十四 白柳秀湖氏
僕は又この頃白柳秀湖氏の「声なきに聴く」と云ふ文集を読み、「僕の美学」、「羞恥心に関する考察」、「動物の発性期と食物との関係」等の小論文に少からず興味を感じた。「僕の美学」は題の示すやうに正に白柳氏の美学に当り、「羞恥心に関する考察」は白柳氏の倫理学に当るものである。今後者は暫く問はず、前者をちよつと紹介すれば、美は僕等の生活から何の関係もなしに生まれたものではない。僕等の祖先は焚火を愛し、林間に流れる水を愛し、肉を盛る土器を愛し、敵を打ち倒す棒を愛した。美はこれ等の生活的必要品(?)からおのづから生まれて来たのである。……
かう云ふ小論文は少くとも僕には現世に多いコントよりも遙に尊敬に価するものである。(白柳氏はこの小論文の末にこれは「文壇の一隅に唯物美学の呼声、若しくはそれに関する飜訳の現れる絶対以前」に書いたと註してゐる。)僕は美学などは全然知らない。況や唯物美学などと云ふものには更に縁のない衆生である。しかし白柳氏の美の発生論は僕にも僕の美学を作る機会を与へた。白柳氏は造形美術以外の美の発生に言及してゐない。僕はもう十数年前、或山中の宿に鹿の声を聞き、何かしみじみと人恋しさを感じた。あらゆる抒情詩はこの鹿の声に、――雌を呼ぶ雄の声に発したのであらう。しかしこの唯物美学は俳人は勿論、遠い昔の歌人さへ知つてゐたかも知れない。唯叙事詩に至つては確かに太古の民のゴシツプに起源を発してゐたのであらう。「イリアツド」は神々のゴシツプである。その又ゴシツプは僕等には野蛮な荘厳に充ち満ちた美を感じさせるのに違ひない。しかしそれは「僕等には」である。太古の民は「イリアツド」に彼等の歓びや悲しみや苦しみを感ぜずにはゐなかつたであらう。のみならずそこに彼等の心の燃え上るのを感ぜずにはゐなかつたであらう。……
白柳秀湖氏は美の中に僕等の祖先の生活を見てゐる。が、僕等は僕等ばかりではない。アフリカの沙漠に都会の出来る頃には僕等の子孫の祖先になるのである。従つて僕等の心もちは丁度地下の泉のやうに僕等の子孫にも伝はるであらう。僕は白柳秀湖氏のやうに焚き火に親しみを感じるものである。同時に又その親しみに太古の民を思ふものである。(僕は「槍ヶ岳紀行」の中にちよつとこのことを書いたつもりである。)しかし「猿に近い吾々の祖先」は彼等の焚き火を燃やす為にどの位苦心をしたことであらう。焚き火を燃やすことを発明したのは勿論天才だつたのに違ひない。けれどもその焚き火を燃やしつづけたものはやはり何人かの天才たちである。僕はこの苦心を思ふ時、不幸にも「今の芸術といふものなど、無くなつてしまつてもよい」とは考へない。
十五 「文芸評論」
批評も亦文芸上の一形式である。僕等の誉めたり貶したりするのも畢竟は自己を表現する為であらう。幕の上に映つたアメリカの役者に、――しかも死んでしまつたヴアレンテイノに拍手を送つて吝まないのは相手を歓ばせる為でも何でもない。唯好意を、――惹いては自己を表現する為にするのである。若し自己を表現する為とすれば、……
小説や戯曲も紅毛人の作品に或は遙かに及ばないかも知れない。が、批評も亦紅毛人の作品に遜色のあるのは確かである。僕はかう云ふ荒蕪の中に唯正宗白鳥氏の「文芸評論」を愛読した。批評家正宗白鳥氏の態度は紅毛人の言葉を借りれば、徹頭徹尾ラコニツクである。のみならず「文芸評論」は必ずしも文芸評論ではない。時には文芸の中の人生評論である。しかも僕は巻煙草を片手に「文芸評論」を愛読した。時々石のごろごろした一本道を思ひ出しながら、その又一本道の日の光に残酷な歓びを感じながら。
十六 文学的未開地
