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素戔嗚尊(すさのおのみこと)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-16 10:26:40  点击:919  切换到繁體中文



        二十四

 やがて足もとの岩は、湿ったこけになった。苔はまた間もなく、深い羊歯しだの茂みになった。それからたけの高い熊笹くまざさに、――いつの間にか素戔嗚すさのおは、山の中腹をうずめている森林の中へはいったのであった。
 森林は容易に尽きなかった。風雨も依然として止まなかった。空にはもみとがの枝が、暗い霧を払いながら、悩ましい悲鳴を挙げていた。彼は熊笹を押し分けて、遮二無二しゃにむにその中を下って行った。熊笹は彼の頭を埋めて、絶えず濡れた葉を飛ばせていた。まるで森全体が、彼の行手をさえぎるべく、生きて動いているようであった。
 彼は休みなく進み続けた。彼の心の内には相不変あいかわらず鬱勃うつぼつとして怒が燃え上っていた。が、それにも関らず、この荒れ模様の森林には、何か狂暴な喜びを眼ざまさせる力があるらしかった。彼は草木や蔦蘿つたかずらを腕一ぱいにきのけながら、時々大きな声を出して、うなって行く風雨に答えたりした。
 ひるもやや過ぎた頃、彼はとうとう一すじの谷川に、がむしゃらな進路を遮られた。谷川の水のたぎる向うは、けずったような絶壁であった。彼はその流れに沿って、再び熊笹を掻き分けて行った。するとしばらくして向うの岸へ、藤蔓ふじづるを編んだ桟橋かけはしが、水煙みずけむりと雨のしぶきとの中に、危く懸っている所へ出た。
 桟橋を隔てた絶壁には、火食かしょくの煙がなびいている、大きな洞穴ほらあなが幾つか見えた。彼はためらわずに桟橋を渡って、その穴の一つをのぞいて見た。穴の中には二人の女が、の火を前に坐っていた。二人とも火の光を浴びて、えがいたように赤く見えた。一人は猿のような老婆であったが、一人はまだ年も若いらしかった。それが彼の姿を見ると、同時に声を挙げながら、洞穴の奥へ逃げこもうとした。が、彼は彼等のほかに男手のないのを見るが早いか、猛然と穴の中へ突き進んだ。そうしてまず造作ぞうさもなく、老婆をそこへ※(「てへん+丑」、第4水準2-12-93)じ伏せてしまった。
 若い女は壁に懸けた刀子とうすへ手をかけるや否や、素早く彼の胸をそうとした。が、彼は片手をふるって、一打にその刀子を打ち落した。女はさらにつるぎを抜いて、執念しゅうねく彼を襲って来た。しかし剣は一瞬の後、やはり鏘然そうぜんゆかに落ちた。彼はその剣を拾い取ると、切先きっさきを歯にくわえながら苦もなく二つに折って見せた。そうして冷笑を浮べたまま、戦いをいどむように女を見た。
 女はすでにおのって、三度彼に手向おうとしていた。が、彼が剣を折ったのを見ると、すぐに斧を投げ捨てて、彼のあわれみうったうべく、床の上にひれ伏してしまった。
「おれは腹が減っているのだ。食事の仕度をしれい。」
 彼はとらえていた手をゆるめて、猿のような老婆をも自由にした。それから炉の火の前へ行って、楽々とあぐらをかいた。二人の女は彼の命令通り、黙々と食事の仕度を始めた。

