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忠義(ちゅうぎ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-16 14:12:24  点击:  切换到繁體中文



 細川家は、諸侯の中でも、すぐれて、武備に富んだ大名である。元姫君もとひめぎみと云われた宗教むねのりの内室さえ、武芸の道にはあかるかった。まして宗教のたしなみに、おろそかな所などのあるべき筈はない。それが、「三斎さんさいの末なればこそ細川は、二歳にさいられ、五歳ごさいごとなる。」とうたわれるような死を遂げたのは、まったく時の運であろう。
 そう云えば、細川家には、この凶変きょうへんの起る前兆が、のちになって考えれば、幾つもあった。――第一に、その年三月中旬、品川伊佐羅子いさらご上屋敷かみやしきが、火事で焼けた。これは、邸内に妙見みょうけん大菩薩があって、その神前の水吹石みずふきいしと云う石が、火災のあるごとに水を吹くので、未嘗いまだかつて、焼けたと云う事のない屋敷である。第二に、五月上旬、門へ打つ守り札を、魚籃ぎょらん愛染院あいぜんいんから奉ったのを見ると、御武運長久御息災ごそくさいとある可き所に災の字が書いてない。これは、上野宿坊しゅくぼう院代いんだいへ問い合せた上、早速愛染院に書き直させた。第三に、八月上旬、屋敷の広間あたりから、夜な夜な大きな怪火が出て、芝の方へ飛んで行ったと云う。
 そのほか、八月十四日の昼には、天文に通じている家来の才木茂右衛門さいきもえもんと云う男が目付めつけへ来て、「明十五日は、殿の御身おんみに大変があるかも知れませぬ。昨夜さくや天文を見ますと、将星が落ちそうになって居ります。どうか御慎み第一に、御他出なぞなさいませんよう。」と、こう云った。目付は、元来余り天文なぞに信をいていない。が、日頃この男の予言は、主人が尊敬しているので、取あえず近習きんじゅの者に話して、その旨を越中守の耳へ入れた。そこで、十五日に催す能狂言のうきょうげんとか、登城の帰りに客に行くとか云う事は、見合せる事になったが、御奉公の一つと云うかどで、出仕だけはめにならなかったらしい。
 それが、翌日になると、また不吉ふきつな前兆が、加わった。――十五日には、いつも越中守自身、麻上下あさがみしもに着換えてから、八幡大菩薩に、神酒みきを備えるのが慣例になっている。ところが、その日は、小姓こしょうの手から神酒みきを入れた瓶子へいしを二つ、三宝さんぼうへのせたまま受取って、それを神前へ備えようとすると、どうした拍子か瓶子は二つとも倒れて、神酒が外へこぼれてしまった。その時は、さすがに一同、思わず顔色を変えたと云う事である。

