芥川龍之介全集4 |
ちくま文庫、筑摩書房 |
1987(昭和62)年1月27日 |
1996(平成8)年7月15日第8刷 |
筑摩全集類聚版芥川龍之介全集 |
筑摩書房 |
1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月 |
一
部屋の隅に据えた姿見には、西洋風に壁を塗った、しかも日本風の畳がある、――上海特有の旅館の二階が、一部分はっきり映っている。まずつきあたりに空色の壁、それから真新しい何畳かの畳、最後にこちらへ後を見せた、西洋髪の女が一人、――それが皆冷やかな光の中に、切ないほどはっきり映っている。女はそこにさっきから、縫物か何かしているらしい。
もっとも後は向いたと云う条、地味な銘仙の羽織の肩には、崩れかかった前髪のはずれに、蒼白い横顔が少し見える。勿論肉の薄い耳に、ほんのり光が透いたのも見える。やや長めな揉み上げの毛が、かすかに耳の根をぼかしたのも見える。
この姿見のある部屋には、隣室の赤児の啼き声のほかに、何一つ沈黙を破るものはない。未に降り止まない雨の音さえ、ここでは一層その沈黙に、単調な気もちを添えるだけである。
「あなた。」
そう云う何分かが過ぎ去った後、女は仕事を続けながら、突然、しかし覚束なさそうに、こう誰かへ声をかけた。
誰か、――部屋の中には女のほかにも、丹前を羽織った男が一人、ずっと離れた畳の上に、英字新聞をひろげたまま、長々と腹這いになっている。が、その声が聞えないのか、男は手近の灰皿へ、巻煙草の灰を落したきり、新聞から眼さえ挙げようとしない。
「あなた。」
女はもう一度声をかけた。その癖女自身の眼もじっと針の上に止まっている。「何だい。」
男は幾分うるさそうに、丸々と肥った、口髭の短い、活動家らしい頭を擡げた。
「この部屋ね、――この部屋は変えちゃいけなくって?」
「部屋を変える? だってここへはやっと昨夜、引っ越して来たばかりじゃないか?」
男の顔はけげんそうだった。
「引っ越して来たばかりでも。――前の部屋ならば明いているでしょう?」
男はかれこれ二週間ばかり、彼等が窮屈な思いをして来た、日当りの悪い三階の部屋が一瞬間眼の前に見えるような気がした。――塗りの剥げた窓側の壁には、色の変った畳の上に更紗の窓掛けが垂れ下っている。その窓にはいつ水をやったか、花の乏しい天竺葵が、薄い埃をかぶっている。おまけに窓の外を見ると、始終ごみごみした横町に、麦藁帽をかぶった支那の車夫が、所在なさそうにうろついている。………
「だがお前はあの部屋にいるのは、嫌だ嫌だと云っていたじゃないか?」
「ええ。それでもここへ来て見たら、急にまたこの部屋が嫌になったんですもの。」
女は針の手をやめると、もの憂そうに顔を挙げて見せた。眉の迫った、眼の切れの長い、感じの鋭そうな顔だちである。が、眼のまわりの暈を見ても、何か苦労を堪えている事は、多少想像が出来ないでもない。そう云えば病的な気がするくらい、米噛みにも静脈が浮き出している。
「ね、好いでしょう。……いけなくて?」
「しかし前の部屋よりは、広くもあるし居心も好いし、不足を云う理由はないんだから、――それとも何か嫌な事があるのかい?」
「何って事はないんですけれど。……」
女はちょいとためらったものの、それ以上立ち入っては答えなかった。が、もう一度念を押すように、同じ言葉を繰り返した。
「いけなくって、どうしても?」
今度は男が新聞の上へ煙草の煙を吹きかけたぎり、好いとも悪いとも答えなかった。
部屋の中はまたひっそりになった。ただ外では不相変、休みのない雨の音がしている。
「春雨やか、――」
男はしばらくたった後、ごろりと仰向きに寝転ぶと、独り言のようにこう云った。
