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二つの手紙(ふたつのてがみ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-17 14:48:52  点击:  切换到繁體中文


 閣下かっか、私は、その時その男に始めて私自身を認めたのでございます。
 第二の私は、第一の私と同じ羽織を着て居りました。第一の私と同じはかま穿いて居りました。そうしてまた、第一の私と、同じ姿勢をよそおって居りました。もしそれがこちらを向いたとしたならば、恐らくその顔もまた、私と同じだった事でございましょう。私はその時の私の心もちを、何と形容していいかわかりません。私の周囲には大ぜいの人間が、しっきりなしに動いて居ります。私の頭の上には多くの電燈が、昼のような光を放って居ります。云わば私の前後左右には、神秘と両立し難い一切の条件が、備っていたとでも申しましょうか。そうして私は実に、そう云う外界の中に、突然この存在以外の存在を、目前に見たのでございます。私の錯愕さくがくは、そのために、一層驚くべきものになりました。私の恐怖は、そのために、一層恐るべきものになりました。もし妻がその時眼をあげて、私の方を一瞥いちべつしなかったなら、私は恐らく大声をあげて、周囲の注意をこの奇怪な幻影にこうとした事でございましょう。
 しかし、妻の視線は、幸にも私の視線と合しました。そうして、それとほとんど同時に、第二の私は丁度硝子ガラス亀裂きれつの入るような早さで、見る間に私の眼界から消え去ってしまいました。私は、夢遊病患者ソムナンビュウルのように、茫然として妻に近づきました。が、妻には、第二の私が眼に映じなかったのでございましょう。私が側へ参りますと、妻はいつもの調子で、「長かったわね」と申しました。それから、私の顔を見て、今度はおずおず「どうかして」と尋ねました。私の顔色がんしょくは確かに、灰のようになっていたのに相違ございません。私は冷汗ひやあせを拭いながら、私の見た超自然な現象を、妻に打明けようかどうかと迷いました。が、心配そうな妻の顔を見ては、どうして、これが打明けられましょう。私はその時、この上妻に心配させないために、一切いっさい第二の私に関しては、口をつぐもうと決心したのでございます。
 閣下、もし妻が私を愛していなかったなら、そうしてまた私が妻を愛していなかったなら、どうして私にこう云う決心が出来ましょう。私は断言致します。私たちは、今日こんにちまで真底しんそこから、互に愛し合って居りました。しかし世間はそれを認めてくれません。閣下、世間は妻が私を愛している事を認めてくれません。それは恐しい事でございます。恥ずべき事でございます。私としては、私が妻を愛している事を否定されるより、どのくらい屈辱に価するかわかりません。しかも世間は、一歩を進めて、私の妻の貞操ていそうをさえ疑いつつあるのでございます。――
 私は感情の激昂げっこうに駆られて、思わず筆を岐路きろに入れたようでございます。
 さて、私はその夜以来、一種の不安に襲われはじめました。それは前に掲げました実例通り、ドッペルゲンゲルの出現は、屡々しばしば当事者の死を予告するからでございます。しかし、その不安のなかにも、一月ばかりの日数にっすうは、何事もなく過ぎてしまいました。そうして、そのうちに年が改まりました。私は勿論、あの第二の私を忘れた訳ではございません。が、月日の経つのに従って、私の恐怖なり不安なりは、次第に柔らげられて参りました。いや、時には、実際、すべてを幻覚ハルシネエションと言う名で片づけてしまおうとした事さえございます。
 すると、あたかも私のその油断を戒めでもするように、第二の私は、再び私の前に現れました。
 これは一月の十七日、丁度木曜日の正午近くの事でございます。その日私は学校に居りますと、突然旧友の一人が訪ねて参りましたので、幸い午後からは授業の時間もございませんから、一しょに学校を出て、駿河台下するがだいしたのあるカッフェへ飯を食いに参りました。駿河台下には、御承知の通りあの四つ辻の近くに、大時計が一つございます。私は電車を下りる時に、ふとその時計の針が、十二時十五分を指していたのに気がつきました。その時の私には、大時計の白い盤が、雪をもった、鉛のような空をうしろにして、じっと動かずにいるのが、何となく恐しいような気がしたのでございます。あるいは事によるとこれも、あの前兆だったかも知れません。私は突然この恐しさに襲われたので、大時計を見た眼を何気なく、電車の線路一つへだてた中西屋なかにしやの前の停留場へ落しました。すると、その赤い柱の前には、私と私の妻とが肩を並べながら、むつまじそうに立っていたではございませんか。
 妻は黒いコオトに、焦茶こげちゃの絹の襟巻をして居りました。そうして鼠色のオオヴァ・コオトに黒のソフトをかぶっている私に、第二の私に、何か話しかけているように見えました。閣下、その日は私も、この第一の私も、鼠色のオオヴァ・コオトに、黒のソフトをかぶっていたのでございます。私はこの二つの幻影を、如何に恐怖に充ちた眼で、眺めましたろう。如何に憎悪に燃えた心で、眺めましたろう。殊に、妻の眼が第二の私の顔を、甘えるように見ているのを知った時には――ああ、一切が恐しい夢でございます。私には到底当時の私の位置を、再現するだけの勇気がございません。私は思わず、友人のひじをとらえたなり、放心したように往来へ立ちすくんでしまいました。その時、外濠線そとぼりせんの電車が、駿河台の方から、坂を下りて来て、けたたましい音を立てながら、私の目の前をふさいだのは、全く神明しんめい冥助めいじょとでも云うものでございましょう。私たちは丁度、外濠線の線路を、向うへ突切ろうとしていた所なのでございます。
