現代日本文学大系 43 芥川龍之介集 |
筑摩書房 |
1968(昭和43)年8月25日 |
1968(昭和43)年8月25日初版第1刷 |
上
それはこの宿の本陣に当る、中村と云ふ旧家の庭だつた。
庭は御維新後十年ばかりの間は、どうにか旧態を保つてゐた。瓢箪なりの池も澄んでゐれば、築山の松の枝もしだれてゐた。栖鶴軒、洗心亭、――さう云ふ四阿も残つてゐた。池の窮まる裏山の崖には、白々と滝も落ち続けてゐた。和の宮様御下向の時、名を賜はつたと云ふ石燈籠も、やはり年々に拡がり勝ちな山吹の中に立つてゐた。しかしその何処かにある荒廃の感じは隠せなかつた。殊に春さき、――庭の内外の木々の梢に、一度に若芽の萌え立つ頃には、この明媚な人工の景色の背後に、何か人間を不安にする、野蛮な力の迫つて来た事が、一層露骨に感ぜられるのだつた。
中村家の隠居、――伝法肌の老人は、その庭に面した母屋の炬燵に、頭瘡を病んだ老妻と、碁を打つたり花合せをしたり、屈託のない日を暮してゐた。それでも時々は立て続けに、五六番老妻に勝ち越されると、むきになつて怒り出す事もあつた。家督を継いだ長男は、従兄妹同志の新妻と、廊下続きになつてゐる、手狭い離れに住んでゐた。長男は表徳を文室と云ふ、癇癖の強い男だつた。病身な妻や弟たちは勿論、隠居さへ彼には憚かつてゐた。唯その頃この宿にゐた、乞食宗匠の井月ばかりは、度々彼の所へ遊びに来た。長男も不思議に井月にだけは、酒を飲ませたり字を書かせたり、機嫌の好い顔を見せてゐた。「山はまだ花の香もあり時鳥、井月。ところどころに滝のほのめく、文室」――そんな附合も残つてゐる。その外にまだ弟が二人、――次男は縁家の穀屋へ養子に行き、三男は五六里離れた町の、大きい造り酒屋に勤めてゐた。彼等は二人とも云ひ合せたやうに、滅多に本家には近づかなかつた。三男は居どころが遠い上に、もともと当主とは気が合はなかつたから。次男は放蕩に身を持ち崩した結果、養家にも殆帰らなかつたから。
庭は二年三年と、だんだん荒廃を加へて行つた。池には南京藻が浮び始め、植込みには枯木が交るやうになつた。その内に隠居の老人は、或旱りの烈しい夏、脳溢血の為に頓死した。頓死する四五日前、彼が焼酎を飲んでゐると、池の向うにある洗心亭へ、白い装束をした公卿が一人、何度も出たりはひつたりしてゐた。少くとも彼には昼日なか、そんな幻が見えたのだつた。翌年は次男が春の末に、養家の金をさらつたなり、酌婦と一しよに駈落ちをした。その又秋には長男の妻が、月足らずの男子を産み落した。
長男は父の死んだ後、母と母屋に住まつてゐた。その跡の離れを借りたのは、土地の小学校の校長だつた。校長は福沢諭吉翁の実利の説を奉じてゐたから、庭にも果樹を植ゑるやうに、何時か長男を説き伏せてゐた。爾来庭は春になると、見慣れた松や柳の間に、桃だの杏だの李だの、雑色の花を盛るやうになつた。校長は時々長男と、新しい果樹園を歩きながら、「この通り立派に花見も出来る。一挙両得ですね」と批評したりした。しかし築山や池や四阿は、それだけに又以前よりは、一層影が薄れ出した。云はば自然の荒廃の外に、人工の荒廃も加はつたのだつた。
その秋は又裏の山に、近年にない山火事があつた。それ以来池に落ちてゐた滝は、ぱつたり水が絶えてしまつた。と思ふと雪の降る頃から、今度は当主が煩ひ出した。医者の見立てでは昔の癆症、今の肺病とか云ふ事だつた。彼は寝たり起きたりしながら、だんだん癇ばかり昂らせて行つた。現に翌年の正月には、年始に来た三男と激論の末、手炙りを投げつけた事さへあつた。三男はその時帰つたぎり、兄の死に目にも会はずにしまつた。当主はそれから一年余り後、夜伽の妻に守られながら、蚊帳の中に息をひきとつた。「蛙が啼いてゐるな。井月はどうしつら?」――これが最期の言葉だつた。が、もう井月はとうの昔、この辺の風景にも飽きたのか、さつぱり乞食にも来なくなつてゐた。
三男は当主の一週忌をすますと、主人の末娘と結婚した。さうして離れを借りてゐた小学校長の転任を幸ひ、新妻と其処へ移つて来た。離れには黒塗の箪笥が来たり、紅白の綿が飾られたりした。しかし母屋ではその間に、当主の妻が煩ひ出した。病名は夫と同じだつた。父に別れた一粒種の子供、――廉一も母が血を吐いてからは、毎晩祖母と寝かせられた。祖母は床へはひる前に、必頭に手拭をかぶつた。それでも頭瘡の臭気をたよりに、夜更には鼠が近寄つて来た。勿論手拭を忘れでもすれば、鼠に頭を噛まれる事もあつた。同じ年の暮に当主の妻は、油火の消えるやうに死んで行つた。その又野辺送りの翌日には、築山の陰の栖鶴軒が、大雪の為につぶされてしまつた。
もう一度春がめぐつて来た時、庭は唯濁つた池のほとりに、洗心亭の茅屋根を残した、雑木原の木の芽に変つたのである。
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