳥氏は「文芸評論」や「ダンテに就いて」の中に立派にかう云ふ仕事をした。正宗氏の議論は批評的に多少の欠点を数へ得るかも知れない。しかし後代の人々はいつかラツサアレも言つたやうに、「我々の過失をとがめるよりも我々の情熱をりやうとするであらう。」
 三宅氏は又「批評をも全々(原)小説家の手にゆだねておく事は、寧ろ文学の進歩発展を渋滞じふたいさせる恐れがある」と言つてゐる。僕はこの言葉を読んだ時、「詩人は彼自身の中に批評家を持つてゐる。が、批評家は彼自身の中に詩人を持つてゐるとは限らない」と云ふボオドレエルの言葉だつた。実際詩人は彼自身の中に批評家を持つてゐるのに違ひない。が、その批評家は彼の批評を「批評」と云ふ文芸上の或形式に完成する力をもつてゐるかどうか?――それは又おのづから別問題である。三宅氏の所謂「真の批評家」の出現することを望むものは必しも僕ばかりに限らないであらう。
 唯日本のパルナスは或因襲いんしふとらはれてゐる。たとへば詩人室生犀星氏の小説や戯曲を作る時にはそれ等は決して余技ではない。しかし小説家佐藤春夫氏の時々詩を作る時にはそれは不思議にも余技である。(僕はいつか佐藤氏自身の「僕の詩は決して余技ではない」と憤慨してゐたのを覚えてゐる。)若し「小説家万能」の言葉に相当する事実を数へるとすれば、これこそ正にその一つであらう。小説家兼批評家の場合もやはりこの事実と同じことである。僕は「鴎外全集」第三巻を読み、批評家鴎外先生の当時の「専門的批評家」を如何に凌駕りようがしてゐるかを知つた。同時に又かう云ふ批評家のない時代の如何に寂しいものであるかを知つた。若し明治時代の批評家を数へるとすれば、僕は森先生や夏目先生と一しよに子規居士こじを数へたいと思つてゐる。東京の悪戯いたづら斎藤緑雨りよくうは右に森先生の西洋の学を借り、左に幸田先生の和漢の学を借りたものの、つひに批評家の域にはいつてゐない。(しかし僕は随筆以外に何も完成しなかつた斎藤緑雨にいつも同情を感じてゐる。緑雨は少くとも文章家だつた。)けれどもそれは余論である。……
 批評家だつた森先生は自然主義の文芸の興つた明治時代の準備をした。(しかも逆説的な運命は自然主義の文芸の興つた時代には森先生を反自然主義者の一人にした。それは或は森先生の目はもつと遠い空を見てゐたからかも知れない。しかし兎に角明治二十年代にゾラやモオパスサンを云々した森先生さへ反自然主義者の一人になつたのは逆説的であると言はなければならぬ。)僕は若し当代も批評時代と呼ばれるとすれば、――三宅氏は「我々は来る可き日本文学の隆盛期に対して、殆ど絶望を感じないか」と言つてゐる。若し仕合せにもこの言葉は三宅氏一人の感慨だつたとすれば、――僕等はどの位安んじて新来の作家たちを待てるであらう。或は又どの位不安になつて新来の作家たちを待てるであらう。
 所謂「真の批評家」はもみを米から分つ為に批評のペンを執るであらう。僕も亦時々僕自身の中にかう云ふメシア的欲望を感じてゐる。しかし大抵は僕自身の為に――僕自身を理智的に歌ひ上げる為に書いてゐるのに過ぎない。批評も亦僕にはその点では殆ど小説を作つたり発句ほつくを作つたりするのと変らないのである。僕は佐藤、三宅両氏の議論を読み、僕の批評に序文をつける為にとりあへずこの文章をさうすることにした。
 追記。僕はこの文章を書き終つた後、堀木克三よしざう氏の啓発を受け、宇野浩二氏の批評の名に「文芸的な、余りに文芸的な」を使つてゐることを知つた。僕は故意に宇野氏の真似をしたのでもなければ、なほ更プロレタリア文芸に対する共同戦線などにするつもりではない。唯文芸上の問題ばかりを論ずる為に漫然とつけたばかりである。宇野氏も恐らくは僕の心もちをりやうとしてくれることであらう。

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