        二十五

 洞穴ほらあなの中は広かった。壁にはいろいろな武器が懸けてあった。それが炉の火の光を浴びて、いずれも美々しく輝いていた。ゆかにはまた鹿しかくまの皮が、何枚もそこここに敷いてあった。その上何から起るのか、うす甘い※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)においが快く暖な空気に漂っていた。
 その内に食事の仕度が出来た。野獣の肉、谷川の魚、森のした貝、――そう云う物がさらつきうずたかく盛られたまま、彼の前に並べられた。若い女はほたりを執って、彼に酒をすすむべく、炉のほとりへ坐りに来た。目近まじかに坐っているのを見れば、色の白い、髪の豊な、愛嬌あいきょうのある女であった。
 彼はけもののように、飮んだり食ったりした。盤や坏は見る見る内に、一つ残らずからになった。女は健啖けんたんな彼を眺めながら子供のように微笑していた。彼に刀子とうすを加えようとした、以前の慓悍ひょうかん気色けしきなどは、どこを探しても見えなかった。
「さあ、これで腹は出来た。今度は着る物を一枚くれい。」
 彼は食事をすませると、こう云って、大きな欠伸あくびをした。女は洞穴ほらあなの奥へ行って、絹の着物を持って来た。それは今まで彼の見た事のない、精巧な織模様のある着物であった。彼は身仕度をすませると、壁の上の武器の中から、頭椎かぶつちつるぎ一振ひとふりとって、左の腰に結び下げた。それからまた炉の火の前へ行って、さっきのようにあぐらをいた。
「何かまだ御用がございますか。」
 しばらくの後、女はまた側へ来て、ためらうような尋ね方をした。
「おれは主人の帰るのを待っているのだ。」
「待って、――どうなさるのでございますか。」
太刀打たちうちをしようと思うのだ。おれは女をおびやかして、盗人を働いたなどとは云われたくない。」
 女は顔にかかる髪を掻き上げながら、あざやかな微笑を浮べて見せた。「それでは御待ちになるがものはございません。私がこの洞穴の主人なのでございますから。」
 素戔嗚は意外の感に打たれて、思わず眼を大きくした。
「男は一人もいないのか。」
「一人も居りません。」
「この近くの洞穴には?」
「皆わたくしの妹たちが、二三人ずつ住んで居ります。」
 彼は顔をしかめたまま二三度頭を強く振った。火の光、ゆかの毛皮、それから壁上の太刀たちつるぎ、――すべてが彼には、怪しげな幻のような心もちがした。殊にこの若い女は、きらびやかな頸珠くびだまや剣を飾っているだけに、余計人間離れのした、山媛やまひめのような気がするのであった。しかし風雨の森林を長い間さまよったのちこの危害のおそれのない、暖な洞穴に坐っているのは、とにかく快いには違いなかった。
「妹たちは大勢いるのか。」
「十六人居ります。――ただ今姥が知らせに参りましたから、その内に皆御眼にかかりに、出て参るでございましょう。」
 成程なるほどそう云われて見れば、あの猿のような老婆の姿は、いつの間にか見えなくなっていた。

        二十六

 素戔嗚すさのおは膝を抱えたまま、洞外をどよもす風雨の音にぼんやり耳を傾けていた。すると女は炉の中へ、新に焚き木を加えながら、
「あの――御名前は何とおっしゃいますか。私は大気都姫おおけつひめと申しますが。」と云った。
「おれは素戔嗚だ。」
 彼がこう名乗った時、大気都姫は驚いた眼を挙げて、今更のようにこの無様ぶざまな若者を眺めた。素戔嗚の名は彼女の耳にも、明かに熟しているようであった。
「では今まではあの山の向うの、高天原たかまがはらの国にいらしったのでございますか。」
 彼は黙ってうなずいた。
「高天原の国は、い所だと申すではございませんか。」
 この言葉を聞くと共に、一時静まっていた心頭しんとう怒火どかが、また彼の眼の中に燃えあがった。
「高天原の国か。高天原の国は、鼠がいのししよりも強い所だ。」
 大気都姫は微笑した。その拍子ひょうしに美しい歯が、あざやかに火の光に映って見えた。
「ここは何と云う所だ?」
 彼は強いて冷かに、こう話頭を転換した。が、彼女は微笑を含んで、彼のたくましい肩のあたりへじっと眼を注いだまま、何ともその問に答えなかった。彼は苛立いらだたしいまゆを動かして、もう一度同じ事を繰返した。大気都姫は始めて我に返ったように、したたるようなこびを眼に浮べて、
「ここでございますか。ここは――ここは猪が鼠より強い所でございます。」と答えた。
 その時にわかに人のけはいがして、あの老婆を先頭に、十五人の若い女たちが、風雨にめげた気色けしきもなく、ぞろぞろ洞穴ほらあなの中へはいって来た。彼等は皆頬にくれないをさして、高々と黒髪をつかねていた。それが順々に大気都姫おおけつひめと、親しそうな挨拶あいさつを交換すると、呆気あっけにとられた彼のまわりへ、れ馴れしくに席を占めた。頸珠くびだまの色、耳環みみわの光、それから着物の絹ずれの音、――洞穴の内はそう云う物が、榾明ほたあかりの中に充ち満ちたせいか、急に狭くなったような心もちがした。
 十六人の女たちは、すぐに彼を取りまいて、こう云う山の中にも似合わない、陽気な酒盛さかもりを開き始めた。彼は始はおしのように、ただすすめられる盃を一息にぐいぐい飲み干していた。が、よいがまわって来ると、追いおい大きな声を挙げて、笑ったり話したりする様になった。女たちのある者は、玉を飾って琴をいた。またある者は、盃を控えて、なまめかしい恋の歌を唱った。洞穴は彼等のえらぐ声に、鳴りどよむばかりであった。
 その内に夜になった。老婆はに焚き木を加えると共に、幾つも油火あぶらびの燈台をともした。その昼のような光の中に、彼は泥のようにれながら、前後左右に周旋する女たちの自由になっていた。十六人の女たちは、時々彼を奪い合って、互に嬌嗔きょうしんを帯びた声を立てた。が、大抵は大気都姫が、妹たちの怒には頓着なく、酒にひたった彼を壟断ろうだんしていた。彼は風雨も、山々も、あるいはまた高天原たかまがはらの国も忘れて、洞穴をめた脂粉しふんの気のなかに、全く沈湎ちんめんしているようであった。ただその大騒ぎの最中もなかにも、あの猿のような老婆だけは、静に片隅にうずくまって、十六人の女たちの、人目をはばからない酔態に皮肉な流し目を送っていた。