イギリスは久しく閑却してゐた十八世紀の文芸に注目してゐる。それは一つには大戦の後には誰も陽気なものを求めてゐるからであらう。(僕は私かに世界中同じではないかと思つてゐる。同時に又大戦の為に打撃を受けない日本さへいつかこの流行に感染してゐるのも不思議なものだと思つてゐる。)しかし又一つには閑却してゐた為に文学者たちの研究に材料を与へ易い為もある訣である。雀は米のない流しもとへは来ない。文学者たちも同じことであらう。従つて等閑に附せられることはそれ自身発見されることになる訣である。
これは日本でも同じことである。俳諧寺一茶は暫く問はず、天明以後の俳人たちの仕事は殆ど誰にも顧みられてゐない。僕はかう云ふ俳人たちの仕事も次第に顕れて来ることと思つてゐる。しかも「月並み」の一言では到底片づけられない一面も次第に顕れて来ることと思つてゐる。
等閑に附せられると云ふことも必しも悪いことばかりではない。
十七 夏目先生
僕はいつか夏目先生が風流漱石山人になつてゐるのに驚嘆した。僕の知つてゐた先生は才気煥発する老人である。のみならず機嫌の悪い時には先輩の諸氏は暫く問はず、後進の僕などは往生だつた。成程天才と云ふものはかう云ふものかと思つたこともないではない。何でも冬に近い木曜日の夜、先生はお客と話しながら、少しも顔をこちらへ向けずに僕に「葉巻をとつてくれ給へ」と言つた。しかし葉巻がどこにあるかは生憎僕には見当もつかない。僕はやむを得ず「どこにありますか?」と尋ねた。すると先生は何も言はずに猛然と(かう云ふのは少しも誇張ではない。)顋を右へ振つた。僕は怯づ怯づ右を眺め、やつと客間の隅の机の上に葉巻の箱を発見した。
「それから」「門」「行人」「道草」等はいづれもかう云ふ先生の情熱の生んだ作品である。先生は枯淡に住したかつたかも知れない。実際又多少は住してゐたであらう。が、僕が知つてゐる晩年さへ、決して文人などと云ふものではなかつた。まして「明暗」以前にはもつと猛烈だつたのに違ひない。僕は先生のことを考へる度に老辣無双の感を新たにしてゐる。が、一度身の上の相談を持ちこんだ時、先生は胃の具合も善かつたと見え、かう僕に話しかけた。――「何も君に忠告するんぢやないよ。唯僕が君の位置に立つてゐるとすればだね。……」僕は実はこの時には先生に顋を振られた時よりも遙かに参らずにはゐられなかつた。
十八 メリメエの書簡集
メリメエはフロオベエルの「マダム・ボヴアリイ」を読んだ時、「超凡の才能を浪費してゐる」と言つた。「マダム・ボヴアリイ」はロマン主義者のメリメエには実際かう感ぜられたかも知れない。しかしメリメエの書簡集(誰かわからない女に宛てた恋愛書簡集)はいろいろの話を含んでゐる。たとへばパリから書いた二番目の書簡に、――
ルウ・サン・オノレエに貧しい女が一人住んでゐた。彼女は見すぼらしい屋根裏の部屋を殆ど一度も離れなかつた。それから又十二になる娘を一人持つてゐた。その少女は午後からオペラへ勤め、大抵真夜中に帰つて来るのだつた。或夜のこと、娘は門番の部屋へ下りて来て「蝋燭に火をつけて貸して下さい」と言つた。門番の女房は娘のあとから屋根裏の部屋へ昇つて行つた。するとあの貧しい女は死骸になつて横たはつてゐた。のみならず娘は古トランクから出した一束の手紙を燃やしてゐた。「お母さんは今夜死にました。これはお母さんが死ぬ前に読まずに焼けと言つてゐた手紙です」――娘は門番の女房にかう言つた。娘は父の名も知らなければ母の名も知らなかつた。しかも生活の途と言つては唯せつせとオペラへ勤め、猿になつたり、悪魔になつたり、ほんの端役を勤めるだけだつた。母親は最後の教訓に「いつまでも端役でゐるやうに、又善良でゐるやうに」と言つた。娘は今でもこの教訓通り、善良な端役に終始してゐる。
もう一つ次手に田舎の話を引けば、今度はカンヌから書いた書簡に、――