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 翌日、越中守は登城すると、御坊主おぼうず田代祐悦たしろゆうえつが供をして、まず、大広間へ通った。が、やがて、大便を催したので、今度は御坊主黒木閑斎かんさいをつれて、湯呑み所際じょぎわかわやへはいって、用をした。さて、厠を出て、うすぐらい手水所ちょうずどころで手を洗っていると突然うしろから、誰とも知れず、声をかけて、斬りつけたものがある。驚いて、振り返ると、その拍子にまた二の太刀が、すかさず眉間みけんひらめいた。そのために血が眼へはいって、越中守は、相手の顔も見定める事が出来ない。相手は、そこへつけこんで、たたみかけ、たたみかけ、幾太刀いくたちとなく浴せかけた。そうして、越中守がよろめきながら、とうとう、の縁にたおれてしまうと、脇差わきざしをそこへ捨てたなり、慌ててどこか見えなくなってしまった。
 ところが、伴をしていた黒木閑斎が、不意の大変に狼狽ろうばいして、大広間の方へ逃げて行ったなり、これもどこかへ隠れてしまったので、誰もこの刃傷にんじょうを知るものがない。それを、暫くしてから、ようやく本間定五郎さだごろうと云う小拾人こじゅうにんが、御番所ごばんしょから下部屋しもべやへ来る途中で発見した。そこで、すぐに御徒目付おかちめつけへ知らせる。御徒目付からは、御徒組頭久下善兵衛くげぜんべえ、御徒目付土田半右衛門はんえもん菰田仁右衛門こもだにえもん、などが駈けつける。――殿中では忽ち、はちの巣を破ったような騒動が出来しゅったいした。
 それから、一同集って、手負ておいを抱きあげて見ると、顔も体も血まみれで誰とも更に見分ける事が出来ない。が、耳へ口をつけて呼ぶと、漸くかすかな声で、「細川越中」と答えた。続いて、「相手はどなたでござる」と尋ねたが、「上下かみしもを着た男」と云う答えがあっただけで、その後は、もうこちらの声も通じないらしい。きずは「首構くびがまえ七寸程、左肩ひだりかた六七寸ばかり、右肩五寸ばかり、左右手四五ヶ所、鼻上耳脇またかしらきず二三ヶ所、背中右の脇腹まで筋違すじかいに一尺五寸ばかり」である。そこで、当番御目付土屋長太郎、橋本阿波守あわのかみは勿論、大目付河野豊前守こうのぶぜんのかみも立ち合って、一まず手負いを、焚火たきびかつぎこんだ。そうしてそのまわりを小屏風こびょうぶで囲んで、五人の御坊主を附き添わせた上に、大広間詰の諸大名が、代る代る来て介抱かいほうした。中でも松平兵部少輔ひょうぶしょうゆうは、ここへかつぎこむ途中から、最も親切にいたわったので、わき眼にも、情誼のあつさが忍ばれたそうである。
 その間に、一方では老中ろうじゅう若年寄衆へこの急変を届けた上で、万一のために、玄関先から大手まで、厳しく門々を打たせてしまった。これを見た大手先おおてさきの大小名の家来けらいは、驚破すわ、殿中に椿事ちんじがあったと云うので、立ち騒ぐ事が一通りでない。何度目付衆が出て、制しても、すぐまた、海嘯つなみのように、押し返して来る。そこへ、殿中の混雑もまた、益々甚しくなり出した。これは御目付土屋長太郎が、御徒目付おかちめつけ、火の番などを召し連れて、番所番所から勝手まで、根気よく刃傷にんじょうの相手を探して歩いたが、どうしても、その「上下かみしもを着た男」を見つける事が出来なかったからである。
 すると、意外にも、相手は、これらの人々の眼にはかからないで、かえって宝井宗賀たからいそうがと云う御坊主ごぼうずのために、発見された。――宗賀は大胆な男で、これより先、一同のさがさないような場所場所を、独りでしらべて歩いていた。それがふと焚火たきびの近くのかわやの中を見ると、びんの毛をかき乱した男が一人、影のようにうずくまっている。うす暗いので、はっきりわからないが、どうやら鼻紙ぶくろからはさみを出して、そのかき乱したびんの毛を鋏んででもいるらしい。そこで宗賀そうがは、側へよって声をかけた。
「どなたでござる。」
「これは、人を殺したで、髪を切っているものでござる。」
 男は、しわがれた声で、こう答えた。
 もう疑う所はない。宗賀は、すぐに人を呼んで、この男をかわやの中から、ひきずり出した。そうして、とりあえず、それを御徒目付の手に渡した。
 御徒目付はまた、それを蘇鉄そてつへつれて行って、大目付始め御目付衆立ち合いの上で、刃傷にんじょう仔細しさいを問いただした。が、男は、物々しい殿中の騒ぎを、茫然と眺めるばかりで、更に答えらしい答えをしない。偶々たまたま口を開けば、ただ時鳥ほととぎすの事を云う。そうして、そのあい間には、血に染まった手で、何度となく、鬢の毛をかきむしった。――修理は既に、発狂はっきょうしていたのである。

