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春(はる)

作者:贯通日本…  来源:本站原创   更新:2006-8-17 14:32:53  点击:  切换到繁體中文


 辰子はやや甘えるように広子の視線をとらえようとした。
「わたしから話すったって、――わたしもあなたたちのことは知らないじゃないの?」
「だから聞いて頂戴ちょうだいって言っているのよ。それをちっとも姉さんは聞く気になってくれないんですもの。」
 広子はこの話のはじまった時、辰子のしばらく沈黙したのを話しにくいためと解釈した。が、今になって見ると、その沈黙は話し悪いよりも、むしろ話したさをこらえながら、姉のすすめるのを待っていたのだった。広子は勿論うしろめたい気がした。
 しかしまた咄嗟とっさに妹の言葉を利用することも忘れなかった。
「あら、あなたこそ話さないんじゃないの?――じゃすっかり聞かせて頂戴。その上でわたしも考えて見るから。」
「そう? じゃとにかく話して見るわ。その代りひやかしたり何かしちゃいやよ。」
 辰子はまともに姉の顔を見たまま、彼女の恋愛問題を話し出した。広子は小首こくびを傾けながら、時々返事をする代りに静かな点頭てんとうを送っていた。が、内心はこの間も絶えず二つの問題を解決しようとあせっていた。その一つは彼等の恋愛の何のために生じたかと言うことであり、もう一つは彼等の関係のどのくらい進んでいるかと言うことだった。しかし正直な妹の話もほとんど第一の問題には何の解決も与えなかった。辰子はただ篤介と毎日顔を合せているうちにいつか彼と懇意こんいになり、いつかまた彼を愛したのだった。のみならず第二の問題もやはり判然とはわからなかった。辰子は他人の身の上のように彼の求婚した時のことを話した。しかもそれは抒情詩じょじょうしよりもむしろ喜劇に近いものだった。――
「大村は電話で求婚したの。可笑おかしいでしょう? なんでもに失敗して、畳の上にころがっていたら、急にそんな気になったんですって。だっていきなりどうだって言ったって、返事に困ってしまうじゃないの? おまけにその時は電話室の外へかあさんもさがしものに来ているんでしょう? わたし、仕かたがなかったから、ただウイ、ウイって言って置いたの。……」
 それから?――それから先も妹の話は軽快に事件を追って行った。彼等は一しょに展覧会を見たり、植物園へ写生に行ったり、ある独逸ドイツのピアニストをいたりしていた。が、彼等の関係は辰子の言葉を信用すれば、友だち以上に出ないものだった。広子はそれでも油断せずに妹の顔色をうかがったり、話の裏を考えたり、一二度はかまさえかけて見たりした。しかし辰子は電燈の光に落ち着いたひとみませたまま、少しもおくした色を見せないのだった。
「まあ、ざっとこう言う始末しまつなの。――ああ、それから姉さんにわたしから手紙を上げたことね、あのことは大村にも話して置いたの。」
 広子は妹の話し終った時、勿論歯痒はがゆいもの足らなさを感じた。けれども一通ひととおり打ち明けられて見ると、これ以上第二の問題には深入り出来ないのに違いなかった。彼女はそのためにやむを得ず第一の問題にすがりついた。
「だってあなたはあの人は大嫌だいきらいだって言っていたじゃないの?」
 広子はいつか声の中にはいった挑戦ちょうせんの調子を意識していた。が、辰子はこの問にさえ笑顔えがおを見せたばかりだった。
