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捨児(すてご)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-16 10:28:48  点击:  切换到繁體中文

底本: 芥川龍之介全集4
出版社: ちくま文庫、筑摩書房
初版発行日: 1987(昭和62)年1月27日
入力に使用: 1993(平成5)年12月25日第6刷
校正に使用: 1996(平成8)年7月15日第8刷


底本の親本: 筑摩全集類聚版芥川龍之介全集
出版社: 筑摩書房
初版発行日: 1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月

 

浅草あさくさ永住町ながすみちょうに、信行寺しんぎょうじと云う寺がありますが、――いえ、大きな寺じゃありません。ただ日朗上人にちろうしょうにんの御木像があるとか云う、相応そうおう由緒ゆいしょのある寺だそうです。その寺の門前に、明治二十二年の秋、男の子が一人捨ててありました。それがまた生れ年は勿論、名前を書いた紙もついていない。――何でも古い黄八丈きはちじょうの一つ身にくるんだまま、の切れた女の草履ぞうりを枕に、捨ててあったと云う事です。
「当時信行寺の住職は、田村日錚たむらにっそうと云う老人でしたが、ちょうど朝の御勤めをしていると、これもい年をした門番が、捨児すてごのあった事を知らせに来たそうです。すると仏前に向っていた和尚おしょうは、ほとんど門番の方も振り返らずに、「そうか。ではこちらへいて来るが好い。」と、さも事もなげに答えました。のみならず門番が、わその子を抱いて来ると、すぐに自分が受け取りながら、「おお、これは可愛い子だ。泣くな。泣くな。今日きょうからおれが養ってやるわ。」と、気軽そうにあやし始めるのです。――この時の事はのちになっても、和尚贔屓おしょうびいきの門番が、しきみや線香を売る片手間かたでまに、よく参詣人へ話しました。御承知かも知れませんが、日錚和尚にっそうおしょうと云う人は、もと深川ふかがわの左官だったのが、十九の年に足場から落ちて、一時正気しょうきを失ったのち、急に菩提心ぼだいしんを起したとか云う、でんぼう肌の畸人きじんだったのです。
「それから和尚はこの捨児に、勇之助ゆうのすけと云う名をつけて、わが子のように育て始めました。が、何しろ御維新ごいしん以来、女気おんなけのない寺ですから、育てると云ったにした所が、容易な事じゃありません。りをするのから牛乳の世話まで、和尚自身が看経かんきんの暇には、面倒を見ると云う始末なのです。何でも一度なぞは勇之助が、風か何か引いていた時、折悪く河岸の西辰にしたつと云う大檀家おおだんかの法事があったそうですが、日錚和尚は法衣ころもの胸に、熱の高い子供をいたまま、水晶すいしょう念珠ねんじゅを片手にかけて、いつもの通り平然と、読経どきょうをすませたとか云う事でした。
「しかしそのも出来る事なら、生みの親に会わせてやりたいと云うのが、豪傑ごうけつじみていてもじょうもろい日錚和尚の腹だったのでしょう。和尚は説教の座へ登る事があると、――今でも行って御覧になれば、信行寺の前の柱には「説教、毎月十六日」と云う、古いふださがっていますが、――時々和漢の故事を引いて、親子の恩愛を忘れぬ事が、即ち仏恩をも報ずる所以ゆえんだ、とねんごろに話して聞かせたそうです。が、説教日は度々めぐって来ても、誰一人進んで捨児の親だと名乗って出るものは見当りません。――いや勇之助が三歳の時、たった一遍、親だと云う白粉焼おしろいやけのした女が、尋ねて来た事がありました。しかしこれは捨児を種に、悪事でもたくらむつもりだったのでしょう。よくよく問いただして見ると、疑わしい事ばかりでしたから、癇癖かんぺきの強い日錚和尚は、ほとんど腕力を振わないばかりに、さんざん毒舌を加えた揚句あげく、即座に追い払ってしまいました。
