芥川龍之介作品集 第四巻 |
昭和出版社 |
1965(昭和40)年12月20日 |
師走の或夜、父は五歳になる男の子を抱き、一しよに炬燵へはひつてゐる。
子 お父さん何かお話しをして!
父 何の話?
子 何でも。……うん、虎のお話が好いや。
父 虎の話? 虎の話は困つたな。
子 よう、虎の話をさあ。
父 虎の話と。……ぢや虎の話をして上げよう。昔、朝鮮のらつぱ卒がね、すつかりお酒に酔つ払らつて、山路にぐうぐう寝てゐたとさ。すると顔が濡れるもんだから、何かと思つて目をさますと、いつの間にか大きい虎が一匹、尻つ尾の先に水をつけてはらつぱ卒の顔を撫でてゐたとさ。
子 どうして?
父 そりやらつぱ卒が酔つぱらつてゐたから、お酒つ臭い臭ひをなくした上、食べることにしようと思つたのさ。
子 それから?
父 それかららつぱ卒は覚悟をきめて、力一ぱい持つてゐたらつぱを虎のお尻へ突き立てたとさ。虎は痛いのにびつくりして、どんどん町の方へ逃げ出したとさ。
子 死ななかつたの?
父 そのうちに町のまん中へ来ると、とうとうお尻の傷の為に倒れて死んでしまつたとさ。けれどもお尻に立つてゐたらつぱは虎の死んでしまふまで、ぶうぶう鳴りつづけに鳴つてゐたとさ。
子 (笑ふ)らつぱ卒は?
父 らつぱ卒は大へん褒められて虎退治の御褒美を貰つたつて……さあ、それでおしまひだよ。
子 いやだ。何かもう一つ。
父 今度は虎の話ぢやないよ。
子 ううん、今度も虎のお話をして。
父 そんなに虎の話ばかりありやしない。ええと、何かなかつたかな?……ああ、ぢやもう一つして上げよう。これも朝鮮の猟師がね、或山奥へ狩をしに行つたら、丁度目の下の谷底に虎が一匹歩いてゐたとさ。
子 大きい虎?
父 うん、大きい虎がね。猟師は好い獲物だと思つて早速鉄砲へ玉をこめたとさ。
子 打つたの?
父 ところが打たうとした時にね、虎はいきなり身をちぢめたと思ふと、向うの大岩に飛びあがつたとさ。けれども宙へ躍り上つたぎり、生憎大岩へとどかないうちに地びたへ落ちてしまつたとさ。
子 それから?
父 それから虎はもう一度もとの処へ帰つて来た上、又大岩へ飛びかかつたとさ。
子 今度はうまく飛びついた?
父 今度もまた落ちてしまつたとさ。すると如何にも羞しさうに長い尻つ尾を垂らしたなり、何処かへ行つてしまつたとさ。
子 ぢや虎は打たなかつたの?
父 うん、あんまりその容子が人間のやうに見えたもんだから、可哀さうになつてよしてしまつたつて。
子 つまらないなあ、そんなお話。何かもう一つ虎のお話をして。
父 もう一つ? 今度は猫の話をしよう。長靴をはいた猫の話を。
子 ううん、もう一つ虎のお話をして。
父 仕かたがないな。……ぢや昔大きい虎がね。子虎を三匹持つてゐたとさ。虎はいつも日暮になると三匹の子虎と遊んでゐたとさ。それから夜は洞穴へはひつて三匹の子虎と一しよに寝たとさ。……おい、寝ちまつちやいけないよ。
子 (眠むさうに)うん。
父 ところが或秋の日の暮、虎は猟師の矢を受けて、死なないばかりになつて帰つて来たとさ。何にも知らない三匹の子虎は直に虎にじやれついたとさ。すると虎はいつものやうに躍つたり跳たりして遊んだとさ。それから又夜もいつものやうに洞穴へはひつて一しよに寝たとさ。けれども夜明けになつて見ると、虎は、いつか三匹の子虎のまん中へはひつて死んでゐたとさ。子虎は皆驚いて、……おい、おきてゐるかい?
子 (寝入つて答へをしない)……
父 おい、誰かゐないか? こいつはもう寝てしまつたよ。
遠くで「はい、唯今」といふ返事が聞える。
(大正十四年十二月)
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