「大村もわたしは大嫌いだったんですって。ジン・コクテルくらいは飲みそうな気がしたんですって。」
「そんなものを飲む人がいるの?」
「そりゃいるわ。男のように胡坐あぐらをかいて花を引く人もいるんですもの。」
「それがあなたがたの新時代?」
「かも知れないと思っているの。……」
 辰子は姉の予想したよりもはるかに真面目まじめに返事をした。と思うとたちまち微笑びしょうと一しょにもう一度話頭わとうを引き戻した。
「それよりもわたしの問題だわね、姉さんから話していただけない?」
「そりゃ話して上げないこともないわ。上げないこともないけれども、――」
 広子はあらゆる姉のように忠告の言葉を加えようとした。すると辰子はそれよりも先にこう話を截断せつだんした。
「とにかく大村を知らないじゃね。――じゃ姉さん、二三日うちに大村に会っちゃ下さらない? 大村も喜んでお目にかかると思うの。」
 広子はこの話頭の変化に思わず大村の油画を眺めた。藤の花はこけばんだ木々の間になぜか前よりもほのぼのとしていた。彼女は一瞬間心の中に昔の「さる」を髣髴ほうふつしながら、曖昧あいまいに「そうねえ」をり返した。が、辰子は「そうねえ」くらいに満足する気色けしきも見せなかった。
「じゃ会って下さるわね。大村の下宿へ行って下さる?」
「だって下宿へもかれないじゃないの?」
「じゃここへ来てもらいましょうか? それもなんだか可笑おかしいわね。」
「あの人は前にも来たことはあるの?」
「いいえ、まだ一度もないの。それだから何だか可笑しいのよ。じゃあと、――じゃこうして下さらない? 大村は明後日あさって表慶館ひょうけいかんへ画を見にくことになっているの。その時刻に姉さんも表慶館へ行って大村に会っちゃ下さらない?」
「そうねえ、わたしも明後日ならば、ちょうどお墓参りをする次手ついでもあるし。……」
 広子はうっかりこう言ったのち、たちまち軽率けいそつを後悔した。けれども辰子はその時にはもう別人べつじんかと思うくらい、顔中に喜びをみなぎらせていた。
「そうお? じゃそうして頂戴ちょうだい。大村へはわたしから電話をかけて置くわ。」
 広子は妹の顔を見るなり、いつか完全に妹の意志の凱歌がいかを挙げていたことを発見した。この発見は彼女の義務心よりも彼女の自尊心にこたえるものだった。彼女は最後にもう一度妹の喜びに乗じながら、彼等の秘密へ切りこもうとした。が、辰子はその途端とたんに、――姉のくちびるの動こうとした途端に突然体を伸べるが早いか、白粉おしろいいた広子のほおへ音の高いキスを贈った。広子は妹のキスを受けた記憶をほとんど持ち合せていなかった。もし一度でもあったとすれば、それはまだ辰子の幼稚園ようちえんへ通っていた時代のことだけだった。彼女はこう言う妹のキスに驚きよりもむしろはずかしさを感じた。このショックは勿論なみのように彼女の落ち着きを打ち崩した。彼女はなかば微笑した目にわざと妹をにらめるほかはなかった。
「いやよ。何をするの?」
「だってほんとうに嬉しいんですもの。」
 辰子は円卓えんたくの上へのり出したまま、黄色い電燈の笠越しに浅黒い顔をかがやかせていた。
「けれども始めからそう思っていたのよ。姉さんはきっとわたしたちのためにはなんでもして下さるのに違いないって。――実は昨日きのうも大村と一日いちんち姉さんの話をしたの。それでね、……」
「それで?」
 辰子はちょっと目の中に悪戯いたずららしいひらめきを宿した。
「それでもうおしまいだわ。」