「蕪湖住みをするようになったら、発句でも一つ始めるかな。」
女は何とも返事をせずに、縫物の手を動かしている。
「蕪湖もそんなに悪い所じゃないぜ。第一社宅は大きいし、庭も相当に広いしするから、草花なぞ作るには持って来いだ。何でも元は雍家花園とか云ってね、――」
男は突然口を噤んだ。いつか森とした部屋の中には、かすかに人の泣くけはいがしている。
「おい。」
泣き声は急に聞えなくなった。と思うとすぐにまた、途切れ途切れに続き出した。
「おい。敏子。」
半ば体を起した男は、畳に片肘靠せたまま、当惑らしい眼つきを見せた。
「お前は己と約束したじゃないか? もう愚痴はこぼすまい。もう涙は見せない事にしよう。もう、――」
男はちょいと瞼を挙げた。
「それとも何かあの事以外に、悲しい事でもあるのかい? たとえば日本へ帰りたいとか、支那でも田舎へは行きたくないとか、――」
「いいえ。――いいえ。そんな事じゃなくってよ。」
敏子は涙を落し落し、意外なほど烈しい打消し方をした。
「私はあなたのいらっしゃる所なら、どこへでも行く気でいるんです。ですけれども、――」
敏子は伏眼になったなり、溢れて来る涙を抑えようとするのか、じっと薄い下唇を噛んだ。見れば蒼白い頬の底にも、眼に見えない炎のような、切迫した何物かが燃え立っている。震える肩、濡れた睫毛、――男はそれらを見守りながら、現在の気もちとは没交渉に、一瞬間妻の美しさを感じた。
「ですけれども、――この部屋は嫌なんですもの。」
「だからさ、だからさっきもそう云ったじゃないか? 何故この部屋がそんなに嫌だか、それさえはっきり云ってくれれば、――」
男はここまで云いかけると、敏子の眼がじっと彼の顔へ、注がれているのに気がついた。その眼には涙の漂った底に、ほとんど敵意にも紛い兼ねない、悲しそうな光が閃いている。何故この部屋が嫌になったか? ――それは独り男自身の疑問だったばかりではない。同時にまた敏子が無言の内に、男へ突きつけた反問である。男は敏子と眼を合せながら、二の句を次ぐのに躊躇した。
しかし言葉が途切れたのは、ほんの数秒の間である。男の顔には見る見る内に、了解の色が漲って来た。
「あれか?」
男は感動を蔽うように、妙に素っ気のない声を出した。
「あれは己も気になっていたんだ。」
敏子は男にこう云われると、ぽろぽろ膝の上へ涙を落した。
窓の外にはいつのまにか、日の暮が雨を煙らせている。その雨の音を撥ねのけるように、空色の壁の向うでは、今もまた赤児が泣き続けている。………
二
二階の出窓には鮮かに朝日の光が当っている。その向うには三階建の赤煉瓦にかすかな苔の生えた、逆光線の家が聳えている。薄暗いこちらの廊下にいると、出窓はこの家を背景にした、大きい一枚の画のように見える。巌乗な槲の窓枠が、ちょうど額縁を嵌めたように見える。その画のまん中には一人の女が、こちらへ横顔を向けながら、小さな靴足袋を編んでいる。
女は敏子よりも若いらしい。雨に洗われた朝日の光は、その肉附きの豊かな肩へ、――派手な大島の羽織の肩へ、はっきり大幅に流れている。それがやや俯向きになった、血色の好い頬に反射している。心もち厚い唇の上の、かすかな生ぶ毛にも反射している。
午前十時と十一時との間、――旅館では今が一日中でも、一番静かな時刻である。商売に来たのも、見物に来たのも、泊り客は大抵外出してしまう。下宿している勤め人たちも勿論午後までは帰って来ない。その跡にはただ長い廊下に、時々上草履を響かせる、女中の足音だけが残っている。
