しかしその間も阿濃だけは、安らかな微笑を浮かべながら、羅生門の楼上にたたずんで、遠くの月の出をながめている。東山の上が、うす明るく青んだ中に、ひでりにやせた月は、おもむろにさみしく、中空に上ってゆく。それにつれて、加茂川にかかっている橋が、その白々とした水光りの上に、いつか暗く浮き上がって来た。
ひとり加茂川ばかりではない。さっきまでは、目の下に黒く死人のにおいを蔵していた京の町も、わずかの間に、つめたい光の鍍金をかけられて、今では、越の国の人が見るという蜃気楼のように、塔の九輪や伽藍の屋根を、おぼつかなく光らせながら、ほのかな明るみと影との中に、あらゆる物象を、ぼんやりとつつんでいる。町をめぐる山々も、日中のほとぼりを返しているのであろう、おのずから頂きをおぼろげな月明かりにぼかしながら、どの峰も、じっと物を思ってでもいるように、うすい靄の上から、静かに荒廃した町を見おろしている――と、その中で、かすかに凌霄花のにおいがした。門の左右を埋める藪のところどころから、簇々とつるをのばしたその花が、今では古びた門の柱にまといついて、ずり落ちそうになった瓦の上や、蜘蛛の巣をかけた楹の間へ、はい上がったのがあるからであろう。……
窓によりかかった阿濃は、鼻の穴を大きくして、思い入れ凌霄花のにおいを吸いながら、なつかしい次郎の事を、そうして、早く日の目を見ようとして、動いている胎児の事を、それからそれへと、とめどなく思いつづけた。――彼女は双親を覚えていない。生まれた所の様子さえ、もう全く忘れている。なんでも幼い時に一度、この羅生門のような、大きな丹塗りの門の下を、たれかに抱くか、負われかして、通ったという記憶がある。が、これももちろん、どのくらいほんとうだか、確かな事はわからない。ただ、どうにかこうにか、覚えているのは、物心がついてからのちの事ばかりである。そうして、それがまた、覚えていないほうがよかったと思うような事ばかりである。ある時は、町の子供にいじめられて、五条の橋の上から河原へ、さかさまにつき落とされた。ある時は、飢えにせまってした盗みの咎で、裸のまま、地蔵堂の梁へつり上げられた。それがふと沙金に助けられて、自然とこの盗人の群れにはいったが、それでも苦しい目にあう事は、以前と少しも変わりがない。白痴に近い天性を持って生まれた彼女にも、苦しみを、苦しみとして感じる心はある。阿濃は猪熊のばばの気に逆らっては、よくむごたらしく打擲された。猪熊の爺には、酔った勢いで、よく無理難題を言いかけられた。ふだんは何かといたわってくれる沙金でさえ、癇にさわると、彼女の髪の毛をつかんで、ずるずる引きずりまわす事がある。まして、ほかの盗人たちは、打つにもたたくにも、用捨はない。阿濃は、そのたびにいつもこの羅生門の上へ逃げて来ては、ひとりでしくしく泣いていた。もし次郎が来なかったら、そうして時々、やさしいことばをかけてくれなかったら、おそらくとうにこの門の下へ身を投げて、死んでしまっていた事であろう。
煤のようなものが、ひらひらと月にひるがえって、甍の下から、窓の外をうす青い空へ上がった。言うまでもなく蝙蝠である。阿濃は、その空へ目をやって、まばらな星に、うっとりとながめ入った。――するとまたひとしきり、腹の子が、身動きをする。彼女は急に耳をすますようにして、その身動きに気をつけた。彼女の心が、人間の苦しみをのがれようとして、もがくように、腹の子はまた、人間の苦しみを嘗めに来ようとして、もがいている。が、阿濃は、そんな事は考えない。ただ、母になるという喜びだけが、そうして、また、自分も母になれるという喜びだけが、この凌霄花のにおいのように、さっきから彼女の心をいっぱいにしているからである。
そのうちに、彼女はふと、胎児が動くのは、眠れないからではないかと思いだした。事によると、眠られないあまりに、小さな手や足を動かして、泣いてでもいるのかもしれない。「坊やはいい子だね。おとなしく、ねんねしておいで、今にじき夜が明けるよ。」――彼女は、こう胎児にささやいた。が、腹の中の身動きは、やみそうで、容易にやまない。そのうちに痛みさえ、どうやら少しずつ加わって来る。阿濃は、窓を離れて、その下にうずくまりながら、結び燈台のうす暗い灯にそむいて、腹の中の子を慰めようと、細い声で歌をうたった。
君をおきて
あだし心を
われ持たばや
なよや、末の松山
波も越えなむや
波も越えなむ
うろ覚えに覚えた歌の声は、灯のゆれるのに従って、ふるえふるえ、しんとした楼の中に断続した。歌は、次郎が好んでうたう歌である。酔うと、彼は必ず、扇で拍子をとりながら、目をねむって、何度もこの歌をうたう。沙金はよく、その節回しがおかしいと言って、手を打って笑った。――その歌を、腹の中の子が、喜ばないというはずはない。
しかし、その子が、実際次郎の胤かどうか、それは、たれも知っているものがない。阿濃自身も、この事だけは、全く口をつぐんでいる。たとえ盗人たちが、意地悪く子の親を問いつめても、彼女は両手を胸に組んだまま、はずかしそうに目を伏せて、いよいよ執拗く黙ってしまう。そういう時は、必ず垢じみた彼女の顔に女らしい血の色がさして、いつか睫毛にも、涙がたまって来る。盗人たちは、それを見ると、ますます何かとはやし立てて、腹の子の親さえ知らない、阿呆な彼女をあざわらった。が、阿濃は胎児が次郎の子だという事を、かたく心の中で信じている。そうして、自分の恋している次郎の子が、自分の腹にやどるのは、当然な事だと信じている。この楼の上で、ひとりさびしく寝るごとに、必ず夢に見るあの次郎が、親でなかったとしたならば、たれがこの子の親であろう。――阿濃は、この時、歌をうたいながら、遠い所を見るような目をして、蚊に刺されるのも知らずに、うつつながら夢を見た。人間の苦しみを忘れた、しかもまた人間の苦しみに色づけられた、うつくしく、いたましい夢である。(涙を知らないものの見る事ができる夢ではない。)そこでは、いっさいの悪が、眼底を払って、消えてしまう。が、人間の悲しみだけは、――空をみたしている月の光のように、大きな人間の悲しみだけは、やはりさびしくおごそかに残っている。……
なよや、末の松山
波も越えなむや
波も越えなむ
歌の声は、ともし火の光のように、次第に細りながら消えていった。そうして、それと共に、力のない呻吟の声が、暗を誘うごとく、かすかにもれ始めた。阿濃は、歌の半ばで、突然下腹に、鋭い疼痛を感じ出したのである。
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