八
女たちは彼の答を聞くと、もう一度顔を見合せて笑い出した。それが素戔嗚尊には腹も立てば同時にまた何となく嬉しいような心もちもした。彼は醜い顔をしかめながら、故に彼等を脅すべく、一層不機嫌らしい眼つきを見せた。
「何が可笑しい?」
が、彼等には彼の威嚇も、一向効果がないらしかった。彼等はさんざん笑ってから、ようやく彼の方を向くと、今度はもう一人がやや恥しそうに、美しい領巾を弄びながら、
「じゃどうしてまた、あすこから下りていらしったの?」と云った。
「鳩を助けてやろうと思ったのだ。」
「私たちだって助けてやる心算でしたわ。」
三番目の娘は笑いながら、活き活きと横合いから口を出した。彼女はまだ童女の年輩から、いくらも出てはいないらしかった。が、二人の友だちに比べると、顔も一番美しければ、容子もすぐれて溌溂としていた。さっき竹籠を投げ捨てながら、危く鳩を捕えようとしたのも、この利発らしい娘に違いなかった。彼は彼女と眼を合わすと、何故と云う事もなく狼狽した。が、それだけに、また一方では、彼女の前にその慌て方を見せたくないと云う心もちもあった。
「嘘をつけ。」
彼は一生懸命に、乱暴な返事を抛りつけた。が、その嘘でない事は、誰よりもよく彼自身が承知していそうな気もちがしていた。
「あら、嘘なんぞつくものですか。ほんとうに助けてやる心算でしたわ。」
彼女がこう彼をたしなめると、面白そうに彼の当惑を見守っていた二人の女たちも、一度に小鳥のごとくしゃべり出した。
「ほんとうですわ。」
「どうして嘘だと御思い?」
「あなたばかり鳩が可愛いのじゃございません。」
彼はしばらく返答も忘れて、まるで巣を壊された蜜蜂のごとく、三方から彼の耳を襲って来る女たちの声に驚嘆していた。が、やがて勇気を振い起すと、胸に組んでいた腕を解いて、今にも彼等を片っ端から薙倒しそうな擬勢を示しながら、雷のように怒鳴りつけた。
「うるさい。嘘でなければ、早く向うへ行け。行かないと、――」
女たちはさすがに驚いたらしく、慌てて彼の側を飛びのいた。が、すぐにまた声を立てて笑いながら、ちょうど足もとに咲いていた嫁菜の花を摘み取っては、一斉に彼へ抛りつけた。薄紫の嫁菜の花は所嫌わず紛々と、素戔嗚尊の体に降りかかった。彼はこの
の好い雨を浴びたまま、呆気にとられて立ちすくんでいた。が、たちまち今怒鳴りつけた事を思い出して、両腕を大きく開くや否や、猛然と悪戯な女たちの方へ、二足三足突進した。
彼等はしかしその瞬間に、素早く林の外へ逃げて行った。彼は茫然と立ち止ったなり、次第に遠くなる領巾の色を、見送るともなく見送った。それからあたりの草の上に、点々と優しくこぼれている嫁菜の花へ眼をやった。すると何故か薄笑いが、自然と唇に上って来た。彼はごろりとそこへ横になって、芽をふいた梢の向うにある、麗らかな春の空を眺めた。林の外ではかすかながら、まだ女たちの笑い声が聞えた。が、間もなくそれも消えて、後にはただ草木の栄を孕んだ、明るい沈黙があるばかりになった。……
何分か後、あの羽根を傷けた山鳩は、怯ず怯ずまたそこへ還って来た。その時もう草の上の彼は、静な寝息を洩らしていた。が、仰向いた彼の顔には、梢から落ちる日の光と一しょに、未だに微笑の影があった。鳩は嫁莱の花を踏みながら、そっと彼の近くへ来た。そうして彼の寝顔を覗くと、仔細らしく首を傾けた。あたかもその微笑の意味を考えようとでもするように。――
九
その日以来、彼の心の中には、あの快活な娘の姿が、時々鮮かに浮ぶようになった。彼は前にも云ったごとく、彼自身にもこう云う事実を認める事が恥しかった。まして仲間の若者たちには、一言もこの事情を打ち明けなかった。また実際仲間の若者たちも彼の秘密を嗅ぎつけるには、余りに平生の素戔嗚が、恋愛とは遥に縁の遠い、野蛮な生活を送り過ぎていた。
