芥川龍之介全集5 |
ちくま文庫、筑摩書房 |
1987(昭和62)年2月24日 |
1995(平成7)年4月10日第6刷 |
1996(平成8)年7月15日第7刷 |
筑摩全集類聚版芥川龍之介全集 |
筑摩書房 |
1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月 |
一
小野の小町、几帳の陰に草紙を読んでいる。そこへ突然黄泉の使が現れる。黄泉の使は色の黒い若者。しかも耳は兎の耳である。
小町 (驚きながら)誰です、あなたは?
使 黄泉の使です。
小町 黄泉の使! ではもうわたしは死ぬのですか? もうこの世にはいられないのですか? まあ、少し待って下さい。わたしはまだ二十一です。まだ美しい盛りなのです。どうか命は助けて下さい。
使 いけません。わたしは一天万乗の君でも容赦しない使なのです。
小町 あなたは情を知らないのですか? わたしが今死んで御覧なさい。深草の少将はどうするでしょう? わたしは少将と約束しました。天に在っては比翼の鳥、地に在っては連理の枝、――ああ、あの約束を思うだけでも、わたしの胸は張り裂けるようです。少将はわたしの死んだことを聞けば、きっと歎き死に死んでしまうでしょう。
使 (つまらなそうに)歎き死が出来れば仕合せです。とにかく一度は恋されたのですから、……しかしそんなことはどうでもよろしい。さあ地獄へお伴しましょう。
小町 いけません。いけません。あなたはまだ知らないのですか? わたしはただの体ではありません。もう少将の胤を宿しているのです。わたしが今死ぬとすれば、子供も、――可愛いわたしの子供も一しょに死ななければなりません。(泣きながら)あなたはそれでも好いと云うのですか? 闇から闇へ子供をやっても、かまわないと云うのですか?
使 (ひるみながら)それはお子さんにはお気の毒です。しかし閻魔王の命令ですから、どうか一しょに来て下さい。何、地獄も考えるほど、悪いところではありません。昔から名高い美人や才子はたいてい地獄へ行っています。
小町 あなたは鬼です。羅刹です。わたしが死ねば少将も死にます。少将の胤の子供も死にます。三人ともみんな死んでしまいます。いえ、そればかりではありません。年とったわたしの父や母もきっと一しょに死んでしまいます。(一層泣き声を立てながら)わたしは黄泉の使でも、もう少し優しいと思っていました。
使 (迷惑そうに)わたしはお助け申したいのですが、……
小町 (生き返ったように顔を上げながら)ではどうか助けて下さい。五年でも十年でもかまいません。どうかわたしの寿命を延ばして下さい。たった五年、たった十年、――子供さえ成人すれば好いのです。それでもいけないと云うのですか?
使 さあ、年限はかまわないのですが、――しかしあなたをつれて行かなければ代りが一人入るのです。あなたと同じ年頃の、……
小町 (興奮しながら)では誰でもつれて行って下さい。わたしの召使いの女の中にも、同じ年の女は二三人います。阿漕でも小松でもかまいません。あなたの気に入ったのをつれて行って下さい。
使 いや、名前もあなたのように小町と云わなければいけないのです。
小町 小町! 誰か小町と云う人はいなかったかしら。ああ、います。います。(発作的に笑い出しながら)玉造の小町と云う人がいます。あの人を代りにつれて行って下さい。
使 年もあなたと同じくらいですか?
小町 ええ、ちょうど同じくらいです。ただ綺麗ではありませんが、――器量などはどうでもかまわないのでしょう?
使 (愛想よく)悪い方が好いのです。同情しずにすみますから。
小町 (生き生きと)ではあの人に行って貰って下さい。あの人はこの世にいるよりも、地獄に住みたいと云っています。誰も逢う人がいないものですから。
使 よろしい。その人をつれて行きましょう。ではお子さんを大事にして下さい。(得々と)黄泉の使も情だけは心得ているつもりなのです。
使、突然また消え失せる。
小町 ああ、やっと助かった! これも日頃信心する神や仏のお計らいであろう。(手を合せる)八百万の神々、十方の諸菩薩、どうかこの嘘の剥げませぬように。
二
黄泉の使、玉造の小町を背負いながら、闇穴道を歩いて来る。
小町 (金切声を出しながら)どこへ行くのです? どこへ行くのです?