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 細川越中守は、焚火の間で、息をひきとった。が、大御所おおごしょ吉宗よしむねの内意を受けて、手負ておいと披露ひろうしたまま駕籠かごで中の口から、平川口へ出て引きとらせた。おおやけに死去の届が出たのは、二十一日の事である。
 修理しゅりは、越中守が引きとったあとで、すぐに水野監物けんもつに預けられた。これも中の口から、平川口へ、青網あおあみをかけた駕籠かごで出たのである。駕籠のまわりは水野家の足軽が五十人、一様に新しい柿の帷子かたびらを着、新しい白の股引をはいて、新しい棒をつきながら、警固けいごした。――この行列は、監物けんもつの日頃不意に備える手配てくばりが、行きとどいていた証拠として、当時のほめ物になったそうである。
 それから七日目の二十二日に、大目付石河土佐守が、上使じょうしに立った。上使の趣は、「其方儀乱心したとは申しながら、細川越中守手疵養生てきずようじょう不相叶あいかなわず致死去しきょいたし候に付、水野監物宅にて切腹被申付もうしつけらるる者也」と云うのである。
 修理は、上使の前で、短刀を法の如くさし出されたが、茫然と手を膝の上に重ねたまま、とろうとする気色けしきもない。そこで、介錯かいしゃくに立った水野の家来吉田弥三左衛門やそうざえもんが、止むを得ずうしろからその首をうち落した。うち落したと云っても、のどの皮一重ひとえはのこっている。弥三左衛門は、その首を手にとって、下から検使の役人に見せた。頬骨ほおぼねの高い、皮膚の黄ばんだ、いたいたしい首である。眼は勿論つぶっていない。
 検使は、これを見ると、血のにおいをぎながら、満足そうに、「見事」と声をかけた。

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 同日、田中宇左衛門は、板倉式部の屋敷で、縛り首に処せられた。これは「修理病気に付、禁足申付候様にと屹度きっと、板倉佐渡守兼ねて申渡置候処、自身の計らいにて登城させ候故、かかる凶事出来きょうじしゅったい、七千石断絶に及び候段、言語道断の不届者ふとどきもの」という罪状である。
 板倉周防守すおうのかみ、同式部、同佐渡守、酒井左衛門尉さえもんのじょう、松平右近将監うこんしょうげん等の一族縁者が、遠慮を仰せつかったのは云うまでもない。そのほか、越中守を見捨てて逃げた黒木閑斎かんさいは、扶持ふちを召上げられた上、追放になった。

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 修理しゅり刃傷にんじょうは、恐らく過失であろう。細川家の九曜くようの星と、板倉家の九曜の巴と衣類の紋所もんどころが似ているために、修理は、佐渡守をそうとして、誤って越中守を害したのである。以前、毛利主水正もうりもんどのしょうを、水野隼人正はやとのしょうが斬ったのも、やはりこの人違いであった。殊に、手水所ちょうずどころのような、うす暗い所では、こう云う間違いも、起りやすい。――これが当時の定評であった。
 が、板倉佐渡守だけは、この定評をよろこばない。彼は、この話が出ると、いつも苦々しげに、こう云った。
「佐渡は、修理に刃傷されるような覚えは、毛頭もうとうない。まして、あの乱心者のした事じゃ。大方おおかた、何と云う事もなく、肥後侯を斬ったのであろう。人違などとは、迷惑至極な臆測じゃ。その証拠には、大目付の前へ出ても、修理は、時鳥ほととぎすがどうやら云うていたそうではないか。されば、時鳥じゃと思って、斬ったのかも知れぬ。」

(大正六年二月)




 



底本:「芥川龍之介全集1」ちくま文庫、筑摩書房
   1986(昭和61)年9月24日第1刷発行
   1995(平成7)年10月5日第13刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1998年12月6日公開
2004年3月7日修正
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