この時もそれが遠くから、だんだんこちらへ近づいて来ると、出窓に面した廊下には、四十格好の女中が一人、紅茶の道具を運びながら、影画のように通りかかった。女中は何とも云われなかったら、女のいる事も気がつかずに、そのまま通りすぎてしまったかも知れない。が、女は女中の姿を見ると、心安そうに声をかけた。
「お清さん。」
女中はちょいと会釈してから、出窓の方へ歩み寄った。
「まあ、御精が出ますこと。――坊ちゃんはどうなさいました?」
「うちの若様? 若様は今お休み中。」
女は編針を休めたまま、子供のように微笑した。
「時にね、お清さん。」
「何でございます? 真面目そうに。」
女中も出窓の日の光に、前掛だけくっきり照らさせながら、浅黒い眼もとに微笑を見せた。
「御隣の野村さん、――野村さんでしょう、あの奥さんは?」
「ええ、野村敏子さん。」
「敏子さん? じゃ私と同じ名だわね。あの方はもう御立ちになったの?」
「いいえ、まだ五六日は御滞在でございましょう。それから何でも蕪湖とかへ、――」
「だってさっき前を通ったら、御隣にはどなたもいらっしゃらなかったわよ。」「ええ、昨晩急にまた、三階へ御部屋が変りましたから、――」
「そう。」
女は何か考えるように、丸々した顔を傾けて見せた。
「あの方でしょう? ここへ御出でになると、その日に御子さんをなくなしたのは?」
「ええ。御気の毒でございますわね。すぐに病院へも御入れになったんですけれど。」
「じゃ病院で御なくなりなすったの? 道理で何にも知らなかった。」
女は前髪を割った額に、かすかな憂鬱の色を浮べた。が、すぐにまた元の通り、快活な微笑を取り戻すと、悪戯そうな眼つきになった。
「もうそれで御用ずみ。どうかあちらへいらしって下さい。」
「まあ、随分でございますね。」
女中は思わず笑い出した。
「そんな邪慳な事をおっしゃると、蔦の家から電話がかかって来ても、内証で旦那様へ取次ぎますよ。」
「好いわよ。早くいらっしゃいってば。紅茶がさめてしまうじゃないの?」
女中が出窓にいなくなると、女はまた編物を取り上げながら、小声に歌をうたい出した。
午前十時と十一時との間、――旅館では今が一日中でも、一番静かな時刻である。部屋毎の花瓶に素枯れた花は、この間に女中が取り捨ててしまう。二階三階の真鍮の手すりも、この間に下男が磨くらしい。そう云う沈黙が拡がった中に、ただ往来のざわめきだけが、硝子戸を開け放した諸方の窓から、日の光と一しょにはいって来る。
その内にふと女の膝から、毛糸の球が転げ落ちた。球はとんと弾むが早いか、一筋の赤を引きずりながら、ころころ廊下へ出ようとする、――と思うと誰か一人、ちょうどそこへ来かかったのが、静かにそれを拾い上げた。
「どうも有難うございました。」
女は籐椅子を離れながら、恥しそうに会釈をした。見れば球を拾ったのは、今し方女中と噂をした、痩せぎすな隣室の夫人である。
「いいえ。」
毛糸の球は細い指から、脂よりも白い括り指へ移った。
「ここは暖かでございますね。」
敏子は出窓へ歩み出ると、眩しそうにやや眼を細めた。
「ええ、こうやって居りましても、居睡りが出るくらいでございますわ。」
二人の母は佇んだまま、幸福そうに微笑し合った。
「まあ、御可愛いたあたですこと。」
敏子の声はさりげなかった。が、女はその言葉に、思わずそっと眼を外らせた。
「二年ぶりに編針を持って見ましたの。――あんまり暇なもんですから。」
「私なぞはいくら暇でも、怠けてばかり居りますわ。」
女は籐椅子へ編物を捨てると、仕方がなさそうに微笑した。敏子の言葉は無心の内に、もう一度女を打ったのである。
「お宅の坊ちゃんは、――坊ちゃんでございましたわね? いつ御生れになりましたの?」
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