彼は相不変人を避けて、山間の自然に親しみ勝ちであった。どうかすると一夜中、森林の奥を歩き廻って、冒険を探す事もないではなかった。その間に彼は大きな熊や猪などを仕止めたことがあった。また時にはいつになっても春を知らない峰を越えて、岩石の間に棲んでいる大鷲を射殺しにも行ったりした。が、彼は未嘗、その非凡な膂力を尽すべき、手強い相手を見出さなかった。山の向うに穴居している、慓悍の名を得た侏儒でさえ彼に出合う度毎に、必ず一人ずつは屍骸になった。彼はその屍骸から奪った武器や、矢先にかけた鳥獣を時々部落へ持って帰った。
その内に彼の武勇の名は、益々多くの敵味方を部落の中につくって行った。従って彼等は機会さえあると、公然と啀み合う事を憚らなかった。彼は勿論出来るだけ、こう云う争いを起させまいとした。が、彼等は彼等自身のために、彼の意嚮には頓着なく、ほとんど何事にも軋轢し合った。そこには何か宿命的な、必然の力も動いていた。彼は敵味方の反目に不快な感じを抱きながら、しかもその反目のただ中へ、我知らず次第に引き込まれて行った。――
現に一度はこう云うことがあった。
ある麗かな春の日暮、彼は弓矢をたばさみながら、部落の後に拡がっている草山を独り下って来た。その時の彼の心の中には、さっき射損じた一頭の牡鹿が、まだ折々は未練がましく、鮮かな姿を浮べていた。ところが草山がやや平になって、一本の楡の若葉の下に、夕日を浴びた部落の屋根が一目に見えるあたりまで来ると、そこには四五人の若者たちが、一人の若者を相手にして、頻に何か云い争っていた。彼等が皆この草山へ、牛馬を飼いに来るものたちだと云う事は、彼等のまわりに草を食んでいる家畜を見ても明らかであった。殊にその一人の若者は、彼を崇拝する若者たちの中でも、ほとんど奴僕のごとく彼に仕えるために、反って彼の反感を買った事がある男に違いなかった。
彼は彼等の姿を見ると、咄嗟に何事か起りそうな、忌わしい予感に襲われた。しかしここへ来かかった以上、元より彼等の口論を見て過ぎる訳にも行かなかった。そこで彼はまず見覚えのある、その一人の若者に、
「どうしたのだ。」と声をかけた。
その男は彼の顔を見ると、まるで百万の味方にでも遭ったように、嬉しそうに眼を輝かせながら、相手の若者たちの理不尽な事を滔々と早口にしゃべり出した。何でもその言葉によると、彼等はその男を憎むあまり、彼の飼っている牛馬をも傷けたり虐めたりするらしかった。彼はそう云う不平を鳴す間も、時々相手を睨みつけて、
「逃げるなよ。今に返報をしてやるから。」などと、素戔嗚の勇力を笠に着た、横柄な文句を並べたりした。
十
素戔嗚は彼の不平を聞き流してから、相手の若者たちの方を向いて、野蛮な彼にも似合わない、調停の言葉を述べようとした。するとその刹那に彼の崇拝者は、よくよく口惜しさに堪え兼ねたのか、いきなり近くにいた若者に飛びかかると、したたかその頬を打ちのめした。打たれた若者はよろめきながら、すぐにまた相手へ掴みかかった。
「待て。こら、待てと云ったら待たないか。」
こう叱りながら素戔嗚は、無理に二人を引き離そうとした。ところが打たれた若者は、彼に腕を掴まれると、血迷った眼を嗔らせながら、今度は彼へ獅噛みついて来た。と同時に彼の崇拝者は、腰にさした鞭をふりかざして、まるで気でも違ったように、やはり口論の相手だった若者たちの中へ飛びこんだ。若者たちも勿論この男に、おめおめ打たれるようなものばかりではなかった。彼等は咄嗟に二組に分れて、一方はこの男を囲むが早いか、一方は不慮の出来事に度を失った素戔嗚へ、紛々と拳を加えに来た。ここに立ち至ってはもう素戔嗚にも、喧嘩に加わるよりほかに途はなかった。のみならずついに相手の拳が、彼の頭に下った時、彼は理非も忘れるほど真底から一時に腹が立った。