使 地獄へ行くのです。
小町 地獄へ! そんなはずはありません。現に昨日安倍の晴明も寿命は八十六と云っていました。
使 それは陰陽師の嘘でしょう。
小町 いいえ、嘘ではありません。安倍の晴明の云うことは何でもちゃんと当るのです。あなたこそ嘘をついているのでしょう。そら、返事に困っているではありませんか?
使 (独白)どうもおれは正直すぎるようだ。
小町 まだ強情を張るつもりなのですか? さあ、正直に白状しておしまいなさい。
使 実はあなたにはお気の毒ですが、……
小町 そんなことだろうと思っていました。「お気の毒ですが、」どうしたのです?
使 あなたは小野の小町の代りに地獄へ堕ちることになったのです。
小町 小野の小町の代りに! それはまた一体どうしたんです?
使 あの人は今身持ちだそうです。深草の少将の胤とかを、……
小町 (憤然と)それをほんとうだと思ったのですか? 嘘ですよ。あなた! 少将は今でもあの人のところへ百夜通いをしているくらいですもの。少将の胤を宿すのはおろか、逢ったことさえ一度もありはしません。嘘も、嘘も、真赤な嘘ですよ!
使 真赤な嘘? そんなことはまさかないでしょう。
小町 では誰にでも聞いて御覧なさい。深草の少将の百夜通いと云えば、下司の子供でも知っているはずです。それをあなたは嘘とも思わずに、……あの人の代りにわたしの命を、……ひどい。ひどい。ひどい。(泣き始める)
使 泣いてはいけません。泣くことは何もないのですよ。(背中から玉造の小町を下す)あなたは始終この世よりも、地獄に住みたがっていたでしょう。して見ればわたしの欺されたのは、反って仕合せではありませんか?
小町 (噛みつきそうに)誰がそんなことを云ったのです?
使 (怯ず怯ず)やっぱりさっき小野の小町が、……
小町 まあ、何と云う図々しい人だ! 嘘つき! 九尾の狐! 男たらし! 騙り! 尼天狗! おひきずり! もうもうもう、今度顔を合せたが最後、きっと喉笛に噛みついてやるから。口惜しい。口惜しい。口惜しい。(黄泉の使をこづきまわす)
使 まあ、待って下さい。わたしは何も知らなかったのですから、――まあ、この手をゆるめて下さい。
小町 一体あなたが莫迦ではありませんか? そんな嘘を真に受けるとは、……
使 しかし誰でも真に受けますよ。……あなたは何か小野の小町に恨まれることでもあるのですか?
小町 (妙に微笑する)あるような、ないような、……まあ、あるのかも知れません。
使 するとその恨まれることと云うのは?
小町 (軽蔑するように)お互に女ではありませんか?
使 なるほど、美しい同士でしたっけ。
小町 あら、お世辞などはおよしなさい。
使 お世辞ではありませんよ。ほんとうに美しいと思っているのです。いや、口には云われないくらい美しいと思っているのです。
小町 まあ、あんな嬉しがらせばっかり! あなたこそ黄泉には似合わない、美しいかたではありませんか?
使 こんな色の黒い男がですか?
小町 黒い方が立派ですよ。男らしい気がしますもの。
使 しかしこの耳は気味が悪いでしょう。
小町 あら、可愛いではありませんか? ちょいとわたしに触らして下さい。わたしは兎が大好きなのですから。(使の兎の耳を玩弄にする)もっとこっちへいらっしゃい。何だかわたしはあなたのためなら、死んでも好いような気がしますよ。
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