        三

 広子ひろこは化粧道具や何かを入れた銀細具ぎんざいくのバッグを下げたまま、何年なんねんにもほとんど来たことのない表慶館ひょうけいかん廊下ろうかを歩いて行った。彼女の心は彼女自身の予期していたよりも静かだった。のみならず彼女はその落ち着きの底に多少の遊戯心ゆうぎしんを意識していた。数年前の彼女だったとすれば、それはあるいはうしろめたい意識だったかも知れなかった。が、今は後めたいよりもむしろ誇らしいくらいだった。彼女はいつかふとり出した彼女の肉体を感じながら、明るい廊下の突き当りにある螺旋状らせんじょうの階段を登って行った。
 螺旋状の階段を登りつめた所は昼も薄暗い第一室だった。彼女はその薄暗い中に青貝あおがいちりばめた古代の楽器がっきや古代の屏風びょうぶを発見した。が、肝腎かんじん篤介あつすけの姿は生憎あいにくこの部屋には見当らなかった。広子はちょっと陳列棚の硝子ガラスに彼女の髪形かみかたちを映して見たのち、やはり格別急ぎもせずにとなりの第二室へ足を向けた。
 第二室は天井てんじょうから明りを取った、横よりもたての長い部屋だった。そのまた長い部屋の両側を硝子ガラス越しにうずめているのは藤原ふじわらとか鎌倉かまくらとか言うらしい、ものびた仏画ばかりだった。篤介は今日きょうも制服の上に狐色きつねいろになったクレヴァア・ネットをひっかけ、この伽藍がらんに似た部屋の中をぶらぶら一人ひとり歩いていた。広子は彼の姿を見た時、咄嗟とっさに敵意の起るのを感じた。しかしそれは掛け値なしにほんの咄嗟の出来事だった。彼はもうその時にはまともにこちらを眺めていた。広子は彼の顔や態度にたちまち昔の「猿」を感じた。同時にまた気安い軽蔑けいべつを感じた。彼はこちらを眺めたなり、礼をしたものかしないものか判断に迷っているらしかった。その妙に落ち着かない容子ようすは確かに恋愛だのロマンスだのと縁の遠いものに違いなかった。広子は目だけ微笑しながら、こう言う妹の恋人の前へ心もち足早あしばやに歩いて行った。
大村おおむらさんでいらっしゃいますわね? わたしは――御存知ごぞんじでございましょう?」
 篤介はただ「ええ」と答えた。彼女はこの「ええ」の中にはっきり彼の狼狽ろうばいを感じた。のみならずこの一瞬間に彼の段鼻だんばなだの、金歯きんばだの、左のげの剃刀傷かみそりきずだの、ズボンのひざのたるんでいることだの、――そのほか一々数えるにも足らぬ無数の事実を発見した。しかし彼女の顔色は何も気づかぬようにえしていた。
今日きょうは勝手なことをお願い申しまして、さぞ御迷惑でございましょう。そんな失礼なことをとは思ったんでございますが、なんでもと妹が申すもんでございますから。……」
 広子はこう話しかけたまま、静かにあたりを眺めまわした。リノリウムのゆかには何脚なんきゃくかのベンチも背中合せに並んでいた。けれどもそこに腰をかけるのはかえって人目ひとめに立ち兼ねなかった。人目は?――彼等の前後には観覧人かんらんにんが三四人、今も普賢ふげん文珠もんじゅの前にそっと立ち止まったり歩いたりしていた。
「いろいろ伺いたいこともあるんでございますけれども、――じゃぶらぶら歩きながら、お話しすることに致しましょうか?」
「ええ、どうでも。」
 広子はしばらく無言のまま、ゆっくり草履ぞうりを運んで行った。この沈黙は確かに篤介には精神的拷問ごうもんひとしいらしかった。彼は何か言おうとするようにちょっと一度咳払せきばらいをした。が、咳払いは天井の硝子ガラスにたちまち大きい反響を生じた。彼はその反響に恐れたのか、やはり何も言わずに歩きつづけた。広子はこう言う彼の苦痛に多少の憐憫れんびんを感じていた。けれどもまたなん矛盾むじゅんもなしに多少の享楽をも感じていた。もっとも守衛しゅえいや観覧人に時々一瞥いちべつを与えられるのは勿論彼女にも不快だった。しかし彼等も年齢の上から、――と言うよりもさらに服装の上から決して二人の関係を誤解しないには違いなかった。彼女はその気安さの上から不安らしい篤介を見下みおろしていた。彼はあるいは彼女には敵であるかも知れなかった。が、敵であるにもしろ、世慣よなれぬ妹と五十歩百歩の敵であることは確かだった。……
「伺いたいと申しますのは大したことではないんでございますけれどもね、――」
 彼女は第二室を出ようとした時、ことさら彼へ目をやらずにやっと本文ほんもんへはいり出した。
「あれにも母親が一人ひとりございますし、あなたもまた、――あなたは御両親ともおありなんでございますか?」
「いいえ、親父おやじだけです。」
「お父様とうさまだけ。御兄弟は確かございませんでしたね?」
「ええ、僕だけです。」
 彼等は第二室を通り越した。第二室の外はまる天井の下に左右へ露台ろだいを開いた部屋だった。部屋も勿論円形をしていた。そのまた円形は廊下ろうかほどの幅をぐるりと周囲へ余したまま、白い大理石の欄干越らんかんごしにずっと下の玄関をのぞかれるように出来上っていた。彼等は自然と大理石の欄干の外をまわりながら、篤介の家族や親戚や交友のことを話し合った。彼女は微笑を含んだまま、かなり尋ねにく局所きょくしょにもたくみに話を進めて行った。しかしその割に彼女や辰子たつこの家庭の事情などには沈黙していた。それは必ずしも最初から相手をぼっちゃんと見縊みくびった上の打算ださんではないのに違いなかった。けれどもまた坊ちゃんと見縊らなければ、彼女ももっとこちらの内輪うちわうかがわせていたことは確かだった。
「じゃ余りお友だちはおありにならないんでございますね?」(未完)

(大正十四年四月)




 



底本:「芥川龍之介全集5」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年2月24日第1刷発行
   1995(平成7)年4月10日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月5日公開
2004年3月7日修正
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