たちまち彼等は入り乱れて、互に打ったり打たれたりし出した。あたりに草を食んでいた牛や馬も、この騒ぎに驚いて、四方へ一度に逃げて行った。が、それらの飼い主たちは拳を揮うのに夢中になって、しばらくは誰も家畜の行方に気をとめる容子は見えなかった。
が、その内に素戔嗚と争ったものは、手を折られたり、足を挫かれたりして、だんだん浮き足が立つようになった。そうしてとうとうしまいには、誰からともなく算を乱して、意気地なく草山を逃げ下って行った。
素戔嗚は相手を追い払うと、今度は彼の崇拝者が、まだ彼等に未練があるのを押し止めなければならなかった。
「騒ぐな。騒ぐな。逃げるものは逃がしてやるのが好いのだ。」
若者はやっと彼の手を離れると、べたりと草の上へ坐ってしまった。彼が手ひどく殴られた事は、一面に地腫のした彼の顔が、明白に語っている事実であった。素戔嗚は彼の顔を見ると、腹立たしい心のどん底から、急に可笑しさがこみ上げて来た。
「どうした? 怪我はしなかったか?」
「何、したってかまいはしません。今日と云う今日こそあいつらに、一泡吹かせてやったのですから。――それよりあなたこそ、御怪我はありませんか。」
「うん、瘤が一つ出来ただけだった。」
素戔嗚はこう云う一言に忌々しさを吐き出しながら、そこにあった一本の楡の根本に腰を下した。彼の眼の前には部落の屋根が、草山の腹にさす夕日の光の中に、やはり赤々と浮き上っていた。その景色が素戔嗚には、不思議に感じるくらい平和に見えた。それだけまた今までの格闘が、夢のような気さえしないではなかった。
二人は草を敷いたまま、しばらくは黙って物静な部落の日暮を見下していた。
「どうです。瘤は痛みますか。」
「大して痛まない。」
「米を噛んでつけて置くと好いそうですよ。」
「そうか。それは好い事を聞いた。」
十一
ちょうどこの喧嘩と同じように、素戔嗚は次第にある一団の若者たちを嫌でも敵にしなければならなくなった。しかしそれが数の上から云うと、ほとんどこの部落の若者たちの三分の二以上の多数であった。この連中は彼の味方が、彼を首領と仰ぐように、思兼尊だの手力雄尊だのと云う年長者に敬意を払っていた。しかしそれらの尊たちは、格別彼に敵意らしい何物も持っていないらしかった。
殊に思兼尊などは、むしろ彼の野蛮な性質に好意を持っているようであった。現にあの草山の喧嘩から、二三日経ったある日の午後、彼が例のごとくたった一人、山の中の古沼へ魚を釣りに行っていると、偶然そこへ思兼尊が、これも独り分け入って来た。そうして隔意なく彼と一しょに、朽木の幹へ腰を下して、思いのほか打融けた世間話などをし始めた。
尊はもう髪も髯も白くなった老人ではあるが、部落第一の学者でもあり、予ねてまた部落第一の詩人と云う名誉も担っていた。その上部落の女たちの中には、尊を非凡な呪物師のように思っているものもないではなかった。これは尊が暇さえあると、山谷の間をさまよい歩いて、薬草などを探して来るからであった。
彼は勿論思兼尊に、反感を抱くべき理由がなかった。だから糸を垂れたまま、喜んで尊の話相手になった。二人はそこで長い間、古沼に臨んだ柳の枝が、銀のような花をつけた下に、いろいろな事を話し合った。
「近頃はあなたの剛力が、大分評判のようじゃありませんか。」
しばらくしてから思兼尊は、こう云って、片頬に笑を浮べた。
「評判だけ大きいのです。」
「それだけでも結構ですよ。すべての事は評判があって、始めてあり甲斐があるのですから。」
素戔嗚にはこの答が、一向腑に落ちなかった。
「そうでしょうか。じゃ評判がなかったら、いくら私が剛力でも――」