「すると明治二十七年の冬、世間は日清戦争の噂に湧き返っている時でしたが、やはり十六日の説教日に、和尚が庫裡くりから帰って来ると、ひんい三十四五の女が、しとやかにあとを追って来ました。庫裡には釜をかけた囲炉裡いろりの側に、勇之助が蜜柑みかんいている。――その姿を一目見るが早いか、女は何の取付とっつきもなく、和尚の前へ手をついて、震える声を抑えながら、「わたしはこの子の母親でございますが、」と、思い切ったように云ったそうです。これにはさすがの日錚和尚も、しばらくは呆気あっけにとられたまま、挨拶あいさつの言葉さえ出ませんでした。が、女は和尚に頓着なく、じっと畳を見つめながら、ほとんど暗誦でもしているように――と云って心の激動は、体中からだじゅうあらわれているのですが――今日こんにちまでの養育の礼を一々叮嚀ていねいに述べ出すのです。
「それがややしばらく続いたのち、和尚は朱骨しゅぼね中啓ちゅうけいを挙げて、女の言葉をさえぎりながら、まずこの子を捨てた訳を話して聞かすように促しました。すると女は不相変あいかわらず畳へ眼を落したまま、こう云う話を始めたそうです――
「ちょうど今から五年以前、女の夫は浅草田原町あさくさたわらまちに米屋の店を開いていましたが、株に手を出したばっかりに、とうとう家産を蕩尽とうじんして、夜逃げ同様横浜よこはまへ落ちて行く事になりました。が、こうなると足手まといなのは、生まれたばかりの男の子です。しかも生憎あいにく女には乳がまるでなかったものですから、いよいよ東京を立ち退こうと云う晩、夫婦は信行寺の門前へ、泣く泣くその赤子を捨てて行きました。
「それからわずかの知るべを便りに、汽車にも乗らず横浜へ行くと、夫はある運送屋へ奉公をし、女はある糸屋の下女になって、二年ばかり二人とも一生懸命に働いたそうです。その内に運が向いて来たのか、三年目の夏には運送屋の主人が、夫の正直に働くのを見こんで、その頃ようやく開け出した本牧辺ほんもくへんの表通りへ、小さな支店を出させてくれました。同時に女も奉公をやめて、夫と一しょになった事は元より云うまでもありますまい。
「支店は相当に繁昌はんじょうしました。その上また年が変ると、今度も丈夫そうな男の子が、夫婦のあいだに生まれました。勿論悲惨な捨子の記憶は、この間も夫婦の心の底に、わだかまっていたのに違いありません。殊に女は赤子の口へ乏しい乳を注ぐ度に、必ず東京を立ち退いた晩がはっきりと思い出されたそうです。しかし店はいそがしい。子供も日に増し大きくなる。銀行にも多少は預金が出来た。――と云うような始末でしたから、ともかくも夫婦は久しぶりに、幸福な家庭の生活を送る事だけは出来たのです。
「が、そう云う幸運が続いたのも、長い間の事じゃありません。やっと笑う事もあるようになったと思うと、二十七年の春※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)そうそう、夫はチブスにかかったなり、一週間とはとこにつかず、ころりと死んでしまいました。それだけならばまだ女も、あきらめようがあったのでしょうが、どうしても思い切れない事には、せっかく生まれた子供までが、夫のひゃっにちも明けない内に、突然疫痢えきり歿くなった事です。女はその当座昼も夜も気違いのように泣き続けました。いや、当座ばかりじゃありません。それ以来かれこれ半年はんとしばかりは、ほとんど放心同様な月日さえ送らなければならなかったのです。
「その悲しみが薄らいだ時、まず女の心に浮んだのは、捨てた長男に会う事です。「もしあの子が達者だったら、どんなに苦しい事があっても、手もとへ引き取って養育したい。」――そう思うと矢もたてもたまらないような気がしたのでしょう。女はすぐさま汽車に乗って、懐しい東京へ着くが早いか、懐しい信行寺しんぎょうじの門前へやって来ました。それがまたちょうど十六日の説教日の午前だったのです。
「女は早速庫裡くりへ行って、誰かに子供の消息しょうそくを尋ねたいと思いました。しかし説教がすまない内は、勿論和尚にも会われますまい。そこで女はいら立たしいながらも、本堂一ぱいにつめかけた大勢の善男善女ぜんなんぜんにょまじって、日錚和尚にっそうおしょうの説教にうわそらの耳を貸していました。――と云うよりも実際は、その説教が終るのを待っていたのに過ぎないのです。

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