グラツスに近い或農夫が一人、谷底に倒れて死んでゐた。前夜にそこへ転げ落ちたか、抛りこまれたかしたものである。すると同じ仲間の農夫が一人、彼の友だちに殺人犯人は彼自身であると公言した。「どうして? なぜ?」「あの男は俺の羊を呪つたやつだ。俺は俺の羊飼ひに教はり、三本の釘を鍋の中で煮てから、呪文を唱へてやることにした。あの男はその晩に死んでしまつたのだ。」……
この書簡集は一八四〇から一八七〇――メリメエの歿年に亘つてゐる。(彼の「カルメン」は一八四四の作品である。)かう云ふ話はそれ自身小説になつてゐないかも知れない。しかしモオテイフを捉へれば、小説になる可能性を持つてゐる。モオパスサンは暫く問はず、フイリツプはかう言ふ話から幾つも美しい短篇を作つた。僕等は勿論樗牛の言つたやうに「現代を超越」など出来るものではない。しかも僕等を支配する時代は存外短いものである。僕はメリメエの書簡集の中に彼の落ち穂を見出した時、しみじみかう感ぜずにはゐられなかつた。
メリメエはこの誰かわからない女へ手紙を書きはじめた時分から幾つも傑作を残してゐる。それから又死んでしまふ前には新教徒の一人になつてゐる。これも亦僕にはニイチエ以前の超人崇拝家だつたメリメエを思ふと、多少の興味のないこともない。
十九 古典
僕等は皆知つてゐることの外は書けない。古典の作家たちも同じだつたであらう。プロフエツサアたちは文芸評論をする時、いつもこの事実を閑却してゐる。尤もこれは一概にプロフエツサアたちばかりとは言はれないかも知れない。しかしそれは兎も角も、僕は晩年に「あらし」を書いたシエクスピイアの心中に同情に近いものを感じてゐる。
二十 ジヤアナリズム
もう一度佐藤春夫氏の言葉を引けば、「文章はしやべるやうに書け」と云ふことである。僕は実際この文章をしやべるやうに書いて行つた。が、いくら書いて行つても、しやべりたいことは尽きさうもない。僕は実にかう云ふ点ではジヤアナリストであると思つてゐる。従つて職業的ジヤアナリストを兄弟であると思つてゐる。(尤も向うから御免だと言はれれば、黙つて引き下る外はない。)ジヤアナリズムと云ふものは畢竟歴史に外ならない。(新聞記事に誤伝があるのも歴史に誤伝があるのと同じことである。)歴史も又畢竟伝記である。その又伝記は、小説とどの位異つてゐるであらう。現に自叙伝は「私」小説と云ふものとはつきりした差別を持つてゐない。暫くクロオチエの議論に耳を貸さずに抒情詩等の詩歌を例外とすれば、あらゆる文芸はジヤアナリズムである。のみならず新聞文芸は明治大正の両時代に所謂文壇的作品に遜色のない作品を残した。徳富蘇峰、陸羯南、黒岩涙香、遅塚麗水等の諸氏の作品は暫く問はず、山中未成氏の書いた通信さへ文芸的には現世に多い諸雑誌の雑文などに劣るものではない。のみならず、――
のみならず新聞文芸の作家たちはその作品に署名しなかつた為に名前さへ伝はらなかつたのも多いであらう。現に僕はかう云ふ人々の中に二三の詩人たちを数へてゐる。僕は一生のどの瞬間を除いても、今日の僕自身になることは出来ない。かう云ふ人々の作品も(僕はその作家の名前を知らなかつたにしろ)僕に詩的感激を与へた限り、やはりジヤアナリスト兼詩人たる今日の僕には恩人である。僕を作家にした偶然はやはり彼等をジヤアナリストにした。若し袋に入れた月給以外に原稿料のとれることを幸福であるとするならば、僕は彼等よりも幸福である。(虚名などは幸福にはならない。)かう云ふ点を除外すれば、僕等は彼等と職業的に何の相違も持つてゐない。少くとも僕はジヤアナリストだつた。今日もなほジヤアナリストである。将来も勿論ジヤアナリストであらう。
しかし諸大家たちは暫く問はず、僕はこのジヤアナリストたる天職にも時々うんざりすることは事実である。