        二十七

 は次第にけて行った。からになったさらほたりは、時々けたたましい音を立てて、ゆかの上にころげ落ちた。床の上に敷いた毛皮も、絶えず机からしたたる酒に、いつかぐっしょりらされていた。十六人の女たちは、ほとんど正体しょうたいもないらしかった。彼等の口から洩れるものは、ただ意味のない笑い声か、苦しそうな吐息といきの音ばかりであった。
 やがて老婆は立ち上って、明るい油火の燈台を一つ一つ消して行った。後にはに消えかかった、煤臭すすくさほたの火だけが残った。そのかすかな火の光は、十六人の女にさいなまれている、小山のような彼の姿を朦朧もうろうといつまでも照していた。……
 翌日彼は眼をさますと、洞穴ほらあなの奥にしつらえた、絹や毛皮の寝床の中に、たった一人横になっていた。寝床には菅畳すがだたみを延べる代りに、うずたかももの花が敷いてあった。昨日きのうから洞中にあふれていた、あのうす甘い、不思議な※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)においは、この桃の花の※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)に違いなかった。彼は鼻を鳴らしながら、しばらくはただぼんやりと岩の天井を眺めていた。すると気違いじみた昨夜ゆうべの記憶が、夢のごとく眼に浮んで来た。と同時にまた妙な腹立たしさが、むらむらと心頭を襲い出した。
畜生ちくしょう。」
 素戔嗚すさのおはこううめきながら、勢いよく寝床を飛び出した。その拍子に桃の花が、あおったように空へ舞い上った。
 洞穴の中には例の老婆が、余念なく朝飯の仕度をしていた。大気都姫おおけつひめはどこへ行ったか、全く姿を見せなかった。彼は手早くくつ穿いて、頭椎かぶつちの太刀を腰に帯びると、老婆の挨拶には頓着なく、大股に洞外へ歩を運んだ。
 微風は彼の頭から、すぐさま宿酔しゅくすいを吹き払った。彼は両腕を胸に組んで、谷川の向うにそよいでいる、さわやかな森林のこずえを眺めた。森林の空には高い山々が、中腹に懸ったもやの上に、※(「山/贊」、第4水準2-8-72)※(「山+元」、第3水準1-47-69)さんがんたるはださらしていた。しかもその巨大な山々の峰は、すでに朝日の光を受けて、まるで彼を見下しながら、声もなく昨夜ゆうべの狂態を嘲笑あざわらっているように見えるのであった。
 この山々と森林とを眺めていると、彼は急に洞穴ほらあなの空気が、嘔吐おうとを催すほど不快になった。今はの火も、ほたりの酒も、乃至ないし寝床の桃の花も、ことごとくいまわしい腐敗の※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)においに充満しているとしか思われなかった。殊にあの十六人の女たちは、いずれも死穢しえを隠すために、巧な紅粉こうふんを装っている、屍骨しこつのような心もちさえした。彼はそこで山々の前に、思わず深い息をつくと、悄然しょうぜんと頭をれながら、洞穴の前に懸っている藤蔓ふじづるの橋を渡ろうとした。
 が、その時賑かな笑い声が、静な谷間にこだましながら、きと彼の耳にはいった。彼は我知らず足を止めて、声のする方を振り返った。と、洞穴の前にかよっている、細い岨路そばみちの向うから、十五人の妹をつれた、昨日きのうよりも美しい大気都姫が、眼早く彼の姿を見つけて、まばゆい絹のもすそひるがえしながら、こちらへ急いで来る所であった。
「素戔嗚尊。素戔嗚尊。」
 彼等は小鳥のさえずるように、口々に彼を呼びかけた。その声はほとんど宿命的に、折角せっかく橋を渡りかけた素戔嗚の心を蕩漾とうようさせた。彼は彼自身の腑甲斐ふがいなさに驚きながら、いつか顔中にえみを浮べて、彼等の近づくのを待ちうけていた。