「さらに剛力ではなくなるのです。」
「しかし人が掬わなくっても、砂金は始から砂金でしょう。」
「さあ、砂金だとわかるのは、人に掬われてからの上じゃありませんか。」
「すると人が、ただの砂を砂金だと思って掬ったら――」
「やはりただの砂でも砂金になるでしょう。」
素戔嗚は何だか思兼尊に、調戯われているような心もちがした。が、そうかと思って相手を見ても、尊の皺だらけな目尻には、ただ微笑が宿っているばかりで、人の悪そうな気色は少しもなかった。
「何だかそれじゃ砂金になっても、つまらないような気がしますが。」
「勿論つまらないものなのですよ。それ以上に考えるのは、考える方が間違っているのです。」
思兼尊はこう云うと、実際つまらなそうな顔をしながら、どこかで摘んで来たらしい蕗の薹の
を嗅ぎ始めた。
十二
素戔嗚はしばらく黙っていた。するとまた思兼尊が彼の非凡な腕力へ途切れた話頭を持って行った。
「いつぞや力競べがあった時、あなたと岩を擡げ合って、死んだ男がいたじゃありませんか。」
「気の毒な事をしたものです。」
素戔嗚は何となく、非難でもされたような心もちになって、思わず眼を薄日がさした古沼の上へ漂わせた。古沼の水は底深そうに、まわりに芽ぐんだ春の木々をひっそりと仄明るく映していた。しかし思兼尊は無頓着に、時々蕗の薹へ鼻をやって、
「気の毒ですが、莫迦げていますよ。第一私に云わせると、競争する事がすでによろしくない。第二に到底勝てそうもない競争をするのが論外です。第三に命まで捨てるに至っては、それこそ愚の骨頂じゃありませんか。」
「しかし私は何となく気が咎めてならないのですが。」
「何、あれはあなたが殺したのじゃありません。力競べを面白がっていた、ほかの若者たちが殺したのです。」
「けれども私はあの連中に、反って憎まれているようです。」
「それは勿論憎まれますよ。その代りもしあなたが死んで、あなたの相手が勝負に勝ったら、あの連中はきっとあなたの相手を憎んだのに違いないでしょう。」
「世の中はそう云うものでしょうか。」
その時尊は返事をする代りに、「引いていますよ」と注意した。
素戔嗚はすぐに糸を上げた。糸の先には山目が一尾、溌溂と銀のように躍っていた。
「魚は人間より幸福ですね。」
尊は彼が竹の枝を山目の顎へ通すのを見ると、またにやにや笑いながら、彼にはほとんど通じない一種の理窟を並べ出した。
「人間が鉤を恐れている内に、魚は遠慮なく鉤を呑んで、楽々と一思いに死んでしまう。私は魚が羨しいような気がしますよ。」
彼は黙ってもう一度、古沼へ糸を抛りこんだ。が、やがて当惑らしい眼を尊へ向けて、
「どうもあなたのおっしゃる事は、私にはよく分りませんが。」と云った。
尊は彼の言葉を聞くと、思いのほか真面目な調子になって、白い顎髯を捻りながら、
「わからない方が結構ですよ。さもないとあなたも私のように、何もする事が出来なくなります。」
「どうしてですか。」
彼はわからないと云う口の下から、すぐまたこう尋ねずにはいられなかった。実際思兼尊の言葉は、真面目とも不真面目ともつかない内に、蜜か毒薬か、不思議なほど心を惹くものが潜んでいたのであった。
「鉤が呑めるのは魚だけです。しかし私も若い時には――」
思兼尊の皺だらけな顔には、一瞬間いつにない寂しそうな色が去来した。
「しかし私も若い時には、いろいろ夢を見た事がありましたよ。」
二人はそれから久しい間、互に別々な事を考えながら、静に春の木々を映している、古沼の上を眺めていた。沼の上には翡翠が、時々水を掠めながら、礫を打つように飛んで行った。
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