(昭和二年二月二十六日)
二十一 正宗白鳥氏の「ダンテ」
正宗白鳥氏のダンテ論は前人のダンテ論を圧倒してゐる。少くとも独特な点ではクロオチエのダンテ論にも劣らないかも知れない。僕はあの議論を愛読した。正宗氏はダンテの「美しさ」には殆ど目をつぶつてゐる。それは或は故意にしたのであらう。或は又自然にしたのかも知れない。故上田敏博士もダンテの研究家の一人だつた。しかも「神曲」を飜訳しようとしてゐた。が、博士の遺稿を見れば、イタリア語の原文によつたものではない。あの書き入れの示すやうにケエリイの英吉利訳によつたのである。ケエリイの英吉利訳によりながら、ダンテの「美しさ」を云々するのは或は滑稽に堕ちるのであらう。(僕も亦ケエリイの外は読んだことはない。)しかしダンテの「美しさ」はたとひケエリイの英吉利訳だけ読んでも、幾分か感ぜられるのは確かである。……
それから又「神曲」は一面には晩年のダンテの自己弁護である。公金費消か何かの嫌疑を受けたダンテはやはり僕等自身のやうに自己弁護を必要としたのに違ひない。しかしダンテの達した天国は僕には多少退屈である。それは僕等は事実上地獄を歩いてゐる為であらうか? 或は又ダンテも浄罪界の外に登ることの出来なかつた為であらうか?……
僕等は皆超人ではない。あの逞しいロダンさへ名高いバルザツクの像を作り、世間の悪評を受けた時には神経的に苦しんだのである。故郷を追はれたダンテも亦神経的に苦しんだのに違ひない。殊に死後には幽霊になり、彼の息子に現れたと云ふことは幾分かダンテの体質を――彼の息子に遺伝したダンテの体質を示してゐるであらう。ダンテは実際ストリントベリイのやうに地獄の底から脱け出して来た。現に「神曲」の浄罪界は病後の歓びに近いものを持つてゐる。……
しかしそれ等はダンテの皮下一寸に及ばないことばかりであらう。正宗氏はあの論文の中にダンテの骨肉を味はつてゐる。あの論文の中にあるのは十三世紀でもなければ伊太利でもない。唯僕等のゐる娑婆界である。平和を、唯平和を、――これはダンテの願ひだつたばかりではない。同時に又ストリントベリイの願ひだつた。僕は正宗氏のダンテを仰がずにダンテを見たことを愛してゐる。ベアトリチエは正宗氏の言ふやうに女人よりもはるかに天人に近い。若しダンテを読んだ後、目のあたりにベアトリチエに会つたとしたならば、僕等は必ず失望するであらう。
僕はこの文章を書いてゐるうちにふとゲエテのことを思ひ出した。ゲエテの描いたフリイデリケは殆ど可憐そのものである。が、ボンの大学教授ネエケはフリイデリケの必しもさう云ふ女人でないことを発表した。Dntzer 等の理想主義者たちは勿論この事実を信じてゐない。しかしゲエテ自身もネエケの言葉の偽りでないことを認めてゐる。のみならずフリイデリケの住んでゐた Sesenheim の村も亦ゲエテの描いたのとは違つてゐたらしい。Tieck はわざわざこの村を尋ね、「後悔した」とさへ語つてゐる。ベアトリチエも亦同じことであらう。けれどもかう云ふベアトリチエはベアトリチエ自身を示さないにもせよ、ダンテ自身を示してゐる。ダンテは晩年に至つても、所謂「永遠の女性」を夢みてゐた。しかし所謂「永遠の女性」は天国の外には住んでゐない。のみならずその天国は「しないことの後悔」に充ち満ちてゐる。丁度地獄は炎の中に「したことの後悔」を広げてゐるやうに。
僕はダンテ論を読んでゐるうちに鉄仮面の下にある正宗氏の双眼の色を感じた。古人は「君看双眼色 不語似無愁」と言つた。やはり正宗氏の双眼の色も、――しかし僕は恐れてゐる。正宗氏は或はこの双眼も義眼であると言ふかも知れない。
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