 電車は勿論、すぐに私たちの前を通りぬけました。しかしその後で、私の視線をさえぎったのは、ただ中西屋の前にある赤い柱ばかりでございました。二つの幻影は、電車のかげになった刹那に、どこかへ見えなくなってしまったのでございます。私は、妙な顔をしている友人をうながして、可笑おかしくもない事を可笑しそうに笑いながら、わざと大股に歩き出しました。その友人が、後に私が発狂したと云う噂を立てたのも、当時の私の異常な行動を考えれば、満更まんざら無理な事ではございません。しかし、私の発狂の原因を、私の妻の不品行にあるとするに至っては、好んで私を侮辱したものと思われます。私は、最近にその友人への絶交状を送りました。
 私は、事実を記すのに忙しい余り、その時の妻が、妻の二重人格にすぎない事を証明致さなかったように思います。当時の正午前後、妻は確かに外出致しませんでした。これは、妻自身はもとより、私の宅で召使っている下女も、そう申してる事でございます。また、その前日から、頭痛ずつうがすると申して、とかくふさぎ勝ちでいた妻が、にわかに外出する筈もございません。して見ますと、この場合、私の眼に映じた妻の姿は、ドッペルゲンゲルでなくて、何でございましょう。私は、妻が私に外出の有無うむを問われて、眼を大きくしながら、「いいえ」と云った顔を、今でもありありと覚えて居ります。もし世間の云うように、妻が私をあざむいているのなら、ああ云う、子供のような無邪気な顔は、決して出来るものではございません。
 私が第二の私の客観的存在を信ずる前に、私の精神状態を疑ったのは、勿論の事でございます。しかし、私の頭脳は少しも混乱して居りません。安眠も出来ます。勉強も出来ます。成程、二度目に第二の私を見て以来、ややともすると、ものに驚き易くなって居りますが、これはあの奇怪な現象に接した結果であって、断じて原因ではございません。私はどうしても、この存在以外の存在を信じなければならないようになったのでございます。
 しかし、私は、その時も妻には、とうとう、あの幻影の事を話さずにしまいました。もし運命が許したら、私は今日こんにちまでもやはり口をつぐんで居りましたろう。が、執拗しつおうな第二の私は、三度さんど私の前にその姿を現しました。これは前週の火曜日、即ち二月十三日の午後七時前後の事でございます。私はその時、妻に一切を打明けなければならないような羽目はめになってしまいました。これもそうするほかに、私たちの不幸を軽くする手段が、なかったのですから、仕方がございません。が、この事は後でまた、申上げる事に致しましょう。
 その日、丁度宿直に当っていた私は、放課後間もなく、はげしい胃痙攣いけいれんに悩まされたので、早速校医の忠告通り、車で宅へ帰る事に致しました。所が午頃ひるごろからふり出した雨に風が加わって、宅の近くへ参りました時には、たたきつけるような吹き降りでございます。私は門の前で※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)そうそう車賃を払って、雨の中を大急ぎで玄関まで駈けて参りました。玄関の格子には、いつもの通り、内から釘がさしてございます。が、私には外からでも釘が抜けますから、すぐに格子をあけて、中へはいりました。大方おおかた雨の音にまぎれて、格子のあく音が聞えなかったのでございましょう。奥からは誰も出て参りません。私は靴をぬいで、帽子とオオヴァ・コオトとを折釘おりくぎにかけて、玄関から一間ひとま置いた向うにある、書斎の唐紙からかみをあけました。これは茶の間へ行く間に、教科書其他のはいっている手提鞄てさげかばんを、そこへ置いて行くのが習慣になっているからでございます。
 すると、私の眼の前には、たちまち意外な光景が現れました。北向きの窓の前にある机と、その前にある輪転椅子と、そうしてそれらを囲んでいる書棚とには、勿論何の変化もございません。しかし、こちらに横をむけて、その机の側に立っていた女と、輪転椅子に腰をかけていた男とは、一体誰だったでございましょう。閣下、私はこの時、第二の私と第二の私の妻とを、咫尺しせきの間に見たのでございます。私は当時の恐しい印象を忘れようとしても、忘れる事は出来ません。私の立っているしきいの上からは、机に向って並んでいる二人の横顔が見えました。窓から来るつめたい光をうけて、その顔は二つとも鋭い明暗を作って居ります。そうして、その顔の前にある、黄いろい絹の笠をかけた電燈が、私の眼にはほとんどまっ黒に映りました。しかも、何と云う皮肉でございましょう。彼等は、私がこの奇怪な現象を記録して置いた、私の日記を読んでいるのでございます。これは机の上に開いてある本の形で、すぐにそれがわかりました。

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