        二十八

 それ以来素戔嗚すさのおは、この春のような洞穴の中に、十六人の女たちと放縦ほうじゅうな生活を送るようになった。
 一月ばかりは、瞬く暇に過ぎた。
 彼は毎日酒を飮んだり、谷川の魚を釣ったりして暮らした。谷川の上流にはたきがあって、そのまた瀑のあたりには年中桃の花が開いていた。十六人の女たちは、朝毎にこの瀑壺たきつぼへ行って、桃花とうか※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)においひたした水にはだを洗うのが常であった。彼はまだ朝日のささない内に、女たちと一しょに水を浴ぶべく、遠い上流まで熊笹の中を、分けのぼる事もまれではなかった。
 その内に偉大な山々も、谷川を隔てた森林も、おいおい彼と交渉のない、死んだ自然に変って行った。彼は朝夕あさゆう静寂な谷間の空気を呼吸しても、寸毫すんごうの感動さえ受けなくなった。のみならずそう云う心の変化が、全然彼には気にならなかった。だから彼は安んじて、酒びたりな日毎を迎えながら、幻のような幸福を楽んでいた。
 しかしある夜夢の中に、彼は山上の岩むらに立って、再び高天原たかまがはらの国を眺めやった。高天原の国には日が当って、あめ安河やすかわの大きな水が焼太刀やきだちのごとく光っていた。彼はつよい風に吹かれながら、眼の下の景色を見つめていると、急に云いようのない寂しさが、胸一ぱいにみなぎって来た、そうして思わず、声を立てて泣いた。その声にふと眼がさめた時、涙は実際彼のほおに、冷たいあととどめていた。彼はそれから身を起して、かすかな榾明ほたあかりに照らされた、洞穴ほらあなの中を見廻した。彼と同じ桃花とうかの寝床には、酒の※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)においのする大気都姫おおけつひめが、安らかな寝息を立てていた。これは勿論彼にとって、珍しい事でも何でもなかった。が、その姿に眼をやると、彼女の顔は不思議にも、眉目びもくの形こそ変らないが、垂死すいしの老婆と同じ事であった。
 彼は恐怖と嫌悪けんおとに、わななく歯を噛みしめながら、そっと生暖なまあたたかい寝床をすべり脱けた。そうして素早く身仕度みじたくをすると、あの猿のような老婆も感づかないほど、こっそり洞穴の外へ忍んで出た。
 外には暗い夜の底に、谷川の音ばかりが聞えていた。彼は藤蔓ふじづるの橋を渡るが早いか、けもののように熊笹をくぐって、木の葉一つ動かない森林を、奥へ奥へと分けて行った。星の光、冷かな露、こけ※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)ふくろうの眼――すべてが彼には今までにない、爽かな力にあふれているようであった。
 彼はあとも振返らずに、夜が明けるまで歩み続けた。森林の夜明けは美しかった。暗いとがもみの空が燃えるように赤く染まった時、彼は何度も声を挙げて、あの洞穴を逃れ出した彼自身の幸福を祝したりした。
 やがて太陽が、森の真上へ来た。彼はこずえ山鳩やまばとを眺めながら、弓矢を忘れて来た事を後悔した。が、空腹を充すべきは、どこにでも沢山あった。
 日の暮はけわしいがけの上に、寂しそうな彼を見出した。森はその崖の下にも、針葉樹のほこを並べていた。彼は岩かどに腰を下して、谷に沈む日輪を眺めながら、うす暗い洞穴の壁に懸っている、つるぎおのを思いやった。すると何故なぜか、山々の向うから、十六人の女の笑い声が、かすかに伝わって来るような心もちがした。それは想像も出来ないくらい、怪しい誘惑に富んだまぼろしであった。彼は暮れかかる岩と森とを、食い入るように見据えたまま、必死にその誘惑をふせごうとした。が、あの洞穴の榾火ほたびの思い出は、まるで眼に見えない網のように、じりじり彼の心をとらえて行った。

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